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第十四話 幾つかの門出

 墓地で、マルフトさんの前でセピイおばさんの話を聞けたところまでは良かったのだ。しかし、さすがに夜は呼ばれなかった。

 元々「今夜は控えなさい」と言われていたのだ。それなのに、もしかして、などと身勝手な期待を捨てきれずに、私は夜中に部屋を抜け出した。

 こっそり忍び足で離れのそばまで近づき、耳をそば立ててみる。無駄だった。月明かりの下、二番目の離れから、いびきが聞こえてきた。

 やっぱり、セピイおばさんを疲れさせちゃったかなあ。こうなると、大人しく引き退るしかない。

 次の日なるべく父さんと母さんの前では、セピイおばさんと会話しないように気をつけた。それでも正午前には、おばさんの方から声を掛けてもらえた。「今夜は一番端の離れで」と。

 その一言だけで、セピイおばさんは、そそくさと居なくなる。

 そんなおばさんの後ろ姿を見送りながら、私もちょっと考えてしまった。女中頭のノコも、こんな感じだったのかなあ、と。


 夕方に小雨が降ったので、夜、離れに行く時には地面が濡れていた。その分冷えて、服の裾にも泥が付きやすくなるが、その程度の事だ。これくらいで、へこたれないぞ、と。

 扉をそっと叩いて、セピイおばさんに開けてもらう。二人して辺りをよく見回してから、中に入る。

「まあ今夜は、きな臭いと言うより、浮いた話の方が断然多いんだが」

 セピイおばさんは警戒の言い訳をしながら、私に椅子をすすめる。

「だからマルフトさんには聞かせられないんだよね」などと私も調子に乗ってしまう。

「何だい、ニヤニヤして。あんたも年頃だねえ」って、おばさんも笑っている。

「だって、気になるんだもん」と私は、ついに言ってしまった。これだけ見抜かれているのだ。今さら、取り繕いようもない。

「では早速、始めるか。と言っても、最初は結構どぎつい話になるが」とセピイおばさんの顔が少し曇った。

 セピイおばさんが話し出して、私たち二人の意識は再びメレディーン城に向かう。

「ジャッカルゴ隊の帰還から一週間くらいは、まだ興奮冷めやらぬと言うか。騎士様も兵士たちも、男連中は何かと忙しなかったねえ。傷ついた人馬の治療は長引いたし、どの武具も修理修繕を必要としていた。戦況の細かい記録をまとめようと、騎士様やお役人たちが何度も、ご党首アンディン様の書斎に出入りしたよ。もちろんジャッカルゴ様も同席して。

 そんな男たちが仕事に専念できるよう、私たち女中も城の家事に奔走したよ。それが奥方キオッフィーヌ様の方針だったし、女中頭であるノコさんがその意図を汲んで仕切ったからね。

 時にはキオッフィーヌ様やヘミーチカ様と並んで、紋章衣や旗の綻びを直した事もあったよ。その間にヘミーチカ様お手製の菓子が焼き上がって。キオッフィーヌ様のお達しで、それが女たち優先で配られた」

「ふふっ、奥方様たちが居たんじゃ、色男さんたちも、ちょっかい掛けに来られなかったでしょうね」と私。

「その通りだが、オーカーさんたちだけじゃないさ。若い兵士なんかがこちらを何回もチラ見するから、女中たちがお菓子を見せびらかしたりしてね。

 そのうち、ヘミーチカ様がイリーデに『ブラウネンの分も残してあるから、持って行って』なんて言ってくださる。

 そしたら、キオッフィーヌ様も『イリーデ』と声を掛けた。しかし目配せだけして、それ以上は二人の会話に割り込んでこない。

 イリーデは、ほんの数秒、キオッフィーヌ様と目を合わせたと思ったら、ヘミーチカ様に勢い込んで言った。『そのお菓子はオペイクス様に差し上げてください。そして私に、お菓子の作り方を教えてください』とね。

 ふふ、想像がつくだろうが、イリーデは少し頬を赤らめていたよ」

「で、オペイクスには、おばさんが届けてあげたの?」

「そう。オペイクス様と来たら、恥ずかしがってねえ。『ジャッカルゴ様もヘミーチカ様から戴いているはずだから、ご一緒して食べようかな』とか、ぶつくさ言う。居合わせた兵士たちが、調子に乗って『俺に譲ってくださいよ〜』なんて言い出して。私がそれをたしなめて」

「のどかねえ」

「ああ。一山超えたっていう安心感があったんだ。隊に加わっていた兵士が居残り組の兵士や使用人相手に武勇伝を披露したり。城内のあちこちで、おしゃべりの花が咲いたよ。

 で、私の方はイリーデから、ついに話を聞く事になった。ある時、彼女が私に言うんだ。『聞いてもらいたい話があるから、一緒に来てほしい』と。長話になるからと、彼女は事前にノコさんに断りを入れるまでしていたよ。

 私は、ちょうどやっていた手仕事の区切りをつけて、イリーデについて行った。行き先は、例によって塔の上。見張りの兵士なんかが居ない事も確認して、幾つかある塔の一つを選んだんだ」

 セピイおばさんは一度、遠くを見る目になった。

「振り向いて、私を見るイリーデの背後に青空が広がっていて。清々しい午後だったねえ。空が青い分、彼女の頬の赤みが目立っている気がしたよ。表情は固かったが。

 イリーデは言ったよ。『私、ブラウネンと結婚します』とね」

「きゃあ〜」と私は声をもらしてしまう。

「ふふっ、私も喜んだよ。でも、その前に確認する事がある」

「キオッフィーヌね」

「そう。イリーデが奥方様に報告したか、聞いてみた。すると『まだ、これから』と彼女は答えるんだよ。まず私に話したかったと。奥方様に話せないような事も含めて、ね」

 そこでセピイおばさんが私の目を覗き込む。

「もうっ。意地悪しないで、話を進めてよっ」

 私が音を上げると、おばさんは笑い出した。

「ごめんよ。ただ、物事には順番ってものがあるんだ」


 こうして、ようやく本題に入ったのだが。セピイおばさんによると、イリーデは、いくさの前にブラウネンを招待した晩餐会の事から始めたのだ。メレディーンの城下町にある、自分の生家にブラウネンを連れて行った夜。

 晩餐会そのものには、特に印象は無かった。ありきたりな世間話がなされただけ。二人からイリーデの両親に将来の事を話すほど、二人の関係はまだ深まっていなかったのだ。

 しかも、ブラウネンの様子が普通ではなかった。もっとも普通でもイリーデの家族が相手では、ブラウネンは緊張しただろうけど。それ以上にブラウネンをおかしくさせたのは、やはりヌビ家党首父子である。晩餐会の前夜もアンディンたちに呼び出され、どんなやり取りがあったのか。次の日、つまり晩餐会の日の昼間は、ブラウネンはずっと青い顔をしていたのだ。そして、そのままイリーデの生家を訪れてしまったわけだが。

 イリーデから見ても、ブラウネンが料理を味わえているとは思えなかった。一応、口に詰め込んで、もぐもぐするのだが。

 見かねたイリーデの父親が何回か冗談を言ってやっても、効果は無かった。ブラウネンは戸惑い、冗談の内容を理解できなくて、赤面しながら聞き直したほどである。

 イリーデの父親も唖然として、もはや怒る気にもならなかっただろう。『城務めで何かと疲れたのではないのか。寝室で早めに休みなさい』とブラウネンに促した。

 来客用の寝室には、イリーデが案内した。そして、そのまま寝床に並んで腰掛けて、イリーデはブラウネンを問い詰めたのだ。一体、党首父子に呼び出されて、何をしているのか、と。

「プルーデンス。あんたは、ブラウネンが剣とか武器の特訓を受けているんじゃないか、と読んだね。かなり、いい線を行っているよ。

 ただ、いくさの前だったから、イリーデは、まだ、そこまでピンと来てなかった。

 ブラウネンは、なかなか打ち明けられなかったそうだ。『どうか怖がらないで、と頼みたいけど、絶対怖がらせてしまうから』とか何回もためらって。そのくせ『でも、いつかは君に話さなきゃいけない、とは分かっている』なんて付け加えもする。

 そして、ついにブラウネンは告白したんだ。『人を殺した』と。

 言いながら、ブラウネンは自分の手ばかり見ていたそうだ。ちゃんとイリーデの目を見て話そうという気持ちはあるようだが、何度も目をそらす。ずっと震えていたそうだよ」

 私はすぐに理解できず、数秒ほど絶句した。

「お、おばさん、何言っているの。ブラウネンはアンディンたちと会っていたんでしょ?なのに人を殺すなんて、一体・・・あっ」

 おばさんを問い詰める途中で、私も気がついた。が。自分で立てた推測が信じられない。でもセピイおばさんは、私の推論を待っている。

「アンディンとジャッカルゴがブラウネンに人殺しをさせた。彼を呼び出して、させていたのは、それだったんだわ」

「何のために」すかさず、しかし静かにセピイおばさんが私に問う。

いくさがあるから。その時点で、ブラウネンを従軍させることが決まっていたのね」

「うん。ほぼ正解だね。

 ただ、厳密に言うと、いくさの予定が無くても、アンディン様たちはブラウネンに人殺しをさせただろう。

 その理由は、ジャッカルゴ様のお言葉を借りると、こんな感じだ。『我々は貴族であり、騎士であり、戦士だ。僧侶ではない』

 もっとも、細かい事を言えば、貴族でも僧籍も持つ人は珍しくないよ。お坊さんの中にも、鎚矛を振りかざして異教徒を殺したがる修道院長なんて人も居るしね。

 それらを考えれば、理屈が必ず成り立つ、とは言えないのかもしれない。貴族だから、いずれ騎士になるから、人殺しの練習をしなければならない、という理屈なんて。

 しかし、だ。少なくともアンディン様とジャッカルゴ様は、そうお考えなのさ。ブラウネンは、いずれ騎士として剣を、武器を振るわなければならない。だからメレディーン城の地下牢にブラウネンを連れて行って、囚人を殺させた。騎士として、戦う者として、敵をすぐに殺せるようにね。囚人は、その練習台だよ」

 そこまで言うと、セピイおばさんは、私の反応を確かめるためか、しばらく黙って見つめてくる。

 しかし私は反応のしようもない。甘かった。最初は結構どぎついって、こういう事だったのね。多少は覚悟していたつもりだけど、ここまでとは。すぐに浮いた話になると、すっかり油断していた。

「練習の初日、ブラウネンは囚人を殺せなかったそうだ。

 中年の囚人は脚に重しをつけられて、動きが制限されているが、素手でも抵抗はする。『それでも短剣で突き殺せ』とジャッカルゴ様から命じられた。

 ブラウネンは絶句して、立ち尽くしたよ。殺せと言われても、初対面で、憎しみもわいてこない。むしろ、わいてくるのは同情心だよ。

 そしたら、ジャッカルゴ様は付け加えた。『遠慮は要らんぞ。幼児を暗がりに連れ込んで殺害する事を楽しむような極悪人だ。遺族たちには袋叩きで我慢させて、お前の練習用に連れてきた。お前が同情すべきは、こいつじゃない。こいつに傷つけられた者たちだ』

 これに対し、罪人は猛抗議だよ。『濡れ衣だ。俺は、やってねえっ』とか。

 だが、ジャッカルゴ様は落ち着いて静かに反論した。『役人の記録では、現行犯逮捕と書かれてあるぞ』

 罪人は一瞬だけ詰まったが、すぐにわめき出したよ。『それも嘘だ』だの何だの。

 もちろん、ジャッカルゴ様たちが罪人を信用するはずがない。しかし、だからと言って、罪人を黙らせるような努力もしないんだ。ジャッカルゴ様たちは罪人を放ったらかして、好きなだけ、わめかせていた。

 むしろジャッカルゴ様はブラウネンに、さらに付け加えた。

『俺は、こいつの口を塞がない。目もだ。だから、こいつの舌はお前を懐柔しようとしたり、お前を呪ったりするだろう。そして、こいつの視線は容赦なく、お前を射るだろう。

 それらをはねのけて、お前はこいつを殺せ。お前がこいつを殺さなければ、お前のために報復を我慢した遺族たちが報われない。あるいは、こいつは脱獄して、被害者を増やすかもしれない。お前が世のためを思うなら、今ここで、こいつを殺せ』

 とね」

 セピイおばさんはそこで一度、話を止めた。私の目を覗き込んで、ついてきているか確認している。

「ブラウネンは、その時の気持ちもイリーデに話していたよ。『理屈は分かる』と。

『その罪人から見れば、僕なんか青二才で、簡単に手玉に取れる。そう思われているに違いない。それくらいは自分でも読めたよ。ジャッカルゴ様の言う通り、こいつは処刑すべきなんだ。それが分かっているのに、短剣を持つ手の震えが止まらなかった』

 ブラウネンは話せば話すほど、震えがひどくなるように、イリーデには見えたそうだよ。

 地下牢に話を戻すと、罪人はブルブル震えるブラウネンを笑って『短剣を奪って、返り討ちにしてやる』とか豪語したらしい。

 しかもジャッカルゴ様は一旦、それを許可するんだ。その上でブラウネンには『だから、なおのこと、気を引き締めて、かかれ』なんて迫る。

 しかしブラウネンは、短剣を奪われないようにしっかり握るどころか、一歩も踏み出せなかった。

 するとジャッカルゴ様は静かに言ったよ。『ブラウネン。俺はこいつに、お前の婚約者の名前を言うぞ』

 途端にブラウネンは叫んだ。『やめてくださいっ』

 ジャッカルゴ様は問うた。『なぜ嫌がる。名前を言うだけで、こいつが彼女の顔を見るわけではないぞ』

 ブラウネンは即答した。『知られたくない。知られるだけでも嫌です』と。

 するとジャッカルゴ様は、さらに迫った。『ならば、こいつを早く始末しろ。お前が婚約者を守りたいのなら。俺も自分の婚約者をこいつに知られたくはない。俺がお前の立場なら、そうなる前に殺す』

 そこまで言われて、ブラウネンは、ついに覚悟を決めたよ。短剣を振り回して、無我夢中で罪人に飛びかかったんだ。

 もちろん罪人も抵抗するから、慣れないブラウネンは、なかなか仕留められない。罪人が振り上げた手足に、無闇に斬り傷が増えていくだけだ。

 罪人は血まみれになりながら、暴れながら、ぎゃあぎゃあ、わめいてブラウネンを罵ったよ。しかし仕舞いには泣き出して『やめてくれ、殺さないでくれ』と哀願する。

 ブラウネンは愕然として、また立ち尽くしてしまったよ。

 と、すかさずアンディン様が叫んだ。『下がれっ。脚をすくわれるぞ』と。

 しかしブラウネンは驚くだけで、反応が遅れた。罪人はブラウネンの脚に自分の脚を絡ませようとして、短剣を持つ手首も掴んだよ。そのまま二人は、揉み合いになって床に転がった。

