第十二話 戦う理由、気づかう理由(後編)
「パールは結局、泣き疲れたのか、そのままオペイクス様に乗ったまま寝てしまったんだと。それほど彼女を安心させることができたオペイクス様を、私らは、つくづく立派なお方だと思ったよ。
しかしオペイクス様は、自分自身を許さないんだ。自分と、パールを悲しませる何か、もね。
オペイクス様は、ほとんど眠れなかったそうだ。昼間、宮殿に上がった時の気疲れで、すぐに寝てしまうかと思いきや、やたらと目が冴えたと。そのくせ王様たちとの会話なんか、一つも思い出さない。
気になるのは、ひたすらパールのことだけ。パールを泣かす何か。その何かをいくら探っても、推測に過ぎない。そう分かっていても、考えずにはいられない。暗い天井を睨みながら。
どこかの不埒な男が、パールに近づいて卑猥なことを言ったのか。それともペレガミ家で受けた仕打ちが、不意に思い出されるのか。
考えただけで、怒りで体が震えてくる。パールをそっと撫でる手も震えてくる。
八つ裂きにしてやる。地の果てだろうが、どこまでも追いかけて、必ず。誰か知らんが、パールを悲しませるなら、思い切り打ちのめして抹殺してみせる。絶対に許さない。
オペイクス様は話しながら、すごい形相になっていたよ。私らの存在なんか忘れたみたいだった」
「そんなんじゃ、眠れるわけないわね」私がやっと打てた相づちは、これだけだった。
「ああ。オペイクス様は寝るのを諦めて、朝を待ったそうだ。
で、外が明るくなってきたら、パールをそっと起こして、それぞれの仕事場に向かったよ。まず、パールをボジェナさん一家のところに送る。続けて自分自身は、ビナシス家の出先機関となった屋敷に急ぐ。
駆け込んでおきながらオペイクス様は、お役人にすぐさま外出許可をもらった。適当な口実をもうけて。
その頃は屋敷での仕事も落ち着いて、時間の融通が利いたから、お役人も特に文句は言わなかった。逆に、前の晩に見たヌビ家との関係を考慮して、オペイクス様に対して身構えたのかもしれないね。
とにかく、オペイクス様は時間をもらったんだ。で、今度は、ボジェナさん一家の畑に取って返した。と言っても、近くまで来たら、パールに気づかれないよう、木の陰なんかに隠れて、だが。
オペイクス様は辛抱強く待ったよ、平民が近くを通るのを。その甲斐があって、背後から小声で呼びかけられた。振り向くと、普段よく言葉を交わす平民が四人ほど、近づいて来る。全員、人目を気にして、忍び足で。彼らの視線が、畑にいるボジェナさん一家、特にパールに向かっている事に、オペイクス様は気づいた。
彼らはオペイクス様のそばに来ると、小声で言った。『そろそろ、あなた様がいらっしゃる頃と思っておりました』
それでオペイクス様は急き込んで問うた『パールに何があった。パールは誰に怯えているのか』と。
平民たちは、すぐには答えなかった。悲しげな顔で互いに見合って『言うしかないべ』などとつぶやき合う。決心した彼らはオペイクス様を真っ直ぐ見つめて、やっと答えた。
『き、昨日、あなた様がトカゲのお殿様たちとお出かけになった後で・・・あなた様のお母様が来られました』
オペイクス様は、あっと声が出そうになったのを、必死でこらえた」
私も絶句した。そんな。よりによって、オペイクスのお母さんだなんて。
「平民たちが言うには、オペイクス様のお母様はパールに直接、何かを言ったわけではなかったと。逆にお母様は、パールが居ないかのように振る舞ったとさ。他の平民たちにやたら話しかけるばかりで、パールには見向きもしない」
「わざとね。いくら何でも、視界の隅には彼女が入るはずよ。むしろ意識しすぎるくらい、パールを意識しているじゃないっ」私は早口になってしまった。
「居合わせた平民たちも全員、そう思っただろうよ。しかしオペイクス様のお母様は、そんな周囲の目もお構いなしだったのかも。一方的に、平民たちに話し続けたらしい」
「話すって何を」
「長男であるオペイクス様の自慢だよ。『王陛下に謁見するなんて、大変な名誉だ』ってね。こんな幸運は、そう得られるもんじゃない。たとえ貴族でも、城持ちとか権力者に限られるだろ。そんな上級貴族の輪に長男が加わる事ができたなんて『エクテ家の誉れだ』とお母様は言いたいわけさ。
でも、オペイクス様のお母様の狙いは、自慢話なんかじゃないよ。本題は、ここから。『だからこそ』と言うんだ。『エクテ家は、そんな誉れある貴族となったからこそ、相応の貴族の娘を長男の嫁に迎えるべきだ』と。誰が質問したわけでもないのに、長々と演説をぶったんだろう」
「パールに聞かせるつもりで、大声で言ったのね。やり方が、いやらしいわ」
「当時の平民たちも内心、そうやって憤りを感じてくれているといいんだが。
それよりも、まず彼らはパールを心配した。オペイクス様とパールの関係を知っている平民たちは、彼女の様子に気をつけた。案の定と言うか、パールは音も無く、その場を離れて、木の陰に隠れる。声は抑えていて聞こえなかったが、その肩が震えていたよ。彼女はすすり泣いていたに違いない。平民たちはみんな、そう思ったらしい。
そんなパールを追いかけるように、オペイクス様のお母様は、その木の近くに歩いていこうとする。演説を続けながら。見かねた平民たちは『オペイクス様がお戻りになったら、お伝えしますので』とか口約束して、お母様が帰るように誘導したんだと」
はーっ。私は呆れて、ため息をついた。
「オペイクス様も、おっしゃっていたよ。『腹立たしいやら、情けないやら。母と弟の無理解をある程度、覚悟していたつもりだったが、自分が甘かった』と。オペイクス様としては、血族である二人が、いつかパールを認めてくれるのでは、と一縷の望みを捨てきれていなかったのさ。『でも、もうだめだ。思い知らされた』と言いながら、オペイクス様は苦しそうな顔を横に振ってねえ。
オペイクス様は、事情を教えてくれた平民たちに礼を言い、お母様の振る舞いを謝った。そして引き続きパールへの気づかいを頼んで、実家に向かおうとする。
平民たちは慌てて、小声でオペイクス様を引き止めたよ。『ど、どうか、お気を鎮めください』
対して、オペイクス様の返事は、こんなだ。『別に暴力を振るったりはしない。一応、私を産んでくれた人だ。しかし縁は切る。
私にとってパールがどれほど大切か、分かろうとしないのなら、もはや親ではない』
オペイクス様は畑仕事に加わっているパールをちらと見てから、ご自分の生家へと急いだ」
セピイおばさんは、また一息つく。
「おっと、そうだった。言い間違えるところだったよ。オペイクス様は生家に直行しなかったんだ。その前に、ご自分の小さなお城に戻ってね。前日に王弟様からいただいた褒美袋を引っつかんで、懐に入れてからお母様に談判に行ったんだ。
お母様は長男であるオペイクス様を見て、まず驚いた。自分の長男がまだ都アガスプスに滞在しているもの、と思っていたらしい。
オペイクス様は、そこら辺の説明をほとんどせず、とにかく褒美袋をお母様に押しつけた。『弟が結婚する時に使え』と。『それでも金がまだ余るようなら、よその貴族とのお付き合いに活用しろ』とか付け加えて。
お母様は当然、オペイクス様に問いただしたよ。『なぜ、こんなことを急にするのか』と。
オペイクス様は答えた。
『手切金だ。私はエクテ家を抜ける。私とあなた方は、もう家族じゃない。
あなたが私を産んでくれた事は、私も認めよう。しかし、あなた方がパールを認めないのなら、彼女を否定するのなら、私もあなた方との血縁を否定する。
さよなら、母さん。もう二度とパールに近づくな』
途端にお母様は、わめき散らした。『あんたは実の母親を買収するつもりなのか』とか『あんたは、あの女にたぶらかされているんだよ』とかね。でも、こんなのは、まだいい方だよ。それどころか『パールは何人もの男たちに安易に身をまかせた淫売だ』みたいなことも口走ったらしい。それこそ何度も唾を飛ばして、声を荒げたんだろう。オペイクス様は詳しく話さなかったが。
オペイクス様は生家を飛び出したよ。お母様をぶちのめしたい衝動に駆られたのを、必死にこらえたんだ。すかさずお母様の声が追いかけてきた。『エクテ家に戻ってきなさい』『あんたたちは絶対うまく行かないよ』だの、何だの。お母様が褒美袋を投げ返す気配もあったが、オペイクス様は、もう振り返らなかった。
そのまま役人の居る屋敷に戻って、オペイクス様は仕事をした。役人の指示で戸籍簿を引っぱり出してきたり、役人がビナシス家党首に提出する報告書を準備するのを手伝ったり。作物の出来具合、商人たちの景気、競争相手である近隣の中級貴族の状況などなど、ビナシス家党首も広く情報を集めていたからね。
机仕事ばかりじゃないよ。屋敷には来客も多少あったそうだ。小貴族、商人、僧侶とか。それぞれ挨拶しながら、ビナシス家に助勢願おうって魂胆さ。この日は無かったが、逆にオペイクス様がお使いとして相手の方に派遣される事もあったとか。
とにかく仕事を終えたら、オペイクス様はパールを迎えに行った」
セピイおばさんの話を聞きながら、ああ、と声が出そうになるのを、私はこらえる。オペイクスのお母さんなら、きっといい人だろうと期待したのに。まさか、こんなだったなんて。
しかし嘆いても仕方ない。私はセピイおばさんの話を追う。
「その夜、食事を終えた後で、オペイクス様はパールに謝った。自分の母親の振る舞いを。そして誓ったんだ。二度と彼女に母親を近づけない、と。
すると、パールも逆にオペイクス様に謝るんだ。自分のせいで、オペイクス様を家族と絶縁させてしまった、と気に病んだのさ。
オペイクス様は『それには及ばない』と答えた。『悪いのは私の母親と弟であって、あなたじゃない。むしろ血の繋がりがある私自身を恥じる』と。
そんな感じでお互いに謝り合ったら、会話が平行線になるだろ。オペイクス様はそれを遮って、改めてパールに言った。自分は貴族の娘を妻に迎えたりする気は一切無い事。自分が共に暮らしたい相手は、パールだけである事をね。
きっと、その夜もパールはオペイクス様の胸板に顔をうずめて、泣きながら寝ついたんだろうよ」
セピイおばさんは、そこで話を区切って、窓の方を見た。窓は開けていないし、そのずっと先にナクビーの町があるのかも分からない。そこまでは、さすがにおばさんも知らないはず。
「さて、オペイクス様が都から戻って、生家と絶縁してから。オペイクス様は、たしか『一週間も経ってはいなかった』とおっしゃったよ。ビナシス家の党首からコモドーン城に呼び出された。
ビナシスは、やっぱり気になったんだよ。都で自分と別れた後、オペイクス様がアンディン様とどんな会話、やり取りをしたのか、がね。
オペイクス様は問われるままに正直に答えたんだろう。もちろんパールの名前は伏せて、だが。
オペイクス様の報告を聞くや、ビナシスは声を荒げたらしい。『それでは何か。そなたは早く家に帰りたい一心で、ヌビ家に馬車で送ってもらったと申すか。馬鹿かっ。そんな図体で、童でもあるまいに。聞かされる俺の方が恥ずかしくなるわっ』
続けて小言を浴びせたが、言われなくてもオペイクス様には内容が読めていたよ。ヌビ家という上級貴族の党首と会話する絶好の機会を逸した事。相手の情報を引き出したり、自分を売り込んだり。できる事は幾らもある。しかも、そんな好機は、そう簡単には、やって来ない。
居合わせた他の騎士や兵士、使用人たちも忍び笑いしていたみたいだね。
オペイクス様は、これらの反応に大人しく耐えたよ。何と罵られようが、パールの安全を確認できれば、それでいい。逆に、それ以外を優先するなんてできないのさ。
ついでと言おうか、ビナシスはオペイクス様に、もう一つ確認した。王弟様からいただいた褒美袋の使い道だよ。
オペイクス様は一瞬、没収されるのでは、警戒した。しかし顔に出すわけにはいかないし、正直に言うしかない。お母様に渡して、弟の結婚に使うよう勧めた事を話した。
