第十九話 綻びの夜
風は、まだ眠らない。
静けさの奥に、綻びは忍び寄る。
夜が抱く闇、その果てに――郷は試される。
森が息をひそめる、深い夜。
木霊ノ郷の心臓部――天籟樹を囲む内縁郷に、重たく響く鐘の音が鳴り渡った。
それは、聖域に満ちた静寂を打ち破る、異変の兆し。
つい先ほど、外縁郷にて起きた“揺らぎ”が、伝令と風詠みの御子の口を通じて、ついにこの地へ届いた。
――結界に、綻びあり。
――異形の侵入を確認。
緊急で評議の間に集められたのは、六人の重鎮。
長老を筆頭に、帳録役、結界守の家筋、治水工の古老、若き風詠みの御子、神事祭具を継ぐ者。
いずれも、武を捨て知と理を積み重ねてきた者たちだった。
「結界は“抗拒不承”。破られるなど……あり得ぬことだ」
「だが、理を超える現が起きておる。もはや言葉を濁す時ではない」
「まずは民を避難させねば」
「だが、天籟樹を守るすべがない。非武の郷が、何をもって立ち向かう……!」
ざわめきが、評議の間を満たす。
ただ一人、言葉を発さず項垂れるのは、若き風詠みの御子。
先代を失ったばかりの少年は、まだ天籟の風と真に向き合うには、あまりにも未熟だった。
沈黙の中、ひとつの声が落ちる。
「……かつて、こうなる日を恐れ、密かに備えを残しておいた。民には知らせぬまま――最低限の備えだけを」
それは、結界守の血を継ぐ者の、静かな告白。
「なんという……禁忌を……」
「だが、今使わずして、何を為せる? このままでは、内縁すら穢される」
長老が目を閉じ、しばしの沈黙の後、重く言葉を紡いだ。
「……民に避難を命じよ。評議の間をその受け場とする。天籟樹へ至る道筋は死守せねばならぬ。動ける者は、民の導となれ」
ひと息置いて――
「結界守の備えは――不問とする」
重々しく言い放った。
「はっ」
伝令の青年が深く頭を垂れ、その場を駆け去った。
結界守の代表もまた、控えていた若衆へと伝える。
赦しが出た――ただその一言で、若者たちはすべてを悟り、静かに動き出した。
ざわつき始める郷の奥。不穏な気配は闇より深く、郷全体へ覆っていた。
「助けなきゃ!」
高台から外縁郷を見下ろし、ソカが声を上げた。
その言葉に応えるように、チヨが一歩踏み出す。
だが、背から伸びた手がその肩を掴んだ。
振り向いた先にあったのは、真剣な眼差しを向けるシン。
「なにしてんだよ、早く――」
シンは言葉を発さず、ただ目で訴える。
そして、ソカへ視線を向けた。
『闇雲に向かっても意味はない。ヨダカが上空から状況を見ている。少しだけ待ってと、彼女へ伝えて』
ソカは迷いながらも頷き、チヨへ向き直る。
「チヨ、ヨダカが偵察中。だから、ほんの少しだけ、待って……!」
「……あんた、もしかして――」
チヨはシンを見つめた。何かに気づいたようだったが、それ以上は言葉にせず、ただ唇を引き結んだ。
ヨダカが大きく旋回する空――
視界に映るのは、東方の一角から雪崩れ込んだ異形たち。
黒き獣影が外縁郷を蹂躙し、渦を巻くように進む。
群れは、まっすぐに一つの場所を目指しているようだった。
――坂道を駆け上がる人影。
逃げ惑う者の中に、子を抱え、手を引き合い、必死に郷の中心部を目指す者たちの姿があった。
『異形たちは、どこへ……?』
シンの意識が、ヨダカの視界を追い――
その先に浮かぶ一つの建物に目が留まる。
『……湯殿。そこに、何が?』
「まだ? あいつら、もう来るってば!」
チヨの声に、シンがひとつ頷く。
『まずは郷に入り込んだ原因を知りたい。湯殿へ向かおう』
ソカがすぐに伝える。
「チヨ、湯殿が狙われてる!だから、そこを護りたい!」
「湯殿、ね……分かんないけど、分かった!あんたらを信じるよ」
チヨの瞳は真っ直ぐで、迷いがなかった。
「巻き込んじまって悪い。でも、力を貸してくれ。あたし、この郷が――やっぱり、大事なんだ」
「もちろん」
ソカが力強く返し、シンも短く頷いた。
三人は、高台を飛び出す。
荒らされた田畑を横目に駆ける中、避難を導く見知った姿があった。
「ハヅキ!」
チヨの呼びかけに振り返る。
「内縁郷から避難命令が出たんだ。外縁の人たちを迎えてるところ!先生たちは向こうで食い止めてる!」
彼女の指差す先、いくつもの彩の光が、暗闇の中に瞬いていた。
音が重なり、戦の気配が響く。
「先生が……分かった! 気をつけて!」
チヨはそう言い残し、再び駆け出した。
風が、ひときわ強く吹いた後――チヨの足が止まり、咄嗟に身を逸らす。
刹那、鋭い爪が闇を切り裂いた。
息の荒い四足の凶獣――
その目に光はなく、獰猛な気配を纏っていた。
「こいつは、あたしが引き受ける!」
「でも――」
「行けッ!」
叫びに背を押され、ソカは踏み出す。
「気をつけてね!」
その言葉にチヨは振り向かず、ただ片手を高く掲げ、ひらひらと振った。
小さく、けれど力強く――つぶやく。
「さて、本気出すか」
袖をまくり上げ、背に構えた木製の盾を前へ構える。
その瞳に、まっすぐな光が宿っていた。
次回予告
第二十話 「沈む湯の底」
湯殿へと続く小道を、ただ走った。
何が待つかも分からぬまま――それでも、一刻の猶予もないと知っていた。
郷を守るため、少女は再び、その字を解き放つ。
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平修