 罪人は必死になって短剣を奪い取ろうと、ブラウネンの腹を蹴ろうとしたり、暴れまくる。ブラウネンも短剣を握りしめて、蹴り返したりして抵抗した。

 と、ジャッカルゴ様の手が不意に現れて、さっと短剣を取り上げた。そして、罪人の鼻先に突きつける。『動くな』そう言いながら、ブラウネンを罪人から引き離した。

 罪人は泣きながら言いかけた。『な、何で俺がこんな目に』しかしジャッカルゴ様は皆まで言わせなかった。『お前に殺された子どもたちも、似たような事を言ったはずだ』

 そしてジャッカルゴ様はブラウネンに早く立ち上がるよう言いつけて、短剣を返した。

『分かっているだろうな、ブラウネン。今ここにお前の婚約者が居たら、お前たち二人は、こいつにまんまと殺されているだろう。それでもいいのか』

 ブラウネンは泣きながら立ち尽くした。殺さなきゃ。殺すしかない。そう、頭では分かっている。しかし、人を殺す、という一線を越える事が怖くてたまらない。こうして相手に斬りつけて、血を流させている事だけでも恐ろしいのに。

 とは言え、ブラウネンは決断を急かされなかったよ。アンディン様がおっしゃったんだ。

『ジャッカルゴ。今回は、これくらいにしておこう。

 ブラウネンは一晩、しっかり考えよ』

 こうして、処刑は次の晩に持ち越しになったんだ」

 セピイおばさんは、ため息をついた。とんでもない事を話している、と自分でも自覚している顔だ。なるほど、こんな話、マルフトさんには聞かせたくない、と私も思う。

「もう予想がついていると思うが」セピイおばさんが、遅い口調で話を再開した。

「ブラウネンはイリーデに話しているうちに、いつの間にか泣いていた。そしてイリーデも、気がついたら横から彼を抱きしめていた。いっそ、話をやめさせようかと何度も思ったそうだよ。

 ブラウネンは自分を包んでくれるイリーデの腕をそっと撫でながら、言った。

『ありがとう。

 そして、ごめん。こんな話を聞かせて。心配させて』

 イリーデは、自分の額を彼の頭に押しつけながら、首を横に振った。そして『謝らないで』と泣きながら言ったんだが。

 ブラウネンも首を横に振って言うんだ。

『いや、僕は謝らなければならない。僕は人を殺した。しかも、その口実を君に・・・君の存在を、君に対する気持ちを口実にしたんだ。

 だから、だから君が僕を怖がったり、嫌ったりしても、仕方ない事だと思っている。

 でも僕は・・・僕は君が好きで・・・君を守るためにはジャッカルゴ様たちの言う通り、あの囚人たちを殺すべきだと思った。君の安全を、幸せを保つためには。たとえ君が僕以外の』

 イリーデは、それ以上、言わせなかった。顔を下げて口づけして、ブラウネンの口を塞いだんだ。

 ブラウネンは泣き濡れたまま、硬直して、イリーデを凝視したよ。

 イリーデはブラウネンに微笑んで言った。

『私もあなたが好きよ。ありがとう、私を好きでいてくれて。

 そして、ごめんね。他の人に迷ったりして』

 これを聞いて、ブラウネンは大泣きに泣いたそうだ。それこそ小さな子どものように泣きじゃくったと。イリーデは、そんなブラウネンを強く抱きしめて、一緒に泣いたんだよ」

 セピイおばさんは、そこで言葉を途切れさせたが、微笑んでいる。

 私は何も言えない。二人を祝福してあげたいけど、どんな言葉でも足りない気がする。

「二人は、しばらく泣き続けた。本来ならイリーデの家族に気づかれる事を心配するところだが、少しも気が回らなかったと。

 で、だんだん落ち着いてくると、イリーデは決心した。黙って、ブラウネンを見つめると、彼の手を取って、自分の胸元に押し当てたよ。

 ブラウネンは息を呑んで、また硬直したが、すぐにイリーデの手の中から、自分の手を引き抜いた。

 イリーデは心配になって尋ねたよ。『嫌なの?』と。

 これに対して、赤面したブラウネンの答えは、こんなだった。

『嫌じゃない。嫌、どころか、君が欲しくて欲しくて、たまらない。君に触りたい。

 でも、そんな自分は嫌なんだ。これじゃ、君の同情をひいているだけだ。君の気持ちよりも自分の欲求を優先する事になる』

 イリーデは反論した。

『でも私たち、婚約しているんでしょ。する事が少し早まるだけじゃない。

 あなたは私のために戦ってくれた。だから私はあなたにお返ししてあげたいの』

 ブラウネンは固まったまま、イリーデを見つめた。イリーデは緊張しながら、彼を待った。乱暴に扱われたら、どうしよう、という怯えもあったが、彼女なりに覚悟を決めたんだ。よほどの暴力じゃなければ、受け止めようと。

 そしたら、だ。ブラウネンは、そおっと、そおっと両の手を伸ばして、イリーデの両肩をやわらかく掴んだ。そして、ゆっくりと自分の胸元に引き寄せる。そのままイリーデを抱きしめる両腕が震えていたそうだ。

 ブラウネンの胸の鼓動がイリーデの頬に伝わり、彼の声が彼女の額の上から聞こえた。

『ありがとう。

 でも、やっぱり、ずるい気がする。いくら君自身がいいと言ってくれたからって。君の優しさにつけ込む事になる。

 それに話の途中だ。僕は、まだ君に話さなければならない。また君を怖がらせてしまうけど。君に話さないのは、ずるい事だ』

 そして改めて二人で並んで座って、ブラウネンは地下牢の話を続けたんだ」


 セピイおばさんを通して、イリーデを通して聞くブラウネンの体験は、その後も過酷さを増した。

 党首父子から解放されて地下牢から地上に出たブラウネンだったが、兵舎には戻らなかった。外城壁の隅に隠れるように座り込んで、そのまま一晩中、泣いて震えていたのである。

 夜の暗がりの中、声を殺して、泣き続けた。泣きながら、いくら考えても恐怖が増すばかりで、震えが一向に収まらない。

 そして、いくら考えても、ブラウネンには思い浮かばなかった。あの罪人を殺さずに済ますという方法が。

 仮に罪人が脱獄しても、メレディーン城で暮らすイリーデは、罪人に目をつけられずに済むかもしれない。しかし、それは今回だけだ。第二、第三の悪人が現れて、イリーデを狙ったら。しかも、そいつが必ず投獄されているとは限らない。のうのうと巷を闊歩し、人混みに紛れ、いつ何時ブラウネンやイリーデとすれ違うかもしれない。

 イリーデが危害を加えられそうになる、その時。自分が居合わせていたとしても、今の自分では・・・太刀打ちできない。戦えない。それでは話にならない。イリーデを守れない。

 暗闇の底に沈み込みながら、ブラウネンは認めたのだ。自分の非力さを。そして、そこから脱する方法を。

 次の晩も党首父子によって、ブラウネンは地下牢に連れて行かれた。罪人は大した手当てもしてもらえず、かなり弱っていたが、あいかわらずブラウネンを罵ったり、情に訴えようとしたりした。

 しかしブラウネンは、もう迷わなかった。罪人の言葉には何も答えず、黙って襲いかかったのである。ジャッカルゴから渡された短剣をやたらめったらに振り回して、罪人の体に何度も突き入れる。罪人は『嫌だ、死にたくない』と泣きわめいた。それでもブラウネンは手を止めない。罪人は、すぐに声を発さなくなり、動かなくなった。

 その後、ブラウネンは罪人の体をゆするなどして、その死を何度も確かめたのだが。罪人の口に自分の手を差し出して、噛みつくかどうかを試すまでした。しかし罪人が自力で動く事は、二度と無かった。

 それでブラウネンは、ついに認めた。自分の手で、一人の人間が死体に変わった事を。

 認めた途端、ブラウネンは『自分の背筋が凍りついた気がした』と言う。汗だくで息も切らしているのに、悪寒がする。その夜も、ブラウネンは立ち尽くした。

 そんな彼を、まずアンディンが誉めた。『良くやった』と。『少々、時間がかかったが、その分、こ奴も死の恐怖を長く味わったことだろう。手早く済ませるやり方は、また今度できれば良い』

 党首アンディンがブラウネンを労っている間に、兵士たちがやって来て、罪人の死体を運んで行った。

 一方、ジャッカルゴはブラウネンに、こんな言葉をかけた。

『怖いか、ブラウネン。それも仕方ない事だ。俺も十二の時に、この訓練をした。ひたすら怖くて、泣いた。失禁までした。正直、逃げ出したい、と何度も思った。

 だが、あの頃、この訓練から逃げていたら・・・俺はヘミーチカどころか、自分を守ることすらできなかっただろう』

 ブラウネンは声も無く、泣いてジャッカルゴを見た。返事をしようにも、言葉が出なかった。

 ジャッカルゴも、それ以上は何も言わない。ゆっくり拳を突き出したかと思うと、返り血を浴びたブラウネンの胸を軽く小突く。それだけで、後は父アンディンと共に黙って、出て行った。

 地下牢では、兵士たちが掃除を始める。

 取り残されたブラウネンは、その夜、どうやって地上に戻ったのか。戻った後、どんな行動をとったのか。本人は覚えていなかった。


「く、訓練ってことは、ブラウネンが殺したのは、一人じゃなかったの?」

 私は話の途中で、尋ねないではいられなかった。これほどの内容だなんて、ある程度、心の準備をしておかないと、衝撃が大きすぎる。

「ああ、他の罪人も使って、訓練が繰り返されたよ。

 二人めは、一人めと同じような中年男。

 三人めが、ちょいと厄介でね。大柄な男だったそうだ。歳も若くなって、ブラウネンより幾つか上というだけ。アンディン様が、この悪漢について、ブラウネンに少し説明したよ。

『オペイクスやパウアハルトと同じくらいの体格だが、あの二人と違って剣の鍛錬はしていない。落ち着いて攻め方を考えれば、そなたが勝てる』

 これに対してブラウネンの返事は、こうだ。

『ご党首様には申し訳ありませんが、パウアハルト様と思えば、斬れます。オペイクス様では最初から敵いませんが』

 アンディン様とジャッカルゴ様は笑い出したよ。『そう思わせたパウアハルトが悪い』と。

 その上で、ジャッカルゴ様がブラウネンに尋ねるんだ。『で、あの大男を具体的に、どう攻める?本人に聞かれぬよう、声を抑えて説明してみよ』

 すると、ブラウネンが答える前に、聞き耳を立てていた大男がわめいたよ。『好きなだけ小細工しろや。俺には通用しねえぞ』とか何とかね。

 ブラウネンは急いで考えた作戦を、ジャッカルゴ様とアンディン様に小声で話した。腕力では敵わないから、真正面からは攻められない。まず目を斬り裂いて、視力を奪う。それで、大男の動きを鈍らせる。あとは背後などから突きまくる。卑怯であることは百も承知だが、ブラウネンは、それしかないと思った。

 ジャッカルゴ様もアンディン様も、ブラウネンを責めない。やってみよ、と背中を押すだけ。

 一瞬、ジャッカルゴ様が何か忠告しそうな気配があったが、アンディン様に止められていたよ。それを見てブラウネンは、自分で考えなければ、気を引き締めた。

 それで気がついたのが、囚人の脚に繋がる鎖が長くなったように見えた事。前回、前々回の二人より鎖が長そうだと。

 もう一つが、大男に捕まってはならないという注意点。捕まったら、その腕力で逆にこちらの動きを封じられると警戒したんだ」

 聞いている私は、唾を飲み込む。何だか胃が痛い気がする。

「で、ブラウネンは実行したよ。じりじり寄って行って、大男の拳骨や蹴りをかわしたり、こらえたりしながら、隙を見て大男の目に斬りつけたんだ。ブラウネンが言うには『短剣を水平に振って、両目をなで斬りにするつもりだった』と。

 しかし勘づかれたのか、大男も避けようとして、片目しか潰せなかった。

 当然、大男は怒り狂って、暴れまくる。ブラウネンは殴り飛ばされて、頭を壁に打ちつけ、気を失いかけたりもした。

 それでもブラウネンは恐怖に取り憑かれないよう、自身も怒りを募らせ、気を張ったよ。

 そして同時に考えた。目潰し作戦に気づかれたかもしれない。しかし、今さら後には引けない。むしろ逆に、あと一つ、目を斬りさえすれば、作戦は、ほぼ完了したも同然なのだ。相手は視力を失って、こちらが圧倒的に有利になる。

 そんなことを大急ぎで考え、ブラウネンは再び飛びかかった。大男の太い腕がブラウネンの首に巻きつく。ブラウネンは、短剣を奪われる前にと、大男の目に向かって夢中で突き出した。

 大男の残っていた目からも、血が飛び散ったよ。大男の絶叫が地下牢に反響し、大男の腕が緩んだ隙に、ブラウネンは飛び退いた。

 するとアンディン様の声が飛んだ。『良くやった、ブラウネン。後は、ゆっくり料理しろ』

 これにうなずいて、ブラウネンは、そおっと大男に近づいた。大男は血塗れの顔を、右に左に、と盛んに振る。耳をすましているらしく、少しでも物音がすると、そちらに向かって拳や蹴りをやたらめったらに繰り出した。『やれるもんなら、やってみろ』とか怒鳴りまくるが、それでブラウネンは足音をかき消す事ができた。

 ブラウネンは背後や左右から大男に短剣を突き入れては、飛び退き、を繰り返した。そして何回めかで、ついに大男の太い首を真横に切り裂いたよ。

 血が大量に噴き出し、その勢いが衰えると、大男の叫び声も小さくなっていった」

 セピイおばさんは、そこまで話すと、ふーっと息を吐いた。私は、おばさんに何か言ってあげるべきか、と一瞬、迷った。しかし杞憂で、おばさんは、すぐに話を再開した。

「で、四人めだが。ジャッカルゴ様はブラウネンに、そいつのことを追い剥ぎの主犯格とか説明したようだ。地下牢の中とは言え、今度は脚の鎖が外されることになった。しかも剣を持たされている。

 対して、ブラウネンにも短剣ではなく、普通の長さの剣が渡された。

 ジャッカルゴ様が、さらに説明したよ。声を抑えてね。

『あの罪人には、こう言っておいた。対戦相手であるお前を殺して生き残ったら、牢から出してやる、と。だから、あいつは死に物狂いで、お前に斬りかかってくるぞ。

 とは言え、あいつは元々、平民だ。剣の修練では、確実にお前の方が上回っている。落ち着いて、かかれ』

 そして禁止事項を設けた。今回は目潰しは無しだ、と。『むしろ手首を狙って、剣を握れなくすれば良い』とジャッカルゴ様は細かく指示した。

 ブラウネンは、それをやってのけたよ。何回か剣をぶつけ合って、緩みが見えた瞬間、罪人の手から剣を叩き落とした。

 すると、罪人は硬直した。剣を拾いたかっただろうが、ブラウネンの剣の切っ先が顎の下に浮いていて、動けば自分から当たりに行ってしまう。もっとも、屈んで剣を拾おうにも、手首から血がぼたぼた流れて、握れるわけもない。