するとビナシスは、また貶した。『母親にそっくり差し出すなんて、それこそ童のやる事』って言うんだよ。
で、この賢明なご主人様が言うには『自分だったら、女郎屋でしこたま遊んでから、ゆっくり帰る』んだと」
「作法とか肝心の事は教えないで、そういう尋ねてもないような事は進んで話すのね」と私もビナシスを貶したくなる。
「まあ、男なんて、そんなもんだ。
とにかくビナシスは好き勝手に叱りつけて、オペイクス様を帰した。ビナシスとしては、探りを入れた割には大して収穫が無かったってことだろう」
セピイおばさんは、また一旦、話をやめる。
そして、ため息。今回は、何とも重たく聞こえる。もしかして。
「それから、さらに二ヶ月くらいは、大した事件も無く、オペイクス様とパールは比較的平穏に過ごせた、と。
その頃に一度、アンディン様から手紙が届いた。都アガスプスからナクビーまでオペイクス様を馬車で送ってくれた連中が、今度は使者として、手紙を持って来たんだよ。
オペイクス様は、ビナシス家の党首に散々叱られた後だったから、ちょっと疑う、というか諦めかけていたらしい。『ヌビ家の党首、アンディン様も、このオペイクスに呆れ、かつ忘れたのかも』なんてね。そこへ手紙が届いたもんだから、オペイクス様は慌てて返事を書いて、使者たちに手渡した。アンディン様は文中で、改めて話を聞く約束を念押ししておられたそうだ。日程の方は、アンディン様が何かとお忙しくて、まだ決まっていなかったがね。
そうだ。『平穏そうでも、一度だけ、その平穏を破る、嫌な出来事があった』とオペイクス様は、おっしゃっていた。
平民たちの中でも無礼な男どもが、パールを悪く噂したんだよ。そいつらは、パールがペレガミ家でどんな目に遭ったのか、薄々知りながら勝手な事を言いふらしたらしい。『俺たちも頼めば、床で相手してもらえるんじゃねえか』くらいの事をね。
それを聞いて心配した、良識のある平民たちは、急いでオペイクス様に報告した。もちろんオペイクス様は、カンカンだよ。すぐさま、その無礼な男どもを捕まえた。平民たちも手伝ってくれてね。
調子に乗っていた馬鹿どもは、オペイクス様が人数分の槍を持ってくると、震え出して失禁したそうだ。さすがに、この時は、肛門から刺したりはしなかったがね。パールの目を見れば、怯えや悲しみの色は見えても、彼女がそこまで望んでいないことは明らかだった。そこでオペイクス様は、そいつらを槍に縛りつけて、数日ほど屋敷の前に立たせる事で我慢したんだ。
オペイクス様は、この事件もコモドーン城に出向いて、ビナシス家党首に報告したよ。そして、先走って問題の男どもを勝手に処分した事を謝罪した。
言われたビナシスは、そんな不届き者たちなんか、どうでもよかったんだろう。オペイクス様を大して叱らなかった。それどころか、城の使用人とか他の者たちから事件の発端をパールだと知らされて、余計なことを言うのさ。『そんな傷物の女など捨てて、お前も貴族の娘と世帯を持たんか』なんてね。
ビナシスが言うには、ちょうどオペイクス様の弟さんに、近隣の小貴族の娘との縁談を世話してやっている最中だったんだと。
もちろんオペイクス様は丁重にお断りして、ナクビーに帰った」
「ほんっと気が利かないわね、このビナシスって」私は我慢できずに吐き捨てた。ロウソクの明かりで、つばが飛ぶのが見えた。
「オペイクス様は改めて推測したそうだよ。お母様がパールを悪く言ったのは、こういう連中の言葉を真に受けたからじゃないかってね。その意味でも『連中に怒りを覚えた』と」
「あり得るわね。まったく、どいつもこいつもパールの気持ちを考えようともしないで」
そこまで言って、私は黙った。セピイおばさんの話を邪魔してしまった。そうじゃなくて、今は、まず聞かねば。
しかし、おばさんもすぐに話を再開しない。気のせいか、元気も無いような。数秒の沈黙の後、やっと再開してくれる。
「ビナシス家党首の余計な気づかいは、その後も続いてね。
弟さんの結婚が近づいてきた、ある日、ビナシス家は狩りを催した。で、オペイクス様もナクビーから呼び出して、弟さんも同行させて、仲直りの機会を作ってやろうと。
一応、主君の意向なんだから、オペイクス様は、なるべく弟さんに話しかけたそうだ。ところが弟さんからは、ほとんど無視。主君ビナシスの手前、仕方なく返事するだけ。
これにはビナシスも呆れて、オペイクス様たちを放っておいて、狩りを楽しんだ。
気の優しいオペイクス様は、か弱い動物たちを仕留めてもパールに自慢できないと思って、矢を外してばかりだった。当然、他の騎士や兵士たちから笑われて。
逆に弟さんの矢は、主君ビナシスから逃げる鹿の脚に突き立って、ビナシスが鹿を仕留める際に、ちょうどいい加勢になったんだと。その後はビナシスも弟さんにばかり話しかけて、オペイクス様には素っ気なかったとさ」
聞きながら、私はますますビナシスが嫌いになった。いい歳こいたオッさんがえこひいきだなんて。ビナシスの方が、よっぽど子供じゃない。弟だって、そう。
しかし言わずに、セピイおばさんの話に耳を傾ける。
「オペイクスは帰ってから、失敗談のつもりでパールに話した。そしたらパールは目を輝かせてオペイクス様を褒めた。『それは良い事をなさいました。あなた様のおかげで、生き物が何頭か生き延びたのです』と。
オペイクス様は、途端に心が軽くなるのが分かったそうだ。日中の居心地の悪さから解放されて、雨雲に覆われていたような気分が晴れ渡ったのさ。
オペイクス様は嬉しくて、それをそのままパールに伝えて、感謝した。
すると、だ。逆に、輝いていたパールの表情に、サッと影が差した。オペイクス様は驚いて、言葉を失ったよ。自分は何か悪いことを言ったのか。一体、どこで彼女の心を曇らせたのか。
しかし反省する暇も無かった。パールが、またしても、すがりついてきたんだ。そうやってオペイクス様の胸に飛び込んだかと思えば、急に顔を上げて、オペイクス様の唇やら頬やら首筋、あちこちに口づけをする。狂ったように、夢中で、口づけしまくるんだ。前回より、いやそれまでで一番激しかったんじゃないかねえ。
その上、服も乱暴に脱ぎ捨てて、オペイクス様が止めようとしても、着ない。泣きながら裸になって、オペイクス様の手を取って、乳房や尻をつかませようとする。
オペイクス様も慌てて服を脱いだ。そして、その服でパールを包もうとしたが、彼女は嫌々と首を横に振って抵抗する。
困り果てたオペイクス様にできたのは、せめてパールと同じく、自分も裸になって立ち尽くす事くらいだった。
絶句しているオペイクス様に、パールは言った。『きつく抱いてください。今日こそ、私の上に覆い被さって。どうか私に遠慮しないで』
涙をだらだら流しながら訴えるパールの勢いに呑まれて、オペイクス様は寝床まで引っぱられた。で、横たわる彼女に上から近づいた。自分の体と寝床の間につっかえさせている腕や脚の力を抜いて、そっと彼女の上に乗る。オペイクス様はパールに体重をかけたよ。
途端に、パールの口から苦しげな声が漏れた。オペイクス様は慌てて体を浮かせたが、その首を彼女は急いで捕まえて逃がさない。『ご、ごめんなさい。ちゃんと、こらえますから、もう一度』
しかしオペイクス様も、もう言わせなかったよ。まず、パールの唇に口づけして塞いだ。そして、できるだけ優しく言った。『あなたが謝る事じゃない。あなたは何も悪くない。こらえたりしないで』
そしてパールの背に腕を回して、とにかく体を引き起こした。
で、二人とも、そのまま数秒ほど何も言えずにいたんだが、オペイクス様も、もう興奮してしまっている。オペイクス様は、脚を開いたパールを自分に跨らせた。そして、きつく抱きしめる。二人とも、体を起こした状態で抱き合うんだ。
オペイクス様は、その状態から顔を下げて、パールの首筋や乳房に、やたらめったらに口づけした。舌を這わせ、肌を吸いもした。
それからオペイクス様は自分の陰茎を、パールの膣に入れた。そおっとだが、全部入ってしまうと、また腕に力を込めて、抱きしめる。背中に回していた手も下げていって、尻も掴む。
二人して、そうやって体を起こしたまま、互いの体をひしと密着させて、しばらく抱き合っていた。オペイクス様がパールの中に精を放った後も。
それからオペイクス様は背を倒した。例によって、パールが上に乗った状態だよ。二人とも汗だくだったそうな。
オペイクス様は聞いた。『痛くなかったかな』と。パールは首を横に振る。顔をオペイクス様の胸板にこすりつけて。そして小声だが『嬉しい』と言ってくれた。そんな気がした、と」
セピイおばさんは、ため息をはさんだ。またしても、重たい重たい、ため息。
「オペイクス様はねえ、そんなパールとの契りを、どんな様子で私らに話したと思う?」
不意の質問に、私は答えられない。どういうふうに体を触れ合わせたかの説明がやたら細かくて、本来なら親族であるセピイおばさんとできる話題じゃない。赤面ものだ。
しかし私の顔は今、赤いどころか、青くなっていると思う。鏡が無くても充分、予想できる。熱くなったりしない。嫌な予感がどんどん大きくなっていく。あの忌まわしい小屋の事件の話を聞いた時より、はるかに。
セピイおばさんは私を待たずに、答えを語った。
「オペイクス様は泣いていた。いつの間にか、塔の床に座り込んで、大きな体を丸めるように縮めて。消え入りそうに、私には見えたよ。
オペイクス様は泣きながら、私らに話したんだ。パールに、なんて乱暴な事をしたのか、と言わんばかりにね。
オペイクス様が言うには『その前にも時々あった』と。性欲のみでパールを見てしまった事が。自分本位で、相手を思いやらない、身勝手な欲求。ペレガミの人でなしどもと同じ類の欲望だよ。
それがために、パールを怯えさせ、苦しめ、自分が彼女から嫌われる。拒まれる。その展開をオペイクス様が、どれほど恐れた事か。
しかし実際は、それ以上だよ。パールはオペイクス様を拒むどころか、責めない。一言も。『パールは私に、嫌とは言わなかった。だからと言って、許されるのか。私は彼女に我慢させていただけじゃないのか。彼女は私の欲求に合わせただけじゃないのか』なんて自問を、オペイクス様は何回も繰り返す。私らの存在なんか忘れて、一人語りしているみたいに。そして一向に顔を上げない。
でも私らだって、オペイクス様を責める気になんかなれないよ。何と声をかけてあげたら良いのか。その言葉が、なかなか思いつかない。私は、やっとこさ言ったんだ。『オペイクス様はパールに応えただけです。パールに言われた通りにした』と。それしか言えなかった。
でもオペイクス様は黙って、首を横に振るんだよ。座り込んで、両膝に顔を隠したまま。
オペイクス様は私に答える代わりに、話を続けたよ。『その後しばらくしてパールと、もう一度契った』と。
パールが這い上がってきて、またオペイクス様の顔や首筋に口づけしまくる。さらにはオペイクス様の頭を抱え込んで、自分の乳房に押し当てて。
オペイクス様もパールの乳房や首筋に口をつけ、舌をつけて、強く抱きしめる。そして陰茎を差し込んで、腰を掴む。
二人とも、さっきと同じ、体を起こした状態だよ。オペイクス様は言った。『要するに、私は彼女の体を貪ったんだ。上から、のしかからないようにするのが、やっとだった』と。
その後、パールはオペイクス様の上で、ぐったりとして。オペイクス様は『ゾッとした』とおっしゃったよ。あの小屋での事、ペレガミの人でなしどもに嬲られた後のパールを思い出したんだ。オペイクス様は『結局、自分は連中と同じじゃないか』と思えて、泣きたくなったそうだ。
オペイクス様は、できるだけ、そっと尋ねた。『きつかったんじゃないのか?』と。
パールは、やっぱりオペイクス様の胸板に顔をつけたまま、首をゆっくり横に振る。自分の胸板が濡れて、オペイクス様は、それが彼女の涙だと気づいた。
