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第1章

「みんな今日もよくがんばった! おつかれ!」


 そんな威勢のいい声が響き渡ると、その場にいる劇場の団員たちが歓呼の声を上げた。


 そこは劇場の奥にある控室。団員たちが集う場所であり、同時に憩いの場だった。


 今、公演を終えた団員たちが控室に集まっていた。お互いに労うなどして、公演の成功を祝っていた。


「あ、団長。お疲れ様です」


 その時、団員の一人が声を上げた。その視線の先に頬を紅潮させたサフィナがいた。


「はい。みなさんもお疲れ様でした。今日もいい舞台になってよかったです」


 そう言いながら、サフィナは頬を赤くさせたままフワリと微笑んだ。その微笑みに団員たちも口々に声を上げる。


「お疲れ様です! 本当に良い舞台でした!」


「本当に。団長と同じ舞台に立てるなんて、みんなに自慢できますよ」


「いやあ、無事にやり切ることができてよかった」


 舞台での熱がまだ冷めていないようで、団員たちは興奮した様子で語り合っている。そんな様子をサフィナは楽しそうに見ていた。


「サフィナさん!」


 その時、彼女を呼ぶ声が聞こえた。サフィナが振り向くと、見知った顔が彼女に歩み寄ってきた。


「ルイズ。ノエさんも。お疲れ様です」


 妹のルイズと団員のノエだった。二人を見て嬉しそうに笑うサフィナ。そんな彼女に二人も笑みを浮かべて語り掛けた。


「お疲れさま、姉さん。今日も大成功だったわね」


「本当に! 今日も素敵な舞台でした」


「ふふ、ありがとうございます。楽しんでくれたならよかったです」


 お互いの笑顔が交わされる。今回の舞台がどれだけ素晴らしいものだったか、その顔が語っていた。


 その時、俳優のシモンが声を張り上げた。


「みんな今日までよく頑張った! おかげで公演は大成功。無事に今日を迎えることができた!」


 その場にいる団員たちがシモンを見る。そんな彼らにシモンが告げた。


「今日で公演は終わり! 明日からは待ちに待った休暇だ!」


 休暇という言葉に団員たちは歓声を上げた。


 この日まで劇場はずっと公演続きだった。満員御礼、千客万来。毎日大勢の観客が女優・サフィナの舞台を見にやって来た。


 新しくこの街区にも鉄道が繋がったこともあり、その客足は衰えることがなく、あまりの盛況ぶりに公演スケジュールを一週間延長するほどだった。


 ここに集まった団員は、サフィナと同じ舞台に立ちたくて集まった人たちだ。そんな彼らでも疲労を誤魔化すことができない有様。


 そうしてやってきた休暇。演技でも誤魔化しでもなく、団員たちは飛び上がって喜んだ。その姿にシモンも苦笑いを浮かべる。


「明日からしばらく休暇に入る。家族と過ごすもよし。遊びに出かけるもよし。犯罪と怪我をする以外は何をしてもいいぞ! 次の公演に向けて、英気を養ってきてくれ!」


 そう言って団員を労うシモンも、きっと頭の中では何をして過ごそうか、思案を繰り返していることだろう。


「団長からも何かありますか?」


 その時、シモンから声をかけられ、サフィナがびくりと身体を震わせた。自分に話が向けられると思ってなかったのか、ただ戸惑うばかりだった。


「あ、えっと、そうですね……」


 団員たちもサフィナを見る。いつも舞台では数百人の観客の前で役を演じるのに、舞台を降りれば人の視線に怯えてばかりの彼女の姿に、横にいるノエは静かに笑った。


 サフィナは一回咳を零してから、団員たちに向き直った。


「みなさん、本当にお疲れさまでした。色々ありましたが、みなさんのおかげで舞台を成功させることができました。また次の舞台に向けて、しっかり休んできてください。また同じ舞台に立てるのを楽しみに待ってます」


 団長として彼らに感謝を告げるサフィナ。彼らと同じ舞台に立ち、劇を演じられたことに彼女なりの言葉で感謝を伝えた。


 すると、団員たちがサフィナに向けて拍手を送り始めた。それは彼女の感謝に対する彼らから答えであった。


 自分たちも同じ気持ちだと。また次の舞台も一緒に立ちたい。そんな想いの込められた拍手だった。


 ノエがサフィナを見る。彼女はその拍手を受けて、とても嬉しそうだった。


 舞台では観客たちから万雷の拍手を送られてきた彼女だが、団員からの拍手を受ける彼女はそれ以上に嬉しそうに見えた。


 サフィナは目を潤ませながら、ただ頭を下げるのだった。





「はあ……疲れた」


 そんなことを一人呟くサフィナ。衣装もメイクもそのままの状態で、椅子に深く座り込んでいた。


 そんな彼女にノエが話しかける。


「お疲れ様です。お茶でも淹れましょうか?」


「あ、はい。お願いします」


 ノエの申し出に素直に甘えるサフィナ。それを受けてノエはお茶の準備を始めた。


 二人がいるのは劇場にある秘密の部屋。サフィナの個室であり、そして彼女の書斎だった。


 その部屋はサフィナが自分のために作った場所で、彼女はここに手に入れた本を集め、密かにここで読み過ごしていた。


 集めた本の数は一目では数え切れず、もはや図書室と言うべき様相を呈していた。


 団員たちもここに入ることはほとんどなく、ノエやルイズなどの限られた人間しか入ることはなかった。


 ノエがお茶を運んでくる。二人分のカップを並べると、サフィナが手に取って口に運んだ。


 紅茶が身体に溶け込むような感覚に、サフィナは自分の中の疲れも溶けて消えていくような気がして、一息ついた。


「やっとゆっくりできますね」


「本当ですね。まさか公演を延長することになるなんて。ありがたいやら大変というのか」


 ノエが苦笑いを浮かべると、サフィナも困ったように笑った。舞台が大好きなサフィナでも、さすがに疲れを隠せないようだった。


「ノエさんもありがとうございます。毎日忙しかったですよね。お疲れ様です」


 そう言ってサフィナが労いの言葉をかける。


 公演の間、ノエはノエで多忙な日々を過ごしていた。基本的に事務や書類仕事を担っているノエだが、公演が始まればそれ以外の仕事も頼まれたりした。


 やって来る観客の受付やスケジュール管理など。それらは考えている以上に大変な仕事だ。ノエも慣れない頃は悲鳴を上げたくなるほどの忙しさだった。


 その大変さを知るサフィナは、彼に頭を下げた。


「劇団に来たばかりでこんなに働いてもらって、本当にありがとうございます」


「いえ、そんな。自分は大丈夫ですから」


 彼女の言葉にノエは慌てて手を振った。


 確かに大変な日々だった。だけどその大変さを忘れるほどの楽しみもあった。


 劇場には団員たちだけが入れる秘密の客席があった。そこは観客席から離れており、静かに舞台を観ることができる場所。


 舞台が始まると、ノエは受付を終えてその客席に行く。そこで彼はサフィナの舞台を観て過ごすのだ。


 それはこの劇団に働く者の特権。世界一の女優の舞台を観られるという夢の時間。


 小説や物語が大好きな彼にとって、サフィナの舞台を観られるというのは、幸運以外の何物でもなかった。


 仕事の大変さも、その幸運を享受できることを考えれば、彼にとっては些末事とさえ思えた。


「でも、さすがにみなさん疲れていたようですね。団員のみなさんもお休みを楽しみにしていたようですし」


 ノエが団員たちのことを思い出す。明日からの休みを心待ちにしていたのだろう。休暇を告げられた時の彼らの姿に、ノエも楽しく思っていた。


 その時、ノエは空気が冷えるのを感じた。顔を上げると、サフィナが責めるような目を彼に向けていた。


 何故そんな目を向けられるのか、理由のわからないノエは戸惑うしかなかった。


「えっと……サフィナさん?」


「ノエさん。私、気付いてるんですからね」


 恐る恐る声をかけるノエにそんな反応を返すサフィナ。


 ますます何のことかわからないノエに、彼女は答え合わせをした。


「ノエさん、私がシモンさんに声をかけられて驚いているのを見て笑っていましたよね? 私、気付いてましたから」


 その言葉でノエが思い出す。控室で団員たちと集まっていた時、サフィナはシモンに声をかけられ、団員たちに何か言うように促されていたのを。


 その時、いきなり声をかけられて困っているサフィナを見て、ノエはその様子を笑って見ていた。


 それで全て合点がいった。あの時慌てていたサフィナを面白そうに笑っているのを彼女は責めているのだ。


「ノエさんは意地悪です」


 そう言ってプイっとそっぽを向くサフィナ。その様子を見て、ノエはまた笑ってしまった。


「すいません。だって、舞台の上ではあんなにたくさんの人の前で演技をしてるのに、団員たちの前でおろおろしてるのが不思議でしたから」


 サフィナは公演の間、大勢の人の前で舞台に立ち続けた。そんな彼女が団員たちの前では口下手になるというのが、ノエにはおかしく思えた。


 舞台に立つのと何が違うのか。そんな疑問を伝えると、サフィナが恥ずかしそうに上目遣いになった。


「それは……舞台に立つと自分じゃなくなると言いますか、あそこにいると何でもできる気がして、夢中になれるんです」


 そんなことを恥ずかしそうに語るサフィナ。その話にノエは不思議と納得した。


 普段のサフィナは人付き合いが苦手で、会話するのも人前に立つのも怖がっている。


 そんな彼女だが、一度舞台に立つとその姿は一変する。彼女はそこで『女優』になるのだ。


 彼女が舞台に立ち演技を始めると、彼女は演じる役そのものになるのだ。それはもはや演じるという行為を超えて、役そのものに生まれ変わるようなもの。


 ノエは以前、自分の小説を読んだ彼女が、そこに出てくるヒロインを演じるのを見たことがある。その時のサフィナの姿は、ヒロインがこの世に生まれ落ちたとさえ思わされるほどだった。


