第三話 いきさつ
「では観念して、一つだけ話すとするか。
そうだね。まず初めは、私がヌビ家の女中になった、いきさつがいいだろう」
「そう、それっ。そういうのが聞きたかったの」
「ほら、また声が大きいよ。ちゃんと話すから待ちなさい。
私がヌビ家の女中になったのはね、一言で言えば、だまされたんだよ」
「だっ、だまされた、の?」
私は何とか声量を抑えたが、裏返るのは止められなかった。
「ヌビ家みたいな上級貴族の女中なんて、頼めるもんなら、自分から頼みたいくらいなのに」
「プルーデンス」
「おばさん、待って。分かってるから。母さんにも言わないし、外でも言わないから、今だけは言わせて。
でも、とにかく、なりたくてもなれるようなものじゃないでしょ。それをヌビ家は、おばさんをだましてでも女中にしたかったってこと?それくらい、おばさんは見込まれたってことじゃない」
「べつにヌビ家は、私を見込んだわけじゃないよ。結果として、私を女中にしただけさ。
いいかい。順を追って話すから、よおく考えておくれ。
あれは私が十六の時だったよ。今のあんたより二つ大人になっていた。
あんたも、だいぶ綺麗になったねえ。さっきの奴以外にも、あんたを見ている男子が、きっと居るだろう。
でも私だって負けてないよ。今でこそ六十過ぎのおばあちゃんだが、あの頃、村一番のかわい子ちゃんと言えば、何を隠そう、この私さ。山の案山子村のセピイちゃんって結構、名が通っていたもんでね。もっとも、この辺りだけの話だが。それでも、隣り村から若い男が私を見に来た事もあったんだよ。
だから正直、自分は器量良しなんだと自惚れていた。
そんな時に、ヌビ家の男に出会っちまったんだよ。あの頃の私は今のあんたと同じで、いろんなことが知りたかった。特に、自分の住んでいる村が田舎だと分かってからは、ね。
父さんが、つまり、あんたのひいお爺さんが市場や城下町に行く時は必ずせがんだもんさ。自分も連れて行けってね。まあ、そのほとんどはだめだったが。
あの時は、たしか自分の誕生祝いか何かを口実にして、父さんを根負けさせたんだったろうよ。とにかく久しぶりに城下町に連れて行ってもらった。そう、ツッジャム城のお膝元だ。
父さんと叔父さんたちが商人たちに交渉している間、私は荷車に腰掛けて、通りを見回していた。そりゃあ私も、街の若い連中と会話しないわけでもないよ。でも、ちょいと疲れて、一休みしていたのさ。
そしたら不意に肩を叩かれた。振り向いたら、若い男がそばに立っているじゃないか。しかも紋章衣を着ていた。ヌビ家の、数本の鎌首を上に伸ばしていくヒュドラの紋章だよ。
私は、腰が抜けそうなくらい驚いたね。だって、そうじゃないか。紋章衣を着た人間なんてまず貴族に決まっている。そんなお偉いさんの方から歩み寄ってくださるなんて、それまで考えた事も無かったよ。何せ、こっちは自分の田舎っぷりに嫌気がさしていたところだからね。しかも相手は、ただの貴族でもない。上も上。このヨランドラを代表する名家ヌビと来た。
さらに困ったことに、そいつがなかなかの色男に見えた。今思えば、ある程度の街なら幾らでも居そうな優男なんだが。その頃は、まだ分からなくてねえ。
でも、とにかく紋章衣の色男が優しく微笑んで、ほんの小娘に過ぎない私の容姿を褒めてくれたりするじゃないか。笑わないでおくれよ、プルーデンス。私は、ヌビ家の御曹司が現れたんだ、と本気で勘違いしかけたんだよ。
男はそれを、かわいい間違い、とか言って笑ってくれたっけ。その笑顔を見て私は、ますます舞い上がっちまった。
そうやって、まずは楽しいおしゃべりだ。そこに、取引を終えた父さんと叔父さんたちが戻ってきた。若い男は実に丁寧な挨拶で父さんたちを迎え、私のことを褒めちぎった。で、自分が勤めているお屋敷に私ら一家を招待したい、と言うんだよ。父さんと叔父さんたちは言われた通りにしたよ。男の馬車に、荷車を引いたうちの馬をついて行かせたんだ。
貴族家からのお言葉ともなれば、私ら庶民は、そうそう断れないだろ。それに、貴族家と縁故をつなぐ機会なんて滅多に無いからね。男の馬車にも、ヌビ家の紋章が彫られていたよ。
お屋敷は城下町の中でも、お城のすぐ隣りってほどじゃないけど、結構近くにあった。要するにお屋敷は、お城に住まう方々にとっての離れさ。こうして私らが離れを使っているように、お城のお偉いさんも持て余した家財道具や何かをお屋敷に置いていたんだよ。城に上げるほどではない商人や下級のお坊さんとの会合にも活用したりしてね。
若い男は、その屋敷の采配をヌビ家から任されているらしく、使用人たちに指図して、私ら一家を歓迎させた。つまり男は、そこの使用人たちの頭だったわけさ。しかも話から、男が当時の私より三つほど上なだけと分かった。まだ二十歳にもならないうちから、ヌビ家のような大貴族の幹部を務めているのか、と小娘の私は開いた口が塞がらなかったよ。
男は、ああ、面倒くさいからちゃんと名前を言うか。せっかく忘れかけていたんだが。その色男はニッジ・リオールという苗字で、ほだされた私はよく、リオールさんと呼んでいたもんさ。
そつが無いと言おうか、リオールは小娘の私にべたべたしないで、父さんや叔父さんたちにもちゃんと敬意を払っていた。そして私ら一家に、そのお屋敷にある珍しい財宝や遠い異国の文物を見せてくれてね。お屋敷の中を案内してくれたよ。
どの品も、と言うより屋敷の中全体がきらきらして見えた。居合わせた使用人たちも、全員おしゃれ。田舎の小娘の私なんかが、こんな立派な所に居ていいのか、と消え入りたくなっちまったよ。
そしたらリオールが私の耳元でささやいた。『何も心配しないで。すべて僕に任せて』ってね。
リオールは品物の説明に合わせて、いろんな異国の話もしてくれたねえ。おとぎ話に飽きた娘に、遠いとは言え、現実に存在する国々の話をしたんだ。しかも目の前の珍しい品々が、確たる証拠。わたしゃ興奮したよ。なんだかリオールと異国を旅しているみたいで、すごく身軽になった気分だった。床から足が浮いて、リオールと空に登れるんじゃないか、なんて空想したりしてね。
ああ、いい出会いだったよ。正確に言えば、良すぎた。できすぎた出会いだったのさ」
セピイおばさんは、そこで話を区切って、開けっ放しの窓を見た。私もそちらを見ると、外で小さい星々が瞬いていた。
「おばさん、疲れた?」
暗くても私には、おばさんが少し微笑んでいるのが分かった。でも良い意味ではない。ため息を我慢しているような微笑み。