パールは一度だけ、とても小さな声でオペイクス様の名を呼んでから、眠ってしまったそうだ」
「おばさん」私は、たまらず口をはさんだ。「パールは、オペイクスを悪く思ったりしてないわよ」
「ああ、私も、そう思うし、一緒に話を聞いた他の三人も、そこは分かっていただろう。
でも、オペイクス様は自分自身を許さない。パールを大事にしたいというお気持ちは、私も賛成なんだが。
それより、次の朝だよ。オペイクス様は、そっとパールを起こした。すると、パールは何とも優しげな微笑みを浮かべて。オペイクス様は『その時のパールの表情は、いつでも思い出せる』とおっしゃっていたね。
オペイクス様はパールに服を着せてから、軽く抱きしめた。パールは、サッと背伸びしてオペイクス様に口づけしたとか。
それから二人は、それぞれの仕事場に向かうんだが。オペイクス様の方は、もう一度コモドーン城に行かなきゃならない日だった。前日の狩りの後片付け。仕留めた獲物の解体とかを手伝うんだよ。城まで距離がある分、オペイクス様は早く行かなければならない。
それで気を使ったのか、パールは一人でボジェナさんの家に行くと言った。オペイクス様に送ってもらわなくても大丈夫だ、と。二人の小さなお城からボジェナさんの家まで、薄暗い場所があるわけでもない。卑猥な男どもは、パールを見かけたら黙って逃げ出すほどになっていた。そいつらだって、肛門から槍で串刺しなんて嫌だろうからね。
パールは、それら全てがオペイクス様のおかげだとして、改めて礼を言って、微笑んだ。
オペイクス様は迷った。なるべくなら送って行きたい。しかし。微笑んでいながら、同時にパールが自分に向ける眼差しには、力が感じられた。はっきりした意志の力だよ。
パールは繰り返した。『どうか私のことは心配しないで、お仕事に行ってください』と。
オペイクス様は少し気圧されて、仕方なく屋敷に向かった。馬を借りるためにね。その途中でオペイクス様は振り返ったよ。パールが小さく手を振っていた」
セピイおばさんの言葉が途切れた。嫌だ、嫌だ、嫌だ。悪い予感が止まらない。おばさん、普通に話して。
「オペイクス様はコモドーン城に入ると、他の騎士や兵士たちに混ざって、予定通りに仕事をした。毛皮を剥いだり、角を切り外したり。動物たちの死骸をいじくり回すばかりで、少しも楽しくない仕事だったと。
党首のビナシスは前日に続いてご機嫌だったが、オペイクス様には、ほとんど声をかけてこない。見限られたな。そう推測しながらも、オペイクス様は焦る気にもなれなかったそうだ。
オペイクス様だって、党首ビナシスには幻滅していた。パールの存在を知りながら、認めない。結局、お母様や弟さんと同類なんだ。
おまけに、嫌な噂も伝わってきてね。表向きはペレガミの未亡人と娘を保護しているが、実際は母娘ともども妾にしているとか」
「りょ、両方とも、なの?本当だったら、最低だわ」私は呆れて、声が裏返った。
「おそらく本当だったんだろうよ。こういう時は、残念ながら、本当である事が多い。火のないところに煙は立たないからね。
オペイクス様は、ビナシスを主君として尊敬できなくなっていた。ペレガミよりマシ、というくらいか。あまり信用できない。できれば、お仕えなんかせずに、距離を取りたい。しかしパールを養うためだ。仕方なく、お仕えするだけ。
そうやって再認識していたら、オペイクス様は、ふと思い出したよ。ヌビ家の党首アンディン様を。いつか、ゆっくり語らいたい、とおっしゃってくださった、あの方」
「はっ、そうだわ。パールを連れて、ヌビ家に移ればいいっ」
私は思わず、椅子から立ち上がりそうになった。鬱陶しい雲が退き下がって、空が晴れ渡った気分。悪い予感なんて、私の勘違いなんだわ。
「そう。オペイクス様も、それを思いついた。その時点でオペイクス様はヌビ家の領地をよく知らなかったが、ナクビーやコモドーンから離れている事は間違いない。ということは、パールの辛い過去を知っている者は居ない。勝手な噂を広めて、パールを苦しめる奴も居ないはずだよ。新天地に行けば、きっとパールの心は解放されるだろう。世話になったボジェナさん一家とパールを別れさせる事になるのが、唯一の気がかりだが。
そこまで考えが至ったオペイクス様は、もう居ても立っても居られなくなったそうだ。早くパールに話したい。提案して、パールの意見を聞きたい。一刻も早く。
そんな時に限って、だよ。弟さんが近づいてきた。普段はコモドーン城内で、兄であるオペイクス様とすれ違っても目を合わせようともしないのにね。
弟さんが言うには、主君ビナシスが自分たち兄弟を、揃って晩餐に招待した、と。それを伝えに来たのさ。
その夕刻、オペイクス様は焦れる気持ちを抑えて、晩餐の席についた。ほとんど末席に近かったが、真向かいに弟さんが座った。その隣に若い娘。弟さんが彼女を、自分の婚約者と紹介したよ。
オペイクス様は弟さんの婚約者のことをほとんど覚えていないそうだ。たしか、エクテ家同様の小貴族の娘だったんだろう、と。オペイクス様自身もおっしゃっていたが、当たり障りのない会話に終始したんじゃないかねえ。コモドーン城で知り合ったのか、とか、それぞれの紋章の由来とか。
逆にオペイクス様がはっきり覚えていたのは、途中で主君ビナシスが割り込んできた事だよ。日中は言葉も交わさず、晩餐への誘いも弟さんにさせたくせに、盃片手にオペイクス様の背を叩いたりしたとさ。それで言うのは、また余計なお節介だよ。
『見よ。弟は、こんなに美しい嫁御を見つけたではないか。そなたも弟を見習って、嫁をもらえ』
オペイクス様は、ぐっとこらえてビナシスに答えた。
『ご冗談を。私に妻と望む相手が居る事は、ご党首様もご存知ではありませんか。
むしろ私は、その人の元に戻らねばなりません。そろそろ、お暇させていただこうと思います』
すると、ビナシスは露骨に顔をしかめたそうだ。
『ああ?せっかく俺が、そなたら兄弟のために和解の場を設けてやったのに。平民の女の方が大事と申すか。
ふん、勝手にせい。ついでに、このコモドーンには、しばらく顔を出さんでよいぞ』
オペイクス様はビナシスに晩餐の礼を言い、弟さんと婚約者に『お幸せに』と祝意を伝えてから、コモドーン城を後にした」
「やっとコモドーンから出られた」と私はビナシスに腹が立ってくる。
「そう、やっとだ。外は、すっかり暗くなっていたらしい。
オペイクス様は馬を急がせて、ナクビーに戻ったよ。
そして馬を返すべく、屋敷に向かおうとしたが、ふと考え直した。もうしばらく借りていよう、と。主君ビナシスに邪険にされた、ささやかな仕返しでもないが。パールを迎えに行って、その帰りに馬を返せばいいだろ。それでオペイクス様は騎乗したまま、ボジェナさんの家に寄ったんだ。
そしたら」
セピイおばさんは、はああ、と重たい息を吐いた。
「パールは居なかった。ボジェナさんの一家は出てきて、迎えに来たオペイクス様に驚いたよ。『今日は元々、パールがこちらに来ない予定だったはずですが。あなた様に同行して、お仕事を手伝う日だ、と。昨日、彼女から、そう聞いております』
オペイクス様は、おっしゃったね。『おそらく私は青ざめていただろう』と。
オペイクス様は混乱して、ボジェナさんたちに返事するのも忘れて、自分たちの小屋に戻った。そして馬の手綱も近くの木に結びつけるのも忘れて、小屋に飛び込んで。
中には・・・テーブルの上に、羊皮紙が一枚、広げて置いてあった。その端に、王弟様からの褒美袋が乗っかっていて。お母様に渡したはずの褒美袋。羊皮紙には、何か書いてあるのが見える。
オペイクス様は息が詰まりそうに感じながらも、意を決して羊皮紙を手に取ったよ。案の定、文字はパールが書き残したものだった。
パールの文章は、まず字の拙さを謝るところから始まっていた。それまで、字をしっかり教えてもらう機会が無かったらしい。ペレガミ家で女中として働きながら、ボジェナさんとか、目上の女中たちに教わった、と書いてあった。
それから本題に入るんだが。前日の出来事が記されていた。オペイクス様がビナシス家の狩りに参加して、コモドーン城に行っていた間、オペイクス様のお母様が小屋に来ていたんだよ。そこまで読んだだけでオペイクス様は怒りに駆られて、思わず大声を出した。『パールに近づくな、と言ったのに』と。
オペイクス様のお母様とパールが、どんな会話をしたのか。その細かい内容までは、パールも書いていなかったよ。
とにかく分かったのは、オペイクス様のお母様がパールに、オペイクス様と別れるよう迫った事。『私の息子は、せっかく王陛下に謁見までしたの。まだまだ貴族として出世できるはずでしょ。お願いだから、私の息子を束縛しないで』とかパールに言ったらしい。
王弟様の褒美袋は、パールがオペイクス様と別れた後に、当面の生活費に充てるよう、お母様が押しつけたものだった。
これらのせいでパールは、自分が身を引くべきだ、と結論したんだよ。『お母様のおっしゃる通りだと思いました』と、その置き手紙には書かれていた。
そしてパールは、こんなふうに手紙を締めくくった。『どうか私のことは忘れて、私と違った、立派なお嫁さんを迎えてください。あなたのためにこのようなお返ししかできない私の非力さを、どうかお許しください』と。
読み終えたオペイクス様は、気が狂いそうに思えたそうだ。自分と別れたら、どうするつもりなのか。パールは、その点を全く書いていなかったんだ。
この時点でパールは、どこにいるのか。誰か他の男のいるのか。それとも一人なのか。安全な場所なのか、危険なところなのか。全く分からない。
もし、パールが何らかの暴力に苛まれていたら。ちょっと考えただけでも、オペイクス様は体が震えて、すぐにでも小屋を飛び出したくなった。しかし、どこに行けば。
オペイクス様は、とりあえず小屋の外に出たよ。すると、放ったらかしにされた馬がオペイクス様をなじるでもなく、ゆっくり近づいて来た。
さらに、その向こうに揺れる人影が幾つか見えた。ボジェナさん夫妻を含めた、平民たちだよ。彼らが状況を尋ねたので、オペイクス様は、もう正直に話した。パールがどこかへ行ってしまった事。置き手紙の事。
これを聞いて、平民たちは『手分けして探しましょう』と言ってくれたよ。『おかげで私は目が覚めた』とオペイクス様は表現したね。途方に暮れている場合じゃないと気づかされたんだ。
オペイクス様は自分の両頬を叩いてから、改めて平民たちに協力を求めた。そして自分は馬がある分、なるべく遠くを回ってみる事にしたよ。時折り、オペイクス様の小屋に集合するということで。
平民たちは、すぐに動いてくれた。パールを探しながら、それぞれ隣近所に声をかけて仲間を増やしてくれたんだ。しばらくすると、もうナクビーの住民全員が外に出てきたようだったと。中には松明やランプ片手に、暗がりなんかを分け入ってくれたらしい。
その間オペイクス様は、馬をナクビーの端から端まで走らせたよ。大声でパールの名を繰り返して。しかし、どこからも返事は無い。
一回、二回と町を往復して、平民たちとすれ違う度に、成果を尋ねても、良い知らせは無かった。まあ、何かあったら、平民たちの方からオペイクス様を呼び止めるはずだからね」
「おばさん」私は我慢できずに、話を遮った。
「オペイクスのお母さんのところは?原因をつくった母親が何か知っているんじゃない?」
「うむ。当時のオペイクス様も、途中でそれを考えたよ。で、馬でエクテ家に向かい、お母様を叩き起こした。
お母様は、パールの行方を知らない、と答えた。オペイクス様が喰い下がって『パールは何か言っていなかったか』と聞いても『あの女の言い分なんて興味は無い』と来た。それどころかオペイクス様に『エクテ家に戻って来なさい』と繰り返すばかり。
口論になってオペイクス様が声を荒げているところへ、ロバに乗った平民が二、三人ほど駆けつけた。オペイクス様は、また彼らのおかげで冷静さを取り戻して、お母様の元を去ったよ。罵り合うより、パールの捜索に専念しようと。
