六話目 喪うということ
永田の母親が交通事故で死んだのは、シトシトと長雨の降る夜だった。
当時、私と永田は大学受験のために同じ塾に通っていた。
それは、私が同じ塾に入れとあいつに言ったからだ。
私が付いているのだから、その方がいいと思った。
あいつの母親も学年トップの私と同じ塾なら安心だと感謝していて、よく車で迎えに来ていた。
その日も塾が終わった後、私達は自習室であいつの母親の迎えを待っていた。
すると、ドタバタという大きな足音が聞こえ、先生が息を切らして部屋に駆け込んできた。
「あっ、永田君!」
「先生、どうしたの?」
あいつはお気に入りの先生に名前を呼ばれ、喜び勇んで立ち上がった。
すると、その拍子に、机の上に置いてあった筆箱がゴトンと鈍い音を立てて床に落ちた。
「今、おうちから電話があって、お母様が事故に遭ったらしいの。だから、すぐに帰りなさい!」
「そんな! 母ちゃんが……」
あいつは悲鳴のような声を出し、そのまま、石のように動けなくなってしまった。
「しっかりしろ。早く、カバンを持って!」
私はそう言いながら落ちた筆箱を拾い、急いで帰り支度をして、あいつの肉襦袢を履いたような分厚い尻を叩いた。
「どうしよう。どうしたらいいの?」
「今、なおちゃんがすることは一刻も早く家に帰ることだ。それ以外は、考えなくていい」
「……うん」
「泣くな!」
私はそう怒鳴ると、一歩も動けないあいつの腕を掴んで、小雨の降る夜道を傘も差さずに走り出した。
塾からあいつの家まで、歩けば三十分はかかる。
しかしその時は、無我夢中だったので、十分もかからなかったかもしれない。
家に着くと、隣町で暮らしている祖父母が駆けつけていた。
彼らの話では、あいつの母親は私達を迎えに来る途中、交差点で信号待ちをしていたらしい。そこへ、スピードを出しすぎた右折車が突っ込んだようだ。
そして、病院に運ばれたが危険な状態で、私達は病院へ向かっている父親からの連絡を家で待つしかなかった。
それから私は、「お前が帰ったらオレは死んじまう」と言うあいつと共に眠れぬ長い夜を明かした。
しかし、それは敢えて「寝なかった」という表現の方が正しいかもしれない。
私が、
「じゃあ、待っている間に勉強しよう」
と提案すると、あいつは、
「こんな時に、勉強なんかできるわけがないだろ!」
と怒った。しかし、
「お前がここで気を揉んでいても、どうにもならないだろ。手術をしている医者しか、お前の母親の生死に関わることはできないんだぞ」
と説得すると、素直にシャープペンシルを握った。
自分が関与できないことを、いくら考えても、何も変えることはできないのだ。
やがて、カーテンの向こうが明るくなりかけた頃、下の階で電話が鳴った。
それはあいつの母親が助からなかったという知らせだった。
それからあいつは、学校にも塾にも来なくなった。
私は毎朝、あいつの家の呼び鈴を鳴らしたが、あいつに会うことはできなかった。
そうして一か月後の朝、ようやく家から出てきたあいつは、XLサイズの制服がブカブカになるほどに痩せていた。
これには、さすがの私も驚きを隠せなかった。
「大丈夫か? なおちゃん、めしは食べてないのか?」
「じゅんちゃん、久しぶり……」
あいつは小さな声で、そう返答した。
「途中でコンビニでも寄るか? 何でも奢るぞ」
私がそう言うと、食い意地の張ったあいつが、
「いいよ。腹は減ってない……」
と耳を疑うセリフを言った。
あいつは三十九度の高熱が出た時でさえ、片手にメロンパンを握りしめて、うぅ~ん、うぅ~んと、唸るような奴なのに、そんなことを言うなんて余程の事だった。
この事態に、さすがの私も動揺したが、こんな時こそ、私がしっかりしなければと、平静を装った。
両側を水田に挟まれた道路を歩きながら、私はあいつがいない間に学校で起こったことや、授業や進路相談の進み具合などを、取り留めもなく、いつも通りに話した。
あいつはそれを黙って聞いていた。
その日、私は一日中、あいつのことを注意深く観察していた。
しかし、あいつは授業中も休み時間も、いつも通りに過ごしているように見えた。もう大丈夫なのだと思った。
しかし、学校からの帰り道、
「死んだら、どうなるんだろうな……」
と、あいつがポツリと言った。
「解らない」
私は正直にそう答えた。すると、あいつがまたポツリと言った。
「死ぬって、どういうことなんだろうな……」
「解らないよ」
その時、突風が稲穂をなぎ倒し、猛烈な勢いで二人の間を通り抜けて行った。
「じゅんちゃんでも、解らないことがあるんだな……」
あいつはそれっきり黙り込んで、遠くの方を見つめていた。
しかし、あいつの目には何も映っていないように思えた。
死とは一体、何なのか?
そして、大切な人を失うと、どのような気持ちになるのか?
ましてや、その時、あいつが考えていたことも、見ていたものも、私には何ひとつ解らなかった。
しかし、解るはずもないし、解らなくてもいいと思った。
私はあいつではないのだから、それが当然なのだ。
それから、私はいつも通りにあいつの隣りにいた。
次の日も、その次の日も。
ただ、あいつの隣りにいた。
それは誰かに言われたからではなく、また、何かに配慮したことでもない。
わたしにとって、それが当然のことだったからだ。
そうして季節が廻り、あいつの体型は元通りになった。
そして、大学入試の前日、塾の帰り道に、あいつがこう言った。
「母ちゃんは、オレのここで生きていると思う」
あいつは『ここ』と言う時に、左手をそっと自分の左胸に当てた。
「そうか」
私はそう短く返答した。
「ありがとう。じゅんちゃん」
「うん? あぁ」
何に対してのお礼なのかは解らなかったが、そう答えておいた。
そう言えば、きっと、あいつの気が済むのだろうと思った。
「明日、寝坊するなよ」
「うん」
あいつはそう言うと、久しぶりに笑顔を見せた。
受験当日、あいつは約束通り、寝坊はしなかった。
だが、私と同じ大学には受からなかった。