 罪人はぶるぶる震えて、泣き出したよ。『勘弁してくれ』と。

 ブラウネンは剣を突きつけたまま、尋ねた。『ジャッカルゴ様。こいつは女子どもを苦しめましたか』と。

 ジャッカルゴ様は『うむ、その通りだ』と答えたよ。『他党を組んで、遠出中の家族連れを襲い、夫を縛り上げて、その目の前で妻や娘を犯す。そして皆殺しにして持ち物を奪う。明らかに楽しんで、やっていた』と。

 そんな説明の途中で、罪人はブラウネンの脇をすり抜けようと動いた。

 しかし、もうブラウネンは慌てなかったよ。ブラウネンが力を抜くと、剣の切っ先が下がって、罪人の懐に入る。その状態で、罪人の方から突進してくるんだ。ブラウネンは剣をすくい上げるように、振った。罪人の脇を撫でるように通過して、剣の切っ先が飛び出てくる。

 地下牢の床を、罪人の血が染めた。脚を引っ掛けなくても、罪人は転がって呻いたよ。後は、ブラウネンが上から散々斬りつけて、絶命させたんだ」


 今度のセピイおばさんの沈黙は長かった。と言っても、数秒ほどのはずなんだが。

「こんな、とんでもない話で驚かせて悪かったが・・・ブラウネンも面白半分にやったわけではない事だけは理解しておくれ」

「もう、善悪の問題じゃない、と」

「そう」

「たしかに怖い話だけど、私も責めないよ。その訓練を受けていたから、ブラウネンはいくさで生き残れた。いくさに関しては素人の私でも、そう思うんだもの」

 セピイおばさんは小さい声で「ありがとう」と言って、また黙った。

「イリーデも分かってあげたんでしょ?」

「ああ。泣きながらブラウネンを抱きしめてやったそうだよ。ブラウネンを恐れ、嫌うどころか、目の前で服を全部脱いでみせた。ブラウネンが止めるのも聞かずにね。

 止められなかったブラウネンは、自分も慌てて裸になった。そしてガタガタ震えていたと。

 イリーデは、また彼の手を取って、自分の乳房に触れさせようとしたんだが・・・ブラウネンは泣き濡れた顔を横に振る。そして、そおっと、そおっと彼女を自分に引き寄せて、抱きしめた。

 二人とも立ったまま、抱き合って、声も無く泣いていたそうだ。二人とも震えていた。と言っても、もちろんお互いが怖いんじゃないよ。嫌われるのが怖い、のでもない。自分の触れ方が間違っていないか。相手に痛い思い、嫌な思いをさせないか。心配で、たまらなかったんだろう。

 やがてイリーデが寝床に腰掛けながら、ブラウネンの手を引きながら、仰向けになろうとする。しかしブラウネンは、それを止めた。自分自身が先に仰向けになって、イリーデを引き寄せる。彼女を自分の上に乗せる。その状態で下から抱きしめる腕に力をこめて、彼女の顔を自分の胸につけさせる。

 ブラウネンは、たしかに言ったそうだ。『オペイクス様の話を聞いておいて良かった』と」

「オペイクスも、そのつもりで話したんじゃないかな。パールとの逢瀬をやたら詳しく話すなあ、と思っていたのよ」

「あり得るね。一緒に話を聞いたシルヴィアさんも、おそらくピンと来ていたんだろう。

 ま、それはともかく。

 イリーデは『彼の胸で、自分の口と鼻が塞がって、ちょっと苦しかった』と言っていたよ。頬を赤らめ、目に涙がにじんで。そして微笑んでいた」

 私は安心して、椅子に深くもたれた。良かった。心から、良かった、と思う。

「ブラウネンは、その状態でイリーデを抱きしめたまま、しばらく泣いていた。ほとんど声を無く、しかし震えは収まらないで。

 イリーデは当然、心配したよ。ブラウネンに自分の体重がかかって疲れるんじゃないか、とか。訓練の恐怖がよみがえって、ブラウネンを悩ませているんじゃないか、とかね。

 だからイリーデは、ブラウネンを安心させたい、と思ったんだよ。

『ずっと、あなたのそばに居るから。あなたのお嫁さんになるから』

 そう言って、イリーデは首を伸ばして、ブラウネンに口づけした。彼が泣き止むまで、顔のあちこちに、何度も口づけしてあげようと思ったそうだ。

 それからイリーデは、脚を開いて、改めてブラウネンに跨った。イリーデは自分の中にブラウネンを受け入れたんだ。

 二人とも、初めてだったよ。お互い、心臓が飛び出そうなほど緊張したようでね。ブラウネンは、イリーデが痛がってないかと、しきりに気づかう。イリーデは『心配したほど痛くなかった』と答える。まあ、少しは我慢したんじゃないか、と私は話を聞きながら推測したよ」

「そ、そういうもんなの?」と私は聞かずにはいられない。

「う〜ん、脅かすようで悪いが、安易なことも言えないねえ。

 そりゃ、ごく、たまーに『平気だった』とか『すごいよかった』なんて言う女も、いないわけじゃない。しかしそれも、ごく、たまにだ。

 少なくとも、うちの家系には、そんな女はいないだろう」

 私は絶句してしまう。男に抱きつかれ、捕まえられた上に、あんなものを入れられるなんて。よほど相手のことを好きにならないと、そんなこと、耐えられない。

 でも女は受け止めなきゃいけないのかなあ。マリア様は、しなくても、子どもを産まなきゃならなかったし。やっぱり不安だ。何で女ばっかり、痛い思い、辛い思いをしなきゃならないんだろう。あーあ、やっぱり、神様は男なんだわ。

「いいなー、イリーデは。ブラウネンに、ちゃんと大事にされて」

「ああ、ブラウネンは本当に良くやったよ。

 男なんてものは、口説く時は女に気に入られたい一心で、いかにも優しそうに親切そうに振る舞うが、いざ女を抱こうとしたら、結局、自分本位に女を扱うからね。女が痛がろうが、嫌がろうが、お構いなしさ。

 でも、ブラウネンは違った。自分よりイリーデを優先したんだ。オペイクス様から、しっかり学んだんだよ。

 過酷な訓練の後で、気持ちのゆとりなんか無かっただろうに。見事に自制してみせた。後でブラウネンはイリーデに言ったそうだよ。『オペイクス様の話を聞いていなかったら、間違えるところだった。自分勝手に君を抱いて、君に嫌な思いをさせていたに違いない』と。

 しかも、ブラウネンはイリーデの妊娠も心配したんだ。自分が達しそうになったら、自分のあそこを引き抜いたよ。精をイリーデの中に放たなかった。

 イリーデ自身は、それでもいいと言ったらしいんだけどね。結婚前にお腹が大きくなるのは、やっぱり何かと面倒だよ。教会のお坊さんたちとか、世間の皆様とか」

「うーん、私もブラウネンに賛成だな。よっぽど好きで信頼できる相手なら、赤ちゃんができてもいいけど。だからって周りから、とやかく言われるのは、やっぱり嫌だもん」

「世間ってのは、とかく勝手なことを言いたがるもんさ。放っておけばいい、と言いたいところだが、そうやって気を張るのも、けっこう疲れるからねえ。で、結局、世間の注目を集めない方がいい、という結論になる」

 分かる、と私は同意した。

「とにかく一回めの晩餐会は、これで済んだ。ブラウネンが夜な夜なご党首様たちに呼び出される理由も聞き出せたよ。

 で、二回めは、ブラウネンがいくさから帰還した日の夜だ。イリーデの一家は、右腕に添え木をしたブラウネンを気づかいながら歓迎したんだろう。ブラウネンの両親も晩餐会に加わったが、泊まらずに帰っていったそうだ」

「ベイジの両親が晩餐に加わった時と同じね」

「おや、よく覚えていたね。まったく、その通りだよ。

 しかし晩餐会そのものは、ベイジ一家の時と違って長引いたりしなかった。ブラウネンが怪我しているからね。イリーデの父親が、娘婿を早く休ませてやろう、と言い出したよ。

 ブラウネンもブラウネンで、自分の武勇伝をひけらかすような性格じゃないし。疲れていて、会話を盛り上げようとかいう元気も無かったそうだ。

 で、ブラウネンの両親を見送ると、イリーデは、そそくさとブラウネンを寝室に連れて行った。

 寝室には、使用人に命じて、あらかじめ大きめのたらいを用意しておいた。あったかいお湯もたっぷり入れて。

 イリーデはブラウネンの服を脱がせにかかったよ。ブラウネンは少し恥ずかしがったが、イリーデは手を止めない。『もうお互いに肌を合わせた仲じゃない。私も脱ぐから』とまで言って、実行したよ。ブラウネンから急に抱きつかれてもいいと覚悟した上でね。

 ブラウネンは戸惑ってイリーデを止めようとしかけたが、無駄だろ。それよりイリーデが先に裸になりそうなんで、慌てて服を全部、放り出した。右腕に不恰好な添え木がくくりつけられているだけ。

 それでイリーデは、改めてブラウネンの裸を見た。右腕だけじゃない。あちこちに傷があったと。ブラウネンに後ろを向いてもらうと、背中と言い、尻と言い、斬り傷の線や打撲のあざが幾つも踊っていた。

 イリーデは用意していた手ぬぐいを盥のお湯で濡らして、それでブラウネンの体を少しずつ拭いてみた。傷のところは、そっとね。

 ブラウネンは『もう塞がっているから大丈夫だよ』とか何度も言ったらしい。『薬草も使ったから』と。でもイリーデは安心しなかった。自分が心配しないように、ブラウネンが無理している、としか思えなかったんだ。

 だからイリーデがブラウネンの体を拭いてやるのは、結局ちょっとだけになったよ。泣けて泣けて、手が止まって続けられなかったのさ。そして手ぬぐいを床に落としたまま、彼を抱きしめて。二人して裸で突っ立って、抱き合ったんだと。

 しばらく、そうしてから、イリーデはブラウネンを寝床に引っぱっていった。で、自分が先に仰向けになろうとしたんだが、すぐにブラウネンに止められた。ブラウネンが先に仰向けになって、イリーデを引き寄せる。イリーデは『あなたが上になっていいのに』と言ったんだが、ブラウネンは首を横に振る。イリーデを自分の上に乗せて、抱きしめ、彼女の顔を自分の胸板につけさせる。

 そのままブラウネンはイリーデの額に何度も口づけして。『ずっと、こうしたかった』とつぶやいた。『ずっと、こうしていたい』とも。

 イリーデは・・・嬉しすぎてね。何と言ったらいいか分からなかったそうだよ。ちょっと困ったのは、ブラウネンの右腕の添え木が自分の背中にこつこつ当たる事くらい。その右腕も、遠慮して左腕ほど力を入れてなかった。添え木が無かったら。そう考えると、さらに嬉しくなった、と。イリーデは私に話しながら、静かに涙を流していた。頬を赤らめて、微笑みながらね」

 セピイおばさんは、そこまで話すと、照れくさいのか、葡萄酒の皮袋を背後から出して、盃に注いだ。おばさんと私で、それを一口ずつ、いただく。

「あんたも、ちょっと思っただろうが。イリーデ本人も自覚していた、と言うか不安だったんだよ。散々オペイクス様を追いかけ回しておきながら、あっさりブラウネンに乗り換えたように思われるんじゃないか、とかね。実際そういうことを言う輩も、メレディーン城内には居たみたいで。

 だが、もう気にしなくてもいいことは、あんたも聞いていて分かっただろ。他人が何と言おうとも、ブラウネンはイリーデが大好きで大好きで。それがイリーデに伝わったんだ。それこそ全身から染み入るように。どれほどイリーデが安心したことか」

 セピイおばさん自身、ほーっと息をつく。

「それで、おばさんはイリーデを、二人を祝福してあげたんだね」

「ああ、おめでとう、と言ってあげたよ。私も聞いていて、嬉しかったからねえ」

 うん、と私も満足して、うなずく。

 その上で、私は改めてセピイおばさんを見つめた。

「セピイおばさん」

「ん、何だい」

「セピイおばさんは私に、ブラウネンみたいな人をつかまえてほしい、と思っている?」

「ああ、思っているよ。心から思う。けっして不可能な事じゃない」

「見つかるかな?」と私は聞かずにはいられない。

「こら。そんな顔するんじゃないよ。意地でも探し出す、つかまえる、と宣言しなさい。それまで自分を安売りなんてしないこと。いいね」

 セピイおばさんは微笑んでくれた。

 私も嬉しかった。おばさんの気づかいを、ありがたいと思う。この人が私の大叔母で良かった、とも。

 と同時に気づいてしまった。セピイおばさんは、自分の体験については詳しく話さない。リオールとの体験も、ソレイトナックとの体験も。初めて聞いた時は赤面ものだと思ったが。振り返ってみれば、大ざっぱに簡略化した話し方をしていた。その後で聞いた、オペイクスとパール、そして今聞いたばかりのイリーデとブラウネンの体験。それらに比べれば、なんて素っ気ない話し方だったことか。

 それは、外孫の私に対して恥ずかしい、とかいう問題じゃない。すでに、他の人の契りを事細かく話しているのだから。

 つまり。

 セピイおばさんは、そちらの方をお手本にしろ、と言っているのだ。私に。自分自身の体験ではなく、他人の体験をお手本にしろ、と。

 その気づかいは、ありがたいのだが。私は同時に、密かに悔しく思っている。おばさんにそんな気を使わせた男たち。リオールはもちろん憎いし、ソレイトナックにも腹が立ってきた。

 だから、ソレイトナック。もう一回くらい、登場しなさい。


 セピイおばさんを通して、イリーデの告白はあと少し続いた。

 ブラウネンの上に乗ったイリーデは、また彼の陰茎を受け止めた。そして今度こそ自分の中に精を放たせたのである。もういくさも済んだ後だ。子を宿しても、式の日は、そう遠くない。お腹の膨らみも、まだ目立たないだろう。イリーデはブラウネンを、そう説得したのだった。

 しかし三、四日経って、また月のものが来て。イリーデが若き日のセピイおばさんに話をしたのは、その直後である。

 イリーデは不安になった。もしかして自分は不生女ではないか、と。セピイおばさんは、もちろんイリーデを安心させた。この時点で、まだ二回しか契っていないのだ。悩むのは、もっと回数を重ねてからでいい。

 イリーデは、もう一つ不安を口にした。契りの時に、ブラウネンは必ず自分が下になりたがって、イリーデの上にのしかかってきた事はまだ無かったのである。イリーデはそれまでの耳学問で、男の方が女にのしかかるもの、と思い込んでいた。それで、自分たちの契り方は普通と違うのでは、と心配になったのだが。

