四話目 鼻垂れなおちゃんとじゅんちゃん
あれは、私が小学四年生の夏休みだった。
アスファルトからユラユラとした熱気が立ちのぼるほど、暑い日だった。
私と幼馴染の永田は、近所の雑木林でセミを追いかけていた。
「おーい。じゅんちゃん。もう疲れたよ~」
私は当時、永田から『じゅんちゃん』と呼ばれていた。
純也だから、じゅんちゃんだ。
その声に振り返った私は、山道の途中で立ち止まり、木の根っこに腰かけたあいつを見下ろした。
「わかった~。じゃあ、おれの家に来いよ」
「やった~。おばちゃんの手作りおやつ、あるかな~」
あいつはそう言うと、フランス国旗みたいなTシャツの中にタオルを突っ込み、小太りの身体を拭いた。
「今日はゼリーだと思うよ」
家を出る前に台所を覗くと、母が「ゼラチン」と書かれた小さな箱を手にしていた。きっと今頃、私の好きなオレンジゼリーが冷蔵庫でキンキンに冷えているに違いない。
そう思っていると、あいつが言った。
「オレ、最近、コーヒーゼリー食べられるようになったぜ」
「……おれだって、そうだ」
本当は苦手だったが、あいつの自慢気な声を聞いて、咄嗟に嘘をついた。
もっとも、今ではコーヒーが手放せない立派なカフェイン中毒者だが。
しかし、家に入ると、いつも満面の笑みで出迎えてくれる母はいなかった。
私は気にも留めず、冷蔵庫を開けた。
「……あれ? 何もない」
あいつにおんぶさせ、上の段まで覗いたが、あるのは漬物と味噌だけだった。
しかし、照りつける日差しの中、ゼリーのプルプルした食感や、喉をツルンと通る冷たさを想像しながら帰ってきたのだ。
今さら「ない」と言われても、気持ちが収まらなかった。
そこで自分達でゼリーを作ることにした。
ゼラチンの箱の裏にあったレシピを頼りに、インスタントコーヒーや砂糖を入れる。それとレシピはなかったが、オレンジゼリーにも挑戦した。
型に流し込み、冷蔵庫で冷やすこと一時間――
まずは、コーヒーゼリーだ。
「コンデンスミルク、かけて」
あいつの器にたっぷりとかけてやると、白い液体が黒いゼリーの上にとろりと広がった。
一口食べて、あいつは大きく笑った。
「うまいな~」
すると、前歯の抜けた隙間から、ゼリーのかけらが床に落ちた。
「なおちゃん、汚い」
私は当時、永田のことを『なおちゃん』と呼んでいた。
直人だから、なおちゃんだ。
「えへへ、ごめん、ごめん」
あいつはティッシュで床を拭くと、そのついでに、ゼリーが付いたティッシュで鼻をかんだ。
下を向いた拍子に鼻水が出たのだ。
次はオレンジゼリーだ。
だが、冷蔵庫から取り出してみると、まったく固まっていなかった。
「おかしいな~」
あいつが器を揺らすと、ゼリー液が床にこぼれた。
「なおちゃん、ダメだよ」
「ごめん、ごめん」
あいつはまた床を拭き、それで鼻をかむ。
それから二人でゲームをしたり、セミを観察したりして時間を潰したが、ゼリーは固まらなかった。
夕方六時のニュースのオープニングを合図にして、あいつは名残惜しそうに、家へ帰っていった。
両手いっぱいに買い物袋を提げて帰宅した母に、それを話すと、あっさりと言われた。
「オレンジには酵素があるから、ゼラチンは固まりにくいのよ」
「酵素って何?」「そもそも、どうして固まるの?」
私の頭は、疑問でいっぱいになった。
それを母にぶつけると、今度はこう返ってきた。
「自分で調べたら、楽しいわよ」
それが、私と化学の出会いだった。
化学は、小難しいものばかりじゃない。
日々の生活の中に溢れていて、ひとつ理解するたびに、私の世界は少しずつ広がっていった。




