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第二十話 沈む湯の底

 呼吸すら重くなる、闇の湯殿。

 集う敵意と、呼応する字の気配。

 封じられていたきざはしが、音を立てて目を醒ます。


 

 湯殿へ近づくにつれて、耳を打つ音が膨らんでいった。まるで、耳鳴りのような――得体の知れない音。


 その発源は、湯殿を覆う黒い靄の中から聞こえているようだった。

 靄は煙のように揺れ、渦を巻きながら、湯気すら飲み込んでいた。


 その靄の中へ大小さまざまな異形たちが、まるで誘われるように、次々と足を踏み入れていく。


 ふたりは、その光景に思わず立ち止まった。

 

 肌にまとわりつく黒靄は、空気を沈ませ、胸の奥までも淀ませた。


 湯殿の前にいたのは、三人の青年――結界守の若衆の姿。

 

 彼らは、それぞれ武器や彩術具を手にし、異形の群れと懸命に対峙していたが、どこかぎこちない。

 跳ね回る猿のような異形の動きに追いつけず、翻弄されていた。


 その中に、もうひとり。ひときわ異彩を放つ姿があった。

 白銀の髪をなびかせ、白い杖を手に、舞うように異形を退けている。


 優雅に、的確に――その所作は、まるで舞いのように、異形の猛威を受け流していた。


「……コハクさん……?」


 ソカが思わず声を上げると、女はふわりと振り返り、涼やかな微笑みを返した。


「こんばんは、ソカさん。来てくださったのですね」


 その声音に、焦りはない。

 むしろ、どこか楽しんでいるような、穏やかさすら滲ませていた。


「どうやら、みなさん、この湯殿を目指しているみたい。何かがあるのかもしれないわね」


 そう言って、彼女は奥を見やる。


「……けれど、数が多くて少し困っていたところなの」


 言葉とは裏腹に、その手は迷いなく、一体また一体と異形を薙ぎ払っていく。


 そんな様子に、若衆のひとりが苦い声を漏らす。

「こっちは命懸けで戦ってんのに……なんなんだよ、この余裕……」


 ソカは黙って唇を引き結ぶと、木陰へと歩いた。

 静かに立ち止まり、シンに振り返らずに言う。


「……後ろ、向いてて」


 その言葉に、シンは一瞬だけ戸惑ったが、すぐに頷く。


 ソカは、体に巻いていた緘布をほどいた。


 その瞬間――靄に重なるように、嫌な気配が満ちた。

 重く、まとわりつくような、黒い靄の空気に混じった“敵意”の匂い。


 若衆たちが一斉に振り返る。

 視線の先、着衣を直し、羽織を揺らす少女が、ゆっくりと一歩を踏み出した。


「私が……集めるから。後は、よろしくね」


 ソカの声に、シンは静かに目を細め、深く頷いた。


 彼女の身体からあふれる気配が濃くなっていく。

 “四面楚歌”の字が解き放たれた。


 敵意の奔流が渦巻き、異形たちが一斉に、ソカを目指して咆哮を上げた。


「来る……!」


 扇を広げ、ソカは見様見真似で迎え撃つ構えをとった。


 異形の咆哮へ呼応するように若衆たちがざわめき立つ。


「なんだこの嫌な感じは……」

「こいつ……っ!」


 理性が剥がれ落ち、怒気と混乱が波のように押し寄せる。

 彼らの心に渦巻く敵意が、牙を剥こうとしたその時――


 静かな声が、場を割った。


「――落ち着きなさい」


 澄んだ声が、荒ぶる風をなだめるように響く。


 白い杖を携えたコハクが、凛と立っていた。

 そのまなざしはまっすぐに、若衆たちを見つめている。


「負の感情とは、連鎖するもの。それは本当に、あなたの心から生まれたものですか?」


 静かに杖を掲げ、空へ白い弧を描いた。


 艷やかな唇が、祈るように言葉を紡ぐ。


「白き浄化の力で、護り給え――」


 杖が地を打つ。


 【白いかご】


 空気が凪いだ――

 