 セピイおばさんは「これも笑い飛ばしてやったよ」と言う。世間一般と違っていても、いいじゃないか。二人が話し合って決めたのだから。何より、ブラウネンはイリーデに我慢させたくないと思っている。それがイリーデの話から伝わってきたから、セピイおばさんとしては言うこと無しだった。

 その上でセピイおばさんは、ニッジ・リオールを思い返す。あえて思い返した。セピイおばさんが言うには、リオールは遠慮なしにのしかかり、しつこく、しがみついてきた、と。もちろん、若き日のセピイおばさんでも体力的にきつかったが、それを受け止めてやることがリオールに尽くすことだ、と思ったのだ。そう信じようとした、とセピイおばさんは告白する。そしてリオールは、そんなセピイおばさんを利用した上に、裏切ったのだ。

「それに比べれば、イリーデとブラウネンは順調で、何の問題も無い。羨ましいくらいだよ。イリーデには、そう言ってやったんだ」

「ソ、ソレイトナックの時は?」なんて、私は思わず聞いてしまう。自分でも細かいと自覚しながら。

「まあ、リオールよりは加減してくれたねえ。いやらしい話だが、私も喜んでいたし。でもオペイクス様やブラウネンのやり方の方が、女としては断然、楽さ。それでイリーデには話さなかった」

 ふーむ、と私は小さく唸る。セピイおばさんはソレイトナックとの事も、私の手本にしようとは思わないらしい。

 もちろん私としても、将来の旦那さんがブラウネンのように、オペイクスのように気づかいのできる男であってほしいけど。けど、そういう男とは、どこで知り合えるんだろう。誰か紹介してくれるのかなあ。さすがにセピイおばさんも、そこまでは教えてくれないし。

 と、いつの間にかセピイおばさんの目に涙がにじんでいる事に気づいた。ソレイトナックの事を思い出させたのが悪かったかな。私がそう謝ると、セピイおばさんは首を横に振る。

「イリーデから話を聞いていた時も、ちょっと泣けてきてね。イリーデが、あんたと同じように心配してくれたよ。

 でも実は、他の事を考えて泣いていたんだ。私はヒーナ様を思い出していたよ。ヒーナ様とイリーデは、たしか同い年のはずだ。

 ・・・なぜ、ブラウネンがイリーデを大事にしたみたいに、マムーシュはヒーナ様を大事にしてくれなかったのか。そう思うと、悔しくて悔しくてねえ」

 セピイおばさんは拳を握りしめて、自分の膝を打った。それと同時に、とうとう涙が一筋、流れた。

 私は、そんなセピイおばさんの手を握る。そうだ。やっぱりマムーシュは許せない。抗争に巻き込まれて死んだなんて、ぬるすぎる。肛門に槍を突っ込んだりして、長々と苦しめてやらないと。

 ちなみに、イリーデも当時、セピイおばさんと一緒に泣いてくれたらしい。


 セピイおばさんが塔の上でイリーデから聞いた話は、これで終わった。話を聞き終わったセピイおばさんはイリーデに勧めた。奥方キオッフィーヌのところに行って、結婚の決意が固まった事を報告するように、と。ブラウネンと一緒に行った方がいい、とも付け加えて。そして二人は、その通りにしたのだ。奥方様もホッとしただろうなあ。

 となると、二人の結婚式の様子を聞きたいところだが。例によって、物事には順番があったりする。

 まず、お姉様方に変化があった。スカーレットとアズールが結婚したのである。仲良し五人衆から、ようやく一組だけ成立したわけだ。メレディーン城下の大きい教会堂に、それぞれの親族と同僚たち、友人知人が大勢、集まったとか。セピイおばさんによると、美男美女のいかにもな結婚という事で、なかなか賑やかだったらしい。

 聞きながら私は少々、不埒な事を考えてしまう。スカーレットたち三人のお姉様方は・・・男にのしかかられたのかなあ。痛かったのかなあ。それとも自分が選んだ男と思って、受け入れたのか。あるいは、本当に喜んだのか。

 ちょっと考えただけで、あれもこれも気になってくる。でも私は、セピイおばさんには言わない。多分、セピイおばさんも本人たちに聞いていない。私がセピイおばさんの立場でも、やっぱり聞けない。ただ、アズールやオーカーが自分を下にしてまで女を大事に、とは思えなかった。

 それはともかく、式での出来事である。仲間たちからお祝いの言葉を受けた後で、花嫁姿のスカーレットは若き日のセピイおばさんに、こんなことを言ったとか。『ふう、おかげでイリーデに先を越されずに済んだわ』

 セピイおばさんなら受け止めてくれると信頼した上での発言かもしれないが。セピイおばさんは、この発言を自分の胸だけに収めた。シルヴィアやヴァイオレットに聞かせない方がいいだろう、と判断したのである。実際、この二人はイリーデに先を越される形になった。

 やれやれ、一言多いお姉さんだな、スカーレットは。取った取られた、と揉めただけの事はある、と私は思った。

 さらに、もう一つの結婚が成立した。ヌビ家党首夫妻の娘、メイプロニーがナモネア家党首の三男に嫁いだのである。式はジャッカルゴたちのように都で盛大に、との話もあったようだが。どちらが遠慮したのか、結局、式はナモネア家領内の大聖堂で執り行われた。

 この時はイリーデとブラウネンも党首夫妻に同行して現地に赴き、それぞれ花嫁と花婿を手伝った。メイプロニーと花婿は、イリーデとブラウネンを祝福した。『次はあなたたちの番ね』と。

「メイプロニーは大事にされたかな?」と私は思わず聞いてしまう。

「大丈夫だったみたいだよ」とセピイおばさんは微笑んでくれた。

「ナモネア家は旧名家として下り坂に入っていると自覚していた。だからヌビ家の勢いにあやかりたかったのさ。加えて、その三男は前々からメイプロニー様に惚れていたらしくてね。

 花婿が党首を継ぐ立場じゃないから、メイプロニー様は城住まいじゃなくて、田舎のお屋敷で生活することになった。それでもメイプロニー様は贅沢を言わなかったようだよ。

 それで私は推測を立てて、シルヴィアさんに聞いてもらったんだ。『メイプロニー様は元々、静かな暮らしを望んでおられたのではないか』とね。シルヴィアさんも同意してくれたよ。シルヴィアさんが聞いた話によると、メイプロニー様も弟君のジャノメイ様や兄君のジャッカルゴ様みたいに、あちこちに留学しておられた。そこで、いろんな貴族を見てきたんじゃないか、というのがシルヴィアさんの見立てだ。良くも悪くも。

 だからメイプロニー様本人には政治的な野心は無かったんだろう。派手な噂は全く伝わって来なかったよ。夫婦生活の苦労を、親であるキオッフィーヌ様たちに訴えるような事も、一度も無かった」

「便りの無いのは良い便り、と」

「そうだよ、まさしく。

 たしか、お子様が男女一人ずつで、旦那さんに先立たれた後は修道院に入られた。多分、まだご存命のはずだよ。私より少し年上で、もう大概のおばあちゃんだが。

 って、また話が先走ったね」

 セピイおばさんは、ちょっと笑った。そして、すぐに真面目な顔に戻った。

「そうだ。このメイプロニー様については、あんたに話しておかなきゃいけない事があったんだ。

 実はナモネア家の三男と結婚する前に、メイプロニー様には、別の縁談が持ち上がっていたんだよ。相手は、なんと王子様の一人。第二王子のグローツ様だ」

「ええーっ」その名を聞いた瞬間、私は声を出してしまった。「グ、グローツゥ?」

「おや、あんたとしては、お勧めしないか」

「だって、賊討伐でツッジャム隊を囮にしたグローツでしょ。私がメイプロニーの友達だったら、猛反対するわ」

「安心しな。結果は、さっき言った通りだよ。グローツ殿下には他の貴族家が盛んに娘を売り込みに来て、メイプロニー様は候補から外されたんだ」

「いいのよ、それで。って、もしかして父親のアンディンはガッカリしたの?」

「してなかった、と私は見たね。感情を顔に出さないように努めておられた、というふうでもない。最初から最後まで関心が無かった、と言うような」

「てことは、アンディンから娘のメイプロニーを王家に売り込んだわけじゃない、と」

「ああ、宮殿のお偉方が勝手に言い出して、キオッフィーヌ様を通じて打診してきたのさ。しかしキオッフィーヌ様もアンディン様も、熱を入れてメイプロニー様を説得しようとした様子は無かった。

 そうこうするうちに他家の売り込みが成功して。そうだ、シャンジャビ家でもなかった、たしかレザビ家の娘だよ。

 まあ世間から見れば、メイプロニー様は横取り、と言うか、追い越された形だが。私はあんたと同じ意見だし、ご党首夫妻の顔色も全く変わらなかった」

「で、ナモネア家の三男がメレディーン城に駆け込んできたわけね。『お嬢さんを僕にください』って」

「ふふっ、その通りだよ。大慌てだったのか、お供をしっかり揃える暇もなく、ほんの二、三人だけで顔を真っ赤にしてやって来たんだ。私らメレディーン城の女中たちは、くすくす笑っていたもんさ」

 そう話しながら、セピイおばさんも心底、嬉しそうに微笑む。そうだ、これでいいのだ。やっぱり政治的要因なんかより、しっかり思いが込められるべきなのよ、結婚は。

 さて、二組も他の結婚が成立したのである。今度こそ、イリーデたち二人もめでたく、と私は思ったのだが。

 直前に、もう一つ事件が割り込んできた。しかも、なかなかの大事件。当時のヨランドラ国王が死去したのである。

 アガスプス宮殿では、国王の葬儀もさることながら、長男であるアダム王子の戴冠式が矢継ぎ早に行われた。新国王となったアダムの初仕事は、亡き父のために喪主を務める事。それを彼は厳かに、抜かりなく実行した。国王の死でヨランドラが動揺している、などと他国に思わせてはならないからだ。

 タリンの他の四カ国は、日頃はヨランドラと国境をはさんで、ギスギスしているのだが。国王の死ともなると、さすがに弔問の使者を送ってきた。「と言うのは表向き」とセピイおばさんは言う。弔問にかこつけて、堂々と探りを入れているのである。

 隙を見せられないアダムは、神経質になったろう、と平民の私でも思う。実際、ジャッカルゴは急いで宮殿に上がって、しばらく新王を何かと補佐した。

 そんなある日。セピイおばさんはメレディーン城の隅の方で、イリーデとブラウネンが話し込んでいるところに出くわしたのである。

「と言っても、別に二人が痴話喧嘩していたわけでもないよ。ただ、深刻さは格別だったね。うつむいた、暗い表情で、ぼそぼそ話していてね。イリーデが時折り鼻をすすって、ブラウネンが慰めていた。

 私も尋ねずにはいられなかったよ。『どうかしたの』と。そしたら二人は『結婚を延期するかもしれない』なんて答える。国王が亡くなったばかりで、臣民として、しばらくは喪に服すべきじゃないか、とか両方の親たちが騒ぎ出したのさ」

「ええ〜っ。そういうもんなの?」

「まあ、絶対とも言い切れないんだが。タリンの歴史を紐解くと、事例が結構あるらしい。王様やお偉方が死んだら、その国の民はお祭りとか、結婚式みたいなお祝い事をしばらく控える。平民でも貴族でも、だよ。『そうしないと、亡くなった王様に失礼だ』『王様の残された家族もかわいそうじゃないか』なんてお役人たちから叱られたりしてね。この政策はヨランドラだけじゃなく、ラカンシアやフィッツランドでも何度か実施されたそうだよ」

「そんなこと言ったって。死んだ王様たちは、私たちにとっては、あくまで他人じゃん。自分たちが辛い思いをしているから、他の人たちにも付き合わせようなんて、八つ当たりとしか思えない」

「その八つ当たりをする力が王家にはあるってことさ。良い悪いに関係無く」

「で、私たち臣民が生きていくには、それに我慢して付き合うしかないってこと?」

「そう。だからイリーデとブラウネンの親たちは、娘たちの式を先延ばしにした方がいい、と考えたわけさ」

 私は顔を歪めた。それに気づきながら、止められない。なんて理不尽な話。ヨランドラ全体を見渡せば、イリーデたちみたいに泣かされた男女が、何組もあったはず。

「セピイおばさん。おばさんに向かって、ぼやきたくないんだけど、私」

「おや、それはちょっと、気が早いんじゃないかい?まだ話の途中だよ」

 セピイおばさんがニヤリとして、私の目を覗き込む。えっ。私は姿勢を直した。

「安心しな。イリーデたちの結婚は延期せずに済んだよ。

 新しく王になられたアダム様は、話の分かるお方だった。臣民にお祝い事を自粛させたりしなかったんだ。それどころか、結婚式なんかは奨励して、ヨランドラ全土にお触れを出して下さったよ。『各地の領主や代官たちは、領民たちの結婚を支援してやるように。貴族間の縁談も進めなさい』と。『亡き先王に対する遠慮は要らぬ。むしろ祝い事が亡き先王の魂を喜ばせる、安堵させるものと心得よ』とね。

 何でだか、分かるかい。その方が臣民同士の結びつきを強める事ができる。ヨランドラ全体の団結につながるからだよ。そうなれば他国はヨランドラに干渉しにくくなるだろ」

「なるほど」私は膝を叩いた。「たしかに、その発想の方が効率的だわ。それでこそ、国王よ」

 ちょっと興奮してしまった私に、セピイおばさんが微笑んでくれた。その上で「ちなみに」と、おばさんは話を続ける。

「このアダム新王の粋な計らいには、ちょいと裏話が噂されてね。

 まずはジャッカルゴ様だ。アガスプス宮殿に上がって、アダム新王の相談役とかを務めている時期だからね。ジャッカルゴ様がアダム新王を説得してくださったんじゃないか、と私らメレディーン城の者たちは推測したのさ。

 するとイリーデとブラウネンは、さらに掘り下げて考えた。そのジャッカルゴ様に根回しをお願いしたのは、オペイクス様じゃなかろうか、と」

「で、オペイクス本人に尋ねた」

「ああ。二人して尋ねに行ったが、期待した答えは得られなかったよ。

 私もそばで見ていたんだが、オペイクス様と来たら、ぽかんとしてね。

『や、そう言えば、その手があったな。済まない。鈍いもんで、今の今まで思いつかなかったよ。

 だからジャッカルゴ様にお願いしたのは、私じゃない。ヘミーチカ様か、キオッフィーヌ様じゃないかな』

 なんてお答えだったが。さて、あんたは、どう思うかい」

「どうって、オペイクスのことだから、目が泳いだり、照れたりしていたんじゃないの?」と私はセピイおばさんに質問で返す。

 おばさんは、くくっと小さく笑った。「うん。たしかに、そんな節はあったね。私も、演技の下手なお方だと思ったよ」

「そうだ。ジャッカルゴが帰還してから、確かめたら」と私は身を乗り出す。

「ほほう、そこも気がついたか。実際、イリーデたちはジャッカルゴ様が戻られるや、オペイクス様が居ない時を見計らって、お尋ねしていたよ。で、ジャッカルゴ様が何とお答えしたか、と言うと。