 彼女は役を演じるのではなく、役そのものに生まれ変わる。


 舞台に立てば何でもできる気がするとサフィナは言った。きっとその通りなのだろう。彼女は舞台の上で、何にでもなれるのだから。


「そうですね。舞台に立つサフィナさんは、確かにカッコいいと思います」


 女性に使う誉め言葉か迷うところだが、実際ノエは、舞台に立つサフィナの姿に見惚れているのだ。それは憧れとも、崇拝にも似た感情だった。


 だが、それでもノエは女優であるサフィナよりも、舞台から降りたサフィナの方に好印象を持っていた。


 人付き合いが苦手で口下手でも、それが彼女の本当の姿であり、何故か惹かれてしまう。


 ノエはそのことを素直に伝えた。


「だけど、舞台にいるサフィナさんよりも、こうしてお話する時のサフィナさんの方が、自分は可愛いと思いますよ」


 ノエの偽らざる言葉。それを聞いたサフィナは数瞬キョトンとすると、また責めるような目で彼を見た。


「やっぱり、ノエさんは意地悪です」


 そう言って彼を責めるサフィナだが、ノエはさきほどよりも責められてるような気はしなかった。


 その時、ドアを開いてルイズが入ってきた。


「姉さんノエさん、お疲れ様です」


 そう言って勢いよく入室してくるルイズ。いつものように男装をしているが、その服装も少し乱れていた。


「お疲れ様です。今日は少し長引きましたね」


「ええ、本当に。みなさん別れが名残惜しいのか、情熱的でなかなか放してくれませんでしたよ」


 ルイズの言葉にノエたちも苦笑いを浮かべた。


 サフィナの妹のルイズは、この劇団のオーナーをやっている。劇団の経営もだが、彼女は劇団の出資者や後援者などの外部との交渉を担っていた。


 男装をしているのもそのためで、後援者たちとの交渉をするためにやっていた。


 先ほど彼女が話していた『情熱的なみなさん』というのも、そうした人たちのことを指していた。


 自分たちとは違う大変さを背負う彼女の姿に、ノエも頭が下がる思いだった。


「まあでも、それも今日まで。明日からは休みになりますから、思いっきり羽を伸ばしますよ」


 そう言って楽しそうに笑うルイズ。休みをどんな風に過ごそうか、彼女もずっと楽しみにしていたようだ。


「休みは何をするか決めているんですか?」


「それはもちろん。新しくできたカフェや洋服屋とか、行きたいお店がたくさんできましたからね。全部見て回ろうと思ってますよ」


 劇場のあるこの街区は、比較的新しく再開発された区画で、新しいお店がどんどん集まって来ていた。


 新しく鉄道駅も開業したこともあり、この街は勢いよく発展し、有名なお店も出店するようになっていた。


 最近ではマールでも特に人気のカフェが店を出しており、それを聞いたルイズはしきりに行きたがっていた。


「ノエさんはお休みはどうされるんです? 一度実家に帰るんですか?」


 ルイズが何の気なしに問いかけるが、ノエは首を横に振った。


「いえ、自分はここに残ります。何もせずにゆっくりしようと思ってますよ」


 その一言にサフィナが暗い顔をした。


 ノエは以前、実家の父親と喧嘩別れをしており、半ば失踪する形でこの街を放浪していた。


 その記憶がまだ新しいサフィナは、何かあったのかと心配になったのだ。


 そんな彼女の様子から察したのだろう。ノエは慌てて否定した。


「あ、安心してください。別に喧嘩したとか、帰りづらいとかではないんです。単純にこの前会ったばかりだから、今回はいいかなって思っただけですから」


 ノエが父と喧嘩別れしてこの街を放浪していた時、偶然出会ったのがサフィナたちだった。彼女たちは新しく劇団を立ち上げたばかりで、ノエと一緒に働かないかと誘ったのがはじまりだった。