「ごめんね、長話させて。続きは明日でもいいよ」
「いや、話しちまおう。私も情けないよ。あんたに覚悟させておきながら、肝心の自分に覚悟が足りてなかったなんて。
プルーデンス。ここから話はどんどんつまらなく、かっこ悪くなるからね。辛抱して聞いておくれ」
セピイおばさんが背筋を伸ばしたので、私も合わせた。
「リオールの歓迎は長引いて、結局その夜はお屋敷に一家揃って泊まらせてもらったよ。私はもちろん、父さんも叔父さんたちもガチガチさ。ゆっくり休んで、なんて言われても緊張して眠れたもんじゃなかった。名家の所有するお屋敷で一泊したなんて、村で自慢しても誰も信じないだろうからね。
翌朝、リオールは私たちを送り出しながら言ったよ。
『これから毎週、村の産物を届けてください。しかるべき代金は必ず払いますので』
リオールは、私の父さんの手をしっかり握って言ったんだ。そして私には、こう言った。
『また遊びにおいで』って。
もちろん私は、そうしたよ。張り切ってお屋敷に通った。父さんたちもリオールから、ぜひ私を連れてくるように言われていたから、せがむのも、そう手間取らなくなった。叔父さんたちなんか、私を連れていけば、ご馳走にあずかれると踏んで、逆に私を誘いに来たくらいだよ。
何回こっちから、あのお屋敷まで通ったかねえ。両手で数えるほどじゃないはずだが」
「え、そんなに少なく?お屋敷に上がれなくなったの?」
思わず、私は口をはさんでしまった。
「逆だよ。リオールの方から、わざわざ迎えに来てくれるようになったのさ。私に品物の管理の仕方とか、書類の書き方とか、商いのことを教えてやるという口実でね。だいたい一人で馬に乗ってきたけど、ごくたまに馬車で来る事もあった。馬車には、もちろんヌビ家の紋章が掲げてあるし、単騎で来る時だって、リオールは紋章衣を着ていた。
村のみんなには悪いが、正直、私はいい気になっていたよ。みんなが口をぽかんと開けている中、私だけが紋章衣の若い男とお出かけなんだから。おかげで、だいぶ友達を失くしたよ。今でも村の女連中は、私を悪く思っているだろう」
「だとしても、おばさんから何回もお土産を受け取っているわ、あの人たち」
「いいんだよ、プルーデンス。私も同じ立場だったら、やっぱり似たような振る舞いをしているさ。
私も私で、あの頃は友達が離れていっても構わないと思っていたからねえ。何せ、リオールがいるんだから。あの人さえいればいい、と思っていた」
セピイおばさんはそこで、とうとう小さなため息をついた。
「さて、プルーデンス。そんな調子で、私が本当に商いを学んだと思うかい?」
私は首を横に振った。
「やっぱり予想できるか。ということは、あの頃の村の連中も、同じように想像していたんだろうねえ。正解だよ。全く学ばなかったわけじゃないが、教える側も教わる側も、ちっとも身が入っていなかった。
はじめは小さい焼き菓子なんかをつまみながら、どうでもいいおしゃべり。それが次第に長椅子とかに二人で並んで座るようになって、あいつが私の肩を抱く。私も、あいつにもたれかかる。あいつが私に口づけしたのは、お迎えが始まって間もない頃だったよ。
一回しちまえば、後は会う度に当たり前のように唇を重ねた。楽しかったねえ。すっかり、のぼせていた。
ただ、だんだん、あいつが服の上から私の胸や尻を触りたがるようになってね。ちょっときわどいいたずらと思って、我慢して受け止めていた。
だけど、とうとうある日、リオールが真剣な顔して言い出したんだよ。『君が欲しい』ってね。で、私を抱きしめながら首筋に顔をうずめるようにして口をつけてきたり、服の中に手を入れてきたり、するようになった。このままじゃ裸にされるのも時間の問題だ、と自分でも思ったよ。
少しこわい気もしたが、自分を捧げるなら、この人だ、とも思っていた。かと言って、安売りもしたくないだろ。私も気を引き締めたよ。
『正式に結婚を決めてから。私の父さんに、私との結婚を申し込んでからじゃないと』
私としちゃ、嫌われないように気をつけて言ったつもりだよ。のぼせていたけど、それくらいは考えたんだ。考えたつもりになっていた。
リオールは私を嫌うどころか、パッと顔を輝かせて応えてくれたよ。『よし、だったら今すぐしよう』と言うや、自分と私の服が乱れていたところを直して、馬を引っぱり出した。で、私を後ろに乗せて、この村まで一っ走りさ。私はあいつにしがみついて、背中に顔をうずめた。道すがら、涙がこらえられなかったねえ。ああ、ついに私は、この素敵な人のお嫁さんになるんだって。そう信じていた。
村に着いた時は夜になりかけで、申し込みは私を送っていくついでになった。この家が見えてきたと思ったら、ちょうど外で父さんが農具か何かの手入れをしているじゃないか。リオールは父さんの手をしっかり握って、私との結婚を申し込んだ。
父さんは許してくれたよ。少し涙を浮かべながら母さんを呼び出した。そして二人して私を抱きしめてくれてねえ。嬉しかった。今思い返せば、あの時が私の人生で一番幸せだったのかもしれない。私の幸せを両親も賛成して、喜んでくれたんだから。
その後の晩餐は、リオールを私の婚約者として歓迎するためのものになった。食事を楽しみながら日取りの話とかで盛り上がったのさ。あいつの推測では、ヌビ家に報告すれば、きっと喜ばれて、この家にお祝いの品が届くだろう、とのことだった。
途中で叔父さん、叔母さんたちも駆けつけてね。そりゃあ祝福してくれたよ。叔父さんたちのうちの誰だったか、リオールに、もう俺んとこに泊まっていけばいい、なんて言ってくれたりもした。あいつは、翌日の仕事とかを理由に、その日は帰っていったけど。
それから二、三日して、あいつは迎えに来たよ。で、私はお屋敷でとうとう、あいつに捧げちまった。自分を捧げたのさ。
他の使用人たちは、ちょうど出払っていた。と言うより、あいつがそう段取りしたんだろう。とにかく、お屋敷で私は、あいつと二人きりになったわけだ。あいつは大して話もせずに私を抱きしめて言ったよ『分かっているね』って。で、あっという間に服を脱がされた。私が恥ずかしさで体を固くしていることなんて、お構いなしさ。さっさと私を抱え上げて、ベッドに寝かせた。
私は怖くなって、涙を浮かべてしまったよ。すると、あいつはそんな私の目じりに、そっと口づけして聞いたね。『僕のこと、嫌いになった?』って。
私はすぐに、首を横に振ったよ。何回も振った。それで、あいつは言った。『ありがとう。僕も君が大好きだ』言いながら、私に被さってきた。