『さて、言い出したのは誰だったかな。案外、俺が提案せずとも、アダム陛下が自前で考えなさったのかもしれないぞ』

 だとさ」

「ええーっ、はぐらかしたのぉ」

 私の反応に、セピイおばさんは今度こそ声を抑えずに笑い出す。まあ、いいか。イリーデたちをはじめ、ヨランドラの結婚を控えた男女が悲しまずに済んだのだから。


「というわけで、イリーデとブラウネンの結婚式は延期しないで済んだ。メレディーン城から一番近い、小さめの教会堂で行われる事になったよ。準備を手伝って、私も何回か通ったもんさ。

 でも私としては、式そのものよりも、その前日の出来事をあんたに話したくてね。

 イリーデとブラウネンは、私とオペイクス様に話があるとか言って、外城壁の隅の方に連れて行くんだよ。一応、他の者には見られたくなかったらしい。

 そして二人して、かしこまって、こう言ったんだ。『今まで・・・とくにセピイさんの里帰りの時は、いろいろとお騒がせして、すみませんでした』ってね。

 オペイクス様が途端に、ぶははっと笑い出したよ。『何を言い出すのかと思えば・・・

 そんなことより』

 オペイクス様の両の手が、二人の頭上に伸びた。そして。

『幸せにならないと怒るぞ』

 拳を下ろして、コツンコツンってね」

 セピイおばさんが両手を広げて、実際にやってみせる。私も、おばさんもニヤリとする。

 私は嬉しかった。そのくせ、その気持ちをどう言葉にしたらいいのか分からない。なかなか言葉が出ない。おばさんも微笑むだけで、何も言わない。会話は途切れた。なのに、少しも気まずくない。

 ぶふっ。へんな、にらめっこになって、私とおばさんも吹き出した。

「よしっ、乾杯しよう。イリーデとブラウネンのために。あんたも、いい男をつかまえるんだよ」

 私とセピイおばさんは一杯ずつ、盃を空けた。うむ、美味い酒である。

 そしてイリーデとブラウネンの結婚式は、滞りなく、和やかに行われたのだ。多くの人の笑顔があったのだろう、と私も推測する。

 セピイおばさんの話によると、同僚の女中たちの中でも、イリーデと同い年、もしくは年下の娘が二、三人、泣いていたとか。

「その娘たちは、実はブラウネンに気があったりして」

「何言ってんだい。ちゃんと祝福の、嬉し涙だよ」セピイおばさんは私をちょっと睨みながら、微笑む。

 嬉し涙は他にもあった。二人の両親である。なんとアダム新王が手紙で二人に、お祝いの言葉を送ってきたのだ。

 それを教会堂の外に群れた野次馬たちにも聞こえるように、役人の一人が大きな声で読み上げた。党首アンディンが命じたのである。効果抜群だった。話は数日のうちに、メレディーンの城下町から溢れるように郊外の村々にも伝わったのである。

 ブラウネンの父親なんかは、とんでもない栄誉という事で、嬉し泣きしながら腰を抜かしたらしい。それをイリーデの父親が手を差し出して、立たせてやって。きっと、出席者たちの良い思い出になっただろう。

「よかったね」

 私は思わず言った。心から、そう思ったからだ。

 しかし、そんな時に限って、なぜかセピイおばさんの表情に影がさして見えた。ほんのちょっと、だが。

「どうかしたの」

「まあ・・・どうと言うほどでもないが。式の後でイリーデから言われたんだよ。今度は、私とソレイトナックの式になる事を願う、と」

「う、うーん。悪気は無いんでしょうけど」

「だから言ってやったよ。『それより、自分たちが幸せになりなさい。じゃないと怒るぞ』ってね」

 言い切って、セピイおばさんが微笑んだ。

「ふふっ、早速、応用したのね、おばさん」

 私も微笑み返すことができた。

 その後ブラウネンは自分の生家からでなく、イリーデの生家からメレディーン城に通うようになったそうだ。二人とも珍しく一人っ子で、ブラウネンがイリーデの生家に婿養子として入ったわけである。ブラウネンがそれで押して、彼の両親も承諾した。嫁の生家に取り込まれる形だが、元から小貴族だ。そういう形にしても血筋が残せるなら、と妥協したのだろう。

 一方、イリーデは城住みの女中ではなくなった。時折り、夫ブラウネンと共に顔を出して、セピイおばさんたち女中仲間を手伝ったのである。その上で、少しずつ主婦の立場を優先するようになる。

 この働き方はスカーレットも同様で、彼女も城下町の新居からメレディーン城に時折り、上がるようになった。そして女中としての仕事はもちろん、夫アズールともども、仲良し五人組のつきあいを続けたわけだ。


 イリーデとブラウネンの後も、さらに慶事が続く。

 セピイおばさんによると、二人の結婚式からまだ一月も経っていない頃。ロミルチの城主であるオーデイショーの一行が、メレディーン城を訪れた。

 アンディンとオーデイショー、兄弟会談の席に、セピイおばさんも女中の一人として何度か足を踏み入れた。と言うのも、葡萄酒の盃や菓子、果物の器を運んだり、そのまま書斎の隅に控えて指示を待ったり、と何かとやる事があったからだ。

 アンディンはセピイおばさんたち女中や使用人たちの出入りも気にせず、会談を進めた。つまりは、聞かれてもいい会話、ということである。

 しかし、中にはヒヤリとする箇所もあって、セピイおばさんは、それを私に話しておきたい、と言う。

 会談の内容は、オーデイショーの長男の縁談について。またしても縁談だ。どうも、その年は、なかなか忙しない年だったみたい。しかも、お相手は王家の娘、と来た。

 オーデイショーはセピイおばさんたちが居るのも構わず、こんなふうに言ったとか。

『良いのか、兄者。兄者の子を差し置いて、うちのせがれがそのような良縁を賜って。兄者の次男坊のジャノメイが、まだ残っているではないか』

 この問いに対して、夫アンディンより先に、奥方キオッフィーヌが答えた。

『良いのですよ、オーデイショー様。この人は、王家の女は私で懲りたと思っているんです』

 アンディン本人は大笑いしながら『見破られたか』と答えたそうだ。

 セピイおばさんからこの話を聞いた瞬間、私は唸ってしまった。

「お、王族のご婦人も、冗談を言ったりするんだね」

「しかも、なかなか際どいだろ。あんたは覚えておくだけで、外で話すんじゃないよ」

 私としては素直に頷くしかない。

 と思ったが、つい聞いてしまう。

「おばさんとしては、キオッフィーヌは、やっぱり怖かった?ビッサビアとは、また違った怖さがあったとか」

「怖いって、あんた、人を化け物みたいに」セピイおばさんは苦笑いを浮かべた。

「そもそもキオッフィーヌ様は私の恩人だよ。ツッジャム城からメレディーン城に移ってきた私を受け入れてくださったんだ。怖がる以前に感謝しなきゃ。

 それを置いといても、キオッフィーヌから厳しく叱られたり、意地悪されたりした事なんか一度も無かったね。おそらく私以外の、他の女中たちも、そうだろう。

 もっとも、王族の立場からすれば、私らなんか眼中に無かっただけかもしれないが。それでも充分どころか、贅沢なもんだろ。私みたいな田舎出身の女にも気さくに会話してくださったんだからね」

 セピイおばさんとしては、やはりツッジャム城よりメレディーン城の方が居心地が良かったらしい。

 だとしたら、おばさんは反対するだろうか。まだ私が城女中になりたがっている事に。

 そこは確認せずに、私は話の続きをせがんだ。迂闊なことはしないんだから。慎重。慎重を期す。

 まあ、キオッフィーヌや私の思惑は、ともかく。この縁談は滞りなく成立した。オーデイショーの長男は王家の娘を、嫁として迎えたのである。一年後には、次男も結婚した。そのどちらの結婚式にも、ジャノメイと第三王子ラングが参列した、とか。

 そうだ、この時点では第一王子のアダムが王位を継いでいるから、ラングは王弟の立場か。すでに結婚もしていたようだ。若き王弟の訪問に、ロミルチの城下町も賑わった事だろう。


「さて今度は、こちらツッジャムの事を話そうかね。つまりはジャノメイ様の縁談についてなんだが。

 まず、パウアハルトが都アガスプスに移って行ったよ。宮殿の近衛隊に加わるためにね。

 ツッジャム城は、父親のモラハルトに返された。と言っても形だけで、実際に切り盛りしたのはビッサビア様だったらしいが。モラハルトは城下町の屋敷に住み続けて、時折り城を覗きに来るだけ。夫婦の別居生活は変わらなかったわけさ。

 ツッジャム城からの使者は、その辺りを包み隠さず、ご党首アンディン様に報告した」

「てことは、ビッサビアは使者に口止めしなかった、と」と私は念を押す。

「そういうこと」

「ビッサビアは居直っていたんじゃない?マーチリンド家出身の自分がツッジャム城を預かるけど、それは夫モラハルトの品行が悪いからだって」

「まあ、そんなところだろうね。もちろん、あの方も、わざわざ、それを言葉に出したりはしなかったはずだが」

「で、党首アンディンとしては、あくまで彼女に預けているだけで、ゆくゆくはヌビ家の管理下にしっかり取り戻すつもりってわけね。次男のジャノメイを使って」

「その通り」

 セピイおばさんは微笑んで、深く頷いた。よし。私がちゃんと話について来きている事を、これで分かってもらえたぞ、と。

「アンディン様は慌てたりなさらなかったよ。元々、ツッジャム城はヌビ家の所有なんだ。それなりの手続きを踏みさえすればいいんだ」

 それなりの手続きとは、この場合、相手を立てる方便もつけておく事。自分たちの言うべきことを言うのは当然として。

 ツッジャム城はジャノメイに持たせると主張する。同時にそのジャノメイにマーチリンド家から嫁入りする娘は居ないか、と水を向ける。その娘がジャノメイの妻になれば、マーチリンド家は引き続き、ツッジャムの治政に関わっていけるわけだ。

 もちろん党首アンディンは忘れてはいない。ビッサビアが、本職のポロニュースどころか、若き日のセピイおばさんを使ってまで、ヌビ家に探りを入れた事を。

 それを承知で、あえてヌビ家の中にマーチリンド家を組み込もう、というわけか。そう考えると、貴族って大変と言うか、めんどくさいと言うか。城女中を目指す私としても、こういう部分は憧れないし、いただけないと思う。

 でも、とにかくアンディンは行動に出たのだった。手始めにビッサビアと書簡のやり取りをして、会談の約束を取りつける。

「ビッサビアは警戒したかな?」と私。

「そりゃ、薄々は考えておられただろうさ。いつかはツッジャム城を返さなければならない、とね。そもそもビッサビア様は、無駄な抵抗をするようなお方でもない。ヌビ家党首であるアンディン様から書簡が来た時点で、勘づいて、覚悟なさっただろうよ」

 というわけで、アンディンは次男ジャノメイを連れて、こちらツッジャムに乗り込んで来るのだが。

 その前にアンディンは、ジャノメイをセピイおばさんに会わせた。若き日のセピイおばさんにビッサビアの人となりやツッジャム城の状況を話させ、ジャノメイに予備知識を持たせるためである。

 そして、その会合の場に、アンディンは自分の書斎を使わなかった。

「メレディーンの郊外に出かけたんだよ。ご党首様とジャッカルゴ様とヘミーチカ様。私を含む、若手の女中も数名。護衛として、兵士たちとオペイクス様もね。

 狩りではなくて、馬車や騎馬を連ねての遠出さ。天気の良い日に、田舎の草花や木々の緑で心を落ち着けよう、と。ジャッカルゴ様に促されて、ヘミーチカ様は女中たちを連れて、辺りを散策したよ。それで、地元の子供たちから話しかけられたりして。もちろん護衛の兵士たちとオペイクス様が付かず離れずだが、のどかなもんだよ」

「でも、それは表向きなのね。その間に、アンディンたちは混み合った話をしようと。セピイおばさんからも話を聞いた上で」

「そういうこと。だから私は、散策には加われなかった。逆に、ヘミーチカ様たちが目くらましの役だったのさ。地元の住民たちには、女たちの中でも私だけ説教されているように見えただろう。

 散策している辺りからは離れた、開けた野原の木の下で、アンディン様が私をジャノメイ様に紹介した。

 初めてジャノメイ様にお会いした私は、内心驚くと言うか、不思議な気持ちになったよ。自分と同い年の若者がこれからツッジャム城の主になるという事に、なかなか実感が湧かなかったんだ。背も私より少し高いくらい。失礼だが、長男のジャッカルゴ様に比べて、どうしても頼りなさが残っているように見えた。

 と言っても、私の偏見に過ぎなかったよ。ジャノメイ様も、なかなか苦労もしていたんだ。頬っぺたに長い傷痕が伸びていてね。『賊討伐の際に、敵の槍に引っ掻かれた』とおっしゃっていた。『これで、他人から見くびられる事も少しは減るんじゃないか、と期待している』とも。その槍はジャノメイ様の首筋を狙っていたはずだから、上手くかわした方さ。後でオペイクス様が、そう教えてくれた」

 うーん、と私は、また唸らざるを得ない。ヌビ家ほどの大貴族の息子も楽じゃないんだな、と思い知らされる。

 その間にも、セピイおばさんの話は続く。

「例によって、と言おうか。話しにくかったねえ。ご党首様に自分の密偵活動を告白した時と同じで、けっして話しやすい話じゃない。しかもソレイトナックとの関係まで、同世代の男子に話さなきゃならないなんて。いくら大雑把に話すったって、やっぱり恥ずかしいよ。

 でも私は、頑張ってお話しした。話すしかないさ、ジャノメイ様とヌビ家のため、ツッジャムのため、さらには自分や、この村のためにもね。ソレイトナックからツッジャム城の地下道を教わった事。モラハルトが私に仕掛けた事件。ビッサビア様の親切な計らいに、マーチリンド家の思惑が込められていた事。あれもこれも正直に話した。

 そしたら、ジャノメイ様は苦い薬でも飲まされたみたいに、どんどん表情を曇らせて。なんとか私が話し終えたら、ほんのわずかだが父親であるアンディン様を横目で睨んでいたよ」

「うーん、やっぱり顔に出ちゃったか。父親のアンディンと違って、それだけ若いってことかな」

「仕方ないさ。それに、若さに関しちゃ、あんただって言える立場じゃないだろ」

 セピイおばさんがニヤリとしながら、私の目を覗き込む。

「それでも、ジャノメイ様は立派だったよ。あの人の、モラハルトの親族の一人として、私に謝ってくださったんだ。たかだか平民の女に過ぎない私にね。並の貴族なら鼻先で『ふん』と一蹴して済ますところさ。パウアハルトみたいに」