そうまでして夜中、ナクビーの町を調べ尽くして、郊外にも馬を走らせ、小屋にも何回も戻ったんだが」
おばさんの言葉が途切れる。私が口をはさんだわけでもないのに。
「お、おばさん」私は泣き出した。「お願いだから、パールが見つかった、と言って。二人を再会させてあげて」
セピイおばさんは、ゆっくりと首を横に振った。
「プルーデンス。私は神様じゃないよ。私も事実は変えられない。私も聞き手だったんだ。オペイクス様に話を聞かせてもらっただけ。もちろん、忘れはしないが。
イリーデがあんたと同じ事をお願いしていたよ。あの娘も、わんわん泣いてね。かつてオペイクス様に迫った事とか、すっかり忘れて」
そこまで言って、セピイおばさんは笑いかけたが、やっぱり笑えなかった。おばさんも泣いていたんだ。
「パールの遺体が見つかったのは、翌朝だった。
夜は大人たちが捜索を手伝ってくれたんだが、朝になって、平民の子から情報が入った。
その子が親に言うには『川に入っていく女の人を見かけた』と。その川は深い所があって、以前にも子供が溺死した事があったらしい。
その事故をその子も覚えていたから、その女の人に教えてあげたんだが。彼女はその子に感謝しながらも『水浴びをするから見ないで』とか返した。
その子は男の子だったんで、慌てて、その場を離れたよ。しかし、まだ幼かったとは言え、やっぱり気になったのか、少し覗いてみたそうだ。
そしたら彼女は水浴びどころか、川原を何回も行き来するじゃないか。どうやら大きめの石を探して水際に集めているらしかった。
それで男の子は興味を失って、家に帰り、翌朝まで忘れていたのさ。
この情報を得て、とにかくオペイクス様は、その川へ急いだよ。馬も、まだ返さずに、そのまま使っていた。
川原では、先に平民たちが集まっていた。自分たちで持ち寄った粗布か何かにパールを寝かせ、そのそばでうろたえていたんだ。男たちは立ち尽くし、頭を抱えて、オロオロしたり。女たちは体を寄せ合って、震えていたり、泣いていたりしていたそうだ。
オペイクス様は馬から飛び降りんばかりに急いで、パールに駆け寄った。そして抱え起こそうとしたのだが。
パールの体は濡れて冷え切っていた。その事は、ある程度オペイクス様も覚悟していたつもりだったが。すぐに分からなかったのは、その姿と重み。服の上から縄が、パールの体にぐるぐる巻き付いていた。
その縄の端をパールの両の手が、それぞれ左右に引いている。強ばったその手を少しずつほぐして、オペイクス様は縄を離させた。そしてパールの体から縄を外していったよ。単純に巻き付いているだけで、硬く縛ったりはしていなかったから、ほどくと言うほど手間でもなかったんだが。
その最中に服の中で、やたら重い塊がずり下がって、服を下に引っぱる。オペイクス様がパールの服の襟元とかを広げて、塊の一つ一つを取り出すと、やはり石だった。拳とか林檎くらいの大きさの石が幾つも出てきたんだよ。
服は破けていなかったんだが。肌着の中にも石が入っていたせいか、肌にかすり傷が幾つか見えた。
オペイクス様は近くにいた平民の女たちに頼んで、パールの傷の程度を調べてもらったよ。女たちはパールの遺体を囲んで、男たちからの視線を防ぎ、って男たちもオペイクス様の手前、ちゃんとよそを向いていたようだが。女たちはパールのかすり傷を数え上げ、やはり石でこすれたんだろう、とオペイクス様に報告した。どこかの男どもに乱暴されたわけではなさそうだ、と。
女たちがパールの服の乱れを直して、オペイクス様を呼んだので、オペイクス様は改めてパールのそばに膝をついて、彼女を抱き起こした。そして、少しでも暖められないかと、自分の胸元に彼女の頭をもたれさせて。彼女の濡れた額に頬ずりして。
オペイクス様は、ひたすら泣けて、声も出なかったそうだ。もっとも駆けつけた時から涙を流しておられたんだろうけど。
そんなオペイクス様に平民たちは謝るんだ。
『あなた様が来られるまで、この人をどうしたらいいか分からなくて』
『うちの息子がもっと早くお伝えできていたら』
なんて帽子とかを胸元で握りしめたりしながら、言う。彼らの何人かも涙していた。
オペイクス様は、返事をするのが大変だったそうだよ。『気にしないで。あなた方は何も悪くない。むしろ、よく見つけてくれた』とか言ってあげたいんだが、何度も、つっかえたと」
「パールは・・・自分で死を選んだの?」
「おそらく」
セピイおばさんの返事の後、私たち二人は数秒ほど言葉を失くした。
言いたいことは山ほどあるが、私が言ったところで、オペイクスとパールの状況は変わらない。そう思うと、悲しいし、悔しい。
沈黙を破ったのは、セピイおばさんだ。
「いけないね、こんなことじゃ。話を続けよう。あんたも、しっかり聞いとくれ。
オペイクス様は、しばらく泣き続けた。それから自分がどうするべきか、考えようともしなかった。何も考えられなかったと。
考えようにも、疑問ばかり。しかも相手は答えてくれない。パールからは、もう何の反応も得られないんだ。分かるのは、それだけ。
なぜパールは死を選んだのか。彼女には、他に方法は無かったのか。これなら他の男と逃げてくれた方が、まだマシだったのでは。いや結局、私は嫉妬にかられて耐えられなかったのかも。だったら、この結果は仕方ない事なのか。もしかしたらパールは私を気づかって、あるいは私を恐れて死を選んだのか。
そうだ。少なくとも私がパールの死に関わっている事は確かだ。オペイクス様も『それだけは理解した』とおっしゃったよ。なぜなら、パールに言葉でとどめを刺したのは、自分の母親だ。その母親に、手切金なんて親不孝をしたのは、自分。その親不孝が、こんな形で自分に返ってくるなんて。『まんまと母親に復讐された』とオペイクス様は思ったそうだよ。
しかし。いつまでも嘆いてばかりはいられなかった。平民たちが小声で話しかけてきたんだ。『これから、どうしましょうか』と。
それでオペイクス様は、ようやく考えを進めた。平民たちに礼を言い、『苦労をかけて悪かった』と謝った。そして解散を促しながら『荷車を一台、貸してほしい』と頼んだ。
荷車はすぐに来たが、平民たちは、なかなか去らない。
それどころか、オペイクス様たちの小屋の前に男たち数人を縛り上げている、なんて報告までする。以前、パールに卑猥な言葉を投げかけて、こってり搾られた連中だよ。オペイクス様は平民たちに、その男たちを解放するように言った。今回は無実だし、オペイクス様には八つ当たりする気力も無かったんだ。
ついでにオペイクス様は、王弟様の褒美袋を思い出して、みんなで分けて使うよう頼んだよ。平民たちに押しつけて悪いとは思ったが、パールにとどめを刺したそれを、もう見たくなかったんだ。
オペイクス様は、荷車にパールの遺体を載せたよ。そして、とにかく教会堂に行って、神父をつかまえようと考えた。終油の秘蹟が受けられないか。それがだめでも、葬儀のミサだけでもしてもらおうと。
馬に荷車を引かせようと繋ごうとした、ちょうどその時、屋敷の使用人がやって来たよ。主人である、ビナシス家の役人から馬を取り返すよう命じられたんだと。オペイクス様は馬を返して、自分で荷車を引くことにした。これもパールに対する償いのようなものだ、と思ったそうだ。
オペイクス様と荷車は、河原からナクビーの町の中心に向かって進み、途中にあった教会堂に入った。それまでには平民たちもだいぶ減っていたが、ボジェナさん一家を含め、まだ二十人ほどがついて来ていた」
セピイおばさんは、そこまで話すと、葡萄酒をちょっとだけ口にした。私も同じくらい、もらった。
「教会堂では、少々もめたらしい。オペイクス様じゃなくて、平民と神父が、ね。オペイクス様が事情を話すと、パールを自殺者と見なして、神父が渋い顔をしたんだ。言葉ではっきりと表明したわけじゃないが、明らかにいい顔はしなかった、と。要するにヨランドラの坊主どもの、融通が利かないところだよ。
そんな神父の態度に、事情を知る平民たちが喰ってかかったわけさ。『それでもキリスト教徒かっ』なんてね。中には、その神父が元領主のペレガミ家と懇意にしていたんじゃないか、なんて勘ぐる者までいたようだ。
そんなでも、とにかく、その神父は即席でパールの葬儀のミサを執り行ってくれたよ。神父が仕方なしにでもいい、とオペイクス様は思ったそうだ。
終油の秘蹟も結局、催促しなかった。そんな形式的な儀式で許されたと認定してもらわなければならないような罪など、パールにあるはずがない。むしろペレガミたちが終油の秘蹟を求めたら、拒絶してほしいくらいだ。そんなことを考えながら、オペイクス様はミサにあずかったそうだ」
「同感だわ」と私。
「私もだよ。一緒に話を聞いたイリーデたちも、きっとそうだったろう。
ミサには、もちろん同行してくれた平民たち全員が参列して、パールのために手を合わせてくれたよ。
ボジェナさんなんか泣き過ぎて、旦那さんに支えられていたとか。
それよりも、ボジェナさん夫妻の孫たちだ。当時、四歳から八歳くらいだったとか。『何で、パールお姉ちゃんは死んじゃったの』なんて疑問を持つわけさ。オペイクス様はもう、それだけで泣き出した。『私の母が』とか『私の配慮が足りなかったから』とか答えようとして、ボジェナさんたちから止められたんだと。
ミサの方は、それで何とか形になったが。
困ったのは、お墓だよ。そもそもオペイクス様としては、パールの死を受け入れたくない。彼女を土に埋めたりしたくない。かと言って、このまま彼女の遺体を腐らせるわけにもいかないだろ。
河原から教会まで歩く間中、そしてミサの最中も、パールが息を吹き返してくれないかと、ずっと願っていた。甘過ぎる期待と知りながらも、願わずにはいられなかった。しかし神様は叶えてくださらなかった。
だから、彼女を埋めてあげるお墓が要るのだが。オペイクス様は生家エクテと断絶しているんだ。エクテ家の墓は使えない。オペイクス様も一瞬、お母様に頭を下げて、頼もうかとも思ったよ。だが、すぐに無駄だ、と考え直した。よくて、自分がエクテ家に戻る事を条件をつけてくるか。そんな条件の後で、本当にパールを墓に入れさせてくれるかどうか。『そうやって予想しただけでも、もう生家に頼るのが嫌になった』とオペイクス様は、おっしゃっていた。
仕方なくオペイクス様はパールを乗せた荷車を引いて、自分の小屋に戻った。平民たちは、もちろん帰したが、オペイクス様を心配して、なかなか解散しなかったらしい。
その時点で日も暮れていた。平民たちに容疑者と見なされた男どもは解放されたらしく、影も無かった。
オペイクス様はパールを乗せた荷車を小屋に横付けにした。そしてパールが少しでも痛い思いをしないように願いながら、小屋の中の寝床にそっと移した。パールの体は、だいぶ固くなって、へんに抱えやすくて、それがまた悲しかったそうだよ。
その後で、ふとテーブルに目が行った。王弟様の褒美袋が、まだ残っている。オペイクス様は『途端に体が熱くなるのが分かった』と私らにおっしゃったよ。褒美袋を引っつかんで、小屋の外に飛び出した。そして地面に叩きつけようと振り上げたんだが。
周りに平民たちの家の明かりが見えた。ゆっくり見回すと、点々と灯っている。それぞれ夕食の支度などしている頃だろう。その日、一日中オペイクス様とパールのために行動を起こしてくれた、ナクビーの住民たちだ。
オペイクス様は、たしか、その時の気持ちをこんなふうにおっしゃったね。
『彼らに、この報奨金を分けたら、彼らの生活にどれほど潤いをもたらす事ができるだろう。彼らが遠慮したから、小屋に残っていたのかもしれないが。
彼らに配ったら、パールは、きっと喜んでくれただろうなあ。今からでも一軒々々回って、その玄関先にそっと一枚ずつ置いて去る、というのはどうだろう。パールを小屋に残したままになるのが気がかりだが。