 それから劇団を襲った事件を解決した後、ノエは喧嘩していた父と再会、和解を果たすことができた。


 それがこの間のことであり、ノエとしてはしばらく帰らないつもりでいるだけだった。


「最近忙しかったし、ゆっくり過ごそうと思いますよ」


「そうですか。新しいお店とかできたし、巡ってみてもいいと思いますけど」


「ははは。あまりそう言うのは向いていないみたいでして。まあせっかくだから少し散歩に出ようと思いますよ」


 そんな風に笑うノエ。実際彼自身は、買い物や遊びに出るといったことはあまりしない人間だった。家でゆっくりしたり、時々散歩に出るくらいが彼の楽しい過ごし方なのだ。


「あ、あの!」


 その時、彼の話を聞いていたサフィナが声を上げた。いつもと違う大きな声を上げる彼女に、


 ノエはびっくりした顔を見せた。


「サフィナさん?」


「ノエさん。それなら、休日は特に予定はないってことですよね?」


「え? ええ、そうですけど」


 戸惑いがちに返すノエ。その答えを聞いたサフィナはしばし俯いてから顔を上げると、勇気を振り絞ってノエを見た。


「よ! よかったら! 私と一緒に買い物に出かけませんか!」


 顔を赤くして勇気を振り絞るサフィナ。その言葉の意味を理解できず、呆けたままのノエ。


 そんな二人をルイズがおかしそうに笑って見ていた。




 劇場の片隅にある事務室。ノエはいつもここで書類仕事に追われていた。


 その事務室にはノエともう一人、同じ事務員のジールがいた。荷物をまとめているジールにノエが語り掛ける。


「それじゃあ、ジールさんは家族でお出かけされるんですか?」


「ええ。娘とも約束していましてね。休みになったらみんなで出かけることにしていたんですよ」


 家族の話を穏やかに話すジール。その様子にノエは未だ慣れずにいた。


 ジールはいつも陰鬱な雰囲気を纏っており、陽気という言葉からは程遠い印象の持ち主だった。


 そんなジールも結婚していて娘がいることを聞いた時は、ノエは大いに驚いたのを覚えている。


 そのジールが家族のことを話す姿に、ノエは内心戸惑いを感じていた。


 事務室での陰鬱なジールしか知らないので、家族とどんな話をしているのか、ノエには想像もできなかった。


「ノエさんもこれから、サフィナさんとお出かけなんですよね?」


「ええ。サフィナさんからお願いされまして、一緒に行くことになりました」


 ノエは昨日、サフィナから誘われて一緒に出掛けることになっていた。


 どこに行くかは知らされていないが、買い物に出るのでついてきてほしいと言われている。


 すると、ジールが楽しそうに口を開いた。


「そうですか。今日は天気もいいですし、デートをするには良い日和だと思いますよ。二人で楽しんできてください」


「デート?」


 デートという言葉にノエがキョトンとする。その反応がジールも不思議だったのか、二人が同じ顔をして向かい合った。


「ええ。だって、お二人で出かけるのでしょう? 普通にデートだと思いますが?」


「いえ、違いますよ。ただ買い物に行くから荷物持ちを頼まれただけですよ」


 女性の買い物は大荷物になることが多い。サフィナ一人では持ち運ぶのも大変なのだろう。


 ただサフィナが行くようなお店だと、宝石店や高級ブティックかもしれない。そう思うと自分がついて行ってよいのか、ノエは不安で落ち着かなかった。


 そんなノエを見てジールが思案顔になった。かと思うと彼はノエに質問を投げかけた。


「ノエさんは、女性とお付き合いされたことはないのですか?」


「え? いえ。ずっと大学の勉強ばかりしてたので、そういう経験はしたことはないです」


 本当は小説ばかり書いていたので、そもそも人付き合い自体避けていた。だから女性との交際も経験したことがなかった。


 ノエが自分で選んだことなので、寂しいとか悲しいと思ったことはないし、それでいいと思っていた。


 しかし、何故ジールはそんな質問をしてくるのだろう。ノエが疑問に思っていると、ジールが苦笑いを浮かべた。


「皮肉なものですな。素敵な物語を書けるのに」


 その呟きにノエはますます怪訝そうな顔をした。


「まあ、それでしたら今日はお二人で楽しんでください。一緒に散策してみるのもいいと思いますよ」


 ジールの言う通り、この街区のことはノエも詳しくはない。新しく開発されたこともあり、新しいお店や名所があちこちにできていた。


 元々散策するのが好きなノエにとっても、新しい街を歩くのは楽しみでもあった。


「そうですね。そうさせてもらいます」


 その言葉にジールが笑みを返す。それからジールが時計を見ると、荷物を持って立ち上がった。


「それではそろそろ行かせてもらいます。良い休暇を」


「はい。お互いに」




 劇場の入り口で一人佇むノエ。サフィナは準備をしているらしく、ここで彼女を待っていた。


 ルイズも来るものだと思っていたのだが、彼女は行きたいお店がたくさんあるので、朝早くから一人で出て行っていた。


『姉さんのこと、よろしくお願いしますね』


 出かける前、ルイズからそんなことを言われていた。その時の顔が妙に楽しそうだったことをノエは不思議に思っていた。


 ノエは入り口側からホールに振り向いてみた。この前までここにはたくさんの人がいて、ここでサフィナの舞台を楽しんでいたのだ。


 その劇場も今は静けさだけが漂っており、人の気配は全く感じられなかった。


 誰もいない無人の劇場。普通なら一生目にすることのできないものを前にして、ノエはその光景をじっと眺めた。


 寂しいとか怖いとか、そんな感情はなかった。ただ、ここがいつもいる劇場と同じだとは思えなかった。


 人が誰もいないというだけでこんなにも変わってしまう。知ることのなかった劇場の隠れた顔を見ることができて、ノエは不思議な昂揚感を抱いていた。


「すいませんノエさん、お待たせしました」


 そんな声がホールに響いた。準備を終えたサフィナがやってきたようだ。


 ノエが声のした方を向くと、サフィナの姿に目をぱちくりとさせた。


 それはサフィナの普段の姿だった。顔を半分ほど隠す大きな眼鏡に、清潔な白い外出着に足元まで伸びた青いスカート。


 彼女らしい派手さのない服装だった。彼女によく似合っているし、可愛らしいと思った。


 ただ、その姿をノエは意外に思っていた。それは彼女の普段の姿であって、女優である彼女ではなかったからだ。


 ノエはてっきり、彼女が女優・ガルニールとして出てくるものだと思い込んでいた。そのため煌びやかな宝石や華美なドレスを着てくるものだと想像していたのだ。


 だが、サフィナは宝石もドレスも身に着けていない。それは舞台を降りた少女・サフィナの姿。


 不意打ちを食らった形になったノエは戸惑うばかりで、ただ彼女を見つめるしかできなかった。


「あ、あの……私、どこか変ですか?」


 無言で見つめられるという状況を不安に思ったのか、おずおずと問いかけるサフィナ。彼女を困らせていることに気付き、ノエが慌てて声をかける。


「す、すいません! ただちょっと意外だっただけで……」


「意外、ですか?」


「は、はい。舞台に立っている時みたいなドレスを着てくると思ってたので、つい」


 その言葉に納得したサフィナは、照れたように笑みを返す。


「はい。今日はこの格好がいいというか。せっかくのお休みなので」


 サフィナの言葉にノエは合点がいった。つまり彼女にとってのお休みとは、女優・ガルニールも休むということなのだ。


 普段から女優として活動していると、女優という衣装を脱ぎたくもなるのだろう。実際公演の間の忙しさを思うと、サフィナの言いたいこともわかる気がした。


「それに私、ドレスとか宝石とか身に着けるのは苦手なんです。重たい気がして、疲れるんですよ」


「まあ、そうですよね。やっぱり」


 宝石やドレスというのは、見た目の華やかさとは裏腹に意外と重かったりする。それを着て歩き続けるのは、それなりに苦労するものなのだ。


「や、やっぱり変でしょうか?」


 すると、サフィナからそんな風に問いかけられた。ノエの反応を見て、自分の姿を不安に思ったようだ。


「い、いえ! そんなことはないです! とっても可愛らしくて、よく似合っていると思いますよ!」


 実際サフィナのその姿はよく似合っているとノエは感じていた。その方が彼女らしくて、見ていてホッとする。


 それにこれは言わないでいたが、みんなが知る女優のサフィナよりも、自分やルイズだけが知る本当の彼女の方が可愛いとも思っていた。


 すると、ノエの言葉を聞いたサフィナが恥ずかしそうに俯いた。何かまずいことを言っただろうかとノエは不安になった。


「すいません。何か失礼なことを言ってしまいましたか?」


「あ、いえ。大丈夫です。ただちょっとびっくりしただけで……」


 サフィナはそこで一回深呼吸して、落ち着きを取り戻してから顔を上げた。


「そ、それでは行きましょうか。今日はお願いしますね」


「あ、はい。わかりました」


 そう言って劇場のドアを開くノエと、その後ろに続くサフィナ。


 その時、サフィナが嬉しそうに微笑んでいるのを、ノエは気付いていなかった。




 綺麗な衣服が展示されたショーウィンドウと、立派な店構えを見せつける建物の間を、着飾った紳士淑女が肩を並べて歩いて行く。


 近代化されたマールでは当たり前となった光景であり、この時代を象徴する都市の姿だった。


 この街区も鉄道が繋がってから一気に発展し、近代化したマールに相応しい街となっていた。


 そんな街の中を、サフィナとノエが歩く。


 爽やかな風と陽の光が降り注ぐ街を、サフィナが楽しそうに歩く。綺麗に舗装された道を一歩一歩大切に踏みしめ、その感触を楽しんでいるように見えた。


 一方、その隣をノエが強張った様子で歩いていた。そのことに気付いたサフィナが不思議そうに声をかけた。


「どうしましたノエさん? どこか痛めましたか?」


「あ、いえ。そうではないんですが……」


 その時、ノエたちの横を男が通り過ぎる。その男の視線にノエは変に反応してしまう。


 こんなにたくさんの人がいる街の中を歩いて、誰かがサフィナのことに気付かないかと、ノエは不安に思っていた。


 眼鏡で顔を隠すなどバレないようにしてはいるが、それでも何かの拍子でバレないとも限らない。その時、どんな混乱が起きるのか。そのことをノエは怖がっているのだ。


 そんなノエの心情を察したのか、サフィナがからかうように笑った。


「大丈夫ですよ。誰も私のことを気にする人なんていませんよ」


「そう、でしょうか?」


 なおも不安そうなノエに、サフィナがさらに言葉をかけた。


「みんなは舞台に立つ私を見てくれますけど、舞台を降りたら誰も見てくれません。女優というのは、そういうものですよ」


 そんなことをサフィナはからかうように呟いた。ノエにはとてもそうには思えないのだが、実際街を歩いている間、彼女に気付くものは一人もいなかった。


「ね? ですから心配しないで大丈夫ですよ。今日は舞台のことを忘れて楽しみましょう」


「……そうですね。わかりました。でしたら馬車を呼びましょうか? 人も多いから歩くのも大変ではないですか?」


 この日は天気も良く、街を歩く人の数も多かった。こういう所が苦手なサフィナは、歩くのも大変なはずだ。ノエなりに気遣っての提案だった。


 ただ、その申し出にサフィナは首を横に振った。


「いいんです。今日は歩きたい気分なんです」


「……えっと、そうなんですか?」


 サフィナの言葉に呆けるノエ。歩くこと自体は構わないのだが、歩きたい気分とはどういう意味なのか。


 ノエが不思議そうな顔をしていると、彼女はにっこりとわらった。


「せっかくだから、ノエさんとゆっくり歩いてみたいんです。私たちの街を」


 その言葉にどんな想いが込められているのかわからない。ただサフィナはその言葉を、とても大事なことのように紡いでみせた。


 これはとても大事なこと。楽しみにしていたこと。だから、大切にしたい。そんな風に聞こえる響きだった。



 その言葉を聞いたノエは、真っ直ぐに彼女を見ることができず、思わずそっぽを向いてしまうのだった。


「……わかりました。それならゆっくり行きましょう。疲れたらすぐに言ってくださいね」


「はい! わかりました」


 そう言ってまた歩き出すサフィナ。まるで自分をついてきてくれると信じているような足取りだった。


 そんな彼女に続くようにノエもゆっくり歩き出した。




 新しい街ができればそこに人が集まる。人が集まればお店が集まる。広く舗装された街路の両脇には、様々なお店が並んでいた。


 華やかな衣服を見せつけるショーウィンドウ。甘い香りを漂わせるカフェ。世界中の銘酒を揃えたワイン専門店など、それら店舗が計算されたように配置され、この街を形作る。


 その整えられた街並みと色とりどりの建物の並びは、街そのものが芸術品のような輝きを見せていた。


 とある画家は、近代化によって生まれた新しい都市を見て、『この街をキャンバスに描くことのできる若い絵描きたちに、私は羨ましさと嫉妬を覚えるほどだった』と語っている。