「律儀ね。そんな人がツッジャムの城と地域一帯を預かってくれるのなら、安心だわ」

「実際ジャノメイ様が城主になられてからも、悪い評判なんて聞こえてこなかったよ。これは私個人の推測だが、おそらくジャノメイ様はモラハルトとパウアハルトの親子を悪い手本として、ちゃんと認識していたんだろう。

 そうそう、この時は、さすがにジャノメイ様も、モラハルトについて言及したんだ。『修道院に行けと僕に言ったのは、叔父上なのに。自身ではこんな事をやらかすなんて、デタラメじゃないか』って。

 そしたらアンディン様が、それを引き取っておっしゃるんだ。『ならば、あ奴も修道院に行かせよう。それでヒーナを弔いながら余生を過ごせば良い』とね」

「でも、色魔のモラハルトが大人しく行くかなあ、修道院に」と私は疑ってかかる。

「本人が嫌がっても、党首であるアンディン様には逆らえないさ。アンディン様としても、あの人をいつまでツッジャム城そばの屋敷に置いておくわけにはいかないだろ」

 で「後日、その通りになった」とセピイおばさんは付け加えた。

「なんて、つい、話が先走りそうになるね。しかし、この郊外での会合に関しては、あと少し、あんたに話しておきたい事があるんだ。しかも、いつもの通り、誰にも言っちゃいけないよ」

 セピイおばさんが表情を引き締めて、私の目を見る。私も唾を呑み込みながら、背筋を伸ばす。

「私が何とか報告を終えると、アンディン様とジャノメイ様は私を解放してくださった。ヘミーチカ様や他の女中たちと合流して散策してきなさい、と。頃合いを見計らっていたらしく、ジャッカルゴ様も呼びに来られてね。私と入れ替わりで、ジャッカルゴ様は、そのまま会合に加わった。

 私は言われた通り、ヘミーチカ様たちのところに行って、会話に加えてもらったよ。ヘミーチカ様と地元の女たちは、そこらの野花や作物の出来具合なんかを話していたね。私もここ、山の案山子村での畑仕事とかについて、幾つか質問されたりした。

 でも私は、ヘミーチカ様たちにお答えしながら、ふとアンディン様たちの会合が気になったんだ。ちらと見ると、さっきまで護衛を務めていたオペイクス様も、会合に加わっておられる。

 私は、あっと思って、すぐに視線をヘミーチカ様たちに戻したよ。ほんの一、二秒だったろう。

 ヘミーチカ様たちと散策しながら、私は密かに考えた。さては、オペイクス様からもジャノメイ様に報告する事があったんだ。私はそれを詮索してはいけないと思いながらも、ある程度は予想がついた。予想したからこそ、詮索してはいけない、と自分の肝に銘じたんだがね」

「それって、地下道の事?」私も言わずにはいられない。

「そう。おそらくオペイクス様は、私の里帰りの時に、他の地下道を見つけたんだろう。私がソレイトナックから教わったところ以外の。それなら、なおのことジャノメイ様が知っておくべきだ」

 私は唸り、続けて絶句してしまった。でも、すぐに疑問がわいてきて、また口を開く。

「推測しながらも、詮索すべきじゃないと弁える。そういう配慮も、城女中には欠かせないって事?」

「ああ、欠かせないね。これも仕事のうち。

 何度も言うが、城の中は華やかそうに見えて、こんなにも面倒くさいわけさ。あんたも大概であきらめなさい」

 うぐっ。やはり忘れてなかったか。

「あきらめないと、話を聞かせてくれない?」

 私が心配すると、セピイおばさんは少し笑った。

「逆に、あんたの城女中になりたいという気持ちを認めてやらないと、私の話を聞いてくれないのかい?」

「そんなんじゃないけど」

「私としても、女中の件に関係なく、話を聞いてもらうよ。覚悟おし」

「分かってます。と言うか、お願いします」

「よろしい。では続きを話そう」


 会合から数日して、ついにアンディンとジャノメイ父子はツッジャム城に向かった。その際にアンディンは、セピイおばさんに声を掛けなかった。したがってセピイおばさんは、この時は里帰りをしていない。

 おばさんは「それで良かった」と言う。理由は聞かなかったが、私には充分、推測できた。ビッサビアやツッジャム城の様子は気になるが、彼女と対決するのは怖い。仮に問い詰めても、答えてくれるような相手でもないのだ。不意にモラハルトと出くわしたりするのも、嫌だし。だから、私からも尋ねたりはしない。セピイおばさんは「アンディン様も気を使ってくださったんだろう」と言い足した。

 代わりに、と言おうか。色男さんのオーカーが党首父子に同行した。まさかアンディンも、セピイおばさんの里帰りの直前に交わした、あの口約束をわざわざ守るわけでもなかろうに。党首アンディンの采配の事情はセピイおばさんにも分からなかった。いつもの事ながら、根掘り葉掘りお尋ねするなんてできないのだ。

 とにかく色男の騎士は、色っぽいビッサビア見たさで鼻の下を伸ばして、ほくほく顔で同行したことだろう。緊張したジャノメイとは好対照だったに違いない。私も話を聞きながら推測する。

 そんな浮ついた色男さんや、ヌビ家の党首父子を、果たしてビッサビアは歓迎したのか。

「そりゃ傍目には、歓迎の姿勢だったろうさ。でも、あの方、ビッサビア様の内心は、穏やかなんて、とても言えなかったんじゃないかねえ。後でいろんな人から話を聞けば聞くほど、私はそう思ったよ。

 まずビッサビア様は、マーチリンド家の令嬢をツッジャム城に呼び寄せていなかった。ジャノメイ様に引き合わせるはずだったのに、だよ。本人が体調不良のため、遠出を控えさせた、とかいう理由で。おかげでジャノメイ様は、後日もう一度ツッジャム城を訪問しなきゃならなくなった。

 同行した従者たちの間では憶測も飛び交ったそうだよ。案外、マーチリンドの姫様はビッサビア様の背後に隠れて、ジャノメイ様を品定めしていたんじゃないか』とかね。

 それでアンディン様から『滅多な事を言うな』と叱られたとさ」

「でも、私も同じ予想だけどなあ。アンディンも本心では考えていたんじゃない?」と、ちょっと生意気な質問をしてみる。

「かもしれないが、考えていたとしてと、口に出しちゃいけないさ。どこで漏れ伝わるか、分かったもんじゃないからね」

 そして、これも代わりではないが、ツッジャム城での会談では、始めの方だけモラハルトも同席したとか。長兄アンディンからのお小言を神妙に耐えて、話題が甥ジャノメイの縁談に移るや、そそくさと居なくなったらしい。

『おかげで、向こうの奥方様を遠慮なく拝ませてもらったぜ』とは、騎士オーカーが帰還してからセピイおばさんにした報告である。

 例によって陽気な色男さんは、呼ばれてもいないのに、若き日のセピイおばさんやシルヴィアたちのところに来て、おしゃべりした。おばさんたちが女中として洗い物や縫い物など、何の仕事をしていようとお構いなしで。

 オーカーは実に、自分の好きなように報告した。『メレディーンの街並みと比べると、やっぱツッジャムは、どうしても見劣りするなあ』とか。『ロンギノのおやっさんは相変わらず冗談が通じなくて、参ったぜ』とか。そうやって笑わせようというつもりなのだろうが、ところどころ、ツッジャム出身のセピイおばさんをムッとさせる箇所もあった。そこで目くじらを立てても仕方がない、とセピイおばさんは聞き流していたのだが。

 色男オーカーの報告には、おまけがあった。セピイおばさんにとって余計な、それでいて聞き捨てならない話が。

 不意に『そうだ』とか言い出したオーカーは、それまでの賑やかさを引っ込めて、声量を抑えた。そしてセピイおばさんに尋ねたのである。

『セピイちゃんよ。へんなことを聞くようで悪いが、セピイちゃんの親戚に入れ墨もんが居るのかい?』

 意味が分からず戸惑うセピイおばさんに、オーカーが説明するには、アンディンとの会談中にビッサビアが言及したという。その場面は、こんなだったとか。

 ビッサビアが『セピイは元気ですか』と問い、アンディンが『ええ、よく働いてくれますぞ』と答える。

 するとビッサビアは重々しいため息をついて言った。

『セピイには悪い事をしました。息子のパウアハルトが賊討伐の際に、セピイの近親者も徴兵したらしいのです。セピイも親族の戦死を何件か伝え聞いているでしょう。

 行方不明者も居ましてね。あの子の近親者にしては珍しく、頬に大きな入れ墨をして目立っていたのに。それでも戦闘の混乱では、すっかり分からなくなったそうです。パウアハルトも兵士たちにその者を探させたのですよ。それでも、とうとう安否を確認できなかった。

 可哀想なセピイ。近しい者を亡くすなんて』

 この場面を、オーカーはアンディンの背後で見守っていた。そして、ずっと気になって、帰還したらセピイおばさんに確認しようと思っていたのである。

 状況を教えられたセピイおばさんには、思い当たる節があった。その者について説明しようかと一瞬、迷っていると、先にシルヴィアが割り込んだ。

『ちょっと、オーカー。それって、いつもみたいにご党首様から口止めされていたんじゃないの?』

 指摘されたオーカーは『お、あいかわらず鋭いじゃん』などと呑気な返事をして、さらに叱られた。『でも、気になるだろ。セピイちゃんの親戚で入れ墨もんは、あり得ねえぜ』

 などと、オーカーとシルヴィアが無駄に議論をしそうになったので、セピイおばさんは観念して話すことにした。

『それは、おそらくニッジ・リオールという名で、私が最初に付き合った人です』

 これを聞いた途端、オーカーは、ぼやいた。『なんだよ、セピイちゃんの元彼か。つまんねえなあ。聞いて損したぜ』さらには『入れ墨されるなんて、よっぽど、ひどい事をやらかしたんだろ。セピイちゃんも、そんな奴と別れて正解だよ。早く忘れた方がいい』とか。

『あんたが思い出させたんでしょうが』なんてツッコミは、シルヴィアがしてくれた。

 その辺りまで話すと、セピイおばさんは一度、ため息をついた。

「さて、ここで久々に質問しようかね。あんたは、この話をどう思う。ビッサビア様が、なぜリオールの事なんか言い出したのか」

 私は戸惑った。私なりに解釈しようと思ったが、何か唐突に思えるだけで、ビッサビアの心理が推測できない。

 その旨を正直に言って降参すると、セピイおばさんは正解を教えてくれた。

「あの方はね、リオールを持ち出す事で私に嫌味を言ってきたんだよ。あの方としては、自分の情夫であるソレイトナックを、一時的に私に貸してやったくらいにしか思ってないのさ。そして遠回しに言ったんだ(お前はソレイトナックを諦めて、リオールと寄りを戻せばいい)と」

 セピイおばさんは、もう一度ため息をついて、窓の方を見た。窓の外に、遠くに意識を飛ばすようで結局、上手くいかなかったのか、すぐに自分の手元に視線を戻す。

 おばさんは、なかなか話を再開せず、私も声を掛けられない。

「私はオーカーさんから話を聞いて、ピンと来たよ。そして・・・悲しかった。・・・ガッカリしたねえ。

 それで、自分でも気がついたよ。私は、まだ心のどこかでビッサビア様を信じていたんだ、と。信じたがっていた。あの方とは直に、面と向かって対立したわけじゃない。あくまでも、あのポロニュースから伝え聞いて、お互いが恋敵だったと知らされただけ。それを嘘だと、何度、心の中で叫んだことか。あの、実の母親のように私に接してくださったビッサビア様が、本当は私を憎んでいただなんて。信じられなかったし、信じたくもなかった。

 しかし」

 セピイおばさんの言葉が、また途切れた。

「来ちゃったんだね」

 私は思わず先を促してしまう。言った後で、それが正しかったのか不安になったが、一度出した言葉は戻らない。

 セピイおばさんは、そんな私の迂闊さを責めることも思いつかないのか、そのまま再開してくれた。

「そう、来たんだ。確証になるものが。明らかに悪意のある言葉が。さすがに認めるしかなかったよ。

 私は愕然としたね。オーカーさん、シルヴィアさんと話しながら、ぼんやりした。まさか、あのビッサビア様が私に悪意を向けてくるなんて。しかも、アンディン様を使って。

 アンディン様が気を利かせて、オーカーさんや他の同行者たちに口止めしてくださった事が、せめてもの慰めだったよ。私はアンディン様に、リオールとの事までは話していなかったつもりだが。それともモラハルトか誰かから、私とリオールの関係を聞いていたのかも。とにかくアンディン様も、ビッサビア様の言葉に棘があると気がついたんだろう」

「でも、オーカーがペラペラしゃべっちゃったよ」

「それもいいさ。おかげで状況が分かった。いい知らせとは言えないが、知らないままでいるよりは、いい。

 それに、いつものようにシルヴィアさんがオーカーさんを叱ってくれた」

 そこまで言ってセピイおばさんは、やっと少し微笑んだ。

「それにしても、ヌビ家の党首アンディンを嫌味の伝令役にしようなんて、ビッサビアも怖いと言うか、性格が悪いと言うか」

「しかしアンディン様は見破った。そんなことに付き合わされる筋合いは無い、と内心怒っておられたのかもしれないね」

「う〜ん、だったら、なおのこと、そんなビッサビアにジャノメイのお嫁さん探しを頼んだりしていいのかなあ」

「ふふ、考えてみれば、たしかにそうだが。でもオーカーさんたちと話している時は、私も、そこまで気が回らなかったよ。それに、その後は縁談にも、ちゃんと進展があった」

 やっと微笑んだかに見えたセピイおばさんは、また、そこで一息ついた。

「でも、そのジャノメイ様の嫁取りの話をする前に、ちょいと別の事態が起こったよ。

 ビッサビア様の話が落ち着くと、シルヴィアさんが不意に、オーカーさんに向かって言い出したんだ。『こちらからも、あんたに報告する事があるわ』と。『近いうちにヴァイオレットが結婚するわよ。少なくとも年内でしょう』とね。

 シルヴィアさんが聞いたところによると、キオッフィーヌ様がヴァイオレットさんのために縁談を持ってきてくださった、と。お相手は小貴族の息子で、たしかヌビ家の役人としてメレディーン郊外の村に駐在していた。

 シルヴィアさんは、こうも言ったね。『ヴァイオレットの話を聞いていると、お相手は、あんたと、だいぶ違うみたい。もしかしたら正反対だったりして』

 話しながらシルヴィアさんは、ちょっと意地悪な、というか皮肉な笑みをオーカーさんに向けていたよ。

 オーカーさんはオーカーさんで、呆けて返事に数秒かかった。『それがいいかもな。あいつは家庭的だから、いい奥さんになるだろ』と。

 そして続けてシルヴィアさんに言うんだ。『そう言うお前も、実は縁談が来ている、とか言うんじゃねえだろな』なんて笑みを返して」

 おやおや?と私は声が出そうになるのを、なんとか堪えた。まだまだ先を聞かねば。

「それに対してシルヴィアさんの答えは、こんなだった。

『来ても、突っぱねるわよ。私は結婚なんて、しないの。男は、あんたたちで、もうたくさんなんだから。男とずっと一緒に暮らすなんて考えられない。一生独身で結構です。たとえ奥方様が親切心から勧めてくださっても、丁重にお断りするわ。