そうだ。こんな事なら、自分の母親に嫌味な親不孝をするより、パールと一緒に配って回ればよかったんだ。夜、パールと二人で、いたずらするみたいに近所を回って、密かに貨幣を配る。そしたらパールは私にどんな顔を見せただろう。少なくとも、母がパールにこれを押しつけるような事態にはならなかったはずだ。
そう思い至って、私は泣いた。大声で泣かずには、いられなかった。すぐに近くの平民たちが心配して外に出てきたので、私は小屋に戻るしかなかったがね』
と」
セピイおばさんの言葉が、また途切れた。私も、何も言えなかった。
「オペイクス様は、その後パールの遺体のそばに座り込んで夜を明かした。眠れない。全然眠くならなかったと。
もしかして、パールが目を覚ますのでは。小屋の外とかで、ちょっとした物音がする度に、その、もしかして、が繰り返された。でもパールは動かない。オペイクス様の呼びかけにも返事しない。オペイクス様は彼女の頬や額に何度も触れた。口づけまでした。それでも反応は無い。冷たいまま。
つまり、パールは死んでしまったんだ。もう二度と語らう事もできない。抱きしめる時に、パールからも自分の背に腕を回してほしい、と頼む事もできない。パールの魂は、ここには無いんだ。『そんな事、認めたくなかった』とオペイクス様は、おっしゃっていた。
そうやって呆然としている時間は、オペイクス様には異様に永く感じられたそうだ。自分は、もしかして永遠に、この状態なのでは。パールの遺体のそばで、彼女に何もしてやれずに絶望し続けるのでは。まるで時間が止まったような。永遠とは、こういうことなのだろうか。
そんな考えに囚われていたら、別の考えもオペイクス様の中に浮かんだよ。それならそれで、パールとずっと一緒に居られるのでは。埋葬しないで、ずっとこのまま・・・
しかしオペイクス様は我に返った。慌てて両の頬を叩いて、考え直した。だめだ。そんな永遠は、何の意味も無い。さっきから何度やっても、パールの返事は得られなかったんだ。もう心を通わせることはできない。目の前にあるのは、彼女の亡き骸だけ。自分にできる事は、せめて、この亡き骸を汚さないように、気をつけて守ってあげる事だ。
オペイクス様は、そこまで話してから、私らに言ったよ。『これも彼女から教わった事の一つだ』とね」
私は黙って、うなずいた。そうすることで、セピイおばさんに応えたつもりだ。セピイおばさんも、うなずき返してくれた。
「その夜は本当に永かったようでね。
途中で、来客があった。暗くなって、しかも、だいぶ経ったからだ。ボジェナさんの一家が心配のあまり、とうとう見に来たんだよ。夜遅くだから、お孫さんのほとんどは息子さん夫婦と家に残っていたが、一番年上の男の子だけ、ついて来ていた。
ボジェナさんたちとオペイクス様が短い会話を終えると、その男の子が口をはさんだ。
『パ、パールお姉ちゃんには悪いけど、もう死んじゃったんでしょ?騎士様は怖くないの?』
まあ、素朴な疑問だったんだろうが、当然、祖父母から怒られたよ。
オペイクス様は、それを見て、少し気持ちがほぐれた。
『パールお姉さんが幽霊か何かになると思ったのかい?もちろん、そんな事には、なってほしくないが。
でも、そしたら私は、またパールお姉さんとお話しできるかな』
なんて答えたと。
ボジェナさん夫妻は孫の失言を謝りつつ『また明日、お伺いします』と言って、去っていった。
残ったオペイクス様は改めてパールの遺体を見つめて、考えた。
パールを化け物みたいに見なすなんて、口にしたのが大人なら怒るところだ。しかし子どもに悪気は無い。気になって仕方がないだけだ。
むしろ、これをきっかけに想像してみるか。パールが化けて出てくる。彼女が恐ろしい形相で私に恨みごとを言う。
とオペイクス様も、言葉では考えたが、姿を思い描けなかった。そして、はたと気づいた。パールが怒った顔を見た事が無い、と。笑顔も少ない。あったとしても、さびしげな笑みが多かった。それよりも何よりも、彼女の泣き顔ばかり見ていたような気がする。
そう思い至ると、オペイクス様は改めて元領主のペレガミ家や自分の親族に怒りを覚え、パールの生涯が悲しいものに思えた。そして、彼女が自分に対しても遠慮していたとしたら・・・
オペイクス様は私らに、こう言ったよ。
『私は、はっきり声に出してパールに呼びかけた。私を恨んでほしい。憎んでほしい。呪って、私を殺してくれ。そうすれば私も、そちらに行ける、と』
『オペイクス様っ』
鋭い声が遮ったと思ったら、シルヴィアさんだった。
『おやめください、オペイクス様。あなたまで彼女を化け物扱いですかっ』
オペイクス様は惚けたようにシルヴィアさんを見つめて、しばらく答えられないでいた。
『ありがとう、シルヴィアさん。あなたの言う通りだ。当時、私は全く余計な妄想に囚われていたんだな。実際、パールは私を連れて行ってはくれなかった』
オペイクス様は答えながら笑みをつくろうとして、できなくて私らから目をそらしたよ。
そして話を続けた。『おそらく神様も、シルヴィアさんと同じ考えだったんだろう』と。
と言うのも、オペイクス様がパールから恨まれたいと願っている間に、周囲の夜の闇がだんだん薄れていったんだ。小屋の戸の隙間から、かすかに光が漏れてくるような。しばらくして戸や窓を開けると、日がまだ顔を出さないだけで、周りの家屋などが充分、識別できた。とうとう夜が明けたのさ。
オペイクス様は念のため、試してみた。『パール。朝だよ。少し早いけど起きようか』そのままパールの顔を見つめ続けると、不意に彼女の唇の両端がほんの少し、つり上がった気がした。しかし、それだけ。その後、いくら待っても、何の変化も無かった。
変化があったのは、むしろ小屋の外ばかりさ。遠くで鶏が朝を告げた。犬の返事も少々。家の戸を開け閉めする音もしたから、早起きが二、三人くらいは居たんだろう。
オペイクス様は暗澹とした気持ちになったよ。何も解決しないまま、パールに何もしてやれないまま、朝を迎えてしまった。パールが、なぜ死を選んだのか。それは、このオペイクスのためと思ってのことじゃないか。そう思って、オペイクス様は自分を情けないと感じた。
そして、改めてパールの気持ちを想像してみたんだ。水底に沈んだ時のパールの気持ちを。息ができなくて苦しかっただろう。近づいてくる死が怖かっただろう。もがいたり、身をよじったりすれば、抱え込んだ石も少しは外れ落ちたかもしれない。しかし河原では、彼女の服の中から、石は幾つも出てきた。つまり、もがいたり、身をよじったりを、パールは、ほとんどしなかったんだ。苦しさや死の恐怖に耐えながら、パールは死んでいった。誰のために。誰のせいで。
オペイクス様は、またしても余計な妄想に囚われそうになった。嫌な言い方になるが、話を聞きながら私は、むしろオペイクス様は囚われたがっているように思えたよ。パールに恨まれたい。自分はパールに恨まれるべきだ。要するに、恨まれてでもパールとつながりを持ちたい、とオペイクス様は願っていたんだ。そんな関係でもいいから、パールと何らかの関係を保ちたい。オペイクス様自身は自覚していたか分からないが、私には、そんなふうに思えた。
私の隣りで、シルヴィアさんが迷っている気配がしたよ。もう一度、叱るべきか。でも幸い、そんな手間は取らなくて済んだ。
当時のオペイクス様も結局は、妄想に浸れなかったんだ。もう朝なんだよ。小屋の中でさえ、はっきり見えるようになった。パールの口元は少し上がったまま。それどころか、見ているうちに、だんだんパールが優しく微笑んでくれているようにさえ、オペイクス様には思えてきた。パールが私を気づかっているのでは。あるいは神が憐んでくださったのか。オペイクス様は、いつしか声に出して言っていたらしい。『パール。私を許さないで』と。
この言葉をオペイクス様自身は、あまり覚えていなかった。へんに思うかもしれないが、オペイクス様本人は口にしていた事を自覚していなかったんだ。人に指摘されて、自分がぶつぶつ言っていた事に気づかされたのさ。例のボジェナさん家族だよ。この人たちが朝もやって来て、オペイクス様に声をかけたんだ。
小屋のそばまで来たボジェナさんたちは最初、オペイクス様がパールと話しているのかと驚き、かつ期待したそうだ。やっぱりパールが息を吹き返したのでは。しかし、さらに耳をすますと、オペイクス様の声しか聞こえない。それで、ボジェナさんたちは慌てて小屋に踏み込んだとさ」
「オペイクスが狂った、と思ったのね」私は息を呑んだ。
「そう。オペイクス様が言うには、ボジェナさんたちは顔が真っ青だったらしい。当のオペイクス様本人は、何でボジェナさん家族がやって来たのか分からず、ぼんやりしてしまったと」
「それくらい心配してくれていたんだわ。しかも予感的中」
「要するに、見ていられなかったんだろうね、ボジェナさんたちからすれば。もっとも、この一家だけでなく、近所の平民たちも少しずつ集まって来たらしい。みんな、ボジェナさんたちと同じく、オペイクス様を気づかっていたんだ。
オペイクス様は、そんな彼らと言葉を交わしているうちに、だんだん気持ちが落ち着いてきたそうだ。そして感謝を伝え、かつ心配させた事を詫びた。
そんな時に、だよ。騎馬と馬車が押しかけてきた。平民たちは慌てて道を開ける。
騎馬がオペイクス様の前で止まる。降りてきたのは、オペイクス様の上役にあたる、ビナシス家の役人だ。そういえば、昨日は無断欠勤だったな、とオペイクス様は思ったとか。
しかし、お役人はオペイクス様を責めなかった。たしかに固い表情をしていたが、言及したのは別の事。『ヌビ家のご党首様がお前を訪ねて来られた』そう言ったっきり、硬直して立ち尽くした。
役人は後ろを向いて、馬車に視線を投げた。オペイクス様がそれを目で追うと、馬車からアンディン様が降りてくるところだった。
ヒュドラの紋章衣を着て、真っ直ぐオペイクス様を見つめ、そして歩いてくる。ちょうど、アンディン様の背後から陽光が立ち昇ってきた。その情景は、オペイクス様がパールを思い出す時に、よく頭に浮かんでくるそうだよ。
アンディン様はオペイクス様の前に立った。オペイクス様とアンディン様は、向かい合ったまま数秒、沈黙した。
オペイクス様は混乱していたんだよ。頭の中では、いろんな考えが渦巻いていた。ひざまずいた方が良いか。何とご挨拶するか。自分からも手紙などで連絡するべきだった、と謝罪するか。迷うばかりで、結論が出ない。都アガスプスの時と同じように『あの、その』の繰り返しになった。
アンディン様は、そんなオペイクス様を止めたよ。ゆっくり手を上げて。そして、こんなふうにおっしゃったらしい。
『ここに来るまで間に、君の事情は、ある程度、聞いた。だから、君にも言いたいことが山ほどあるだろう、と推測している。
だが、その前に私から一つ、言わせてほしい。
実は、私も大切な人を失った事がある。だから、今の君の気持ちは分かるつもりだ』
と」
「えっ」私は声が裏返った。「あれっ。それって・・・オペイクスがブラウネンに似たようなことを言ってなかった?」
「覚えていてくれたかい。ブラウネンも同じ質問をしたよ。オペイクス様は散々泣き濡らした後の顔をニヤリとさせて、告白してくださった。この時のアンディン様のお言葉を真似したんだと」
そう答えるセピイおばさんも、ニヤリとしている。
「そういうことだったの」私も納得した。「オペイクスは、この話をブラウネンに聞かせたかったのね」
「ああ。だからブラウネンの、オペイクス様に向ける眼差しが変わったんだ。側で見ていて、はっきり分かったよ」
「あ、でも、アンディンの大切な人って、キオッフィーヌと結婚する前の話かしら?」
「そこはオペイクス様も知らなかったねえ。主君であるアンディン様に、根掘り葉掘り聞くわけにはいかないだろ。ご本人が自ら話してくださるのを待つしかない。そして、とうとう最後までアンディン様から話は無かった。