 美を追求する人も虜にする魅力がこの街にはあった。


 そんな街を二人で歩くノエたち。特にサフィナは目にするもの全てが珍しいのか、ことあるごとに足を止めていた。


「あ、ノエさん見てください。ぬいぐるみですよ。可愛いですね」


 サフィナがおもちゃ屋のウィンドウに飾られている熊のぬいぐるみに引き寄せられる。それに応じてノエも隣に並んで人形を見た。


「本当ですね。ふわふわしていて、肌触りも気持ちよさそうですね」


「もこもこして可愛いですよね」


 ウィンドウの中で仲良く並ぶ熊たちを、目をキラキラさせながら見入るサフィナ。


 かと思うと、少し歩いたら今度はクッキーやマドレーヌなどが並ぶお菓子屋で目を光らせる。


「ここのマドレーヌ。綺麗な色してますよ。まるで絵の具みたいです」


「確かにたくさんの色があって、本当に絵が描けちゃいそうですね」


 と、そんな風にノエたちは行く先々で談笑を繰り返した。


 その途中でノエは思う。想像していたのと、ちょっと違うと。


 彼女が足を止めるのは可愛いぬいぐるみがいるおもちゃ屋だったり、可愛いお菓子が並ぶお店だったりと。まるで子供みたいな反応を見せていた。


 ノエとしては有名なブティックや宝石店など、そういったお店に行くものだとばかり思っていた。


 それ故、想像していたのと違う状況に彼は戸惑いも感じていた。


 だけど、この方がサフィナらしいとも彼は思っていた。


 いつも大人しく、人と話をするのも苦手な、物語が大好きなサフィナ。それこそがノエが知っている彼女の姿。


 そんな彼女が宝石を品定めする姿よりも、今みたいにぬいぐるみやお菓子を前にはしゃぐ姿の方が、彼女には似合っているように思えた。


 多くの人から称賛される女優を、そんな風に評価する人間なんて、おそらく自分くらいだろう。


 そんなことを考えて、ノエは内心でだけ笑うのだった。




 マールの歴史はレーヌ川から始まったと言われている。レーヌ川とは、アンネルの中央部から北のドッガー海に流れる河川で、アンネルの発展を支えた河川でもあった。


 レーヌ川の周りにできた小さな集落。それがマールの始まりだった。小さな集落はやがて村になり、街になり、そして都市へと発展していった。


 レーヌ川はそんなマールに多くの恵みをもたらした。水資源はもちろん、レーヌ川沿岸の各都市からは、水運によって多くのものがマールに運ばれた。


 それらがマールをさらに発展させ、世界で最も繁栄した都市へと変えていった。


 マールの歴史が途絶えても、レーヌ川の流れが絶えることはない。そう語られるほどにレーヌ川はマールにとって象徴とも言える存在となっていた。


 マールはレーヌ川に沿って開発されてきた。そうなると街は川沿いに発展してくのが自然の流れだ。


 ノエたちがレーヌ川に来ると、川沿いに並ぶ街が見えてきた。


 近くにあるレストランではテラス席が設けられており、川から流れてくる風を感じながら、人々は綺麗に盛り付けられたランチを楽しんでいた。


 その川の上を遊覧船が航行し、美しく発展した街を乗客に見せつけていた。


 川も街も人も、全てが一つに合わさり、この光景を作り出す。まさに太陽の都と言える景色だった。


「ほら、ノエさん。『凱旋橋』ですよ」


 その時、前を歩いていたサフィナが振り向いて、目の前にある橋を指差した。


 凱旋橋。マールで最も美しいと言われる橋がそこにあった。


 凱旋橋とは、かつてのアンネルの英雄、ゲトリクス皇帝とアンネル軍のために作られた橋だった。


 まだ他国との戦争が激しかった時代。敵軍との戦いに勝利した皇帝とアンネル軍は国民に英雄として称えられた。この橋は、そんな英雄たちの凱旋を迎えるために作られたものだった。