その後は、私の体のあちこちを触ったり、口をつけたりしてきた。私はとにかくされるままにしようとは思ったんだが、どうしても体がこわばってしまってね。あいつは、そんな私を落ち着かせようと『力を抜いて』とか『綺麗だよ』とか時々ささやいたもんだよ。
しかし結局、痛いやら、乗っかってくるあいつが重いやらで、なんだか、あまりいいもんじゃなかったがね」
セピイおばさんは、また窓の外を見た。何か考えているらしく、数秒、黙っていた。そんな大叔母の横顔に、私は何と言葉をかけたら良いか分からなかった。話をせがんだのは、自分なんだが。
「ふふっ、さすがに恥ずかしくなってきたね。自分の孫と思っているあんたに、こんな話を聞かせるなんて」
やっぱり、と思った。私も、おばさんに話させている自分が恥ずかしくなっていたところだ。
「ご、ごめんなさい。話させたりして」
「いいんだよ。
それより、思ったより麗しくない話だろ。これから相手を探すだろうあんたを、けっこう脅かしてしまったのかもしれない」
「それなら心配しないで。私、おばさんの体験談や教訓をちゃんと活かすから」
「ありがとうよ。では、もう少し、私のはしたない話を続けるかねえ」
暗い中、セピイおばさんは座り直した。
「その日は暗くなる前に、あいつがこの家まで送ってくれたよ。ほんと、そつがない男でね。あいつは結婚を決めても、私だけお屋敷に泊めたりはしなかった。そんなことをすれば、いかにも過ぎて、父さんたちだけでなく、村全体が私ら二人を勘ぐるだろうからね。
だから、あいつが私を抱く時は、必ず真っ昼間だった。あの日以来リオールは、村まで私を迎えに来ては、お屋敷の一室で必ず私を抱いたよ。何回ものし掛かられて、私も疲れた」
「と、時々、不安にならなかった?」
「いい質問だね、プルーデンス。実際、たまに嫌な推測が頭に浮かぶ事もあったよ。この体だけが目当てなんじゃないかって。
でも、その度に心の中で打ち消すと言うか、自分に言い聞かせていた。私はこの人から、こんなにも求められている。こんなにも必要とされている。だから私は、この人に応えてあげたい。できるだけ喜ばせてあげたい。そう思った。思い込もうとしていたんだね」
セピイおばさんはまた、ため息をついた。
「そのうちリオールは、お屋敷に使用人たちが居ても、あまり気にしなくなったよ。部屋にしっかり閉じこもってしまえばいい、とか思ったのかねえ。私がいくら恥ずかしがっても『大丈夫。ここでは俺が一番偉くて、誰も逆らえないんだから』とか言ってた。
私もがんばったんだよ『このままじゃあ、結婚式の前からお腹が膨らんじゃう』とか言ってね。そしたら、あいつは笑って答えた。
『何言ってんだよ。式は、そうなるずっと手前だろ。俺はこの屋敷の管理を任されているんだぜ。十月十日くらい数えられるさ』だって。
仕方がないから、あいつに抱かれながら、使用人たちに気づかれない事を祈ったよ。
でも、そんなわけにはいかなかった。まあ、いくわけないよ。使用人たちがどんな連中だろうと、そんな状況なら誰だって聞き耳を立てるに決まっている。それが人ってもんだ。神様も呆れて、私の祈りなんか聞き入れる気にならなかっただろう。
で、ある日、とうとう言われたよ。使用人の女の一人、要するに女中さ。年は、たしか私の二つか三つ上」
「リオールと同い年なんじゃない?」
「そうだね。その辺りから私も警戒しておくべきだった。でも、あの頃の私は、あいつに嫌われまいとするのが精一杯で、そこまで気が回らなくてね。なんて、あんたに言い訳しても、しょうがないんだが」
セピイおばさんは、かすかに微笑んだ。月明かりが、その頬を撫でているみたいだった。
「あの日、あいつは私をたっぷり抱いて、その後は二人して惚けていた。
そしたら下の階からお呼びがかかってね。リオールは舌打ちして、慌てて服を着て、降りていったよ。それを見送りながら、私も変だなと思った。普段なら使用人たちも気を使って、声をかけてきたりしないんだよ。それなのに声をかけたということは、余程の急用なんだろうと予想した。
案の定、階段を駆け上がって戻って来たあいつは、かなり焦っていた。
『城に行かなきゃならなくなった。馬車を頼んでおいたから、悪いけど今日は、それで帰ってくれ』とか言って、また部屋を飛び出していった。
リオールが居ないのにお屋敷に残ったのは、その時が初めてだった。つまり私と使用人、女中たちだけ。普段はリオールとばかりおしゃべりして、使用人たちとは挨拶くらいしか交わしていない事に、今さら気づいたよ。私は急に緊張してきた。
とにかく、もう帰るしかない。そう思って、急いで服を着て、髪を整えた。そのまま階段を駆け降りて、馬車まで走って行きたい気分だったよ。御者はしょうがないとしても、他の誰とも会いたくなかったからね。しかし、だからと言って、ドタバタ足音をさせたんじゃ、逆効果だろ。私はそっと扉を開けて、忍び足で階段を降りたよ。
そこまでしたのに結局、下の階で女中の一人に出くわしてしまった。案外、待ち構えていたのかもしれないね。その女は、すれ違いざまに言うんだ。
『ふん。うっとりしちゃって、いやらしい』
私は固まっちまったよ。言い返す言葉が全然、思いつかなかった。
そしたら、扉が開いていた別の部屋から他の女中の声が聞こえてきた。『ミアンカ、やめときなさいよ。ほっとけばいいじゃない』とかね」
「ミアンカ?ビアンカじゃなくて?」私は思わず聞いてしまった。
「それがなぜか、ミアンカなんだ。珍しいから覚えちまったよ。馬鹿だねえ、私も。そんな女の名前、忘れりゃいいのに。
その女ミアンカは、私をそっちのけで声の主に絡み出した。
『そう言うネマは、むかつかないの?他人に仕事させといて、自分たちはさんざ楽しんでんのよ』
『わ、私たち、ちゃんと婚約しているわ』
私は何とか、そのネマさんより先に言い返した。と言っても、少しも反論になっていなかったが。
ミアンカは途端に、格好の獲物を見つけたみたいに笑みを浮かべたよ。
『婚約。それは、おめでとう。当然、式には私も呼んでもらえるのよね。楽しみにしているわ』
と、まあ強烈な皮肉さ。私は、また言葉に詰まった。で、ネマさんの再登場だ。
『ミアンカ、もしかして羨んでいるの?』
『馬鹿言わないでよ。私は二人に節操がないって言いたいだけよ』とかミアンカが吠えた。
『だったら、もう充分でしょ。
セピイさんも帰んなさい。長居してもいいこと無いわよ』
なんて言って、ネマは私を追い払う手振りをした。
