三話目 化学で世界を救う
タクシーに乗り込んだ途端、サイレンの音が聞こえてきた。
間一髪。
実に危ないところだった。
少年はまごつきながら、運転手に「空港まで」と告げた。
私としたことが、まだ少年の名前を聞いていなかった。
こういう時は、まずは自分から名乗る。それが私のセオリーだ。
「私は友利。研究開発会社の社長だ。まぁ、周りからはハイパー友利だなんて持て囃されることもあるが。君の名前は?」
丁寧に尋ねたにもかかわらず、少年は黙ったままだ。
「おい、聞こえなかったか?」
すると、少年は面倒臭そうな声を出した。
「……いぶき。僕は高山伊吹です」
それを聞いて、運転手がすかさず口を挟む。
「良いお名前ですね~」
伊吹の顔が赤くなった。
「フッ、こういう時は、電話で話すふりをすると怪しまれない。常識だぞ」
私がニヤニヤしながら、そう言うと、伊吹はムッとした表情で言い返した。
「この状況が非常識なんです!」
その大声に驚いた運転手がバックミラーをチラッと見た。
「ほら、変人扱いだな」
すると、伊吹はスマートフォンを耳に当て、苛立った声で言った。
「自分のことをハイパーって言う人に、変人呼ばわりされたくない!」
「アハハッ、自分の未熟さが恥ずかしいか? だが、人は失敗の数だけ強くなる。実験と同じく、トライ&エラーだ」
彼はさらに語気を荒げた。
「もう! 人をからかうのがそんなに楽しいですか!」
「そんなつもりはないが……。しかし、君がそんなに非協力的なら、ずっと取り憑くしかないな」
また幽霊のポーズを取ると、彼は身震いして大人しくなった。
「で、僕にどうしろと?」
「それでいい。案外、呑み込みが早いな」
「こんなことで褒められても、うれしくない。○△■*……」
彼は拳を震わせながら、口籠った。
「これから、空港で私の部下に会ってもらう。そいつにそのバックの内ポケットの中に入っているUSBと小ビンを渡してほしい」
「それだけですね?」
「あぁ、それだけだ」
――それでいいのだ
これまでの私の人生がその二つに詰まっている。
あとは永田に託すしかない。
あいつは私の親友だ。きっと、うまくいく。
「……それで私は、心置きなく成仏できる」
私は大きく頷いた。
「本当ですね。本当にあの世へ行ってくれますね?」
「あぁ、約束する」
胸に手を当ててそう言うと、伊吹は小さく溜息をついた。
観念したらしい。
だが、彼はバッグを覗き込んだ瞬間、目を見開いた。
「これって、怪しい物じゃないですよね。白い粉がビンに入ってますけど……」
私を睨むその目つきは、まるで刑事だ。
「フフッ、それは君が疑うような物ではないよ」
「じゃあ……」
彼は不安そうに、私の顔を見た。
「まぁ、君に話しても、到底理解できないと思うが、それは世界を救う化学の結晶だよ」
伊吹はますます怪しいと顔をしかめた。
解らないのも無理はない。
「では、噛み砕いて言おう。その粉一つまみを一リットルの水に溶かし、それをイチゴやキュウリなどの苗にかける」
彼は素直に頷いた。
「ただ、それだけだ」
「エッ、それだけ?」
「そうだ。三週間後には、実がたわわに成る」
「何もしないの?」
「水やり不要だ」
あのビンの中の粉体は、私が開発した特殊な物質だ。少量で、土壌環境を一変させる。
「それは、コスパ、タイパがいい!」
今どきの言葉に乗りかかるように、私は苦笑しながら大きく頷いた。
「その通り。水も人手もいらないし、砂漠でも作物が育つ」
「へぇー」
ようやく、私の偉大さを理解したらしい。
この研究が成功すれば、地球の未来は明るくなるだろう。
幼い頃、私はあることがきっかけで化学に夢中になった。
あの頃は、将来、世界を救う日が来るなど、思いもつかなかった。
しかも、あの鼻たれなおちゃんに、それを託すことになるなんて――