 その凱旋橋も老朽化したこともあり、数年前に新しく作り替えられていた。その設計と建設には技術者だけでなく、多くの芸術家たちも参加した。


 技術者たちは新時代の技術を投じた鋼鉄の橋を。芸術家たちは壮麗な彫刻と豪華な装飾をこの橋に詰め込んだ。


 この時代の最も美しいものを集めた橋。それがこの凱旋橋だった。


 その凱旋橋もマールを象徴する名所として人々に愛され、今も着飾った紳士淑女が楽しむように橋を渡っていた。


「ノエさんは凱旋橋は歩いたことはありますか?」


「いえ、自分はないです。サフィナさんはよくここに来るんですか?」


「はい! 私、この橋が好きなんです! それに」


 そう言ってサフィナがくるりと回って、ノエに振り返った。


「ノエさんと一緒にここを渡ってみたかったんです」


 にっこりと微笑むサフィナ。その微笑みを向けられて、ノエは一瞬呆けてしまった。


 見惚れていたというべきなのか、まるで時が止まったかのように彼女から目を離せないでいた。


「ほら、行きましょう。ノエさん」


 楽しそうなサフィナが今にも走り出そうに歩いて行く。その様子にノエも思わず頬が緩んでしまう。


 彼女の気持ちが伝染したのか、ノエも楽しそうに後をついて行くのだった。




 鋼鉄によって作られたアーチ式の橋の上を、無数の馬車が列を成して走っていく。その両脇には、橋を守るように女神像や獅子像などが設置されていた。


 まさにこの時代を象徴する鋼鉄の傑作であった。


 広く作られた歩道には多くの人が歩いている。そんな中をノエたちは風を感じながら歩いていた。


「ほら、ノエさん。こちらの像は何だかわかりますか?」


 橋にはいくつかの円柱が建てられており、それぞれに彫像が立っていた。サフィナがその内の一つを指差した。


「あ、確かあれって、芸術の女神像ですよね」


 ノエが見上げる先には、仮面を手に掲げる女神・タレイナ像が立っていた。神話の中に出てくる女神で、多くの仮面を被って劇を演じていたという。


 彼女に演じられない役はなく、その演技で神々を楽しませたと言われている。


「はい。女神タレイナの彫像です。この橋には四つの女神像があってそれぞれ勝利・平和・繁栄。そして芸術。四人の女神像がここに建てられ、橋を見守ってくれているんです」


 橋の四隅に立つ円柱。その上を見ればそれぞれ女神像が立っており、その美麗な姿を見せつけていた。


 それら女神像を見るノエに、サフィナが語り掛ける。


「私、ここにある女神像の中では、このタレイナ像が一番好きなんです。見ていてホッとするというのか、安心できるというのか」


 サフィナがタレイナ像を見つめる。まるでそこに本当の女神がいるかのように、彼女は女神像に見惚れていた。


「それはやっぱり、芸術の女神だからですか?」


「そうですね。それもあります。だけど一番の理由は、この女神像が笑っているように見えたからだと思います」


「笑っている、ですか?」


「はい。他の女神像も確かに綺麗で美しいと思います。だけど、タレイナ像だけは違う。まるで私たちに微笑みかけてくれているような、そんな気がするんです」


 ノエがタレイナ像を見る。柱の上からこちらを見下ろす彼女の顔は、確かに笑っているように見えた。


「きっとこのタレイナ像は、私の憧れであり、目指すべき場所なんだと思います」


「目指すべき……ですか?」


 サフィナの言葉に首を傾げる。憧れというのはわかるが、目指すべき場所というのはどういうことなのか。その疑問にサフィナが答える。


「タレイナは多くの劇を演じ、そして多くの神々を楽しませたと言われています。私がなりたいのは、そういう役者なんです」


 以前サフィナは言っていた。多くの物語を演じたいと。それはまさに、彼女が目指すタレイナのようなものだった。


 多くの仮面を身に着け、演じられない役はない。その演技に神々は心動かし、拍手を送った。


 おそらくサフィナはこの国だけでなく、世界で最も素晴らしい役者だ。だけど、彼女にとってはそれでは足りない。彼女が目指すのは、目の前にある円柱の上にあるのだ。


 そこまで言って、彼女は恥ずかしそうな顔で笑った。


「まあ、まだまだ私の演技は上手くないんですけどね」


 そんな謙遜とも卑屈とも取れるようなことを口にするサフィナ。


 もし彼女が上手くないというのなら、この世界で誰が上手いと評価されるというのか。ノエは心の中で苦笑いをした。


「すいません、話が長くなりましたね。そろそろ行きましょうか」


「そうですね。そうしましょう」


 サフィナの言葉に応じてノエも歩き出す。


 四つの女神像が柱の上から彼らを見下ろしている。まるで彼らを祝福するように。






 橋を渡った後、ノエたちはいつもは通らない街区を歩いていた。


 そこは比較的古い街で、開発の波が来ていないのか、昔ながらの建物が並んでいた。


 そんな街の中では市場が開かれていた。


 机の上に並べられた青い野菜。かごに詰め込まれた真っ赤なリンゴたち。色とりどりの花束など、たくさんの品物が人々の目を楽しませる。


 店からは店主の野太い声が轟き渡り、客たちは目の前の品物をじっくり眺めていた。


 もう他の街区では見られない、伝統的なマールの光景だった。


「もうすぐ着きますよ」


 サフィナがそう言って、市場の中をかき分けていく。その道も歩き慣れているのか、むしろ楽しんでいる風でさえあった。


 ノエは意外だと思っていた。サフィナが行きたいというお店が、こういう旧市街にあるというのは想像していなかった。


「サフィナさん。今から行くところってどんなところなんですか?」


 素直に疑問を投げかけるノエ。その問いかけに彼女は楽しそうに振り向いた。


「私の行きつけのお店なんです。きっとノエさんも気に入ると思いますよ」


 そんな風にからかうように笑って、サフィナは再び前を歩き出す。


 サフィナの行きつけで、きっとノエも気に入るであろう場所。


 それだけの情報でわかるはずもなく、首を傾げるノエ。


 推理小説の名探偵ならわかるのだろうか。そんなことを考えつつ、ノエは彼女の後を追いかけて行った。




 市場のある広場から遠ざかり、さらにいくつかの店が並ぶ商店街に辿り着く。そこからさらにサフィナは路地の中へと入っていった。


 その道の先で彼女は立ち止まると、ニッコリ笑ってノエに振り向いた。


「ここです! 私のお気に入りは!」


 宝物を見せつけるように手を広げるサフィナ。彼女の背中にあるお店を見ると、そこに看板が掲げられていた。


『古書店・グラパレ』と名付けられた看板が、音を立てながら揺れていた。


「古書店……ですか?」


「はい! 私のお気に入りのお店で、アンネリーズにいた頃から通っているんです」


 サフィナは今の劇団を作る前、コメディ・アンネリーズという劇団に所属していた。その時からということは、それなりに長い付き合いということになる。


 目の前に立つ古書店を見ながら、ノエは不思議と納得していた。


 高級宝石店や一流ブティック店に行くより、古書店に行く方が彼女らしいと思った。


 舞台で輝く女優が通うお店。自分はそれを知る数少ない人間なのだと思うと、ノエは楽しくなっていた。


 ノエがそんなことを考えていると、サフィナがドアを開いて店内に入ろうとしていた。


 ノエもそれに続いて中に入ると、彼はその光景に圧倒された。


 足元から天井まで、本棚に収められた本たちが彼らを迎えた。それらの本の背表紙はどれも古く、しかし色褪せない光を見せていた。


 店内には独特な空気が漂っていた。それは古書独特の香りであり、長い時間を生きた本だけが生み出せる空気だった。


 そういった本が店内を埋め尽くす光景に、ノエは声も出せないでいた。


「いらっしゃい。おや、サフィナちゃんかな?」


 そんな声が本棚の向こうから聞こえてくると、背の高い細身の男が顔を出してきた。


「こんにちは、クロエさん。お久しぶりです」


「やあいらっしゃい。今日はお休みですか?」


 店主と思しき男と楽しく談笑するサフィナ。その姿にノエは驚いた。彼女にしては珍しく、人と談笑しているからだ。


 昔からの付き合いというのだから、親しい間柄だとは思う。それでも人との会話が苦手な彼女が誰かと楽しそうに会話する姿を、ノエは初めて目にしていた。


 ノエが呆気に取られていると、店主の視線がノエに向けられた。


「おや? そちらはお友達ですか?」


「あ、すいません。こちらはうちで働いてもらっているノエさんです。今日は私の買い物に付き合ってもらっているんです」


 いきなり紹介されたノエが慌ててクロエに目礼した。


「は、初めまして。ノエ・プルストと言います。サフィナさんの劇団で働かせてもらってます。よろしくお願いします」


 ノエが自己紹介すると、クロエは納得したように頷いた。


「ああ、あなたがノエさんですね。はじめまして。話は聞いてますよ。サフィナさんの劇団に新しい人が入ったって。ようこそ、古書店・グラパレへ」


 クロエが笑みを浮かべて手を差し出す。ノエがその手を握り返すと、独特な感触をした手のぬくもりを感じた。


「ど、どうも。えっと、自分のことを聞いていたって?」


「サフィナちゃんがうちに来た時によく話してくれるんですよ。新しく入ってくれた人がいて、本の話をするのが楽しいって。うちに来るとよく話してくれるから、どんな人か気になっていたんです」


 クロエが楽しそうに話す横で、サフィナが恥ずかしそうに頬を赤くしていた。自分のことを話していたことを知って、ノエも恥ずかしそうに顔を赤くした。


「まあ、今日も楽しんでいってください。この前品出しをしたばかりだから、良い物が見つかると思いますよ」


「本当ですか! ありがとうございます! さっそく見て回りますね」


 サフィナはそう言うと、トコトコと店の奥へと入っていった。


 サフィナの小さな体が本の森に消えると、後に残されたノエがクロエに語り掛けた。


「いや、しかしすごいですね。自分も古書店に本を売りに行ったことがありますけど、ここにある本は他の店とは何か違いますね」


 ノエにとっては苦い記憶だが、彼は生活が苦しかった時に手持ちの本を売りに出した時があった。


 その時に行った古書店のことを思い出してみるが、グラパレはその時のお店と違った印象があった。


 そんなノエの言葉を受けてクロエは嬉しそうと笑った。


「はは、確かに他の古書店とは違うかもしれませんね。ここにある本は古書としての価値はもちろん、今では使われない製本技術で作られた本を集めてるんですよ」


 クロエはそう言って、近くにある本を手に取ってノエに見せた。その本の表紙には、見事な刺繍が施されていた。


「これは百年前まで存在した工房の作品で、こういう刺繍を使った本が人気だったそうです。今でもこういう技術は残されていますが、これほど見事な本はなかなかありません。私はそういった本を中心に集めてるんですよ」


 ノエも話に聞いたことはある。本には二つの価値があり、一つは物語としての価値。もう一つが芸術作品としての価値だ。


 まだ本の大量生産ができない時代。職人が一つ一つその手で本を作っていた時代があった。本はそれそのものが価値ある存在だった。


 それ故、本を持つことは権力の象徴でもあり、権力者はそれを誇示する力を本に求めた。


 かつて世界の中心だった教会の権力者たちは、その手に豪華な装丁を施した本を持つことで、自らの権勢を誇示した。


 中には宝石をあしらった本が作られるなど、それらは職人の技術による作品であり、この世界に二つとない作品でもあった。


 しかし、技術の発展により本の大量生産が可能になると、職人が一つ一つ豪華な本を作る必要はなくなり、多くの本が人々の手に行き渡るようになった。


 もう職人が豪華な装丁本を作ることはなくなり、権力の象徴である必要はなくなった。


 今ではそうした豪華な装丁本は骨董品と同じ存在となり、もはや博物館くらいでしか目にすることができなくなっていた。


 皮肉なことに、そうした装丁本は人に必要とされなくなったことで、その価値を高めているのだ。


 クロエが手にしている本をノエはもう一度見た。確かに最近の本では見ることのできない、見事な刺繍の入った本だった。


「なるほど……確かに綺麗な本ですね。何の本ですか?」


「これは当時の哲学書です。当時はこうした装丁で売られていたみたいですが、これほど保存状態がいいのは珍しいですよ」


 ノエが表紙を見てみると、ノエも聞いたことのある哲学者の名前が書かれていた。


「私はこうした本を集めて、守ることを仕事にしているんです。物語としての本も大事ですが、こうした装丁本を集め、次の時代に引き継ぎたいと思っています。これほど見事な技術を施した本を失くしてはならないって」


 本を持って熱く語るクロエ。その話にはノエも共感した。


 ノエにとって本は物語としての価値を持っている。しかし、クロエの語る本の価値とは、職人の芸術作品としての価値を指していた。


 それはおそらく、画家や彫刻家が数百年受け継がれる作品を生み出すようなもので、職人の技術の結晶である装丁は、確かに未来に受け継ぐべきものだと思えた。


「そういえば、ノエさんも小説を書かれていると聞いてますが」


 その時、クロエから唐突に話しかけられノエがびっくりした。


「えっと、どうしてそれを……」


「それもサフィナさんから聞きましたよ。ノエさんは小説を書いているって」


 クロエから言われたことに、ノエは恥ずかしさを覚えた。小説を書いていると言っても、結局成功していないのだ。それを『書いている』といってよいものか、彼は自信がなかった。


「あ、いや。書いてはいますけど、そんな大したものじゃありませんよ。出版社に何回か持っていきましたけど、結局認められませんでしたから」


 言いながら、ノエは自分の中にある記憶を刺激してしまい、その苦味を思い出してしまう。もしかしたら、彼の中の陰鬱な感情が滲み出ていたかもしれない。


 そんな彼にクロエは朗らかに笑いかけた。


「物語を書けるというのは、それだけで優れた才能です。それに、サフィナちゃんはあなたの小説がとても面白いと言っていました。それこそ、あなたが優れた作家である証拠だと思いますがね」


 万人が認めてくれなくても、世界一の女優が面白いと言ってくれる。確かにそれは、百人の評論家の言葉よりも価値のあることだと思えた。


 クロエはさらに語り掛けてきた。


「それに今は違っても、いずれは世界中が忘れられない作家になっているかもしれません。もしよろしければ、保管してある原稿用紙を譲ってもらえますか? あなたがいつか偉大な作家になった時のために」


 それはクロエなりのリップサービスなのか、それとも本気でそう思っているのか。その真意はわからないが、彼の話にノエもつい笑い出した。


「いいんですか? 分の悪い賭けだと思いますけど?」


「いえいえ。これは先行投資です。株や証券が原稿用紙に変わっただけの話です。それに、いつ暴落するかわからない株券よりも期待できますよ」


 株券よりも価値のある直筆原稿。その価値が高騰するか否かは、ノエのこれから次第ということだ。


「それなら、株主の期待に応えられるようにがんばらないとですね」


「期待していますよ」


 古書店の奥で二人の笑い声が響いた。


 そういえばとノエは思い出す。彼の父も実業家で、よく他の資産家と商談していたことのを見たことがあった。


 もしかしたら父親もこんな会話をしていたのかもしれないと、つい笑ってしまうのだった。


 その時、店の奥からトテトテと足音が聞こえてきた。


「クロエさん! こちらを頂いてもいいですか?」


 本棚の影からサフィナが姿を現した。彼女はノエたちに近づくと、一冊の本を掲げてクロエに見せた。


「さすがサフィナちゃん。お目が高い。それは最近店に出したばかりのものなんですよ。サフィナちゃんならぴったりだと思いますよ」


「本当ですか!」


 その言葉にサフィナが喜びいっぱいの笑顔になった。その本を見つけられたことがとても嬉しいようだった。


 ノエも彼女が手にしている本を見た。その表紙には綺麗な刺繍が施されており、見事な装丁をされていた。


 本のタイトルを見ると、そこには『ハナウ童話集』と記されていた。


 ハナウ童話集とは、アンネルの東に位置する隣国、クロイツ帝国の各地に残された説話・伝承などまとめた童話集だ。


 クロイツで民俗学、歴史学などを研究していたハナウ兄弟が、各地の伝承や説話・民話を収集、編纂して世に出したものだ。


「へえ。これってハナウ童話集なんですか? 見事な装丁ですね」


 その本に施された美しい詩集を見て、ノエは感嘆の溜息を流した。彼もハナウ童話集は読んだことがあるが、これほど見事な装丁は初めて目にした。


「そうでしょう。こちらはハナウ童話集の初版でしてね。それも数冊しか世に出なかった特別な装丁なんです。少し前に手に入れたばかりの品でしてね。これほど見事な本は私もはじめて目にしました」


