五話目 少年の事情
私がそのように昔のことを思い出していると、伊吹がこう言った。
「サラサラして、きれいですね」
彼は小ビンを窓に近づけた。
「あぁ、それは凍結乾燥しているからな」
「トウケ△■*……? まぁ、いっか。これって、ほら、あの沖縄土産のサラサラの塩みたいだ。天国? 天使の塩みたいな名前の」
「あぁ、私も沖縄の塩は何種類か食べたことがあるが、それと間違えて食べてしまったら、それこそ天国に行って天使に会えるかもしれないぞ」
「母さんがあの塩でおにぎりを握ってくれたことがあって、あれは美味しかったな……」
伊吹はそう言うと、ギュッと口を閉じた。
「なんだ? しょんぼりして、母親と喧嘩でもしたのか?」
彼は首を大きく振った。
「じゃあ、どうした?」
「うん。ぼく……」
伊吹は言い難そうに、口籠った。
「言ったら、楽になるぞ」
刑事ドラマではないが、口に出すとスッキリしたり、考えが纏まったりする。かく言う私も、夜中に目が覚めて解決策が浮かぶと永田に電話するのだ。あいつに話すと、不思議なことに熟睡できる。
「そういうものなのかな?」
「そういうものだぞ」
私は彼の目をじっと見つめて促した。
「うん……、あの、ぼく……」
「そうだ! いいことを思いついたぞ。君がそんなに言い難いのなら、この私が当ててやろう」
その方が早いと思い、私はこの年代に起こりそうな心の機微を考えることにした。
「エッ、当てるって、何を?」
「大丈夫だ。私の推理力を見せてやろう!」
「その張り切り方、なんかいやだ……」
彼の露骨に嫌がる顔を見て、私はピンときた。
―この少年を取り巻く暗い空気は……
「解った! 家出だろ」
伊吹は苦虫を磨り潰したような顔をした。
「そう怒るなよ。じゃあ、あれだ。彼女との交際を反対された」
「彼女なんていません!」
「エッ、いないのか?」
「いっ、いません……」
彼はモジモジしながら、そう答えた。
―これは好きな子はいる反応だな
「じゃあ、単純に失恋して、母親に八つ当たりした!」
「好きな子もいないのに、失恋なんてできません!」
伊吹は目を吊り上げて怒った。とても面白い顔になっている。
「好きな子がいない? どうしてだ? 」
「どうしてって……」
「単純に言うと、人口の半分が女性だぞ」
「それはどういう理屈ですか!」
「数は足りているということだ」
「……意味がわかならい」
「だから、周りを見回せば、どこもかしこも女性だらけだと言っている」
「誰でもいいってわけじゃないでしょ!」
伊吹がそう怒鳴ると、運転手がまたバックミラーを見た。
「あぁ、これは失敬、失敬」
「おじさんみたいな変人と一緒にしないでください!」
「君はすぐに大声を出すな~。イノシン酸を摂取するといいぞ。イライラに効く」
「誰がイライラさせているんですか!」
伊吹は頭から噴火させるように怒った。
「ハハハッ、そう怒るな。母親に言って、鰹節を使った料理を頻繁に作ってもらうといい」
すると、伊吹の顔が悲しみに歪んだ。
その瞬間、私は胸を強く押されたような衝撃を受けた。
抑えきれない伊吹の感情が、私の中に流れ込んできたのだ。
『もう、母親の手料理なんて食べられないのに……。
かつお節どころか、最近、まともにごはんも食べてない。
どうして、死んじゃったんだよ。ぼくはこれから一人ぼっちじゃないか!
しかも、こんなヘンな幽霊に取り憑かれて。
どうせ、取り憑かれるなら、母さんが化けて出てくれればよかったのに!』
そうして、私の目の前に、伊吹親子が食卓を囲んで笑い合う様子が浮かび上がった。
母親は優しい目で息子を見つめ、時折、大きな口を開けて楽しそうに笑っていた。
それから、幼い伊吹がグラウンドを必死に走っている姿が見えた。
どうやら、体育祭のリレーに出場しているようだ。
母親も観客席で一生懸命に応援をしている。
しかし、あともう少しでゴールテープを切れるはずが、バランスを崩して転倒してしまった。
膝から血を出ていたが、必死で立ち上がる姿を見て、母親が泣いていた。
この親子の絆は、私の心を温めた。
しかし、次の途端に寒気が襲ってきた。
学生服を着た伊吹が棺桶を覗き込んでいる。
そして、正面の祭壇には優しそうに微笑む母親の遺影が飾られ、時折、彼の肩が上下している。
次は、遺骨を胸に抱いてリビングの隅に座っている伊吹。
そして最後の映像は、彼が手紙を書いている姿だった。
真っ白い紙に少し右肩上がりの文字で『産んでくれてありがとう』と、丁寧に、そして真剣に書いていた。それから、彼は心を込めたその手紙を白い封筒に入れた。
私はやっと腑に落ちた。
「君……」
「何ですか! もう!」
伊吹は涙を誤魔化すように、窓の方へそっぽを向いた。
理由が解ったからと言っても、私には伊吹の悲しみを正確に理解することはできない。それは、私は彼ではないのだから当然だ。
だが、心に空いた大きな穴を塞ぐには、時間が掛かるということだけは解る。
それは、永田が自分の母親を亡くしたあの時も、そうだったから――




