八 絶対絶命
家に帰ると、漆黒のリビングのいつもの席に、母が、いつもの不織布マスクといつものフェイスシールドをして座っています。壁のスイッチを押すとLED照明が日ごと夜ごと痩せ細って行く母を無慈悲に照らします。ここ最近の言動からも、コロナ鬱が重症化しているのは明らかです。
これは深刻な状況です。深刻な状況だということは重々分かっているのですが、でもだから何をどうすればよいのか、先ず何をどうするべきなのか、僕には、その判断が出来ません。なんだかもう、頭がショートして、脳天から細い煙が一本立ち昇りそうです。
差し向かいに座る母をなるべく視界に入れないように、テーブルの上に無造作に置かれた食パンにマヨネーズを大量に塗りたくって頬張ります。
「……晴夫さん、お仕事、楽しい?」
びっくりした。唐突に母が話しかけてきました。
「仕事だし。楽しいとか、そういうのじゃないし」
「……楽しい?」
「だあ、かあ、らあ、楽しいとか、そういうのじゃないし」
数か月ぶりの親子の会話に、いささか困惑します。
「……晴夫さん、お仕事、頑張っている?」
「仕事だし。頑張るとか、当たり前だし」
困惑が収まると、だんだん母の論点なき質問に苛立ち、すみやかにこの空間から脱出したいという気持ちも相まって、僕は衝動的に鞄から一冊の大学ノートを取り出し、それを母へぞんざいに突き付けました。
「ほら、お母さん。これ見てよ。僕の仕事ノート。いろいろ迷惑を掛けたけど、現在あなたの息子は、この通り日々頑張って仕事をしていますよ」
「まあ、すごい。晴夫さん、立派ね」
母が、大学ノートに丁寧な文字で一ページに余すところなく記された僕の仕事のメモを見て、感嘆の声を漏らします。
「あなたは子供の頃から几帳面で生真面目な性格でしたね」
褒められると、何故か素直に喜べず、むしろ無性に反発したくなり――「いつまで見てんだ、くそババア」――と息巻き母から仕事ノートを取り上げます。
途端に陰鬱な表情になりうつむく母。ヤバい。心の弱った母に鞭を打ってしまった。流石に言い過ぎた。そんな自省の念に駆られたからか、たまにはこの女を励ましてやろうかな、なんて慈悲深き感情が沸々と湧き上がってきました。
「お母さん。新型コロナウイルスは必ず終息する。マスクなんていらない生活が、いつかまた戻ってくる。だからさ。僕も頑張るからさ。お母さんも頑張ろう」
そう言って僕は、母のか細い背中を数回擦ったのです。
自室に入ると座椅子に腰を下ろし、さっそく日課に取り掛かります。先ずは本日の仕事の留意点を事細かに仕事ノートに記録し、それから――
10月16日(金) 今日の嘘。
・UFOを目撃したことがある。
――もうないか。しっかりと思い出せ。今日ついた嘘はこれだけか。……おっと、つきたてホヤホヤの大嘘を記録するのを忘れていた。と、いつものように、今日ついた嘘を漏れなく嘘ノートに記録したのでした。
「おはよう、晴夫さん。昨日お母さんに見せてくれたノートを、もう一度見せてくれないかしら。あのノートは晴夫さんの頑張りの証。昨晩あのノートを見た時にお母さんは自分の心がパッと晴れるのを感じたの。それでね。だからね。今日もあのノートを見たらお母さんは自分の心がパッと晴れる気がするの。晴夫さん、お願い、もう一度あのノートをお母さんに見せて」
翌朝。僕が洋服ブラシでハンガーに掛けたスーツのホコリを取っていると、母が自室の扉をそっと開けて言いました。ちっ。調子に乗りやがって。優しい言葉を掛ければすぐこれだ。ウザったいババアめ。昨日の係長の要らぬ計らいにより、今朝は不便なバスと徒歩で通勤しなければならず、いつもより早起きしてバタバタしてんだよこっちは。
無言で鞄の中から仕事ノートを掴み、母に向かって投げつけます。「ありがとう。あとでゆっくり読ませて頂くわ」それを拾った母は満面の笑み。くそババアめ、今日だけ特別だぞ。一時の苛立ちから取った咄嗟の行動でした。
嫌な予感はしていましたが、やはり慣れないことはするものではありません。案の定下車するバス停を間違え、案の定豪快に遅刻してタイムカードを押しました。
「あらあら、重役出勤ご苦労様です」
不織布マスクの上部に並ぶ鋭い目でPC画面を睨みつけ、白く細い指先をキーボード上で小刻みに動かしながら、九鬼係長が嫌味ったらしく言います。
「申し訳ありません。やはり自宅からは自転車の方が効率良く通勤出来るのだと痛感しています。誰かさんの強引な指示に従い、昨日あのような場所で車を降りるべきではなかったと猛烈に後悔してる所存です」
鞄を机に放り投げ、こちらも精一杯の嫌味で返します。投げた勢いで鞄の中身がいくつか机に散乱しましたが、そんなことに構ってはいられません。この時僕は間違えたバス停で下車し会社に向かい歩き始めた時から打ち寄せていた便意が最高潮だったのです。
朝一番の綺麗なトイレで用を足しオフィスに戻ると、九鬼係長が長い脚を持て余すように組み、一冊の大学ノートに目を通していました。
終わった。
あれは僕の大学ノート。
さっき鞄を机に放り投げた際に床に落ちたノートを係長が拾ったのだ。
終わった。
嘘ノートを読まれた。
そうだ、舌を噛もう。今ここで舌を噛みちぎって死んでしまおう。あの世で閻魔大王にヤットコで引っこ抜かれる前に、自ら舌を嚙みちぎり、この愚にもつかない人生の幕を閉じよう。
「へー、意外とマメにメモっているのね。大変よろしい。ただし文章がダラダラと長い。もう少し要点を簡潔にまとめなさい」
黙々とノートを読んでいた係長が、ボソリと言いました。
「え? それ? どれ? これ?」
僕は係長からノートを奪い、恐る恐る内容を確かめます。
「ごごご、ご教示いただき感謝申し上げます」
よかったああああ。嘘ノートじゃなかったああああ。係長が拾ったのは仕事ノートのほうだったああああ。よし。嘘はまだばれてはいない。これでまた嘘をつくことが出来る。ホッと胸を撫で下ろします。
同時に、メガトン級の圧力が、心に、重く、ドスッと。
ノートを間違えた。
嘘ノートを母に貸してしまった。