私は悔しさをこらえながら、とにかくお屋敷の外に出た。リオールの言った通りに馬車が待っていたんだが、それを見た瞬間、ある事を思いついたよ。そっとお屋敷の裏に回ったのさ。
予想通り、女中二人は、まだ口論を続けていた。
ネマの声がたしかに、こう言った。『ミアンカ。あんた、まさかニッジ・リオールと、よりを戻したいんじゃないでしょうね』
それに対してミアンカの返しは、こうだ。『はっ。あんたにしては気の利いた冗談ね。あんな、しつこいだけの下手くそ、喜んで、あの小娘にくれてやるわよ』
『小娘って、あんたたち、大して歳は変わらないじゃない』とネマが言った。
『うるさいわね。そう言うネマこそ、何であんな小娘をかばうのよ』なんてミアンカが噛みついた。
『かばったわけじゃないわよ、べつに』とネマは、すかした口調だ。
『あの小娘に味方することで、ニッジ・リオールに取り入るつもりなんでしょう』
このミアンカのせりふを聞いて、ネマは声を上げて笑ったよ。
『何それ。私って、そんなに浅く見えているわけ。おあいにく様。私はニッジ・リオールみたいな小者になんか期待しないわよ。あんたたちと違ってね』
『な、なんですって』
ミアンカが私の代わりに叫んでくれたわ。あの人が小者だなんて。私はミアンカとは逆に、叫ぶどころか動けなくなった。
そこで肩を叩かれた。振り向いたら、御者のおじさんが私に合わせて屈みながら、小声で言うんだよ。『もう行こう。聞いても状況は良くならんよ』とね。
だが、御者さんの気づかいは、残念ながら効果が無かった。ミアンカが窓から身を乗り出してきたのさ。
『あら、盗み聞きとは、いい趣味ね、新妻さん。
マルフトさん。あんたがこの娘を送るんでしょ。ついでに送り狼になっちゃえば?』とか言って。
プルーデンス。あんたも、送り狼の意味は分かるね」
「もちろん。女の子を家まで送るふりして、結局そいつが女の子を襲うんでしょ」
「そう。だから途端に、私と御者のマルフトさんは気まずくなった。マルフトさんは言ったよ。
『そんなこと、せんよ。心配なら護身用のナイフでも構えておくといい』
ところが、私はナイフを持ち合わせていなかった。あいつの送り迎えがあるから必要無いと思っていたんだ。
『仕方ない。私のを貸しておくから、家で親父さんたちと合流したら返しとくれ』と言いながら、マルフトさんは小型のナイフを鞘ごと手渡してきた。
そんなやり取りを、ミアンカは窓から、ずっとニヤニヤしながら見ていたねえ。
私が乗り込むと、マルフトさんは馬車を進めた。それが結構な速度でね。お屋敷もツッジャム城も町も遠ざかるのに、大して時間がかからなかった。周りに家並みが無くなって、森や畑ばかりになったことが馬車の窓からでも分かったよ。もしかしてマルフトさんはミアンカの言う通り、良からぬことを考えているんじゃないか、とか悪い想像もわいてきた。私はナイフをいつでも抜けるように両手で持ったよ。
しかし余計な心配だった。夕方でも窓の外の景色で、この村にどんどん近づいているのが分かった。村に入ったら、御者のマルフトさんは私に家までの道を尋ねたよ。で、家の前で私を降ろしたら、今度は、私の父さんに会いたい、と言い出した。話したいことがある、と。
もちろん嫌な予感がしたけど、私は父さんに頼んでマルフトさんに会ってもらったよ。マルフトさんを家の中に招き入れて、父さんと母さんと私は話を聞いた。
内容はやっぱり、あいつ、ニッジ・リオールのことでね。まあ、小娘の私をよく驚かせてくれたよ。おめでたいことに、あいつは所帯持ちだった。城下町に隣接する村に、奥さんとまだ小さい子どもが居るんだ、と。
私は思わずマルフトさんを、嘘つき呼ばわりしてしまったよ。父さんもマルフトさんの胸ぐらをつかんで、母さんに止められていた。親子三人とも、なかなか冷静になれなかったが、それでも何とかマルフトさんを問いただして事実を確認しようとした。でも覆らなかったね。事実なんだから。マルフトさんは弱々しく首を横に振って、こう言ったよ。
『嘘だと思うなら、ツッジャム城に行って、ソレイトナックという人を訪ねればいい。ニッジ・リオールの上役にあたる人だ』
『わしらみたいな田舎もんは、門前払いされるんじゃないかね』
父さんが不安を口にすると、マルフトさんはそれについても首を振った。
『マルフトから紹介してもらった、と言えばいい。いや、それより私が一緒に行って、引き合わせよう』
そう言って、今からでも一緒に行こう、と私たち親子を誘うんだよ。どうせ城下町まで戻るなら、馬車を空にして返すのはもったいないってね。それを聞いて、私と父さんたちは数秒、考え込んでしまった。
そしたら兄さんが。って、あんたたちのお爺さんがずっと若かった時だよ。兄さんが、いきなり部屋に入ってきた。
『悪いが、話は勝手に聞かせてもらった。父さんとセピイは、マルフトさんに連れて行ってもらうべきだと思う。
ただし、その前に一つ、マルフトさんに聞きたい。なぜセピイの手助けをしてくれるのか』
マルフトさんは良い質問だと言った。
『実は前々から、あの男を快く思っていなかったんだ。一応、恩人ではあるんだがね。
私は貴族同士の戦闘や飢饉で、妻と子どもたちを次々と亡くしてね。一人で途方に暮れていたところをあの男、ニッジ・リオールに拾われたんだ。
初めは、もちろん感謝したよ。一生懸命、働くことが恩返しと思っていた。
ところが、だんだん私の扱いがひどくなってきてね。こき使うのはもちろん、言葉がひどくて。私の息子と言ってもよさそうな若さなのに、私を老いぼれと罵ったり。食費ばかり余計にかかるから、拾わなければよかった、とか嫌味を言ったり。
たしかに、私も仕事を覚えるのが遅いから、あの男も私を見ていて腹が立つのだろう。私を拾ってくれた事も事実だ。だから嫌味くらい我慢しよう、と思っていた。しかし日に日に耐えられなくなってきて。この男は私を、家畜か何かと思っているのでは。当たり散らす相手が欲しくて、私を拾ったんじゃないのか。そんなふうに思われてならなかった。
だから今日、こちらのお嬢さんと女中たちが口喧嘩しているのに出くわして、私以外にも被害者がいるんだ、と思ったよ。
私は普段、馬の世話とかお屋敷の外で働いている。だから、あの男とお嬢さんや女中たちとの関係をほとんど知らなかった。
逆に、ソレイトナックさんは知っているんだ。時々、城から屋敷に来られるからね。私がニッジ・リオールから罵倒された時なんか、後でこっそり言ってくださったよ。あんまりひどい時は城に来なさい、自分が話を聞こう、と。
