第三十話 旅立ちの朝
祠前の白い石畳に、まだ霧が薄く漂っていた。
「……おふたりに大切なお話がございますの」
コハクの語りかけにシンとソカは目を見合わせる。
そこへ風詠みの御子のシスイが歩み寄り、ソカへ古くなった書を差し出した。
「先程の書をお返しいたします。お力になれず申し訳ありませんが……」
ソカはそれを受け取りながら問い直す。
「この予言の書……どなたか、何か分かりますか?」
シスイは首を振る。
「すみません。郷の者みなで見合わせましたが、皆目見当もつかないと」
周囲の重鎮たちへ目を向けるが、誰も口を開かない。
重い沈黙が、霧のように三人を包んだ。
俯いたままのソカへコハクが再び声をかける。
「その予言の書に関わるお話でございます」
驚き、顔を上げたソカにコハクは小さく笑みを浮かべる。
「ここでは少々。落ち着いた場所へ参りましょうか」
踵を返したところで、後ろから声がかかった。
「あたしたちは、これから別の話があるみたいだ!まだ話したいことがあるから、先にあたしの家で待っててよ」
チヨの声に返事をし、三人は郷の皆へ一礼をして、祠前を後にした。
――陽が真上に昇る頃、チヨの家。
囲炉裏端で、コハクが静かに口を開いた。
火のゆらめきが、彼女の表情を淡く照らす。
「わたくしは、朧宮からの密命を帯びて旅をしておりました。その密命というのが、“四面楚歌”と“以心伝心”――この二つの字持ちを探し、引き合わせること。この地でお二人に巡り会えたのは、僥倖にございます」
ソカが慌てたようにシンの顔を見る。
半ば諦めたような表情のシンから心の声が届く。
『湯殿の地下であれだけ力を使えば、誰だって気付くよ。今は少しでも手がかりが欲しい。話を聞いてみよう』
シンの言葉にソカは深く頷くと、コハクへ向き直った。
彼女は微笑みをたやさずに、ソカの持つ予言の書へそっと掌を差した。
「わたくしがおふたりを探していたのも、朧宮の姫巫女様の予言からにございます」
「書の内容が分からぬのなら――朧宮へいらっしゃいませんか? あちらには神託の姫巫女様がおります。少しはお力になれるやもしれません」
「その姫巫女様の予言っていうのは、どんな……」
おずおずと口にするソカとは対照的に、コハクは相変わらず柔和な笑みを浮かべたまま話す。
「わたくしも断片的なことしか存じ上げません。姫巫女様から直々の申し出でしたので、重要な事柄かと」
突然の誘いに、ふたりはしばし言葉を失った。
話には何の確証もなく、出会ったばかりの相手の言うことを鵜呑みにして向かうのは危険かもしれない。
シンが疑いの目をはらせず、考えている横でコハクが懐から何かを取り出す。
コハクが手にしていたのは、一枚の葉だった。
「葉っぱ……?」
ソカの疑問にコハクが答える。
「突然の申し出、俄に信じがたいとは思いますが、これは梧桐の葉。朧宮の姫巫女様しか手渡すこと適わない逸品です」
『聞いたことがある……。朧宮にしか存在しないとされる梧桐の樹。ただ、この葉が本当に梧桐の葉かどうかは僕には分からない』
ソカはシンの言葉に笑顔を返すと、言った。
「私は信じるよ。だって、コハクさんから敵意を感じたことないもの。それに――」
朧宮へ行ってみたい。
世界を知らないソカの純粋な希望。
シンはその純粋な想いに思わず笑みが溢れる。
『ああ……行こう』
決意の響きは、小さくても確かなものだった。
――コハクの話が終わり、少しするとチヨが戻ってくる。そうして、これからの郷のことについて語って聞かせてくれた。
「今回の件は改革派の責任ももちろん大きいんだが、偽造彩核ってやつが問題だったらしいんだ。先生も気付かないほど精巧だったって……」
「それで郷は掟を見直すことになった!ただ字や彩術具を禁じるだけじゃなく、慎重に見極め、運用していくことが今後の郷のためになるんじゃないかって。郷や結界の復旧とか、まだ色々と問題は山積みなんだけどな」
チヨはまくし立てるようにそう言い放つと、小さな革紐に通された木製の首飾りをソカへ手渡して言った。
「ソカ、あんたに頼みがあるって言ったの覚えてるか?それが、これなんだ。旅の中で、もし……妹に会ったら、これを渡して欲しい」
「今回のことは被害もたくさん出て、申し訳ないことをした……。でも、郷はもう字持ちを追放しないんだ。妹は帰ってきても大丈夫なんだよ」
ソカはその首飾りを受け取り、そっと胸元にしまった。
チヨの思いが詰まったその重みは、ずっと温かく、そして優しかった。
――翌朝、郷の入り口に人々が集まっていた。
旅立つ三人を見送るため、チヨや長老ら評議会の面々が、静かにこちらを見つめている。
「これを……」
帳録役のシオが一歩進み出て、小さな木札を差し出した。
「通行証です。あなたたちは咎人であると同時に、郷を救ってくれた恩人でもあります。誓いを立てたいま、次に来る時は――どうか表からおいでください。歓迎いたします」
ソカは木札を受け取り、深く頭を下げた。
その場に立つすべての顔が、初めて会ったときよりも穏やかに見える。
――午下がりの陽の下、初めて結界をくぐる際に緊張をしながら、三人は郷を後にした。
先頭を歩くコハクの背は、霧の向こうの何かを見据えているようだった。
「朧宮は、この道を越えた先にありますわ」
振り返ったコハクの瞳は、もう迷いを帯びてはいなかった。
山並みの向こう、かすかに白い霧が棚引いている。
その霧は、まだ何も語らず、ただ遠くで揺れていた。
一章 「森環響縁」 完
物語は、次なる地へ。
ここでひと区切りとさせていただきます。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
ここまで一緒に歩んでいただけたことが、何よりの力になりました。
またご縁や機会があれば、続きを描いてみたいと思っています。
その時は、また気軽にのぞいていただけたら嬉しいです。
平修




