第1話 ミッフィちゃん
最初に違和感に気づいたのは、絵本の表紙だった。
うちの娘が3歳の頃からずっと持っている、角が擦り切れてページが茶色く変色したミッフィーの絵本。
何年も前から同じ表紙のはずなのに、ある朝、娘が「みてみて!ミッフィちゃんがおうちにいるよ!」と言って持ってきたとき、
表紙のミッフィーが、微妙に……首を傾げていた。
いや、傾げていた、というより「こちらを見上げて首を傾げている」ような角度になっていた。
昨日までは、まっすぐ前を見ていたはずなのに。
「かわいいね」と適当に返事をしたら、娘は急に真顔になってこう言った。
「ミッフィちゃん、夜になるとお話してくれるんだよ」
その夜、娘の部屋の前を通ると、かすかに声が聞こえた。
ぺた、ぺた、ぺた。
裸足の小さな足音。
でも娘はもう寝ているはずだ。
ドアの隙間からそっと覗くと、
真っ暗な部屋の真ん中で、絵本が開かれていた。
そしてそのページの上に、娘がうつ伏せで寝ている。
……いや、違う。
娘はベッドにいる。
布団にくるまって寝息を立てている。
じゃあ、絵本の上でうつ伏せになっている白い影は……何だ?
次の瞬間、その白い影が、ゆっくりと顔を上げた。
目がない。
ミッフィーの丸い黒い目は、表紙ではいつもキラキラしていたはずなのに、
そこにはただの黒い穴が二つ、ぽっかりと開いているだけだった。
そしてその穴の奥から、娘の声がした。
「パパ……ミッフィちゃん、お腹すいたって」
私は凍りついた。
娘はベッドで寝ている。
寝言でもない。
なのに、絵本の中から、娘の声がする。
次の夜はもっとひどかった。
深夜2時過ぎ、娘が突然泣き叫んだ。
「ミッフィちゃんが! ミッフィちゃんが首を! 首を!」
駆けつけると、娘はベッドの上で体を硬直させ、両手で自分の首を掴んでいた。
まるで誰かに絞められているかのように。
「やめて! ミッフィちゃんやめてぇ!」
私は娘を抱き上げた。
その瞬間、背後で小さな足音がした。
ぺたっ……ぺたっ……ぺたっ……
振り返ると、開いていたはずの絵本が、床に落ちていた。
そして表紙のミッフィーは、もう首を傾げてなどいなかった。
首が、180度以上ねじ曲がっていた。
顔はこっちを向いているのに、胴体は完全に後ろを向いている。
ウサギの耳が、不自然にだらりと垂れ下がり、
その耳の先が、まるで指のようにクネクネと動いていた。
そして耳の隙間から、娘の声がまた聞こえた。
「パパ……ミッフィちゃん、もう我慢できないって」
「……我慢って、何を?」
私が震える声で尋ねると、
絵本の中のミッフィーが、ゆっくりと口を開いた。
口の中は真っ赤だった。
いや、赤いというより、肉の色だった。
そしてその奥に、小さな白い手が見えた。
娘の手。
私の娘の右手が、ミッフィーの喉の奥から、こちらに向かって小さく手を振っていた。
「パパ、助けて……」
その声は、もう絵本の中からではなく、
すぐ背後から聞こえた。
娘を抱きしめているはずの、私の腕の中で。
娘の体が、急に軽くなった。
見下ろすと、娘の首から下が、するりと抜け落ちていた。
胴体がなくなっていた。
ただ頭だけが、私の腕の中に残っている。
そしてその頭が、ゆっくりと笑った。
「ミッフィちゃん、約束守ったよ」
「……約束?」
「うん。
パパが最初に『かわいいね』って言ってくれたから、
ミッフィちゃん、私の体を着てもいいって言ってくれたの」
その瞬間、床に落ちていた絵本が、パタンと閉じた。
表紙を見ると、
ミッフィーはもう首を曲げてなどいなかった。
普通に、まっすぐ前を向いて笑っている。
ただし、両手で抱えているものが違っていた。
さっきまで娘の頭だったはずの場所に、
今は私の顔が描かれていた。
私の顔が、ミッフィーの腕の中で、にっこりと笑っている。
そしてその絵本の隅に、小さな文字でこう書いてあった。
これまでずっと見落としていた文字。
「ミッフィちゃんは、かわいいねって言ってくれた人のことが大好きです」
私は今も、その絵本を捨てられない。
捨てたら、次は誰が「かわいいね」と言われるのか、
わからないから。