それで私は、お嬢さんの事情もソレイトナックさんに聞いていただけると思ったんだ』
私たち家族はマルフトさんの説明に納得したよ。で、そのソレイトナックさんに賭けるしかない、という結論になった。馬車には、私と父さんが乗せてもらうことにした。
兄さんも同行しようと言ったが、父さんが許さなかったよ。母さんのそばについておくよう言いつけてね。母さんがマルフトさんの話を聞き終わった後で、すっかり沈み込んでしまったんだ。
マルフトさんは、また馬車を飛ばしてくれてね。もう暗くなっていたが、それでも、あっという間にツッジャム城に着いた。マルフトさんは取り次ぎを頼むのも、がんばってくれたよ。城の門番たちが面倒くさがっても、必死で喰らいついていた。今思い出しても、感謝の気持ちがわいてくるよ。
やがて、その甲斐あって、門が開いた。中の松明に照らされて、背の高い男が立っているのが見えた。リオールより少し年上だろう、と私は推測したよ。マルフトさんがすぐさま駆け寄ったんで、その男がソレイトナックと分かった。
マルフトさんは、そのソレイトナックに、私たちの話を聞いてくれるよう頼んだ。私と父さんも慌てて頭を下げて挨拶したよ。ソレイトナックは無表情のまま、城内の一室に私たちを通した。
部屋の扉が開いたら、女の軽い声が飛んできた。『あら、思ったより早かったじゃない』って誰かと思えば、ネマだよ。
ソレイトナックも言ったね。『ちょうどネマから話を聞いているところだった』と。
部屋には四人掛けくらいの卓があって、ソレイトナックはネマを立たせて、代わりに私と父さんに座るよう促した。真向かいには自分が座ってね。私たちに、遠慮なく話すよう言ってくれたよ。
私がネマを気にして口ごもると、ソレイトナックから先に事情を説明してくれた。以前からニッジ・リオールについて悪い噂を耳にするようになっていた、と。どうやらニッジ・リオールはお屋敷の物を勝手に使っているらしい。とくに紋章入りの馬車と紋章衣を。それ以外にも、ミアンカをはじめ、何人かの女中を口説いて関係を持った事も噂された。そこでソレイトナックはニッジ・リオールを監視することにしたのさ。もともと城詰の女中だったネマをお屋敷に送り込んでね」
「そ、そういうこと」
私は呆れるというか、驚いた。
「何だか大変ね、お城勤めも」
「分かっただろ、プルーデンス。お城は華やかそうに見えても、それだけじゃないってことさ。
まあ、とにかく私は、やっと安心してソレイトナックに話したよ。リオールと結婚を約束していた事を。するとソレイトナックは、マルフトさんと同じことを言ったね。リオールはすでに結婚している、と。私は泣いてしまったよ。
父さんはソレイトナックに尋ねた。あの男を訴えることはできないかって。ソレイトナックは、できる、と即答した。父さんは続けて、早く捕まえてください、と頼んだ。そしたらソレイトナックは、こう答えたよ。
『すでに牢に押し込めてある。昼間、尋問した後で、そのまま捕らえた』とね。
父さんは口を開け放して絶句していた。私も思わず、涙が止まったよ。
ソレイトナックは、他にもいろいろと教えてくれた。あいつ、リオールが山ほど言い訳した事。それでネマから話を聞いて確認したら、ほとんど、つじつまが合わなかった事。私たち親子が城にのり込んだのは、その直後さ。
私は、やっとのことで一つだけ尋ねたよ。自分はこれから、どうしたらいいのですか、と。ソレイトナックは静かに答えた。
『とりあえず、今は家に帰りなさい。奴の処分が決まれば、教えてあげよう』
ソレイトナックは表情を少しも変えない男だったが、意外と優しいのか、こんなことも言ってくれたよ。何なら、今夜は泊まって行きなさい。城に泊まれるよう、取り計らってみよう、と。
城に泊まれるなんて、当時の私たち親子からすれば、夢のような話さ。でも私は、それどころじゃなかった。あいつ、リオールのことをどう考えたらいいのか分からなくて、ひたすらにうろたえていた。だから一刻も早く、住み慣れた家に戻りたくて。
それでマルフトさんがまた馬車で、私たちを家まで送ろうと言ってくれたよ。そのために馬車をもう一度使う許可を、ソレイトナックに願い出て、ソレイトナックも認めてくれた」
セピイおばさんは話し疲れたのか、そこで話を区切った。
「マルフトさんって、良い人だね。初めて会ったばかりのセピイおばさんとひいお爺ちゃんのために、ツッジャムの街と、この村を二往復もしてくれたなんて」
「まったくだよ。送り狼かも、なんて一度でも疑って悪かった。それを私が詫びても、手を振って遮るんだ。
『あんたが詫びることじゃない。世の中が悪いんだ。女が気をつけるしかない、なんて世の中の方が』
とか言ってね」
感心しながら私は結構、嫌な推測をしてしまった。マルフトさんは奥さんを亡くしたと言ったけど、もしかして。
しかし私は、そこをセピイおばさんに聞かなかった。おそらく、おばさんもマルフトさんに聞いていないだろう。
「さて、プルーデンス。続きを話してもいいかい?」
ひっ。私は一瞬、飛び上がりそうになった。まさか、おばさんに私の考え事が聞こえたのかしら。ごまかすつもりはないけど、私は慌てて何度もうなずいた。
「では、もうしばらく付き合っておくれ。
ツッジャム城から戻った私は、しばらく泣き暮らしたよ。家に閉じこもった。外に出たくなかったんだ。誰とも会いたくないと思ってね。
多分、噂も村中に広まって、女たちは私を笑っていただろうよ。もちろん、いちいち確かめなかったさ。
それで一週間くらい経ったかねえ。ある夜、ソレイトナックがこの家にやって来た。ソレイトナックは父さんに小声で言ったよ。
『親族の男たちを集めなさい。ただし静かに。
ニッジ・リオールを連れてきた』
父さんは名前を聞いただけで興奮して、家から飛び出そうとした。ソレイトナックはそれを捕まえて、もう一度、静かにするように言ったよ。村人たちに気づかれないよう、静かに事を進めた方が良い、と。
それで父さんも少し冷静さを取り戻して、兄さんと手分けして、叔父さんたちに召集をかけた。
逆に私はまだ落ち着かなくて、母さんに手を握られていたよ。
叔父さんたちが集まると、ソレイトナックは村はずれの広い所に行こうと言った。
辺りは、すっかり暗くなっていたねえ。場所を決めるため、父さんが先頭になった。それに続いたのが、ソレイトナックの部下らしい使用人の馬でね。馬には荷車を引かせていて、覆いを被せてあったが、もう分かったよ。リオールが伏せっているって。わずかだが、呻き声も聞こえたからね。