 そうねえ。強いて言うなら、このお城で女中として使い物にはならないくらいのお婆さんになったら、修道院にでも行こうかしら。メイプロニー様に紹介していただいたりして。信心なんか、かけらも無いけど、本気の尼さんたちのお手伝いくらいは真面目にやるわよ』

 シルヴィアさんは、自分で言った事にクスクス笑い出していた。

 その後もシルヴィアさんとオーカーさんは、しばらく軽口を叩き合っていたね。オーカーさんが『なぁにが修道院だよ。似合わねえから、やめとけ』なんてツッコミ返したりして」

 セピイおばさんの話が、また途切れた。そして今度は、とうとう背後から酒の皮袋を引っぱり出して、一杯注いだ。私も、もらう。

「な、なんか・・・もうちょっと、どうにかならなかったのかなあ。シルヴィアとオーカー」

 葡萄酒で舌が緩んだのか、私も、つい言ってしまう。それまでのイリーデなど、他の良縁との落差が大きいように思えたのだ。

「私も似たようなことを考えたよ。でも、仕方ないさ。少なくとも、シルヴィアさんの方では冷めていたし。そこで私がとやかく言っても、ねえ」

 セピイおばさんは言いかけのまま、のろのろと首を横に振った。


「やれ、話が、またしても脱線したね。ジャノメイ様の縁談に戻そう。

 お嫁さんは二回めのツッジャム訪問で、ようやくお会いできたよ。アン・ダッピアというお名前で、ビッサビア様の従兄弟の娘にあたるお方だった。歳は、私の一つ下くらい。たしかイリーデと同い年のはずだよ。

 この二回めの訪問にもオーカーさんが加わって、私は居残りさ。帰還してから、またオーカーさんがしゃべること、しゃべること。もちろんアンディン様に見咎められないように、私たち女中のところでだけ、だが。

 オーカーさんとしては、自分のお嫁さんを確認した時のジャノメイ様の様子がよっぽど可笑しかったらしい。緊張して、動作がぎこちなくなるところなんか、真似して私たちに見せるんだ。私らは笑っていいのか、悪いのか、分からなかったよ。

『ジャノメイ様はアン様と顔を合わせるや、見る見る顔が赤くなった』と同行した他の従者たちも口を揃えて証言していたし。

 極めつけ、というか、とどめはメレディーン城へ帰る道すがらだ。ジャノメイ様は自分からアンディン様に馬を寄せて行って、こう言ったんだと。

『父上の方針が正しかった事を思い知りました』

 オーカーさんは騎馬でジャノメイ様の後ろにピタリとつけていたので、この発言がはっきり聞こえたんだとさ」

「えー、何それ。イリーデを諦めた甲斐があった、ってジャノメイは言いたいの?それほどの美少女?」と私は驚きを禁じ得なかった。

「オーカーさんが言うには、ちょうどビッサビア様を若返らせたような感じだったらしい。ヒーナ様と違って、アン・ダッピア様は実の娘じゃないんだがねえ」

 ははーん。さてはイリーデより、そのアン・ダッピアの方が、胸が大きかったんだわ。予想がついたものの、セピイおばさんには言わなかった。あんたって、そればっかりだね、なんてツッコまれるのが目に見えている。

 それより色男オーカーも、この若君のお嫁さんをニヤニヤしながら眺めていたんだろう、きっと。

「こうしてジャノメイ様とアン・ダッピア様の結婚が成立して、ヌビ家とマーチリンド家の関係が修復したよ。上辺だけでも、ね。

 そのちょっと前に、モラハルトが修道院に入った。

 一方、ビッサビア様は、新妻アン様の後見人としてツッジャム城に残ったよ。ジャノメイ様とアン様に、何かと助言してあげるってわけさ。

 同時に、オーカーさんのツッジャム城への転属が決まってね。本人は『またロンギノのおやっさんにしごかれるのかと思うと、気が滅入るぜ』なんてぼやいていたが、結局いそいそとジャノメイ様について行った」

「いいんじゃないの。麗しのビッサビアと同じ城で生活できるんだから」

 私が冷やかすと、セピイおばさんは声を上げて笑った。

「そのツッコミは、シルヴィアさんがしてくれたよ。送別の言葉としては、なかなかのもんだろ」

 これには私も、笑うには笑ったが。やれやれ、お姉様は徹底しているなあ、と苦笑してのことだ。


 続いてセピイおばさんの話は、ヴァイオレットに移った。ジャノメイの結婚から二ヶ月後か三ヶ月後。細かい時期までは、おばさんも覚えていなかったが。彼女の婚約者がメレディーン城に迎えに来たのである。

 セピイおばさんはヴィクトルカの時の事を思い出したと言う。双方の親族と使用人が数名ずつ駆けつけて、荷造りを手伝い、セピイおばさんたち同僚が見送る。ツッジャム城で行われた事が、目の前で繰り返されるようだった。もっとも、ヴィクトルカの時と違って、生家の紋章が話題になったりはしなかったが。

 それで、ついセピイおばさんは言ってしまったのだ。ヴァイオレットがシルヴィアたちと別れの言葉を交わしているそばで、所在なさげに立っている婚約者をつかまえて。

『どうかヴァイオレットさんを大事にしてくださいね。失礼な言い方ですみませんが、どうか泣かせたり、悲しませたりしないで』

 婚約者は痩せぎすの、ちょっと頼りなげな青年で、その点もヴィクトルカを連想させた、とセピイおばさんは言う。若き日のセピイおばさんから忠告されるや、この婚約者は引きつったみたいに、途端に姿勢を正したとか。

『も、もちろんです。ヴァイオレットさんを悲しませるなんて、とんでもない。もし、そのような話が聞こえてきたら、遠慮なく僕を斬り捨てに来てください』

 と後半部分は、見送りで居合わせた騎士アズールに向けて訴えた。

 それに対してアズールはニヤリとして、こう答える。『お、言ったね、若旦那。俺は奥さんの旧友として、手加減できないぜ』

『望むところです』と婚約者が即答するのを聞いて、セピイおばさんは、ひとまず安心したそうだ。同時に、ヴィクトルカが夫から大事にされている事を願った。

 その一方で、お姉様方、三人の会話は少し長引いたようだ。見送りに駆けつけなかったオーカーが話題に上がったのである。しかも言及し出したのは、新婦ヴァイオレットから。婚約者に聴こえるかもしれないのに、言わずにはいられなかったなんて、よほど思い詰めていたのだろう。セピイおばさんの話を聞きながら、私は、そう推測した。

 セピイおばさんは、ヴァイオレットがシルヴィアに向かって言った言葉を、はっきり覚えていた。

『本当は、あなたにオーカーのことを頼みたかったんだけど』

 しかし言われたシルヴィアは、首を横に振る。

『もういいのよ。あいつも私も、それぞれ好き勝手にやっていくんだから。あなたは自分のことを優先して』

 スカーレットも、シルヴィアと同じ意見だった。

 そしてヴァイオレットは出発した。党首夫妻と、その子息の夫妻はもちろん、多くの城詰めの者たちに見送られて。城女中を辞めて、婚約者の任地で専業主婦となるのである。

 セピイおばさんが言うには、実に天気の良い、のどかな出立だったそうだ。


「まあ欠席裁判なんて、しても、つまらないが。せっかくの門出がちょいと、しんみりしちまったよ」

「オーカーが悪いんだわ」

 私は、オーカーへの想いを諦めたヴァイオレットに同情しつつも、彼女の決断が正しいとも思う。

「ただね」とセピイおばさんは続ける。「そのまま、しんみりしている暇も無かった。ありがたいのか、何なのか」

 おばさんが何を言い出したのかと思ったら、次はスカーレットとアズールの夫婦だった。親友を見送った直後、なんと二人は、それぞれ党首夫妻に訴えたのである。

「訴える?」

「そう。お互いに浮気を疑って、ね」

 私は、あちゃあ、と言いかけるのを何とか堪えた。「二人とも、考えすぎとか、勘違いだった、ってことはない?」

「私も同じようなことを考えて、シルヴィアさんに聞いたさ。でもシルヴィアさんが言うには『今さら確かめたって仕方がない』んだと。『どちらが先に浮気したか、なんて相手をなじるのも無駄。ラカンシア人も喰わない痴話喧嘩』だってね」

 セピイおばさんから聞くシルヴィアの言い回しは、私にも分かる。犬を紋章にした貴族家がラカンシアには存在する、と聞いた事があるからだ。

「もしかしてお姉様方と色男さんたち五人で、いつも、そんな喧嘩をしていたの?」

「そ。だから『進歩が無い』とシルヴィアさんは嘆いていたよ」

「でもって、アンディンもキオッフィーヌも呆れていたと」

「ああ。スカーレットさんたちをなだめるのに手こずっておられた。スカーレットさんは散々泣き喚いて、アズールさんを責める。アズールさんもアズールさんで、アンディン様たちの手前と気をつけながらも、言い返さずにはいられなかったし。

 私とシルヴィアさんも知らん顔するわけにはいかないだろ。だから、何とかご党首様たちをお手伝いしたんだがねえ」

「まあ、喧嘩するほど仲がいいって事じゃない?」と私は生意気を言ってみる。

「それもシルヴィアさんが言っていた」

 私とセピイおばさんは数秒、顔を見合わせて、吹き出した。


 さて、そのヴァイオレットの結婚から、しばらくして。おばさんの話は、ジャッカルゴとへミーチカに戻った。へミーチカの懐妊である。

 この頃にはアンディンも、ヌビ家党首の座を長男ジャッカルゴに譲っていた。妻キオッフィーヌと連れ立って、頻繁に都アガスプスに出かけるようになり、メレディーン城に戻っても別室を設けて、そこで寝起きする。書斎も、ジャッカルゴに使わせた。

 アダム新王がヒーナの墓参りに来てくれたのも、この頃である。迎えに上がろうと申し出たジャッカルゴを制して、アダム新王はメレディーン城に立ち寄った。ヘミーチカの懐妊を祝って、贈り物を届けるために。

 この出来事に関して、セピイおばさんは「ちょいと先走っている気もしたね」と言う。

「女としては、お腹の子どもが流れたりしないか、まだまだ気を抜けない時期だ。だから、無事に出産したのを確かめてからのお祝いでも、遅くないんだよ。

 でも、当時の王陛下がそれくらい喜んでくださったのかと思うと。とんでもなく、ありがたい、光栄なことだよ」と微笑んで。

 そして、また話が先走るが、後日、赤ちゃんは、しっかり生まれてきたのだ。

「それが今のヌビ家党首である、ナタナエル様だよ」とセピイおばさんは付け加える。

 これを聞いて、私は何とも言えない、へんな気分になった。今の党首と言えば、もちろん会った事も無いが、おそらく父さんと同じくらいの、中年男のはず。そんなおじさんでも、赤ちゃんだった時期があるなんて。なんか、実感がわかないなあ。

 などと私が考えている間にも、セピイおばさんの話は進む。ジャッカルゴは隊列を仕立てて、アダム新王をこちらツッジャムにお連れした。この時は、おばさんも同行が許された。忙しい合間をぬって、ごく手短にだが、この村への里帰りもさせてもらって。

 村の馬鹿な連中は『まさか、あのセピイちゃんが、新しい王様とヌビ家の若殿を連れて来たのか』なんて騒いだ事もあったとか。セピイおばさんは、この話を自分の兄、つまり私たちのお爺ちゃんから聞かされて「椅子から転げ落ちそうになった」と言う。もちろん、そのお馬鹿たちには、お爺ちゃんから説明してもらった。

「この時、義姉さんは膨らんだお腹を揺すりながら、私と兄さんのやり取りに微笑んでくれたもんさ。ありがたい里帰りだったよ」

 言い切って、セピイおばさんはニヤリとしてみせた。私はハッとする。

「膨らんだお腹って、お婆ちゃんのお腹の中に父さんがいたの?」

「そう。あんたたちのお父さんがまだ赤ちゃんとして、義姉さんのお腹の中に居たんだ。アダム陛下の真似をして、私も兄さんたちにお祝いを渡すことができたよ」

 へー、と言ったものの、私は続かない。今のヌビ家党首どころか、うちの父さん?父さんが赤ちゃんだった頃?

 絶句する私を見て、セピイおばさんはクスクス笑う。そして続ける。

「ちなみに、ヒーナ様の墓参り、私の里帰りからメレディーンに戻ると、また一騒動あった。イリーデにも、子どもができた事が分かったんだよ」

「へー。結婚の話が続いたと思ったら、今度は赤ちゃんだらけね」

 思わず言ってしまって、セピイおばさんと一緒に吹き出した。

 なんだかヒーナの墓参りをしていたのが、嘘みたい。

 と一瞬、ヒーナのことが頭に浮かんで、私は言葉を呑み込んだ。言うまい。ヒーナには悪いけど。

 多分、セピイおばさんも彼女を思い出したのだろう。ふとした時に、何度も。セピイおばさんと笑みを交わしながら、私は考えをめぐらせていた。

 ヒーナに思い至ったからか、私は、こんなことも考えた。

 なんだか順調だわ。順調すぎるくらい。神様に感謝してもいいくらい。普段は、あまり尊敬しない神様に。

 ヌビ家だけじゃない。お爺ちゃんたちを含む、おばさんの周りの人々も順調。それは、話を聞いている私としても、ありがたいのだけれど。

 なんで恵まれたんだろう。ヒーナは?ヴィクトルカは?マルフトさんは?オペイクスとパールは?なんで?