 自慢するようにクロエが笑う。古書店にとっても自慢の一冊ということなのだろう。


 その時、ノエがサフィナの方を見ると、彼女は童話集を掲げ、見上げるようにして本を見つめた。


 彼女がその瞳を輝かせて、童話集を眩しそうに見つめる。まるで世界で一つしかない宝石を見るような輝きだった。


 すると、彼女は輝く瞳をクロエに向けた。


「クロエさん! これ、いただきます! それと、他にも何か探してきます! ちょっと待っててください!」


 彼女は叫ぶように伝えると、童話集をその場において、また本の森へと入り込んでいった。


 まるで宝探しに行く子供のように、彼女の楽し気な声が聞こえてきそうだった。


 そんな彼女の後姿を見ながら、クロエも楽しそうに笑う。


「サフィナちゃんはいつも楽しそうに本を読んでくれて、自分も嬉しいですよ。古書は結局骨董品として扱われますけど、あの子はここにある本は物語として本を手に取ってくれるから、あの子を相手にするのが一番楽しいですよ」


 クロエの言葉にノエも同意する。サフィナが楽しそうに物語を語る姿は、ノエも見ていて気持ちが良かった。


 きっと彼女にとって、ここにあるのはショーケースに保管するような本ではなく、部屋でお茶を飲みながら読み耽るものなのだ。


 もし自分の物語が本になるなら、彼女のような人の手に渡ってほしい。ノエは静かに願った。


「よろしかったら、ノエさんも何か買っていかれませんか? 古書と言っても全てが高価なものではありません。何かいいものがあったら仰ってください」


「そ、そうですか? それでしたら」


 ノエは言われるがまま、店内を散策することにした。


 見れば見るほど、古書の名に相応しい本が並んでいる。インクと埃の匂いの入り混じった独特の香り。古い本から滲み出る空気。


 ここを本の森というのであれば、まさしく森林浴とでも言うべき時間だ。


 おそらく本棚の向こうでは、サフィナが興奮しながら本を見ているのだろう。そんな想像を楽しみながら、ノエは森の中を散策した。




「今日もありがとうございました! また来ますね!」


「ええ。お待ちしております」


 手を振るサフィナにクロエも手を振り返す。サフィナがその手に紙袋を抱えながら歩き出すと、ノエもそれに続いて歩き出した。


 すでに陽も傾き、マールが茜色に染まりつつあった。それでも道行く人々は帰る素振りを見せることもなく、これからどこに行こうかと談笑さえしていた。


 そんな街を二人並んで歩くノエたち。ノエが隣のサフィナを見ると、彼女は紙袋を大事そうに抱いていた。


 それはクロエのお店で買った本だった。それを胸に抱きながら、嬉しそうに鼻歌を奏でていた。


「とても嬉しそうですけど、何を買ったんですか?」


 一体彼女が何を買ったのかノエが問いかけると、その質問が嬉しいのか彼女は満面の笑みをノエに向けた。


「あ、これですか? 最初に見つけたハナウ童話集と、それからクロイツの本が読みたくなったので、あちらの作家の本を二冊ほど。いい買い物ができました」


 嬉しそうに語るサフィナ。ノエも見ていたが、彼女が買った本はどれも見事な刺繍と装丁がされていた。確かに素晴らしい本だと思った。


 ただ、ハナウ童話集はそれなりに高額で、その値段を聞いた時はさすがにノエも驚くほど。


 その値段はガラスケースに飾られた宝石と同じだった。


 そんなものをこの小さな少女がその手に抱えているなどと、誰が信じるだろう。


「ノエさんも何か買ってましたけど、何を買われたんですか?」


 サフィナが輝く瞳で問いかけてくる。ノエも古書店で何かを買っているのを見て、その中身を聞きたがっているようだ。


「ああ、自分は……せっかくだからアンネルの童話集にしました。小説はよく読むけど、童話はあまり読んだことはないので」


「そうなんですね! もしよかったら、私にも読ませてください。私もこれを読み終わったら、ノエさんも読んでいいですから」


「そうですね。その時はありがたく、読ませていただきます」


 そんなことを語り合う二人。この瞬間が、ノエは本当に楽しく感じた。


 好きなことを本気で語り合える。そんなことができる相手というのは、世界にどれだけいるのだろうか。


 本のことになると本当に楽しそうに語るサフィナ。そんな彼女と語り合うこの瞬間は、何よりも尊く感じられた。


「ノエさん、クロエさんのお店は気に入ってもらえましたか?」


 その時、サフィナからそんな問いかけが飛んできた。どんな答えが来るのか、彼女の顔が期待に満ちていた。


 お店に流れる心地良い空気と美しい本の森。それらのことを思い起こしたノエは、自然とその想いが口から流れた。


「そうですね。とてもいいお店だと思いますよ。綺麗な本も多いし、クロエさんもいい人でしたね」


 あのお店に溢れる本の香り、インクの匂い、古書の空気。そして美しい装丁と装飾の本が並ぶ光景。今でもその光景を思い出すと、ノエは自然と笑みを浮かべていた。


 その答えにサフィナが嬉しそうに笑い、さらに詰め寄ってきた。


「本当ですか! もしよかったら、またいつか一緒に行きましょう! 私、またノエさんと一緒に行きたいです!」


 サフィナにしては珍しく強い語気を見せてくる。その勢いにノエもたじろぐ。


 まるで遊びに連れて行くことを子供みたいだ。そんな子供みたいなサフィナの態度に、ノエは何も言えずにいた。


 すると、その様子にサフィナが不安そうな顔を見せた。断られるのではないかと、そんなことを考えているのかもしれない。


 それが面白くて、ノエは彼女に笑みを返した。


「そうですね。よかったらまた行きましょう。楽しみにしてます」


 その時はもっと楽しくなるのだろう。そのことを想像すると、ノエは自然と頬が緩んだ。


 すると、ノエの答えを聞いたサフィナも嬉しそうに笑みを浮かべた。嬉しくてたまらない。そんな言葉が聞こえてきそうだった。


 それから少し、街を歩く二人。今もカフェテリアは人でいっぱいで、道は家族連れや恋人たちが闊歩しており、まだまだ帰りそうになかった。


「ありがとうございます」


 ふと、サフィナから感謝の言葉が飛んできた。いきなりのことにノエは何のことかわからず、思わず質問を投げ返した。


「えっと、何のことです?」


「今日は私に付き合ってくれて、ありがとうございます」


 にっこりとサフィナは笑うと、彼女は目の前の街に向かって両手を広げて見せた。


「私、ノエさんとこの街を歩きたかったんです。新しくできた私たちの街だから、二人で見て回りたかったんです」


 私たちの街。確かに言葉通りだった。


 この街区は新しく開発されたばかりの街で、駅もできて人も集まり、賑わいを見せていた。


 そして、その街の中心にはサフィナの劇場があった。


 壮麗な佇まいを見せる劇場は街のシンボルとなり、人々の誇りと自慢となった。


 もうこの街はサフィナの自慢であり、愛すべき街なのだ。


「こんな素敵な街、独り占めしたらもったいないですから」


 夕陽に照らされて、彼女の笑顔が黄金色に輝いているように見えた。


 その笑顔を、ノエは直視できなかった。眩しかったせいか真っ直ぐに見ることができず、つい目を逸らしてしまう。


 その時、ガス灯に光が灯り始めた。そろそろ夜が広がり始めようとしていた。


「もう結構な時間ですし、そろそろ帰りましょう。馬車を拾ってきますね」


 少し歩けば馬車が集まる場所に出られるはず。ノエが辻馬車を捕まえようと歩き出そうとした。


「待ってください」


 すると、サフィナが走り出そうとするノエを呼び止めた。


「あ、すいません。まだどこか寄るところがありましたか?」


「いえ、そうではないんですが、その……」


 それからサフィナが言葉を紡ごうとするのだが、少し恥ずかしそうにしていた。そして、意を決したように声を上げた。


「よかったら、このまま歩いて帰りませんか? せっかくですから」


 おずおずと提案してくるサフィナ。その雰囲気から、一緒に歩きたいと気持ちが滲み出ていた。


 ノエにはその提案を断る理由はなかった。それに、彼女と一緒に歩いてみたいという気持ちは彼にもあった。


「そうですね。せっかくですから」


 ノエが微笑みながら答えると、サフィナははにかみながら彼の隣に並んだ。


 彼らはそれから、いつもよりゆっくり歩いて帰るのだった。




「……ん」


 ベッドで目を覚ますノエ。見慣れた天井が目に飛び込んでくる。


 大きく伸びをして意識を呼び覚ます。肺に新鮮な空気を流し込み、身体を覚醒させる。


 昨日はサフィナとの散策が楽しくて歩き回ったせいか、帰った時には疲れてすぐ寝床に入るほどだった。もう何をしていたのか記憶にも残らないほど。