その荷車のすぐ後ろを、騎乗したソレイトナック。さらにその後ろから、私たち一族がついて行った。
たしか私は、母さんに支えられるようにして歩いた気がする。だからかソレイトナックの馬は、ずいぶん遅い足取りだったねえ。
道すがら、叔父さんの一人がソレイトナックのそばまで駆け寄って、頼んでいた。リオールを殴らせてくれ、と。ソレイトナックも、そのつもりで連れて来た、と即答した。すぐ後ろでそれを聞いていた私は思わず叫んだよ。やめてって。
途端に、周りに居た叔父さん叔母さんたちが喚き出した。
『セピイ、目を覚ましなさい。あんた、騙されたんだよ』
『何で、まだ奴をかばうのか』
『こういう奴は、しっかりとっちめないと、また、やらかすぞ』
と、まあ総攻撃だよ。私一人で抗弁することになった。『みんな待ってよ。まだ、あの人の、リオールさんの言い分を聞いてないじゃない』くらいしか言い返せなかった。もちろん効果無し。火に油を注いだだけさ。
でも幸い、長続きもしなかったよ。ソレイトナックが止めてくれたんでね。
『全員、静かに。村人たちを起こしてしまう。
それと、まずは当事者であるセピイの望むようにしてやろう。
それでも、奴がヌビ家に対して犯した罪は否定できないが』
ソレイトナックは馬上で、こちらを振り返りもせずに言ったよ。それで、みんな黙っちまった。
私は歩きながら、ソレイトナックの言葉の意味を考えた。やっぱりリオールは、ミアンカみたいな他の女中とも関係していたのか。リオールに騙された女が、私以外にも居るのか。
いや、それどころじゃない。リオールがヌビ家に泥を塗った、とヌビ家は解釈しているんだ。そう気づいた途端、体が震えて、母さんを心配させてしまったよ。
かつ、それで自分がまだ、リオールを助けたい、リオールと結婚したい、と願っていることに気づいた。
プルーデンス、ごめんよ。こんな頼りないおばさんで」
「そんな」
言いかけたけど、セピイおばさんが先に言葉を継いだ。
「半分は分かっていたんだ。あの時は、私の中でも二人の私が言い争っていた。片方は(馬鹿馬鹿、リオールなんか早く捨てなさい)と叱る私。もう片方は諦めきれないで(確かめないと)と言い訳する私。
どうにしろ、時間の無駄さ。私が悩んでいる間に、一番前の父さんがついに場所を決めて止まったからね。
道がゆるく曲がる、そのふくらみ部分から広がった空き地だった。そこなら、村の家並みも林に隠れて見えなかった。
ソレイトナックの部下らしい男が荷車を止めると、皆、少し離れて取り囲んだよ。父さんや叔父さんたちは今にも荷車に飛びつきそうだったが、堪えていた。馬から降りたソレイトナックが、荷車のそばに立ったからね。
松明の明かりに照らされる中、ソレイトナックの部下が覆いに掛けられた縄をほどいた。
で、覆いが取り除かれた。やっぱりリオールだったよ。手を縛られて、すでに顔だけじゃなく、服のあちこちにも血がついていた。私はそれを見て、へたり込みそうになってね。母さんや叔母さんたちが、すかさず支えてくれた。多分、私は顔が青くなっていただろう。
私がそんな状態なのに、ソレイトナックが声をかけてきた。『リオールをしたいようにしていい。ただし、手を縛った縄をほどくことだけは、だめだ』と。
私は母さんたちから離れて、ふらふらと荷車のそばに歩み寄った。そして伏せっている、あいつの耳元に顔を近づけた。別の女と結婚している事が嘘で、私との婚約が本当だと言ってくれるよう、頼むために。
あいつは言ったよ、呻きながら。
『セ、セピイ、ごめんよ。結婚していた事を、は、話さなかったのは、悪かった。喜んでくれる君を、見ていたら、言い出せなかったんだ。で、でも婚約は本当だよ。妻とは必ず別れる。子どもも向こうが引き取るから』
そしたら荷車の後ろで、ソレイトナックの部下がこぼすのが聞こえた。こいつ、まだ、こんなこと言ってやがる、とかね。
私の後ろでも、叔父さん叔母さんたちがざわつき出したよ、どういうことか、と。
それらに答えるように、ソレイトナックが発言した。
『セピイ、少し口をはさむぞ。
ジャック・ニッジ・リオール。それはまた、どういう意味だ。カトリックで離婚が認められないことは、お前も知っていよう。何しろお前たち夫婦は神に誓ったのだから。それとも、今の結婚が無効だとでも言うか』
これに対するあいつの返事が、私は未だに忘れられないよ。忘れたいんだがねえ。何と言ったと思う。
『そ、そう。それだよ、それ。ソレイトナックさん。無効なんだよ。
て言うか、あんたも相変わらず人が悪いな。無効とか、そういうのがあるなら、さっさと教えてくれよ』
とさ」
「な、何それ」
私は声が裏返った。今日、何回目だろう。
「まるで目の前におばさんが居ないみたいな口ぶりじゃない。そんな、慌てて取ってつけた言い訳」
「ああ、もう、がっかりだったよ。涙も引っこんで、立ち尽くしてしまった。ソレイトナックの部下の男が、私の代わりに噛みついてくれたよ。
『何が無効だ、今さら。お前のガキは乳離れまでしてんだろうが。ソレイトナックさんが冷やかしで言ったのが分からねえのか』
ってね。よっぽど呆れたんだろう。
ソレイトナックも付け加えたよ。仮に神父や司教が離婚を認めたとしても、そしてリオール夫婦の仲が冷えきっていても、城主様がお許しにならない、と。その事情を説明した。
『よく聞け、ニッジ・リオール。お前はヌビ家の紋章衣や馬車を悪用して、こちらのセピイをはじめ、何人もの若い娘をたぶらかした。それはヌビ家の評判を下げる、ヌビ家の紋章に泥を塗る、許されざる行為だ。
そこで間違えるなよ。お前は、上役の俺の顔を潰したんじゃない。ヌビ家のご党首様の実弟にして、ツッジャム城とこの一帯を治めるモラハルト様の顔を潰したのだ。
それだけでも充分に、縛り首に相当するぞ。でなければ温情をかけて、手足か目の片方を取り上げて、命を残してやるところだ。
しかし、お前の体はまだ、どこも欠けていない。散々打ち据えられても、指一本も減っていない。なぜだか分かるか。それこそ、モラハルト様の計らいだ。お前がちゃんと働いて今の妻と子どもを養うために、手足を残してくださったのだ。モラハルト様はお前のためにそこまで考えて、譲歩してくださったのだぞ。
よって、お前はモラハルト様に感謝して、家族をしっかり支えるように。間違っても、ご恩を忘れたりするなよ』