 怒りも混乱も、まるで水面の波が鎮まるように、静寂に包まれていく。


 若衆たちの瞳に、ゆっくりと我が戻る。


「……あれ……」

「……なにが……?」


 いつのまにか彼らは、安らぎと静謐に満ちた空間の内にいた。


 コハクが、やさしく微笑む。


「この中にいる限り、心配はありません。どうかここで、静かに――見届けていてくださいね」


 その間にも、異形の群れは咆哮を上げてソカへ殺到していた。


 その影の隙間を縫うように、ひと筋の斬撃が走る。


 三体、四体――闇を裂く一閃が、異形たちを沈めていく。


 “幽纏ゆうてん”。


 それは、シンが最も信頼する術具。

 闇に溶けるように姿を消し、刃を隠す彼の影が、次々と敵を切り伏せていった。


 ひとつ、空からの影が滑空する。――ヨダカ。


 小型の異形に爪を立て、急所を確実に撃ち抜いた。


 見事な三者の連携を前にコハクは笑みを絶やさず声を上げていた。


「お見事」


 コハクの声が、風のように優しく響いた。

 

 しばらくすると、最後の異形を斬り伏せたシンが姿を現す。


 肩で息をする彼に、ソカが駆け寄った。


 そんなふたりを尻目に、戦いが終わった直後――若衆のひとりが、黒靄をかき分けて湯殿の奥へ駆けていく。


 コハクはそっとソカへ近づき、何かを訴えるような目で見つめたが、言葉にはしなかった。


「お疲れさまでした。……奥、行ってみましょうか」


 その声は柔らかく、しかし何かを見透かすような静けさを帯びていた。


 コハクに促されるように立ち上がり、湯殿の奥へと向かおうとしたその瞬間。

 

 若衆のひとりが、腕を広げて道を塞ぐ。


「ここから先は、郷の秘部……部外者に、それも外の者に見せるわけにはいかない」


 静かながら、真剣な眼差し。

 もう一人が、壁際の奥をちらと見やる。


 コハクは、すっと微笑んだ。


「あら、いいのかしら。次に、また異形が現れた時。あなた方だけで対処できますか?」


 重たい沈黙が流れる。


 二人は顔を見合わせ、やがて、ひとりが小さく頷いた。


「……有事だから、特例ってことで……ただし、ここで見たことは、絶対に口外無用だ。いいな?」


 三人は黙って頷いた。


 浴場の端、小さな湯船の中で若衆の二人が湯底を探るように足を動かす。


「……あった!」

 若衆の二人がその場に並んで立つと、湯がざぶりと波立ち、重みを感知した仕掛けが、鈍い音を立てて作動した。


 ――ごぼっ、ごぼぼぼっ……


 排水の音ともに湯が引いていき、底に沈んでいた岩がゆっくりと回転していく。


 やがて現れたのは、濡れた石の階段だった。


「……階段……?」


 ぽつりと呟き、思いがけぬ仕掛けに、目を見開くソカ。

 夕刻に見た“消えた影”の正体へ思い至るシン。

 そして――何も言わず、ただ微笑むコハク。


 三者三様の思いを胸に、湯殿の奥、闇へと続く階段を見つめていた。


 それはまるで、さらなる深淵が――

 すべてを呑み込もうと、口を開けて待っているかのようだった。

次回予告

第二十一話 「崩壊の足音」

気づかぬまま、音は近づいていた。

それは、静寂に紛れた崩壊の足音――

その恐怖は、想像よりもずっと静かだった。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


もし楽しんでいただけましたら、ページ下の「評価(☆)」や「ブックマーク」で応援いただけると、何よりの励みになります。


ご感想やリアクションも大歓迎です。

あなたの声で物語に色を付けてください。


物語の余韻が、ひとひらの彩りとなりますように――


たいらおさむ

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