七話目 行き場のない怒り
わたしが伊吹の悲しみと当時の永田を重ねていると、彼は運転手に気づかれないよう、前方へ目配せした。
「金額、大丈夫なの? 」
料金メーターを見ると、三万円を超えている。
「心配せずとも、財布に十万円ほど入っている」
彼はホッとしたように、少し笑顔を見せた。
「……それより、君の母親はいつ亡くなった?」
彼は、ハッと息をのんだ。
「何も言ってないのに、どうして?」
「だから、当てると言っただろう?」
すると、彼はアメリカのコメディアンみたいに、おどけて肩を上げた。
「正解! 当たりです」
「最近か?」
「二週間前」
彼はそう言いながら、右のポケットを大事そうに触った。
「急に?」
「仕事中に倒れて……」
「仕事は? どんな仕事していた?」
「看護師だった」
「それは、大変な仕事だ」
「そうかな?」
「そうだ。しかし、どんな仕事でも大変には違いない。まぁ、私は特別、大変だったが」
「ハイ、ハイ」
彼はポケットに触れたまま、白けた返事をした。
「適当な相槌に感謝するよ。それで勤め先は診療所か? それとも、夜勤もある病院か?」
「大学病院だよ。夜勤もあった」
「じゃあ、時間が不規則だ。そして、気力も体力も使う。人の命を扱うのだから、気張らなくてはできない仕事だな」
「いつもヘトヘトだったのに……」
伊吹の頬に涙が伝った。その瞬間、私はまた胸に衝撃を受けた。
『母さんは疲れていても、無理して笑顔で……。
ご飯も、洗濯も、掃除も、全部、やってくれていたのに、それに気が付かないなんて、ぼくは本当にバカだ。
いざ一人になると、洗濯機の使い方すら知らないなんて。
父さんが死んでから、ずっと一人で。
母さんが過労で死んだのは、ぼくのせいだ……』
そうして、私の目の前に、母親が台所でカレーを煮込み、掃除をしている姿が浮かんだ。その横で、伊吹は寝転んでマンガを読んでいる。
次に浮かんだ光景は、ところどころに陰影があって、はっきりとは見えない。
父親らしき男性とまだ若い母親がいる。
父親はポケットからピンポン玉を出して、パッと消して見せた。
幼い伊吹はその手品を見て、目をまん丸にして喜んでいた。
私は、また胸の奥がじんわりと温かくなった。
私は合点がいった。
「伊吹よ、自分を責めちゃいけない」
「えっ?」
目が点になっている彼に構わず、私は続けた。
「死んだのは、伊吹のせいじゃないと言っているんだ」
「えっ? どういうこと? どうして? 呼び捨て?」
「世の中には、ワーカホリックという人種がいる」
「……なにそれ?」
彼の顔からサッと血の気が引いた。
「その人たちは、どうしようも無く仕事が好きなのだ。私と同じだ。しかも、君の母君は看護師を志したぐらいだから、きっと奉仕の精神に溢れていたのだな。仕事中に倒れるなんて、立派な最後だ」
私は敬意を払うように目を閉じた。
「おじさんに何が解るって言うんだよ。何にも知らないくせに。しかも、そんな死に方、立派でも何でもない。過労死を褒めるなんてあり得ないよ!」
伊吹の眉毛がつり上がっている。
「誰にでもできることじゃない。素晴らしいことだよ」
「そんなことない! いつも誰かのために働いて、報われずに死んじゃって。そんなことしたって意味ないじゃないか! 母さんはそんな事のために生きていたんじゃない!」
伊吹は、怒りを吐き捨てるようにそう言った。
――どうやら、私の言葉は彼の神経を逆なでするらしい。