この説明に、叔父さんたちが小さく不平をこぼすのが聞こえた。いくら城主様とは言え、甘すぎる、とかね。父さんも苦りきった顔になっていた。暗くても、しっかり見えたよ。
私は私で、一体リオールにどんな判決を望んでいたのか、自分でも分からなくてなってしまった」
「リオールは何か言ったの」
「何も。ふうふう唸っているだけだった。ちょっとソレイトナックを睨んでいるように見えたね。
でもソレイトナックは、そんなこと、お構いなしさ。私が何も言えずに立ち尽くしているのを確認してから、父さんや叔父さんたちに向かって言ったよ。
『どうやらセピイは話が済んだらしいな。
では、次はあなた方の番だ。リオールを好きにしていい。ただし、さっきも言った通り、目を潰したり、体の一部を切り落とすのは、無しだ』
途端に父さんが荷車に飛びついて、リオールを引きずり下ろした。叔父さんたちも駆け寄って、リオールを踏みつけたり、蹴ったりし始めた。
その光景に私は、また涙が溢れてきて、叫びかけたけど、できなかったよ。叔母さんの一人が私の口をふさいだからね。
何分くらい経ったかねえ。しばらくしてから、ソレイトナックは父さんたちを止めに入った。そろそろ城に連れて帰らなければならない、とか言ってね。
そしたら父さんが声を震わせて、ソレイトナックに尋ねたよ。『こ、こいつの処分は、本当に袋叩きだけなのでしょうか』と。
ソレイトナックは、心配無用と言った。
『他にも、入れ墨がある。こいつは、やたらとヌビ家の紋章を使いたがったからな。そんなに好きなら、頰や腕など、体の見えるところに彫りつけてやろう、と。これもモラハルト様の温情によるものだ』
これを聞いた私は、入れ墨をされた後のリオールを想像したよ。頰の大部分を覆うように、頰を蝕むように、ヌビ家のヒュドラが描かれる。あいつの顔面に、ヒュドラがとぐろを巻いて居座る。すれ違う者が見れば、この者はヌビ家に何か迷惑をかけたのだ、と一目で推測できるだろう。そんな姿では、このヌビ家の領内でまともな仕事を回してもらえるはずがない。私は、また悲しくなったよ。
ソレイトナックの部下が、ぼろぼろになったリオールを抱え上げようとしたんで、叔父さんたちが手伝って、荷車に戻した。ソレイトナックも私たちに、もう帰るように促した。
そしたら、虫の息だったリオールが急に叫び出してね。
『セ、セピイ。一つだけ言わせてくれ。お、俺を憎んでもいいから、この、ソレイトナックには惚れるなよ。誰に惚れようとも、こいつにだけは惚れるな。こいつは俺以上の悪党だ。俺より上手いことやっているに決まってんだよ』
この物言いに、居合わせた全員が一瞬止まったよ。ソレイトナックの部下がリオールの襟元を掴んで、引っぱり上げた。てめえ、ほんとにいい加減にしろよ、とか凄んで。
しかし、だよ。ソレイトナック本人は、静かにその部下を止めたんだ。『いいじゃないか、言わせてやれよ』とか言ってね。
『なかなかいい気づかいだぞ、リオール。
ならば俺も一つ、お前に助言してやろう。お前は今、痛めつけられて大変だろうが、よく見てみろ。舌は抜かれていない。両足も揃っている。その上で、お前は、いずれ釈放されるだろう。ならば釈放されてから、その足で城に来るがいい。そして、その舌で好きなだけ俺を糾弾するのだ。いつでもいいぞ。お前も知っての通り、モラハルト様は寛大なお方だ。俺の弁明が有ろうと無かろうと、必ずや、お前のために発言の場を設けてくださるだろう』
『い、いいんですか、ソレイトナックさん』
小声だが、部下の男が、すかさず聞いた。もちろんいい、とソレイトナックは答える。
『いかに寛大なモラハルト様でも、道化師たちの芸に飽きてしまわれる事があってな。そんな時に、こいつが来てくれれば、喜んでいただけるさ』
この解説を聞いて、私たち一家はみんな絶句してしまったよ」
「け、結構きついね、ソレイトナックって」
私は思わず言ってしまった。言わずにはいられなかった。べつにリオールに同情するわけではないけど、あまりにも。
話を聞いた私まで絶句していると、セピイおばさんが続けた。
「まあ、ソレイトナックだけじゃないけどね。貴族家に関係している人間なんて、みんな、そんなもんだ。
だから私は、あんたが貴族家の女中になるのは反対なのさ」
う、うーん。諦めの悪い私は呻るしかない。いや、もう少し粘ってみよう。
「で、でも、おばさんは結局ヌビ家のお女中さんになったんでしょ』
「まあ、なるには、なったが。と言うか、そのいきさつを話しているつもりが、こんなに時間がかかっちまった。後は私が女中になったところだけ手短かに話して、お休みしようかねえ」
セピイおばさんは一度、深く息をついた。
「その後、つまりソレイトナックがリオールを連れて帰ってから、たしか一月後くらいだったか。ソレイトナックが、またやって来た。真っ昼間に単騎でね。
その頃の私は、相変わらず泣いてばかりだったが、少しは畑仕事を手伝っていた。父さんに叱られたんだよ。いい加減、外に出て体を動かせ、と。今思えば、仕事に没頭させてリオールのことを忘れさせよう、と父さんなりに考えたのかもしれない。
そんな時だよ、ソレイトナックがやって来たのは。私と父さんに提案があると言ってね。私たちはソレイトナックを家に招き入れて、話を聞いたよ。あの人は淡々と言うんだ。私にツッジャム城で女中として働いてみないかって。
父さんは顔を曇らせて、すぐには答えなかった。母さんもね。もう二人とも、明らかにソレイトナックを疑っていたよ。父さんなんか、ほとんどソレイトナックを睨んでいたし。
それに気づかないようなソレイトナックでもないだろうに、例によって表情が乏しくてねえ」
これを聞いて、私は密かに疑問を持った。おばさんは、騙されて女中になった、と言ったはず。でもソレイトナックは、普通に勧誘に来ているじゃない。それでも騙されたと言うのかしら。また口をはさみたくなったが、今は我慢しておこう。
「私はと言えば、またしても自分で自分の気持ちが分からなくなっていた。リオールに出会う前に、このお誘いがあったら、そりゃ手放しで飛びついたろうよ。貴族のお屋敷どころか、お城に上がれるんだから。しかし実際にはリオールと出会ってしまったし、もちろん、あいつの最後の言葉が頭に引っかかっていた。
私たち親子がなかなか喋れずにいたら、ソレイトナックの方から話し出したよ。
『ちゃんとリオールの忠告が効いているようだな。いいことだよ。警戒することは大事だ。俺を信用しないで、断ってくれてもいい。べつに恨んだりしない』
