九 仮面に不織布マスク
うわの空で仕事を終えて帰宅。玄関に入り、すぐに一つ目の異変に気が付きました。
仮面がない。
壁に掛けてあるはずの増女の仮面がない。心に圧。この圧を何と名付けよう。形容しがたき重圧。一歩。二歩。三歩。自宅の廊下を、足音を立てずに歩きます。何故今晩に限って自宅の廊下をこのように歩くのか、我ながら理解不能です。でも体が勝手に、まるで空き巣のような忍び足で僕を歩かせるのです。
そして、リビングの扉を静かに開け、傍らにある照明のスイッチを押すと、二つ目の異変に気が付きます。
母がいない。いつもの時間の、いつもの席に、いつもなら置物のように座っている母がいない。トイレかな? 買い物かな? 自室で眠っているのかな? とりあえず安易な憶測をして、迫り来る三つ目の異変を振り払おうと悪あがきをしてみます。してみますが、でも、ぶっちゃけ、ここまでくると次の異変の予想はついているのです。
母は、僕の部屋で自殺をしている。
分かるのです。親子ですから。ずっと一緒に生活をして来ましたから。あの女は、そういう女。鬱とか、自殺とか、人を困らせるようなことを平気でする女。だから、自死をするならあてつけがましく僕の部屋。間違いない。
「ふ~ん、なるほどね。そういう感じね。そういう展開に持って行く訳ね。ああ、だるい。かったるい。はいはい、かまってちゃん。息子に見つけて欲しいのね」
自分に言い聞かせるように虚勢を張り、自室の扉を開けます。
「ほらね」
三つ目の異変、的中。驚きとか、怒りとか、悲しみを通り越して、何だかもう笑っちゃいました。予想通り、母は僕の部屋で首を吊って死んでいたのです。
部屋の中央にある内装デザイン目的で敢えて剥き出しの天井梁に、電気の延長コードを巻き付け、こちらに背を向けた状態でぶらんと垂れ下がっています。スカートの中から滴り落ちる糞尿が、その下で倒れた四尺の脚立を汚しています。物置から持ち出したこの脚立に乗り、延長コードに首を掛けたのでしょう。
部屋の奥にある僕のこたつ机の上に、一冊の大学ノートが開かれている。
そのノートに向かい歩き出します。重い。足が重いなあ。足枷に繋がった鉄球を引きずっているようだ。嫌だなあ。見なきゃ駄目? もういいじゃん。母は死んだ。もうそれでいいじゃんね。どうしてもあのノートを確かめなきゃ駄目? 気持ちとは裏腹に、天井から垂れ下がるかつて母だった物体の横を素通りし、吸い寄せられるようにそのノートの前に立ちました。
「やっぱりな」
大当たり。こたつ机の上に開かれた大学ノートは、紛れもなく僕の嘘ノート。読まれた。嘘ノートを読まれた。僕のせいだ。僕が仕事ノートと嘘ノートを間違えて母に貸してしまったからだ。転勤をしてから自分がつき続けた嘘が漏れなく記録された大学ノートを手にし、パラパラとページを捲る。
あちこちの文字が水滴で滲んでいます。母の涙。二十五年間ずっと引きこもりだった息子が、やっと社会に出て真面目に働いてくれたと思いきや、実際は世間でどうしようもない嘘をつき連ね、その嘘をこのようにご丁寧に記録しているという現実を知った時、母はどんな気持ちだったでしょう。
10月16日(金) 今日の嘘。
・UFOを目撃したことがある。
直近のページのこの文字に、粘液を拭ったような跡。母の鼻水。母は、このページを読んだ後、机に突っ伏して咽び泣き、首を吊って死んだに違いない。何故なら、鼻水で滲んだ文字の横には、昨晩僕がついた、つきたてホヤホヤの嘘が記されているから。
それは、僕が何となく母を励ますつもりでついた、なんなら取り立てて記録する必要もなかったような、実にたわいもない嘘。でも、分かるのです。親子ですから。ずっと一緒に生活をして来ましたから。間違いなくこの嘘が母を自死に向かわせたのです。
・新型コロナウイルスは必ず終息する。マスクなんていらない生活が、いつかまた戻ってくる。
ふーん、なるほどね。そういう感じね。そういう展開に持って行く訳ね。はいはい、かまってっちゃん、お望み通り、今からあんたの愛する息子が、あんたの死に顔を見てやるよ。くるりと振り返り、後ろにいるあなたの顔を拝んでやるよ。首吊りだからな。さぞや惨たらしい顔なのだろう。こぼれ出た舌。滴り落ちる涎。紫色の顔面。目玉が飛び出ていたりして。意を決し、いち、にの、さん、で振り返える。
…………声、が、出、な、い。へ~、想像を絶する恐怖に直面した時、逆に人は叫び声など上げられないものなのだな。梁から垂れ下がる物体は、母ではありませんでした。いや、正確には、母の顔をしていませんでした。首の上には増女の仮面。その口元に白い不織布マスク。母は能楽の仮面を装着し、更に上から不織布マスクを装着した後、首を吊って死んだのです。
白い顔、細い目、起伏のない顔立ち、氷のように冷たい表情、その口元に白い不織布マスク。なぜこの様な死に方を。なにゆえ仮面に不織布マスク。死の間際に錯乱したのでしょうか。それとも後で死体を発見する息子に死に顔を見せないための配慮でしょうか。頭上からこの僕を、この部屋を、この世界を見下ろす増女。新型コロナウイルス禍の世界を嘆き悲しむかのような表情が、気が遠のくほどの恐怖となって静かに迫ります。
「ふーん、なるほどね。そういう感じね。そういう展開に持って行く訳ね」
声帯から辛うじて言葉を絞り出し、虚勢を張ってみましたがもう限界です。言葉を発した途端に、胸と腹を逆さまにひっくり返すような不快感が走り、その場で激しく嘔吐をします。コポコポと床に広がる未消化の昼食と大量の胃液。しばらく床にうずくまり吐き続けます。やがて胃の中から一滴の液体も出なくなった頃、やっと眼前の恐怖に対し叫び声を上げる余裕が生まれました。
「うおおおおおおおお。うおおおおおおおお」
仮面と不織布マスクをしたかつて母だった物体の下で、僕は頭を抱えて床をゴロゴロとのたうち回り、ゲロまみれになりながら、喉が潰れるまで悲鳴を上げたのでした