 そう思いながら、私はセピイおばさんには尋ねない。答えてくれるだろうけど。なぜか。なぜか、まだ尋ねる時じゃない。そんな気がする。もう少し自分で考えてから、というような。


 セピイおばさんの話では、その後もヌビ家は順調だった。新党首ジャッカルゴに、ヨランドラの次期宰相との噂が立つほど。アダム新王と交流ぶりを見れば、シャンジャビ家など他の勢力も、彼を一目置かないわけにはいかなかったのだろう。

 新婚の次男ジャノメイにも、問題は無かった。ビッサビアの監視の下、苦労させられるかと危ぶまれたが。ツッジャムからメレディーンに伝わってくるのは、微笑ましいような、おかしな噂ばかり。

 定期訪問でメレディーン城に顔を出したベイジの夫が、アンディンとジャッカルゴ父子に報告したのである。ツッジャムの城下で町人たちが、新城主ジャノメイのことを何と言っているのか。セピイおばさんの案内でジャッカルゴが使う書斎に通されたものの、ベイジの夫と使用人は額に汗して、非常に言いにくそうにしていた。だが党首父子に促されて、ようやく口を開いた。

『失礼ですが。ジャノメイ様はツッジャム城下で笑われております。お迎えした奥方、アン・ダッピア様の言いなりだ、と』

 言ってすぐ、ベイジの夫と使用人は頭を深々と下げて、党首父子の視線を避けた。が、無駄な抵抗で、無表情のアンディンは叱りもしないが、代わりに続きを急かす。ベイジの夫は観念した。

 彼が時折、ツッジャム城に顔を出しながら、注視したところによると、ジャノメイとアン・ダッピアに不和は有り得ない、ジャノメイとビッサビアにも軋轢は無いらしい。『何しろ、ジャノメイ様が主張しないのですから』と。とにもかくにも妻アンの意見を聞き、彼女が決め切らなければビッサビアの意見を容れ、自分が何か思いついても、まずは二人に聞いてから。それがもっぱらの噂として、城下にも漏れ伝わっている、とベイジの夫は言う。

『やっと一つだけ主張して、押し通しなさったと思ったら、それはアン様の里帰りですよ。こればかりはアン様とビッサビア様が遠慮なさっても、粘って説得なさる。そして、お二人を馬車にお乗せして、頻繁にお出かけになる。

 ええと、アン様の生家マーチリンドの主城は、たしかスボウと申しましたか。そこの城下町にアン様のご両親のお屋敷があるそうで。『義父上と義母上からアンを取り上げて、さみしい思いをさせるような僕ではないぞ』というのが、ジャノメイ様のご意向です。私めがちょうどツッジャム城に上った際に直に耳にしたので、間違いありません。

 というわけで、奥方様の里帰りを率先なさるのですが。私が知るだけでも一、ニ・・・たしか七回。すでに七回は、そのスボウのお屋敷に通われております。

 こうお話ししますと、ジャノメイ様がツッジャムでの政務を怠って頻繁にお出かけなさっているように思われるかもしれませんが。そこは、ご心配なく。アン様の里帰りに行くにも必ず政務を片付けてから、とジャノメイ様も心がけておられます。これは多くの者が認めるところで、ツッジャムでお尋ねしていただければ、証言を幾つも得られるでしょう。急な裁判沙汰が起こった時などは、里帰りを数日延期して、アン様に謝っておられました。

 つい先週も、です。城下町の主だった商人や役人、郊外の小貴族、司教などの有力者たちをツッジャム城に呼び出して、宣言なさいました。

ーー皆が、このジャノメイを悪く言うのなら、それは僕自身に落ち度があるのであって、反省もしよう。

 しかし、その僕の至らなさを我が妻アン・ダッピアに結びつけて解釈するなら、つまり彼女が原因だとか、彼女を悪く言うようなら、それは断じて許さん。アンは、このジャノメイをたぶらかしているのでも、いいように操っているのでもない。僕が僕自身の意志で、勝手にアンのためと思って行動しているだけだ。繰り返して言うが、我が妻アンを悪く言う者があれば、僕もそれ相応の対処をするーー

 そう言って、普段は大人しそうなジャノメイ様が、珍しく目を尖らせて一同を睨み回しておられました。

 見てきたように言うと思われたでしょうが、私もその会合に召集されましたので。城下の主だった商人たちと肩を並べるほどの商いは未だにできておりませんが、ジャノメイ様は私にもお声を掛けてくださいました。おそらく今このようにして、ご党首様や若様に度々お伺いできている、ご厚意をいただいている点を評価してくださったのでしょう。

 あ、大変失礼いたしました。ジャノメイ様に話を戻します。

 以上のようなジャノメイ様のお心づかいは、ちゃんとアン様に伝わっております。アン様もジャノメイ様をとても気づかい、尽くしておられますから。言いなりにしているとか、操っているとか、我がままに振る舞っているなど、とんだ誤解。いずれも見識の浅い者どもの意見であって、気にするには及びません。それこそジャノメイ様から、きついお咎めを受けるでしょう。

 その証拠に、と言いましょうか、アン様はジャノメイ様と会話、やり取りを優先して、どうもビッサビア様を放ったらかしにする事が多いようで。邪険に、とまでは申しませんが・・・度々のご指導、ご忠告をしてくださるビッサビア様を疎ましがっているのではないか、とも。いずれも、ツッジャム城に出入りする商人たちの意見です。これを証明するように、近頃ではビッサビア様も、里帰りに同行しないで、留守番役に徹しておられます』

 といった感じで、ベイジの夫の報告は、やや長くなった。彼としては、新城主ジャノメイの評判より、新妻アン・ダッピアと小姑ビッサビアの仲の方が心配なのだ。

 ベイジの夫は『いろいろと言い過ぎたやもしれません。どうか、ひらにご容赦を』と話を締めくくって再度、頭を下げた。

 セピイおばさんは言う。

「求められた報告とは言え、不興を買うんじゃないか、とベイジの旦那さんは不安で仕方なかったそうだ。それで緊張して、早口になって。唾も、かなり飛んでいたね。

 でも、取り越し苦労さ。報告が終わるや、アンディン様は笑いなさったんだ。隣でジャッカルゴ様も苦笑いになっていた。

 その上でアンディン様は、ジャッカルゴ様に絡むんだよ。

『聞いたか、ジャッカルゴ。弟は、そなたの仕事よりも、はるかに難しい任務をこなしておるぞ。しかも打算ではなく、素でやっておるところが良い。打算で動けば、たちどころにビッサビア殿に感づかれたであろうからな』

 対してジャッカルゴ様の返しは、こんなだった。

『ええ、ええ、あいつは見事にやりましたよ。今度ばかりは認めます。この愚兄が、まだやっていないような事をやってみせたと。

 先方も当てが外れて、さぞお困りのはずだ』

 なんて、弟に出し抜かれたとおっしゃる割には、ニヤリとして。

 ベイジの旦那さんは叱られるどころか、ご褒美に酒の瓶なんかを賜ったよ。

 それで退室したんだが、城門での別れ際に私に聞いてきた。ご党首様たちは何の話をしておられたか、とね」

 ここで、おばさんから質問されると踏んで、私は先手を打った。

「書斎でじゃなくて、城門を出ようという時に尋ねるなんて、ベイジの旦那さんも考えたね」

 セピイおばさんは私の意図を察したのか、ニヤリとする。

「相手をはばかって気をつけたところは、さすがに商売をやっているだけの事はある、と感心したよ。

 しかし旦那さんには悪いが、そこでも、まだ話すわけにはいかなかったね。だから私は、しらばっくれた」

「ビッサビアを悪く言うことになるからでしょ」と私は、自分の解答を披露してみる。

「おや、何で、そうなるんだい」

 セピイおばさんの笑みは変わらなかった。となると、私の解答は、まだ足りていないのか。

「だ、だってビッサビアは、ヌビ家に探りを入れる事をまだ諦めていないはずよ。密偵なんかを使いたがっている。そんなの、ビッサビアを褒める話じゃないわ。

 そして、そこはアンディンもジャッカルゴも察していて、ほのめかした。平民であるベイジの旦那さんに詳しく説明するわけにはいかないもんね」

 私が言い切ると、セピイおばさんは声を上げて笑った。「ご明察だ、プルーデンス。頼もしいよ」

 やった。どんなもんだい。

 セピイおばさんは、その後も機嫌よく、補足説明をしてくれた。

 マーチリンド家としては、探りの意味も込めてアン・ダッピアを送り込んだはずなのに、頻繁に戻ってくる。それをさせる夫ジャノメイはマーチリンドに対しての抵抗や警戒とかではなく、大真面目だ。だから断りにくい。

 マーチリンド家としては、自分たちの娘に里帰りするなと言うのも変だし、やんわり控えさせようにも、ジャノメイから『そう遠慮なさいますな』と、かわされてしまう。

 こうしてマーチリンド家の密偵たちはアン姫にくっついてヌビ家に忍び込むつもりが、逆にヌビ家の密偵たちがジャノメイを隠れ蓑にして、マーチリンド家の領内に入り込む始末。

 ここでジャノメイに悪意があるのなら、マーチリンド家もその悪意を遠回しに指摘するなど、牽制のしようもあるのだが。娘婿ジャノメイは、こちらの娘アンと彼女の両親に良かれと思って親切心でやっているだけに、無碍にもできない。

 これではジャノメイの父と兄、ヌビ家陣営が笑うわけである。

 ちなみにセピイおばさんに、これら一連の解説をしてくれたのは、弟ジャノメイの功績を笑って誉めた、ジャッカルゴだった。

「城壁の歩廊でオペイクス様と私と、三人しか居ない時に教えてくださったよ。『拙いながらも密偵を経験した者として、事の重大さを理解しておけ』という意味だろう、と私は受け取ったよ。だから今日まで、あんた以外には誰にも話していない。もちろん、ベイジの旦那さんにもね」

 うーむ。そう聞くと、やはり笑ってばかりはいられない、剣呑な話か。

 だから城女中はやめておけ、なんて言われそうだから、少し話をそらそう。

「ベイジの旦那さんは、アンがジャノメイにどんなふうに尽くすのか、具体的に説明していないんじゃない?ジャッカルゴたちがベイジの旦那さんに密偵の事とかを言わないように、ベイジの旦那さんも、わざとジャッカルゴたちにぼかして話したとか」

「ふふ、鋭いよ、プルーデンス。こちらも正解だ。

 でも、ベイジの旦那さんの気づかいは効果があった、とは言えないね。巷の噂話で、ツッジャムからメレディーンまで、あっさり伝わってきたんだから」

 セピイおばさんはニヤニヤしながら、私の顔を覗き込む。ということは。

「アン・ダッピア様のジャノメイ様に対する尽くし方。下手すればヌビ家の領内で知らない者は居なかったかもね。少なくとも年頃の男女は聞き耳を立てて、知っていたはずだし。

 何をしたって、やたら抱きついたり、頬っぺたに口づけしたり、だよ。いかにも女らしい体つきのビッサビア様を若返らせたような美少女が、だ。人目も憚らずに、そんなことをするんだからねえ。ツッジャム城の兵士とか使用人とか羨ましがって、もう黙ってないよ。酒場とか市場でペラペラしゃべって、それを聞かされた男どもがまた羨んで、よそで言いふらす。それが繰り返されて、とうとうメレディーンまで届いちまった」

 私は口をはさみたい気もしたが、すぐには出なかった。「男って、いつの世も馬鹿なのね」とか言いたかったが、アンがそれほどの女だったのかと思うと、ちょっと絶句してしまう。

 セピイおばさんは続ける。

「メレディーン城でも、若い兵士や使用人たちが噂しているところをよく見かけたよ。

 男どもも、はじめはジャノメイ様を笑っているんだ。何でも、ジャノメイ様はアン様に抱きつかれると顔を真っ赤にして、固まるらしくてね。それを真似してみせる輩が居るわけさ。ツッジャム城まで見に行った事も無かっただろうに。

 でも、そんなことをするのも、結局は羨んでいる証拠だよ。自分もそんな目に遭いたいもんだ、と。若い男どもがよく言っていた。『そんな姫様が腕にすがりついてきたら、絶対、胸が当たっているはずだぜ。いーなー、ジャノメイ様は』なんて」

「それ、もちろんアンディンとかジャッカルゴとかが居ない所で言うんでしょ。そりゃ、ベイジの旦那さんも、ぼかして話すわけだわ」

 言いながら、自分もニヤニヤしてしまう。

 と、セピイおばさんが少しだけ真面目顔に戻った。

「ただ、おめでたい話ばかりというわけにもいかなくてね。アン・ダッピア様を悪く言う連中も居たんだよ。ツッジャム城を訪問した修道女たちとか、要するにオバハンどもさ」

 これを聞いて、私も「あ〜」と間の抜けた声が出てしまった。

「そういうご婦人方からすれば、アンがジャノメイをたぶらかしているように見えるわけね。

 それでアンがジャノメイに宝石だの何だの、おねだりしたら、本当にたぶらかしている事になるけど。実際、そうだったの?」

「いい質問だよ、プルーデンス。実は、そうじゃなかった。マーチリンドなんて名家に生まれたからかねえ。今さら何か物をねだったり、なさらないんだよ。貴族の男と違って、土地とか砦とか、政治的なものにも興味がない。

 そんなもんで、ツッジャム城下の男たちは、また羨むのさ。酒場とかで、馬鹿な唄を流行らせて。

『姫様のおねだりは若様、丸ごと。

 ついでにおねだりしてくれ、この俺を。

 お安くしとくよー』

 だとさ」

「やれやれ、そんなんじゃ、永遠にお声は掛からないでしょうね」と私。

「ふふ、掛かるわけないよ。

 それどころか『ジロジロ見ないでよ、いやらしいっ』とか叱られて、しおれた男どもが何人も居たそうだ。

 しかも、そのまま、しおれている暇なんか無いんだ。ジャノメイ様と目を合わさないよう、大急ぎで逃げ出すんだよ。ロンギノ様たち、騎士や兵士たちも、そんな現場に居合わせたら、その手の馬鹿を追っかけなきゃならないし。とは言えジャノメイ様も、そこまで命じていないんだけどね。

 とにかく馬鹿どものおかげで、みんな、いい迷惑さ」

「そうだ。ロンギノは二人と上手くやっていけたの?」

「そこは大丈夫だったよ。ジャノメイ様は真面目なんだ。ちゃんとロンギノ様に敬意を払っていた。だから政務も怠らない。

 まあロンギノ様としては、それをありがたいと思いつつも、若い城主夫妻の仲が良すぎる姿に閉口なさってもいたみたいだがね。それでもパウアハルトの時に比べれば、贅沢なもんだ、とか同僚の騎士様たちに話していたそうだ」

「ロンギノも報われたね」と私は、また生意気を言ってみる。

 いろんな結婚があるもんだな、とも思った。


「さてと。今夜は、これくらいにしておくか」

 不意にセピイおばさんが腰を浮かした。私との間にある椅子を少しずらして、ロウソクの減り具合を確かめる。

「ええ〜、ちょっと、キリが良くないんじゃない?」

「何言ったんだ。もう、たくさん話しただろ。

 それに、キリなんて言っていたら、いつまでも終わらないよ。それこそ朝になっちまう。

 私は逃げたりしないから、楽しみは取っておきな」

 セピイおばさんからロウソクの皿を持たされて、私も大人しく外に出る。小雨は止んだが、まだ暗い。もう少し話を聞かせてくれてもいいのに、と思ったら、顔に出たらしい。「そんな顔するんじゃない」とセピイおばさんに言われた。

「代わりでもないが、予告をしておくから、それで我慢しな。次回は、アンディン様の引退だよ」

「えっ、引退?」私は振り返った。

「そ。その話は、また明日。しっかり休むんだよ」

 私は振り返り、振り返りしながら、部屋に戻った。

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