そうだ。シルヴィアさんも、よっぽど気になったのか、オペイクス様に頼んで、よくよく思い出してもらったんだよ。パールを亡くした時のオペイクス様は二十過ぎ。ということは、アンディン様のご長男、ジャッカルゴ様も十歳は越していたはずなんだ。前に、修道院で学んでおられると説明した長女のメイプロニー様も、次男のジャノメイ様も、当時はすでに生まれていないと、おかしい。
しかし、やはり遠慮しなければ、とシルヴィアさんも結論していた。相手が相手という問題もあるが、人の心に安易に踏み込んではならない。そんなことをぶつぶつ言っていたっけ」
ふーむ。これでスカーレットとヴァイオレットも揃っていたら、もっとそわそわしていたんだろうなあ。まあ、そこは私も言える立場ではないが。
「それより、オペイクス様とアンディン様の会話に戻ろう。と言っても、オペイクス様はアンディン様のお言葉に驚いて、なおのこと返事ができなかったんだが。
そんなオペイクス様を責めもせずに、アンディン様は続けた。『だからこそ。君が今、何か困っているようであれば、私も、できるだけ協力したい』と。
オペイクス様は、このお言葉にハッとした。そして、ひざまずいて頭を下げた。『どうか、どうかヌビ様、お力添えを』
オペイクス様は、パールのために墓を用意してやれない状況を、急いで説明した。
すると、アンディン様は少し首をかしげた。『君の亡くなった細君のために、ヌビ家の土地を割くくらいは一向に構わん。しかし、それはビナシス家にも頼めるのでは?』
オペイクス様は、またしてもハッとした。アンディン様に指摘されるまで、考えもしなかったんだよ。
しかし、すぐに首を横に振って、オペイクス様は説明した。自分が主君ビナシスから疎まれている事を。ビナシスに頼んでも、まともに応じてくれないだろうという予想を。
このままでは、パールは教会の墓地の、身寄りの無い者たちをまとめて葬る墓に入れられてしまう。自分という関係者が居るのに。オペイクス様としては、それだけは避けたかった。
聞き終わると、アンディン様はオペイクス様を真っ直ぐ見つめて、おっしゃった。
『では、こうしよう。オペイクス。君は細君の亡き骸と共に、ビナシス家から我らヌビ家に移りたまえ。ヌビ家の墓地に、君の細君の墓を設けよう。君はヌビ家の一員として働きながら、細君の墓を守ればいい。
どうかな、オペイクス』
オペイクス様は、へなへなと座り込んで泣き出した。
『つい先日、私も似たような事を考えておりました。パールもまだ生きていて、一緒にヌビ様を訪ねて行こうかと。しかし、一度しかお会いした事の無いヌビ様に、いきなり、そのようにおすがりしてよいものか。
迷っているうちに、このような情けない結果となりました。私の至らなさが、パールを死なせたのです』
『それを言うなら、私が君の細君を死なせたのだ』
アンディン様の強い口調に、オペイクス様は驚いて顔を上げた。
『私がもっと早く、ここに来ていれば。もっと早く君を訪ねていれば。君の細君が死ぬ事は無かった。違うかね』
オペイクス様は泣きながら、とうとう本当にアンディン様にすがりついたよ。『どうか、どうか、そんなことは、おっしゃらないでください。あなた様を責めるなど、筋違いです』
これに対してアンディン様は、強い口調を続ける。『ならば、君も自分を責めるな。君が自分を責めたところで、おそらく細君は喜ばんぞ』とね」
「そうよっ。その通りだわ」私は声が大きくなって、思わず腰が浮いた。
セピイおばさんは私を責めなかった。大声を出してしまったのに。代わりに、じっと見つめて言った。
「ありがとう、プルーデンス。わたしゃ、嬉しいよ。あんたと会わせてくれた兄さん、義姉さん、あんたの家族に、私は心から感謝する。
あんたをオペイクス様に直に会わせる事ができたら、どんなに良かったか。せめてオペイクス様の代わりに礼を言わせておくれ」
私はセピイおばさんにすがりついて、声を上げて泣いた。それで、おばさんの話をしばらく中断させてしまった。
その後セピイおばさんから聞いた、オペイクスとパールの物語の続きは、こんなだった。
まず、アンディンはオペイクスを連れて一度、コモドーン城に向かう事にした。オペイクスの転属に関して、一応ビナシス家に断りを入れるのだ。
アンディンは自分の馬車を、オペイクスとパールに譲って、自分は騎乗した。コモドーン城への案内を、オペイクスの上役だった役人に言いつけて。
オペイクスは、馬車の座席にパールの亡き骸を横たえ、自分は、そのそばにひざまずいたそうだ。
コモドーン城では、いきなり現れたヌビ家党首のアンディンに、ビナシスは驚き、慌てて応対したのだが。アンディンから用件を聞くや、緊張を解いて、オペイクスに対する嫌味を好きなだけ言い散らかしたらしい。
『ヌビ様がよろしいとおっしゃるなら、どうぞ、ご自由に。
ただし、後で此奴が期待はずれだったと分かっても、当家は引き取りませんぞ』
とか。
セピイおばさんから、これを聞いた時は、私は声を荒げてしまった。
「何を、偉そうにっ。オペイクスのおかげで、ペレガミ家の領地を取れたくせに」
セピイおばさんは、またしても私の大声を叱らなかった。それどころか、くすくす笑ってくれた。
「安心しな、プルーデンス。それは、アンディン様が言ってくださったよ。ビナシスは反論できずに赤面していたとさ」
そうよ。そう来なくっちゃ。やっと少し、私が喜べる展開になった。
ビナシス家への断りが済むと、アンディンはヌビ家の領地に直行しようとしたが、思い直してナクビーの町に引き返した。オペイクスに出発の準備をさせてくれたのである。
おかげで、オペイクスは準備だけでなく、ボジェナさん一家をはじめとする、多くの平民たちにお別れを言うことができた。彼女たちは、ただの平民ではない。一緒に戦い、パールのために行動してくれた、貴重な味方なのだ。
オペイクスができた事は、お別れだけじゃなかった。王弟からもらった褒美袋を、今度こそ平民たちに配った。小さな小さなオペイクス城も、元の持ち主に返した。
もっとも、ナクビーの平民たちとしては、オペイクスから物をもらうよりも、オペイクスを引き留めたかったのだが。彼らは思い余って、アンディンに訴えた。
『ええっと、あのう。遠方からおいでくださったお殿様。たくさんの蛇のお殿様、とお呼びしたら、よろしいでしょうか。
えっ、何です、お付きの方。あ、ヌビ、というのですか。
ヌビ家のお殿様。私どもも本当は、オペイクス様を連れていかないでほしい、と思っておるのです。と申しますのも、こちらのオペイクス様こそ、このナクビーの本当の領主様だ、と私どもは思っておりまして。
もちろんペレガミ家と違って、今の領主であるビナシス家を忘れたわけでも、恨むわけでもないのですが』
『ペレガミ家に対する一揆が成功したのも、私らが安心して暮らせるようになったのも、みんな、オペイクス様のおかげなんです』
『だから本当は、オペイクス様に残っていただきたいのですが。パールさんのためなら、仕方ありません』
『どうか、オペイクス様をよろしくお願いします。そしてパールさんのお墓も』
平民たちは口々に主張した。本来なら事前に発言の許可を求めるべき事も忘れて。オペイクスは『自分には、もったいない言葉の数々だった』と評した、とセピイおばさんは話してくれた。
従者たちは平民たちに発言を控えさせたかったようだが、アンディンはそれを止めて、平民たちが主張するのに任せた。
その上で彼は、こんなふうに返したとか。
『君たちの話を聞いて、私も一つ、思いついた。
今後は定期的に、当家からこの町に、人を派遣しよう。ビナシス家がペレガミ家と同じ過ちを繰り返さないか、確認するためだ。ビナシス家には気づかれぬよう秘密にして、当家の者が調べる。ビナシス家の治政に理不尽な点があれば、君たちも覚えておいて、当家が派遣する者に訴えればいい。君たちの訴えを取りまとめて、私からビナシス家に注意しよう。
そして私がこの町に派遣する者だが・・・もう君たちも分かるな』
アンディンは平民たちに微笑んでみせた後で、オペイクスに目を向けた。
これには、オペイクスもナクビーの住民たちも、あっと声を上げたらしい。
そしてアンディンは、さらにもう一言くれた。『つまり、君たちは永遠に別れるわけでもないのだ。案ずる事は無い』
粋だ。粋な計らいの連発。こんな人が私たちの領主のご先祖だなんて。あのモラハルトと兄弟である事が、まるで嘘みたい。もっとも、そこはセピイおばさんに言わなかったが。セピイおばさんに嫌な事を思い出させるほど、私も馬鹿じゃない。
とにかくナクビーの平民たちは、歓声を上げて、アンディンとオペイクスを称えた。きっとオペイクスは涙を浮かべて、彼らに、そしてアンディンに礼を言ったことだろう。
こうして別れを済ませたオペイクスは、アンディンに従って、ナクビーの町を後にした。
そして一行が向かったのは、ロミルチ城。アンディンに言わせると、ナクビーの町からヌビ家の領地を目指すと、ロミルチ城が一番近い拠点だったようだ。まあ、話を聞くだけの私には、ナクビーも、そしてコモドーン城、ロミルチ城も、どんな位置関係にあるのか、想像もつかないのだけれど。
ナクビーからロミルチまで、オペイクスたち一行は、その日のうちに行けたのか、翌日に着いたのか。そこは、セピイおばさんも忘れてしまっていた。
とにかくアンディンは、オペイクスをロミルチの郊外にあるヌビ家の墓地に連れて行った。そして従者たちに棺を持って来させ、オペイクスがパールの亡き骸を運ぶのを手伝わせた。どうやらヌビ家は、それぞれの城の郊外に墓地を確保しているらしい。
ロミルチ城の使用人たちも手伝って、墓地の片隅に穴が掘られた。パールの亡き骸を収めた棺が、そこに降ろされた。
呼び出された神父が祈りを捧げている間、オペイクスは、目の前の墓穴に飛び込みたい衝動に駆られたとか。パールと共に、自分も埋められたいと思ったのだ。オペイクスがぼろぼろ泣きながら、そんな心情を吐露すると、アンディンからピシャリと叱られた。
『それを実行すれば、私は君を放り出すぞ。穴からではない。ヌビ家の領内からだ。細君の棺ともども、君を出て行かせる』
オペイクスは大人しくアンディンに謝った。そして土が戻され、パールの姿がすっかり見えなくなると、その土を濡らすように、しばらく泣き伏していた。
そんなオペイクスの上に、アンディンは、ぽつりぽつりと言葉を降らすように話しかけたのである。ついさっき叱責した時とは違って、その声から、尖った響きが無くなっていた。
『都で別れる時に、もう少し君の話を聞きたい、と私が言ったのを覚えているな。ついでだ。ここで聞かせてもらおう。そうすれば、細君も君の話が聞ける』
そうまでして、アンディンはオペイクスの何を知りたかったのか。オペイクスの本心である。どんな気持ちでペレガミ家に対する一揆を扇動し、平民たちと行動を共にしたのか。それは、まさにオペイクスが、アガスプス宮殿で王族たちに聞いてもらいたかったことだった。
ペレガミ家という、ごく一部の権力者から暴力や理不尽に苛まれた平民たちの気持ち。パールやオペイクス自身の気持ち。肛門から串刺しなんかでは全然収まらない、途方もない怒りや悲しみ。それらをオペイクスはアンディンに話した。洗いざらい話した。この方なら、王族たちと違って、受け止めてくださる。自分だけでなく、パールや平民たちの気持ちを理解しようと努めてくださる。オペイクスは、そう思ったのだろう。
実際アンディンの反応は期待以上だった、と言える。セピイおばさんから話を聞いた私は、そう理解した。
『辛かったな。
しかし同時に、貴重な体験でもある。そして世の政に携わる者は皆、君がしたような体験を、体験者そのものを尊重すべきだ。私は、そう思う。悲劇を一つでも減らしたければ、まず、それこそが第一歩だ。
そして私も、その第一歩を踏み出したい。だから、君に声をかけた。宮殿で君の話を聞いた時から、君を放っておく手は無い、と思っていた。