これが何とも穏やかな、優しい口調でねえ。皮肉や嫌みが少しも感じられなかった。それで私も油断したのかもね。つい『でも』とつぶやいてしまったんだよ。
当然ソレイトナックは『でも?』と聞き返してきた。私は答えられなかったよ。父さんたちから睨まれたんでね。父さんも母さんも分かりきっていたのさ、私の考えが。リオールの件で私は、すっかり村に居づらくなっていた。女中になって城に行けば、村から出られると思ったんだよ。
ただし、そんな事情をそのままソレイトナックに話していいか。その時点では、まだ分からなかった。父さんたちが私を睨んだのも当然さ。
『でも、と言ったのは、俺はともかく、女中という仕事には興味があるからじゃないのか』
とかソレイトナックが、もう一度聞いてきたよ。でも私は、それに答える以前に、やっぱり父さんと母さんの顔色をうかがってしまう。さすがに、それに気づいたんだろう。ソレイトナックは続けて言った。
『こういう方法は、どうだろうか。セピイがツッジャム城で働くようになっても、あなた方、家族は好きな時にセピイを訪ねてくる。俺に事前の連絡なんかしなくていい。いきなり城に来ればいいのだ。門番たちには、俺から話しておこう。
いや、待て。そうやって住み込みにするんじゃなくて、通いにするか。送り迎えはマルフトがやってくれるだろう』
父さんが、うーんと唸った。
『そ、そうだな。たとえば村の作物を市場に運んで、そのついでにセピイの様子を見に行く、という手もあるかな』
父さんとしては、まだ検討中の姿勢だ。これを聞いて、ソレイトナックは、こう返した。
『念のため言っておくが、この村の産物を城下町で販売することと、セピイの件は別問題だから、混同しないように。あなた方がセピイの城勤めを断ったとしても、これまで通り、城下町の市場を活用するのだ。誰も妨害したりしない。する奴が居れば、城に来て、遠慮なく訴えてくれ』
父さんは、また唸ったよ。まさに、それを心配していただろうからね。プルーデンス、あんたも分かるだろ。市場を使えなくなったら、私ら一家族だけでなく、村全体の痛手だ。もちろん村中から恨まれるよ。
そうならないよう保証してもらった上に、好きに選んでいいなんて、何とも贅沢な話じゃないか。
しかもソレイトナックは私たちに、すぐに返事しなくてもいい、とも言った。女中として城勤めをしたくなったら、いつでもツッジャム城に来てくれ、と。俺が居合わせなくても充分、話は通じるから、とね。
私は、この後ソレイトナックが帰ったら、何と言って父さんと母さんを説得しようか、と考え始めていたよ。
そしたら兄さんが部屋に入ってきた。マルフトさんの時と同じで、すっかり話を聞かせてもらった、と言ってね。質問が一つあるところまで同じさ。
今思えば、兄さんとソレイトナックは同い年だったのかもしれない。
兄さんは、たしか、こう尋ねた。
『ソレイトナックさんよ、あんた個人の意見を聞きたい。あんたとしては、うちのセピイを城の女中にしたいのか、したくないのか。あんたは話を断ってもいいと言ったり、こちらの都合に合わせてくれたり、一体どちらなのか分からんぜ』とかね。
『当然だ』とソレイトナックは答えた。
『今回の件では、俺の意見など関係ない。セピイ個人の意志の問題だ。
それでもあえて聞きたいと言うのなら、言わせてもらおう。できれば、セピイにはツッジャム城で働いてもらいたい。と言うのも、城主様と奥方様がそれをお望みだからだ。
それを早く言え、と言いたいか。逆に、あまり言うな、と城主様たちから止められていたんだ。お二人とも非常にお優しい方で、領民に強要することを好まれない。そんな領主はヨランドラどころか、タリン中を見渡しても他に居ないだろう。
お二人、特に奥方様がセピイのことを心配しておられた。早めに気づいてニッジ・リオールからセピイを守れなかった事を悔やんでおられた。そこで、その償いとして、セピイを城に呼び、女中としての教育を受けさせてはどうか。奥方様はそこまで考えて、城主モラハルト様に相談してくださったのだ。
ただし強制ではなく、セピイ本人が望むならという前提で。だから城主様と奥方様は、なるべく自分たちのことを話に出さないよう、俺に言い含めていたのさ』
説明が済むとソレイトナックは、すっと立ち上がった。後は家族で話し合ってくれ、と言って。
私たち一家も、ソレイトナックを見送ろうと外に出たよ。で、ソレイトナックが鞍に上がったのを見て、私は思わず言ってしまった。
『私をお城で働かせてください』
『セピイっ』
父さんがすかさず声を上げたが、それだけだった。ソレイトナックがゆるく手をかざして、父さんを止めたからね。
『急がなくていい。奥方様も城主様も気長に待ってくださるし、他の娘に話を持っていったりもしない。だから焦らずに、よく考えて決めてくれ』
そう言い残して、ソレイトナックは去っていった。
ちょうど畑に出ていた他の村人たちが、あの人を不思議そうに見ていたねえ。それでやっと気がついたんだが、あの人は紋章衣を着ていなかった。私たち一家はあの人を知っていたけど、他の連中はまだ、あの人を知らなかった頃だよ。私も話に集中して、あの人の服にまでは気が回らなかった。
後は、もう分かるだろ。私はツッジャム城に女中として住み込むことになった。父さんたちからその許しを得るのは、大して手間じゃなかった。父さんたちだって、私を一旦、村から離した方がいいと思い始めていたらしくてね。何しろ、村の連中はリオールの件で好き勝手に噂をたてて、私たち一家だけでなく叔父さん叔母さんたちにまで失礼な素振りを見せるようになっていた。要するに、私を村に置いておくのは限界だったんだ」
そこまで話してセピイおばさんは数秒、黙り込んだ。
「以上が、私が貴族家の女中になったいきさつさ。ずいぶんと、おかしな事情だろう」
言いながら、おばさんは椅子から立ち上がり、私の手を取った。
「さあ、今夜はこれまで。あんたも、そろそろ明日に備えて、寝なさい。
次は、ツッジャム城での生活がどんなだったか、女中の仕事とはどんなものかを話すよ」
セピイおばさんは、私もベッドから立ち上がらせて、扉から外に送り出した。そして、やはり外の様子を念入りに確かめていた。
「お、お休みなさい」
私も、やっとのことで挨拶だけ絞り出して部屋に戻った。おばさんには、もっといろんな言葉をかけてあげたかったが、一つも思いつかなかったのだ。
何も知らないで、ぐうぐう、いびきをかいている弟が少し恨めしく見えた。