 それでもノエの体内時計はよほど高性能なのか、どれほど疲れても起きる時間は同じだった。


 すっかり目を覚ましたノエは、すぐに身支度を整えてから食事を取ることにした。


 部屋を出て食堂に向かうと、そこにルイズがいた。


「あ、ノエさん。おはようございます。お加減はいかがですか?」


 朝のコーヒーを楽しんでいたのだろう。彼女の手元には湯気を立てるカップが置かれていた。


「おはようございます。気持ちよく寝られましたよ。高級ホテルのベッドでも、こんな気持ちにはならないかもしれません」


「ふふ、そうでしょうね。高級ホテルにも劣らない、世界最高の劇場ですからね」


 そんなことを呟きながら、ルイズがからかうような笑みを浮かべる。


 ノエが寝泊まりしているのは、劇団・トレゾールの劇場だった。そこにノエはサフィナたちと一緒に生活していた。


 以前ノエは、サフィナたちと同じアパルトマンで共同生活をしていただが、劇場が完成するとサフィナたちは劇場に引っ越すことを伝えてきた。


 ノエはそれを機に、自分もどこかに下宿しようと考えたのだが、彼にも劇場に来ることをサフィナが提案してきたのだ。


 さすがにノエはそれを固辞した。アパルトマンで一緒に生活しているのも問題なのに、劇場で彼らと三人で生活するなど、立場的にも世間体としてもよろしくないと思った。


 だがサフィナにしては珍しく、頑としてノエにも一緒に来るように誘い続けたのだ。


 最後は悲しそうな表情を浮かべる彼女に根負けし、ノエも仕方なく劇場で生活することになったのだ。


 その時の様子を眺めていたルイズは、とにかく楽しそうに笑いをこらえているのを、ノエは今でも覚えていた。


「ルイズさんは昨日はどちらに行かれたんですか?」


「私は新しくできたカフェとか、人気のブティックを見に行きました。この街もいいお店が並ぶようになって、私もついはしゃいじゃいました」


 よほど楽しかったのだろう。その時のことを思い出して興奮気味に話していた。


 ふと、ノエはサフィナがいないことに気付いた。いつもなら食堂に来る時間だが、まだ姿を現さなかった。


「そういえばサフィナさんは? まだ起きていないんですか?」


「ああ、姉さんは今日は部屋から出てこないと思いますよ。本の森に迷い込んでしまいましたから」


「本の森?」


 何のことかと首を傾げるノエに、楽し気にルイズは話す。


「ほら、昨日は本を買ってきたでしょう? 買ってきた次の日は本を読んで過ごすのが姉さんの決まりなんです。新しいおもちゃをもらった子供と同じなんですよ」


 その説明に不思議と納得するノエ。確かに物語が大好きなサフィナのことだ。本に夢中になる姿が容易に想像できた。


 朝食に呼びに行こうかと思ったが、読書中の彼女の邪魔をする気にはなれなかった。


「そうですか……朝食に呼ぼうかと思いましたが、邪魔してはいけませんね」


「いえ、ぜひ邪魔してください」


 ノエの言葉に対して、ルイズがはっきりと伝える。まさか邪魔しろと言われるとは思っていないノエは、

 呆けて何も言えなかった。


「えっと……」


「ははは。すいません驚かせて。でも、本当に邪魔してあげてください。そうしないと姉さん、本当に部屋から出てこなくなるんですよ。以前本を読んでいたら食事をするのも忘れてしまって。私がそれに気づいて部屋に呼びに行ったら、髪もボサボサで顔も血の気が引いて真っ青な状態でしてね。それなのにその瞳だけは爛々と光ってるんですよ。それからご飯を食べさせようとしても、あと少しだけってねだるから、仕方なく本を持って食堂に連行してやったことがありますよ」


 ルイズの話にはノエも思い当たる節があった。彼も本を読んでいると時間を忘れ、腹の虫が鳴くのも聞こえないことがある。正直、サフィナの話をバカにはできなかった。


「ですので、時々でいいから部屋に行ってあげてください。ノエさんなら姉さんも本を置いてくれると思いますから」


 本を楽しむのは結構だが、さすがに食事を摂らないのは身体にも悪い。時々は様子を見に行くべきだろう。


「わかりました。時々部屋に行くことにしますね」


 ノエの言葉にルイズも満足そうに笑うのだった。




 そろそろ昼食の時間という頃、ノエはサフィナがいる部屋までやって来た。ルイズの言う通り、部屋から全く出てこないサフィナに食事を運んできたのだ。


「本当に出てこないんだな……」


 ルイズが言っていたようにサフィナは部屋から一歩も出てこなかった。それどころか物音すら聞こえず、気配すら感じさせなかった。


 ルイズが心配するのも無理はない。ノエも苦笑いを浮かべた。


 そうして部屋までやって来たが、そのドアの前でノエが立ち止まる。


 正直このまま部屋に入っていいものか、ノエは迷っていた。読書の邪魔をするのも気が引けるし、そうでなくても女性の部屋に入るのだ。どうしても気後れしてしまう。


 とはいえ、このまま食事を摂らないままではサフィナのことが心配なのも事実だった。


 一回深呼吸をしてから、彼はゆっくりドアをノックした。


「サフィナさん。ノエです。入ってもいいですか?」


「ノエさんですか? どうぞ」


 入室を促され、ノエはドアを開いて足を踏み入れる。


 天井まで届くほどに高い本棚が、列を成して部屋いっぱいに並ぶ。壁のほとんどが本棚になっており、数少ない窓が辛うじて、太陽の光を呼び込んでいる。


 そこは劇場に作られた、サフィナのためだけの部屋。サフィナが手に入れた本を置き、本と語り合うための部屋。


 所狭しと本棚が並ぶ光景は、鬱蒼とした森そのもの。見る人が見れば、図書室と言われても信じてしまいそうだった。


 そんな森の主が、部屋の中央にある椅子に腰かけていた。


「どうしましたノエさん? 何か御用ですか?」


 椅子からサフィナが微笑みを向けてくる。そんな彼女にノエが声をかける。


「そろそろお昼になります。よければ一緒に食事にしませんか?」


 ノエの申し出を聞いたサフィナは、何を言われたのかわからない様子でキョトンとした。


「もうお昼なんですか?」


「ええ。まあ……」


 朝から一歩も部屋から出てこなかったが、本当に時間の感覚がなくなっているようだ。そのことにノエも呆気に取られた。


「そうですか……本が楽しくて時間のことも忘れてました。ありがとうございます。せっかくですから一緒に食べませんか?」


「え? いいんですか?」


 本好きの中には本の近くで食事をされるのを嫌う者もいる。彼女もそうかもしれないと思っていたので、その申し出にはノエも驚いた。


「はい。本当はいけないんでしょうけど、ここで食べたいんです。私、この部屋の空気が好きなので」


 とても楽しそうに笑うサフィナ。インクと埃と、古い本の匂い。その空気を彼女は好きだという。


 そしてそれは、ノエも好きな空気だった。


「……そうですね。ここで食べましょう。紅茶を持ってきますので、待っててください」




 丸机の上にパンとカップが並ぶ。ノエたちが着席すると、さっそくサフィナが手元のパンを口に運んだ。


 その瞬間、サフィナが驚いたように目を輝かせた。


「すごくおいしいです! どこのお店で買ったんですか?」


「ルイズさんからお勧めされたお店ですよ。ここのクロワッサンがおいしいと言っていたので、さっき買って来たんです。気に入ってもらえてよかったです」


 そう言いながらノエもクロワッサンを口に運んだ。


 大きなクロワッサンに厚手のハムとトマト、それとレタスを挟み、さらにバターを塗った逸品。柔らかいクロワッサンにハムの存在感とレタスとトマトの瑞々しさが絡まった味。


 目の前ではサフィナがおいしいおいしいと繰り返していた。それを見れただけでも買って来てよかったと思った。


「そういえば昨日買った本を読んでいたんですよね? 何を読んでいたんですか?」


 昨日クロエの店ではいくつか買っていたはずだ。どれを読んでいたのか、ノエも気になっていた。


 その質問が嬉しいのか、サフィナがニマっと笑って見せた。


「気になりますか?  今日はこれを読んでたんです」


 そういってサフィナが一冊の本を掲げて見せた。


 彼女が掲げたのはハナウ童話集。昨日彼女が一番興奮していた本だった。


「ハナウ童話集ですか。サフィナさんも気に入ってましたもんね」


「はい! 今日はずっとこちらを読んでました!」


 楽しそうに語るその顔は、大事な宝物を自慢する子供のようにも思えた。すると、サフィナは童話集を大事そうに撫で始めた。


「本当に素敵な本です。刺繍も素敵だし、装丁の肌触りもページをめくる感触も、本当に素晴らしいです。触っていてわかります。この本を作った人は、丹精込めてこの本を作ったのだと」