君が我らヌビ家と共に、一歩も二歩も進めば、その分、亡くなった細君の涙も拭われるだろう。そう思わないか、オペイクス。
改めて、私は君に頼む。ヌビ家に力を貸してくれ』
オペイクスは泣きながら答えた。『私からもお願いします』と。
それから。
アンディンは、もう一つ、大事な話をオペイクスにした。アンディンが言うには、墓に入ったパールにも聞いてもらいたいことだ、と。そのためにアンディンは、従者たち全員を墓地の入り口まで下がらせた。オペイクスも内心、構えただろう、どれほどの話か、と。
アンディンは、こんなふうに話し出した。
『私もここに来るまで、いろいろ考えたのだが。やはり私は、君と細君に謝罪しておいた方が良さそうだ。いや、いいのだ、オペイクス。聞いてくれ。
実はな、宮殿で君を娘婿にしようなどとおっしゃった、あの王弟様はな、私の舅なのだ』
セピイおばさんからこの事を聞いて、私は、あっと声を上げた。しかし、当時のオペイクスは、ぽかんとするだけだったらしい。それも仕方ない事で、オペイクスは、まだキオッフィーヌを知らなかったのだ。
だからアンディンは、そこから説明しなければならなかった。自分は王弟の娘キオッフィーヌと結婚して、長男をはじめ、子供にも恵まれた、と。しかし。
アンディンは、妻キオッフィーヌの父である王弟が、自分をあまり良く思っていないらしい事に気づいていた。具体的に何か迷惑をかけられたわけではない。だが、打ち解けているとは、お世辞にも言えない。
セピイおばさんも私も、その気配は本物だったろう、という意見で一致した。名家の党首を務めるほどのアンディンだ。気のせいじゃないと思う。
そんな状況で宮殿に召集されたわけである。アンディンも。そしてオペイクスも。
招集するにあたって、王様は用件を知らせなかった。そのためアンディンをはじめ、ヨランドラの重臣たちは気を揉んだ。お互いに見合わせた顔が、明らかに強ばっていたらしい。シャンジャビ家も、リブリュー家も来ている。かつての名家も。ビマー家など、主だった中級貴族まで揃って。
これらの面子から考えれば、ヨランドラが総力を上げて戦わなければならないほどの事態を予想するのが当然である。東隣りのフィッツランドと戦争になるのか。西側のセレニアは、まだ、そこまで団結していないはずだが。あるいは湖の向こうのラカンシアが、こちらヨランドラの漁民を襲ったのか。
しかし、これら全ては杞憂だった。王様はアンディンたちに言った。『今回は少々変わった余興を用意させた。皆、楽しんでゆくが良い』と。
オペイクスが若き日のセピイおばさんたちに言う事には、アンディンはロミルチの墓地で、遠くをぼんやり見ながら話したそうだ。
『あれは、ひどい会合だったな。舅殿を悪く言う事になるので、気をつけねばならんが。王陛下も王弟陛下も、君の真剣さを理解しようとしていなかった。
王族の方々がそうであれば、シャンジャビなど家臣たちは、右に倣えだ。誰か一人くらい、疑問を持ってくれても良さそうなものを。
私には、時間を無駄にしている、としか思えなかった。君の貴重な体験を教わる、せっかくの機会を無駄にしている、と。歯がゆい。早く終わってくれ。終われば、すぐに君に声をかけよう。そればかり考えていた。
そんな気持ちを、顔に出さないよう努めていたつもりだったが。おそらく舅殿は勘づいたのだろう。そして君に、からんだ。私という娘婿の前で。
もし本当に舅殿の、王弟陛下の娘と君が結婚したら、君の立場は私と同じになる。つまり王弟陛下は私に当てつけていたのだ。(お前と同じ立場の者を、もう一人こしらえてやろうか)と。
まあ舅殿には、すでに未婚の娘は居なかったのだが。妻キオッフィーヌの姉妹は皆、所帯を持っている。つまり、はじめから君をからかうつもりだったのだ、舅殿は。もちろん、王陛下も気づいておられたはずであり、シャンジャビやナモネアも状況を見抜いていただろう。あ奴らの笑みには、明らかにその色がにじんでいた。
嫌な事を思い出させて悪いが、あの時、君は笑われていたな。しかし、私もまた、共に笑われていたのだ。
気にし過ぎ、と言いたいか。私は、そうは思わない。こちらは、わざわざ宮殿にまかり越すような手間を取っているのだ。従者たちまで連れて。そんな手間を取っておきながら、やる事が他人をだらだら笑う事か。全く割りに合わない。分かるな、オペイクス。私は油断したり、大切なことを見落としたり、したくないのだ。
だからこそ、私は君に謝ろうと思う。オペイクス。君は、私と舅殿の軋轢に巻き込まれたのだ』
恐縮するオペイクスを制して、アンディンは続ける。
『遠慮しないで答えてくれ、オペイクス。君は、近づいて来た私を警戒したのではないか。君からは私が、他の者たち、シャンジャビやナモネアと同様に君を笑う側に見えた。それで、私と語らうことに気が乗らなかった。違うかな。
いや、私は君を責めているのではない。当然の反応だ。私が君の立場だったら、なるほど、このヌビという男を疑い、見極めるのに時間をかけるだろう。
私と君は、出会い方が悪かったのだ。宮殿の空気が、あのようにならなかったら。君はもっと早く私と語らい、私も君たち夫婦に協力できていたはずだ。それこそ、細君が生きている間に。
これで分かっただろう。元をたどれば、私と舅殿が原因、いや、ひとえに私が至らなかったのだ。
だから私は、君の亡くなった細君のために、墓地の一画を割こう。せめてもの罪滅ぼし、と解釈してくれたまえ』
これを言われた時、オペイクスはすでに両膝をついて、鼻水まで流して、泣いていたそうだ。本人が若き日のセピイおばさんやイリーデたちに、そう話したのだ。
そしてオペイクスは、新たな主君アンディンに、何と返事したかも語った。
『罪滅ぼしなど、もったいないお言葉です。どうか、お気になさらないでください。
それより、もう一つ、お願いがございます。ヌビ家のために命を捧げて、お仕えしますゆえ、私が死んだ暁には、どうか、ここに、パールのそばに私を埋めてください』
罪滅ぼしの受取り方はともかく、アンディンは快く引き受けて、オペイクスを安心させた。
「こうして、オペイクス様はアンディン様にお仕えするようになったのさ」
セピイおばさんの話は続く。
「ペレガミ家、ビナシス家と来て、ヌビ家が三軒めの奉公先だ。オペイクス様は、とにかく必死で働いたんだろうよ。がむしゃらって言葉は、こういう時に使うんじゃないか、と私は話を聞きながら思ったもんさ。
戦闘ごとがあれば、必ず自分から参加を申し出て。オペイクス様が戦闘で囮役を買って出るようになったのは、ヌビ家に移ってからだ。その理由は、もう想像がつくだろ」
私は、あっと思ったが、絶句して続けられなかった。代わりに、おばさんが続けた。
「オペイクス様は認めたよ。『自分は死にたがっていた』と。下手をすれば、私らに話してくださった時も、どうか分かったもんじゃないねえ。
だから聞いていたシルヴィアさんの目が尖ったし、それ以前にアンディン様からも、たしなめられていたんだ、オペイクス様は。それも一度や二度じゃない。新しく上役になったロンギノ様からも、ね。アンディン様としては、雇い入れたばかりの者が死にたがるようじゃ、骨折り損だろ。そもそも、自殺はカトリック教会の教えに反している。
とは言え、アンディン様がオペイクス様を説得し、励ますのに、さほど手間取らなかったよ。『君が死んだら、細君の墓は誰が守る。ヌビ家は、そこまで甘くないぞ』ってね。
おかげで私らはオペイクス様から話を聞く事ができたし、オペイクス様も長生きしてくださった」
「今も生きているの?」
聞いた直後に私は、間違えた、と思った。さっきセピイおばさんは、私をオペイクスと直に会わせられない、と言ったばかりだ。
おばさんは、さびしげな笑みを浮かべた。
「先の大戦で亡くなったよ。もう、私以上の年寄りなのに、侵略者を相手に・・・って、これは、また別の機会にしよう」
セピイおばさんは先走りすぎた話をすぐに区切って、オペイクスの若かりし頃に話を戻した。
ヌビ家で騎士として働きながら、オペイクスは定期的にロミルチ城まで馬を飛ばした。パールの墓参りをするために。
そしてナクビーの町にも。住民たちの生活に変わりはないか、オペイクスは注意して見回った。時折り、ボジェナさん一家などとの嬉しい再会もあったらしい。
「パールの墓参りの方は、特に問題は無かったようなんだが。
ナクビーの方では、オペイクス様にとって、ちょいと嫌な事があった。
弟さんの噂だよ。弟さんは結婚するには、したんだが。相手は、どうもコモドーン城でオペイクス様に紹介した婚約者ではなかったらしい。じゃあ誰かと言うと、元領主ペレガミの娘なんだと」
「えっ、ペレガミの娘って、たしか」
「一揆の時にオペイクス様から見逃してもらって、ビナシス家に身を寄せていた。で、母親ともどもビナシス家の党首の妾にされて。その娘だよ」
「そ、そんなことって」驚きのあまり、私は言葉が続かない。
「もちろん、いいわけないよ。しかし、逆らえないだろ。弟さんも、ペレガミの娘本人も。
貴族にありがちな話さ。自分が使い古した女を家来なんかに下げ渡す。貴族の男からすれば、女は物同然なんだよ」
「さっ、最低だわ、ビナシスはっ」
「さらに言えば、母親、つまりペレガミの未亡人の方は、役人の一人に押しつけたとか。ちょうど奥さんを亡くして、独り身の中年男が居たらしい」
「で、でも、ビナシスには奥さんも子供も居たんでしょ?」
「居ただろうね。コモドーン城なんていう、歴とした城持ちの貴族なんだ。跡継ぎが絶対、必要になる。
そのくせ世間体も気になるし、教会からお叱りを受けるのも嫌だから、妾に男をあてがうのさ。この女は誰それの妻であります、自分は知りません、なんてね。
ひどい貴族になると、そうやって家来とかに押しつけておきながら、その後も密かに女に迫ったりし続けるらしいよ」
か〜っ。私は腹が立ち過ぎて、もう、どんなに罵っても収まらない。モラハルトといい、このビナシスといい、どいつもこいつも。
「この弟さんの噂を、オペイクス様はコモドーンの城下町の呑み屋で耳にしたんだ。頭巾を目深に被って、正体を隠している時にね。
これがどういうことか分かるかい、プルーデンス」
セピイおばさんに顔を覗き込まれて、私は答えられなかった。
「ボジェナさんたち、ナクビーの人たちは噂を知っていて、オペイクス様に聞かせなかったのさ。嫌な思いをするだけだ、と気づかってね。
オペイクス様自身も、おっしゃっていた。『パールに聞かせてられない話だ』と。墓参りでは、なるべく、ボジェナさんたちが安泰であるというような話をしたかったそうだ。誰かの子供が大きくなったとか、畑の収穫がよかったとかね。
ビナシス家が弟さんにした仕打ちは、とてもじゃないが、墓前の話として使えなかったわけさ」
「アンディンには話したのかな?」
「一応、報告したらしい。オペイクス様も気が進まなかったが、これも務めだからね。後はアンディン様がどう活用なさったかは、オペイクス様も分からなかった。ただビナシス家は一度もヌビ家に刃向かった事は無いから、釘を刺すネタの一つには、なったかもね」
「おばさん」
「ん、何だい」
セピイおばさんが私の目を覗き込む。
私は、ちょっと言い淀んだ。自分から声をかけておきながら、後悔の気持ちがわいてきたのだ。そのくせ止められない。私は、こう質問する。
「もしかして・・・ペレガミの娘は、妊娠していたとか」
セピイおばさんは一瞬、固まったが、ため息をつくことで自分を緩めた。
「ビナシスの子供をかい?まあ、それも、ありがちな話だよ」
そう答えても、セピイおばさんは断言まではしなかった。オペイクスも、そこまではセピイおばさんたちに話さなかったらしい。知っていたのか、知らないのか。私も、ため息をつきたくなる。
