第二十一話 崩壊の足音
あの夜、何が始まっていたのか。
誰の目にも留まらず、異形は歩き出した。
それは郷に忍び寄る崩壊の足音だった――
――刻は遡り、夜がまだ深く眠りに沈んでいた頃。
灯りの落ちた道具屋の寝所。
その静けさのなか、ひとつの気配に導かれるように、男が身を起こした。
最初は風の声かと思った。
だが、その音には異質な震えが混じっていた。
獣が喉奥で呻くような、低く湿った響き――郷の夜に似つかわしくない異変の予兆。
シンバは身を翻し、窓辺へ駆け寄る。
ぬるい闇を裂くように、月明かりが細く差し込んでいた。
夜の帳に沈む郷の輪郭。
その中を、ひときわ大きな影がゆったりと横切っていく。
四足で歩む異形の獣。
人の背丈ほどもあるその躯は、月下を散策するかのように優雅に大地を踏みしめ、進んでいた。
足元には風が巻き起こり、赤く染まった双眸は灯火の届かぬ虚空を射抜くように見据えていた。
「……なんだ、あれ……」
唇から漏れた声はかすれ、喉奥に絡んだ疑念は言葉にならずに沈む。
話には聞いたことがあった。
けれど、外を知らぬシンバにとって、それは“現実”ではなく、あくまで架空の存在。
――凶獣。
彩核を取り込み、形を歪めた異形の存在。郷が最も恐れたもの。
今こうして目の前にしても、この光景が現実だとはにわかに信じられなかった。
混濁する思考のなか、浮かび上がったのは、たったひとつの意志。
――先生に知らせなければ。
震える指で上衣を掴み、壁に立てかけた手製の棍を手にする。
小さく息を吐き、夜気を裂いて外へ踏み出した。
道の向こうには、ざわめき始めた郷の気配。
幾つかの灯が灯り、人々の戸口が開く。
逃げ惑う影の合間を、息を殺して駆け抜ける。
幸運にも、他の異形とは遭遇せず――
辿り着いたのは、先生の住まい。
焦りに任せて戸を叩くと、音もなく開いた。
すでに身支度を整えていた男は、手に紋様の浮かんだ手袋をはめている。
「何事だね」
「せ、先生……郷を……あの、獣が……!」
言葉が追いつかない。息が上ずる。
だが、肩に置かれた手が、そっと熱を伝えた。
「落ち着きなさい」
その声音に導かれるように、シンバは震える吐息を整える。
見たもの、感じたものをありのままに告げると、先生の瞳がかすかに揺れた。
「……まさか、抜け道から……?」
唇に翳りが走ったのも束の間、男の眼差しは鋭く据わる。
「まずは、侵入経路を確認しよう」
そして、ふたりは夜の郷へと駆け出した。
いく筋かの影が、足音に怯えて這い出す。
そのとき、不意にシンバの目の前を黒い影が横切った。
羽ばたくように舞い上がるのは、小さな凶獣。
だが、その赤い双眸には理性の灯など宿っていなかった。
シンバが構える暇もなく、先生が先に一歩前へ出る。
静かな掌打が、空気を裂き、異形を弾き飛ばした。
音もなく倒れたそれは、地に伏したまま黒く濁り、やがて一部が腐り落ちていった。
「急ごう」
何事もなかったかのように歩を進める先生に、シンバは息を呑み、後を追った。
たどり着いたのは、外縁郷の北東。
隅にある改革派の隠れ処。
着くやいなや、丹念に確認をするが、抜け道の門には異常はなかった。
だが、その傍ら。倉庫の扉が、わずかに開いていた。
近づくと、足下に落ちた錠――腐食により崩れた残骸があった。
「まさか……」
先生は呟き、手にした灯を頼りに倉庫内を検める。
そして――その場にあったはずの、いくつかの彩術具が姿を消していることを確認する。
その中でも特別貴重な彩術具が見当たらず呟いた。
「……黒封珠が、ない……」
低く呟かれた言葉が、場の空気を凍らせる。
数瞬、考え込むように目を伏せると、顔を上げて言った。
「黒封珠で、結界の一部が封じられた可能性がある」
先生の言葉は深く、重く、夜に沈んだ。
続けて、静かに言い添えた。
「シンバ、内縁郷へこのことを伝えてくれ。被害の範囲が掴めない」
「……先生は?」
「侵入経路を追う。くれぐれも気を付けてな」
そう話した先生は、シンバの手に一つの彩術具を握らせた。
――使い方は分かるな。と確認の言葉にしっかりと頷く。
そして、背を向けて別れ、走り出した。
郷の灯が、ぽつり、ぽつりとともり始めていた。
戸口に現れる人々の顔が、何かを悟ったように強ばっている。
外縁郷の南。内縁郷を繋ぐ坂を駆け上がり、門前に着くと、番が眉をひそめる。
「何があった?」
「異形が……侵入しています!避難を!」
番が応えようとしたそのとき、別の伝令が駆け込み、同じ報せを口にする。
――異形の侵入、被害発生。評議会の決断を仰ぎたい。
門は開かれ、伝令が走る。
坂の下では、避難を始めた人々の波が渦を巻いていた。
その中に、シンバは一人の姿を見つける。
「ハヅキ!」
「外が騒がしくて……何が起きてるんです?」
若い男は、まだ事態を理解できず、純粋な問いを投げかけてくる。
――その瞬間。
絹を裂くような悲鳴が、郷に響いた。
異形の群れが、巨大な影となって走り込んでくる。
ざわめきが叫びに変わり、人々が雪崩のように逃げ惑う。
そこへ、内縁郷からの使者が現れ、避難所としての開放を告げた。
坂を駆け下るシンバとハヅキ。
黒い奔流のような異形の群れは、どこかを目指すように駆け抜けていく。
「いま、先生が向こうで応戦してるはずだ。お前は避難誘導を頼む」
棍を手渡し、シンバは続ける。
「俺はチヨたちに声をかけてくる。見かけたら、伝えておいてくれ」
小さく笑い、走り出す。
その背を追うように、いくつかの人影が内縁郷から現れ、武器を手に走り出していった。
道へ戻ったシンバは、先生から託された彩術具を試すように力を込める。
淡い緑色の光が辺りを照らした途端、暗がりから何かが飛び出した。
「――っ!」
反射的に身構えるも、間に合わず。
重く鋭い衝撃が脳を揺らし、視界が一気に傾ぐ。
膝が崩れ、地面が迫る。
意識の底で、遠く誰かの叫び声が、波のように微かに届いていた。
次回予告
第二十二話 「猪突猛進の盾」
守りたいものがある――
だから、彼女はただ真っ直ぐに進む。
左腕に刻まれた“猪突猛進”の字が、いま、郷を護る盾となる。
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平修