 その本はかつて、この国でもっとも腕のいい職人が集まった工房の作品だという。


 今では機械によって本も大量生産できるが、当時は職人たちの手で一冊ずつ作られていた。


 そんな職人の技術と誇りが詰め込まれた作品。それは相当価値のある作品なのだ。


「それにもちろん、中に書かれている物語も素敵なんです! クロイツにある童話は私も好きで、よく読んでいたんですよ」


「そうなんですね。やっぱりいいお話は何度読んでも楽しいですもんね」


 ノエも好きになった物語は何度も読んだことがあるからよくわかる。一度では足りない。何度読んでも物語は美しいままだし、ページをを開くたびに新たな発見がある。


 本の最後のページをめくれば、そこには最初の一ページ目がある。それが読書家の合言葉だった。


「ええ。このハナウ童話集も何度読んでも素晴らしいままです。それにここにある本は、今はもういない人たちが書いた本で、今とは味わいが違って見えるんです」


 今サフィナが手に持っているのは、サフィナが生まれるずっと前に書かれたものだ。同じ童話でも、そこに描かれるものには時間以上の違いがあった。サフィナはその良さを語る。


「今はもう見られない言葉や表現があったり、伝え方や描き方が今とは違うお話もあったりするんです。当時の人たちがどんな想いを込めて、何を伝えたくて書いたのか。今読まれている童話とは違った魅力があって、まるで全く新しい物語を読んでいる気がしてくるんです。その感覚がとても楽しいんです」


 時代が変われば表現や言葉も当然違ってくる。書く人が変わっても違ってくるし、外国の本も訳者が違うだけで全く違う本という人もいる。


「たぶん今日は、この本と一日を過ごすことになりそうです」


 童話集を眩しそうに見つめるサフィナ。その先にはどんな世界が広がっているのか、楽しみで仕方ないようだった。


「ノエさんにはそんな何度も読んでしまうような、思い出の本はあったりしますか?」


 サフィナが目を輝かせる。ノエがどんな話をしてくれるのか、彼の答えを聞くのを待っていた。


「ああ、自分は……」


 それからノエは思い出の本について語り始めた。それは彼にとって一生忘れられない出会いと思い出。自分の中に刻まれた物語との語らい。


 その思い出の話を、サフィナはじっと聞き入るのだった。




 街にある教会の鐘が大きく鳴らされた。見れば昼食を摂ってからだいぶ時間が経っていた。


「もうこんな時間ですか。そろそろ部屋に戻ります。お邪魔してすいませんでした」


「いえ、お話してくれて、とても楽しかったです。よかったらまたお話してくださいね」


 ノエとの会話がよっぽど楽しかったのだろう。少し興奮気味になっているサフィナ。やはり物語の話は彼女の大好物のようだ。


「それじゃあ、夕食になったらまた来ます。よかったら本の感想を聞かせてください」


 空になったカップを盆にのせながらノエが言うと、サフィナも楽し気に笑った。


「はい。楽しみにしててくださいね」


 彼女に笑みを返すと、そのままノエは部屋から出て行こうとした。


 自分も何か本を読んで過ごそうかと、ノエはぼんやりと考えていた。


「ノエさん」


 そんな彼をサフィナが呼び止める。いつもの彼女らしからぬ鋭い声に驚きつつノエが振り向く。


「どうしました? サフィナさん」


 彼が振り向くと、サフィナの手には一枚の手紙が握られていた。


「あの……本を開いたら、中からこんなものが…………」




 机を挟んでノエとサフィナが向かい合う。机の上には、サフィナが見つけた手紙が置かれていた。


「これが本に挟まれていたんですね」


 ノエの問いかけにコクンと頷くサフィナ。


 彼女が机に置かれた手紙を指差す。それに誘導されるようにノエの視線もそこに注がれた。


 ただの手紙なら大きな問題ではない。ただ、その手紙には達筆な字でこう書かれていた。


「我が娘へ。『こうして、亀はみんなのために働き続けました』」


 一枚の紙に書かれた言葉。その言葉を読み上げながらノエは目の前のサフィナに問いかけた。


「サフィナさん、これって『のろまな亀』の言葉ですよね」


『のろまな亀』とは、誰もが一度は読んだことのある寓話だった。




 ある国にのろまな亀がいました。亀はうさぎのように速く走ることもできず、鳥のように空も飛べず、魚のように速く泳げず、みんなからバカにされていました。


 だけど、亀は誰よりも力持ちでした。みんなが持てない重い荷物を背負って、ゆっくりとだけど一歩ずつ運んでいきます。


 そんな力持ちの亀にみんなが感謝するようになり、亀もみんなのために荷物を運び続けました。


 こうして、亀はみんなのために働き続けました。




 これが『のろまな亀』の大まかな内容だ。紙に書かれているのは寓話の最後の一文であり、有名なだけに誰もが知る言葉だった。


「そうですね。確かにこれは『のろまな亀』の言葉だと思います」


 サフィナが言うのだから間違いないだろう。問題は、何故本の中に挟まっていたのかということだった。


「なんでこんなものが挟まっていたんでしょう……?」


 思考の中に沈み込むサフィナ。彼女の思考が机に置かれた手紙に注がれていた。


「普通に栞に使っていたものが、そのまま取り忘れていたんでしょうか?」


 古書にはよくあることだ。以前の持ち主が挟んであったのを忘れて売り払い、そのまま誰かの手に渡ってしまうことがある。


 この紙も以前の持ち主が取り忘れただけだとノエは考えたが、サフィナがそれを制した。


「確かにそう考えてもおかしくはないですが、栞に使うのは紙が上等すぎます。それに『我が娘へ』という言葉も気になります。本当に手紙か何かだったのではないでしょうか……?」


 手紙かどうかはともかく、高級紙を栞に使うというのは確かにおかしな話だった。本来ならここにあるべきものではない。


 ノエが思考を巡らせようとした時、サフィナが力強く言葉を紡いだ。


「明日、クロエさんのお店に行ってみようと思います」


 もう彼女の中では決定事項のようで、クロエに事情を話すつもりのようだった。


「これが何でもない事ならそれでもいいんです。それだけの話ですから。だけど、これが誰かにとって大事なもので、その人に返さないといけないかもしれない。その可能性がわずかでもあるかもしれないのなら、私はそれを無視できません」


 その時、彼女の瞳がまっすぐにノエに向けられる。その瞳にノエは見覚えがあった。


 以前彼女が劇場を守るために見せた、強い意志を込めた瞳。曲げることも逃げることもせず、絶対に退かないと決めた時の彼女の瞳だ。


 ルイズも言っていた。こうなった時のサフィナは絶対退かないということを。


 だったら、ノエの言葉も自然と決まっていた。


「わかりました。それなら、自分もついて行っていいですか?」


「いいんですか?」


「大丈夫ですよ。それに、自分にも手伝えることが何かあるかもしれませんから」


 それに何より、サフィナはこれが大事なことかもしれないと言っていた。それを見過ごすことは彼にはできなかった。


 ノエの答えを聞いたサフィナは、柔らかい笑みを浮かべながら感謝を伝えるのだった。





 翌朝、二人は再びマールの街を歩いていた。あの日と同じように多くの人が街を歩いている。その合間を縫うように二人は歩き続ける。


 サフィナの手には、件のハナウ童話集が握られていた。買った時は宝物のように抱えていたが、今はもっと大事なもののようにその腕に抱えている。


「でも、あの紙は本当に何でしょうか? やはり誰かに向けた手紙でしょうか?」


 ノエが問いかけると、彼女はハナウ童話集を抱える腕に力を込めた。


「わかりません。ただあそこに書かれた文字は、大切な気持ちを込めて書いたものだと思うんです」


 ノエも文章を書く人間だからわかる。確かに『娘へ』と綴られたあの言葉、あの文字は、気持ちの込められたものだと。


 きっとサフィナもそれを感じ取ったのだろう。彼女も物語を愛する人間だから。


「急ぎましょう、ノエさん」


 このままにしてはいけない。その気持ちが彼女を急がせる。ノエもそれに続くように彼女の後を追うのだった。


 クロエの店がある街区までやって来た。この前と同じようににぎやかな市場と人々の喧騒が彼らを迎える。


「ん……?」


 その時、ノエが異変を感じ取った。確かにこの前と同じ街の光景だと思った。だが、その喧騒はどこか異質なものを感じさせるものだった。


「なんだか、街の様子がおかしいですね……?」


 サフィナもそれに気付いたのか、少し不安そうに怯えていた。


「……とりあえず、クロエさんのお店に向かいましょう」


 何か嫌な予感がする。急いだ方がよさそうだと思い、ノエたちは人をかき分けるようにしてクロエの店に急いで向かう。


 少しずつ古書店が近づく。しかし、店に近づくほど不穏さが密度を増していくのを感じる。


 息苦しささえ感じるその空気を超えた先。その光景を前にノエたちは立ち尽くした。


 クロエの店に警察官が立っていた。店の中には警察と思しき男たちが繰り返し出入りし、仲間と相談していた。


 そんな店の周りには、好奇心に支配された野次馬たちがその光景を目にしようと集まっていた。


「あの、すいません。あのお店で何かあったのですか?」


 ノエが近くにいた婦人に声をかける。婦人は噂好きだったのか、初対面のノエにもすぐに話してくれた。


「ああ、あのお店の主人が今朝、強盗に襲われたって話だよ。朝から店に強盗に入られて、殴り合いになったらしいよ。すぐに隣の家の人が助けに来たけど、主人は病院送りになったって」


 興奮気味に話す婦人の話を、ノエたちは唖然として聞いていた。

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