そもそもオペイクスの弟は、ペレガミの娘から見れば、親の仇の親族じゃないか。二人の結婚生活が明るいものだったとは、とても思えない。
「オペイクス様は、アンディン様から忠告されたそうだ」
セピイおばさんが話を続ける。
「もう弟さんやお母様の事は気にするな、と。弟さんたちも、その時点で大人なんだ。自分で対処するべきだ、ってね。
オペイクス様だって、その娘の父親を面白半分に殺めたわけじゃないだろ。大真面目だったんだ。
しかも弟さんたちの方では、パールの件でオペイクス様に協力しなかった。
オペイクス様が弟さんたちを気にかけてやる義理なんか無いのさ」
私は黙って、うなずいた。そのくせ、心の中では、でも、と思っている。きっと、セピイおばさんも。オペイクスは・・・気になったんだろうなあ。弟と母親を許さないことは変わらないけど。それでも気にした、に違いない。オペイクスは、そういう人だ。
だから私たちは、二人して、ちょっと黙り込んでしまった。
「さてと」セピイおばさんが沈黙を破った。
「話がこの辺りまで来ると、オペイクス様は『そろそろ、お開きにしなければ』と言い出した。
日暮れどころか、周りは、もう真っ暗だったよ。城壁の上の歩廊には、いつの間にか篝火が点々と並べられていた。
晩餐の時間も、とっくに過ぎていただろう。食事を取り損なうとか以前に、私とイリーデとシルヴィアさんは女中としての仕事をすっかり忘れている。ブラウネンも給仕とかを勤めなきゃいけなかったんじゃないかねえ。もしかして誰かが私らも呼びに来ていたのかもしれないが、話に夢中で、誰も気づいていなかった。
オペイクス様が、おっしゃってくれたよ。『周りの人たちには、私が説明して謝るから』と。
で、急いで塔を降りようということになったんだが。シルヴィアさんがオペイクス様を引き留めた。『あと少し、お聞かせください』と。
何の事かと思ったら、シルヴィアさんは、パールの置き手紙を見たい、と言い出したんだ。もちろんオペイクス様は驚いていたし、私もきっと目を丸くしていただろうよ。そもそも、シルヴィアさんらしくない発言なんだ。他人の手紙を読みたがるなんて。
一番若いイリーデでさえ、良くないことだ、と反対したんだが。なぜかシルヴィアさんは真剣に、オペイクス様にお願いを繰り返す。
『それなら』と、オペイクス様が懐から羊皮紙を一枚、取り出した。オペイクス様は、それをパールの形見として、普段から肌身離さず持っていたんだよ。お願いした時点で、そのことをシルヴィアさんも推測していたのさ。
オペイクス様はパールの手紙を手に、篝火のそばに移動しようと提案した。その塔が、メレディーン城の塔の中で一番太くて広い、と私が説明しただろ。替わりに高さはそれほどでもなくて、左右に歩廊が延びていたんだ。つまり外城壁と同じ高さでくっついているわけ。
もうすっかり夜だから、手紙を見せていただくには、篝火の明かりが要る。その明かりの中で、オペイクス様はパールの手紙を広げてみせた。シルヴィアさんは、それでも飽きたらないのか、直に手に取って読みたい、と許可を求める。オペイクス様は気圧されたのか、手紙を渡したよ。
受け取ったシルヴィアさんは、私とイリーデ、ブラウネンに強めの口調で言うんだ。『あんたたちも、しっかり目を通しなさい。こんな貴重な機会、滅多に無いわよ』と。しかも言うだけ言ったら、私らの反応なんかお構いなしに、自分が真っ先にむさぼり読んでいた」
「う〜ん」私は、例によって話に割り込んでしまった。
「いいのかなあ。そりゃ、貴重な機会って言うのは分かるけど。だからって」
私が首をかしげると、セピイおばさんは微笑んだ。
「まあ、その反応が普通だろうよ。そもそも私ら四人の中で、そういう礼儀作法とかを一番注意しそうなのは、年上のシルヴィアさんなんだがね。シルヴィアさんに、何か思うところがあるのか。それは、パールの手紙を読ませていただいて、何となく分かった気がしたよ。
で、肝心のパールの手紙なんだが。なるほど、上手な字とは言えなかったね。たどたどしい、いかにも習っている途中って感じの。
でも・・・ひしひしと伝わってきたよ。パールがオペイクス様に伝えたいという気持ちが。何としてでも、それこそ死を選んででも伝いたいという気持ちがね。
羊皮紙には、大体こんなことが書かれていた。
『わたしは、なんのとりえもない女です。男たちに身をまかせることで、なんとか生きのびてきました。いんばいとののしられたこともあります。
そんなわたしの人生の中で、あなたとすごした日々だけが、心やすまるひとときでした。あなたにかんしゃしております。
もし生まれかわったら。生まれかわり、なんてかいたらきょうかいのしんぷさんたちからおこられるかもしれませんが。もし生まれかわって、もういちど会えたら。どうか、そのときこそ、わたしをあなたのおよめさんにしてください。
でも今は。わたしは、あなたのおよめさんにふさわしくありません。
どうか、すてきなおよめさんをみつけてください。どうか、おしあわせに』
とかね」
セピイおばさんは、そこまで話すと、言葉に詰まっていた。
「あの時、私は・・・読み終えてから、改めてオペイクス様を見た。そして手紙を読ませてくださった事に礼を言ったよ。と言うのも、シルヴィアさんが先にオペイクス様に礼を言っていたんでね。シルヴィアさんがお手本を示してくれたのさ。イリーデとブランネンも、そのお手本に倣ったよ。
そして私はシルヴィアさんにも礼を言った。本人は『私に言う必要は無いでしょ』なんて言っていたが、私は引っ込めなかったよ。パールの手紙を読むことができたのは、シルヴィアさんがオペイクス様に頼んでくれたおかげなんだから。
で、イリーデとブラウネンも私に続いてくれたよ。イリーデは多少、ぎこちなかったけど」
一度、言葉に詰まったセピイおばさんを、イリーデがまた微笑ませてくれた。
「おばさん、ありがとう。私にも聞かせてくれて」
「ふふっ、さっそく応用したね。私も話した甲斐があった。
とは言え、私らも、そろそろお開きにしなきゃねえ。すっかり長話になってしまった」
セピイおばさんはそう言うや、話の区切りを急いだ。
まず、手紙を懐に戻したオペイクスは、セピイおばさんたちを食堂に向かわせるべく、歩廊から下に伸びる階段を探したのである。階段自体はすぐに歩廊の前後に一つずつ見つかり、その近い方におばさんたちは移動したのだが。
なぜか、その陰に色男の騎士オーカーが潜んでいた。シルヴィアに見つかって、盗み聞きを咎められて、ばつの悪そうな顔をしていたのだろう。
そんなオーカーに、オペイクスは言うのだ。『なんだ。やっぱり君も話を聞いてくれたのか。ありがとう』と。
これに対して、オーカーは、こう、ごまかした。『き、聞いていたって、今来たばっかりっすよ』
するとオペイクスは、こんなことを言い出した。
『はっ、そうか。みんなを迎えに来てくれたんだな。ちょうどいい。オーカー君は、みんなを連れて、先に行っていてくれないかな。
他の人たちから怒られたら、オペイクスが謝罪する、と言ってくれ。私も後から行くよ』
当然、若き日のセピイおばさんたちはオペイクスに尋ねた。なぜ一人で残るのか、と。オペイクスは答えた。『話をしているうちに何度も昂ったからね。ここで少し頭を冷やそうと思う』
これを聞いたセピイおばさんたちは『そんなこと言わないで、一緒に降りましょう』とオペイクスの腕を引っぱって行ったそうだ。ナクビーの住民たちと同様、とてもじゃないがオペイクスを一人にできない、と思ったのである。
「オペイクス様も今さら城壁や塔から飛び降りたりしないだろうと思いたかったが。念のためにね」
とセピイおばさんは私に説明した。
なるほど。話の区切りが、なかなかつかないわけである。
しかも。当時のセピイおばさんとオペイクスたちは、階段を降りていく途中で、さらなる人影に気づいた。オーカーが、げっと驚きの声をもらし、オペイクスも慌てて階段を駆け降りようとして、制止の声を受けた。『急がなくてよい』と。
主君アンディンだった。そして、すぐ隣りに若い男が一人。
オペイクスはアンディンに正直に告白した。セピイおばさんやイリーデたちに、パールとの一件を話して聞かせた事を。それでいろいろと話しすぎたかもしれないと謝ったが、アンディンは責めなかった。『いや、君にしか話せない事だ。むしろ、自分の辛い経験をよくぞ話してくれたな。若い者たちの気づきになるだろう』とまで言ってくれたらしい。
オペイクスは続けて、若い男にも挨拶した。『ジャッカルゴ様、お戻りでしたか。お変わりないようで、何より』
若い男は、こんな返事だったとか。『うむ。お前も変わりない、と言うか、あいかわらず親父にこき使われているようだな』
そしてニヤリと笑みを見せ、拳を突き出してオペイクスに受け止めさせた。
これが、オペイクスとシルヴィアたちの会話に登場した、アンディンの長男ジャッカルゴである。シルヴィアやイリーデは以前から面識があったようだが、セピイおばさんが彼と会ったのは、この時が初めてだった。
ヌビ家の党首父子が待ち構えていたなんて。セピイおばさんもシルヴィアも、にわかに緊張したらしい。もちろんイリーデとブランネンも。
セピイおばさんたちの心配をよそに、アンディンは穏やかに言った。しっかり食事を摂るように、と。その上でブラウネンにだけ、こう付け加えた。『急がなくてよい。腹ごしらえが済んだら、私の書斎に来るのだ』
つまり党首父子が待っていた相手は、ブラウネンだったわけである。若き日のセピイおばさんがそばで見ていて、オペイクスが党首アンディンに事情を尋ねたがっているような気配があった。しかしオペイクスは、主君と目が合うと、口をつぐんだ。尋ねる事は、できなかった。
その後、セピイおばさんたちは食堂に行ったのだった。かなり遅くなった晩ご飯。セピイおばさんたちは、ほとんど会話せずに食事を済ませたらしい。塔の上では、あんなに語らったのに。なぜ口数が急に減ったのか。オペイクスが青い顔になって、黙りこくっていたからである。
やがてブラウネンが一番に食べ終わって、イリーデに小声で『行ってくる』と言い残して、出て行った。急がなくてよい、と言われていたにもかかわらず。
イリーデは何か返事をしてあげようとしながら、ブラウネンを目で追うばかりで、何も言えなかった。
ブラウネンが食堂から見えなくなると、イリーデはオペイクスに尋ねた。『ブラウネンは、ご党首様からお叱りを受けるのですか?私が結婚を拒みすぎたから』尋ねながら、彼女の目には涙がたまっているのが、セピイおばさんにも分かった。
オペイクスは慌てて笑みをつくろった。『お叱りなんかじゃないよ。大丈夫。
ただ、大事なお話があるのだろう。他の者には聞かせられないような、とても大事な話が』
この答えでも、イリーデの顔は晴れなかった。晴れるわけがないのだ。納得も何も、信じて待つしかないだから。
その後、若き日のセピイおばさんとイリーデ、そしてシルヴィアの三人は女中頭ノコのところに行って、謝ろうとした。が、ノコは三人を叱らなかった。先に寝ていて、セピイおばさんたちから起こされたのに、ノコは叱らなかった。事前に、党首アンディンがノコに事情を説明してくれていたのである。だから他の女中たちも使用人たちも、三人に、とやかく言わなかった。
ここまで話して、セピイおばさんは大きく背伸びした。
「ふーっ、やらかした。外が明るくなり出したよ。
もう、あんたも寝なさい。アンディン様が根回ししてくださっていたみたいに、私もあんたの両親に根回ししておこう。だから安心して寝坊するんだよ。いいね」
セピイおばさんに急き立てられて、私は離れの外に出された。
戸を閉めようとするおばさんに急いで礼を言った。そして、付け加えた。「おばさんも、寝坊してね」
「ああ、そうさせてもらうよ」
私たちは、それで一旦、別れたのだが。
家に入る直前、私は振り返って、離れを確かめた。まだ、かすかに光が漏れているような気がした。




