七 嘘ノート
新しい勤務先で仕事を始めて一週間が過ぎました。いつものように定時で仕事を終え、建物裏のゴミ置き場の横に停めてある安価なマウンテンバイクに跨ります。大学時代に自動車学校で免許を取得して以来、一般公道を車で運転したことがありません。本社では地下鉄で通勤することが出来ましたが、転勤先の支店は名古屋市近郊のベッドタウンにあり、公共交通機関が充実していないので、致し方なく片道約一時間かけて自転車通勤をしています。
右足でペダルを踏み込み、シャーっと一般道へと滑り出そうとした時、背後から――「あなた」――九鬼係長の声。ついさっき見積もりの立て方で散々僕をしごいた天敵の声。不意に天敵が出現したものですから、運転のバランズを崩し、思わず転倒しそうになります。
「あれれ。珍しいですね。今日はもうお帰りですか」
「うん。ここのところ体調が優れなくて」
慌てて首までずらしていた布マスクで口と鼻を覆い隠します。
「安心して。コロナの症状とは明らかに違うから」
規則正しく装着した不織布マスクが係長の小さな顔の半分を覆っている。刃物のように鋭い目は機械的に瞬きをするばかり。相変わらず感情が読めない。速やかにここから脱出したい。でも、逃れがたきその場の雰囲気に押し流され、僕は、不本意ながら自転車を引き係長と歩道を並んで歩く羽目になりました。
「ご自宅は近いのですか?」
「この辺りよ。徒歩で十五分ぐらい。あなたは」
「名古屋市内です。ここから自転車で片道一時間ぐらいのところにあります」
「遠い。自動車通勤しなさい。だいたい、あなた、勤務中もしれっと私の助手席に座って、一向に運転しようとしないけど、どういうつもり」
「実は僕、親友を交通事故で亡くしているのです。それも僕の運転する車の助手席に乗っていた際の事故です。僕のわき見運転が原因。助手席の彼は即死。僕だけが生き残った。それ以来自動車のハンドルを握ると、ひしゃげた車内で血まみれになって死んだ親友の顔がフラッシュバックするのです」
「……ふーん。ちなみに私の父は、私と散歩をしている時に踏み切りで電車に撥ねられて死んだの。撥ねられた衝撃で父の首はちぎれて。ちぎれた首は宙を舞って踏切の向こう側に落ちた。その時、首だけになった父は、踏切のこちら側にいる私の顔をギョロリと睨み、『見るな!』と叫んだ。生首が叫んだの。それ以来私は、踏切や、工事現場のセフティーバーや、動物園のキリンの首や、黄色と黒の長い棒状のものが苦手」
敵わない。何だか知らないけれど、係長の現実は、僕の嘘を大きく上回ってくる。
「話を変えましょう。そういえば係長はいつもどこで昼食をとっているのですか。昼時になるといつの間にか姿を消す。僕はいつも休憩所で他の社員たちから孤立して、独りぼっちでコンビニの弁当を食べているのです」
「社用車の中で、自分で作ったお弁当を食べているわ。外食は自粛中。コロナですから」
「係長は休憩室で他の社員と雑談をしたりしないのですか」
「群れるのは嫌い」
「おやおや、そのようにロンリーウルフを気取っておられますが、私は騙されませんよ。先週の金曜日、オフィスに戻ると、係長の机の上がベタベタになっていましたよね。業務課の社員が、大きなスズメ蜂が窓から侵入して係長の机の上に止まったので、咄嗟に殺虫剤スプレーを噴霧してしまったと釈明していましたが、あれ、本当ですかね。こちらに転勤して来た時から気になっていたのですが、ひょっとして、係長って、他の社員からいじめられていたりして。あはは」
「…………」
「なんつって冗談ですよん冗談。だは、だはは」
「…………」
「そうそう、僕の家の玄関に誰かさんにそっくりな仮面が飾ってあるのです。能楽の『増女』という仮面でね、これが、マジで九鬼係長に――おっと失敬、誰かさんに瓜二つ。ぶははははは」
「…………」
「……本当に笑わない人ですね。失礼ですけど、係長って笑ったことあるのですか」
「あるわよ」
「いったいどんな時に笑うのですか」
そう質問した僕の左手を、次の刹那、係長は自転車のハンドルから剥ぎ取るように掴み、強引に自分の首元にぐりぐりと押し付け――「きゃきゃきゃ」――不織布マスクの上に並ぶ二つ細い目を、更に糸のように細めて笑って見せたのです。公園の遊具で遊ぶ少女のような笑い声でした。一瞬状況を把握し兼ねましたが、どうやら僕が係長の首の下をくすぐった模様です。「あとは、脇の下や足の裏をくすぐられた時にも笑うわ」――と言った時にはいつもの鉄仮面に戻っていました。
指先に残る九鬼係長の少し汗ばんだ柔らかな首の感触。その後もしばらく会話を続けたものの、ドギマギ、ドギマギ、内容なんかまるで憶えていないのです。
6月8日(月) 今日の嘘。
・過去に親友を交通事故で死なせている。
こうして僕は、嘘ノートを活用し、嘘を積み重ねることで発生する矛盾を未然に回避しました。同時に、嘘ノートのおかげで、幅広い嘘を安心して発信することが可能にもなりました。以下は、ほんの抜粋。
6月16日(火) 今日の嘘。
・知り合いに弁護士がいる。
7月17日(金) 今日の嘘。
・子役プロダクション事務所に所属していた。
8月3日(月) 今日の嘘。
・絶対音感がある。
9月9日(水) 今日の嘘。
・愛読書は、リルケ詩集。
10月1日(木) 今日の嘘。
・何者かにストーキングされている。
支店に転勤をしてから足掛け五か月が過ぎました。10月半ば。黄金に色付いた街路の銀杏並木が、一斉に落葉を始めています。
「ほら、この首の後ろにある、ここを触って」
運転席の九鬼係長が上半身をねじり、僕にうなじを見せます。不織布マスクを引っ掛けた耳の裏のやや下あたりに小さなしこりのような膨らみがありました。
「ほら、はやく触って。信号が変わっちゃうじゃない」
僕は、ためらいながらその膨らみを人差し指でつんと突きました。指先にゴリッとした異物感が伝わります。ドギマギ、ドギマギ。
「これがマイクロチップ。UFOに連れ去られた時に埋め込まれたの」
帰社中の車内で係長と雑談をしていたら、宇宙人の存在を信じるかという話題になり、僕がUFOを目撃したことがあると言ったら、係長は「ここだけの話、私は宇宙人にマイクロチップを埋め込まれている」という重大な秘密を告白してきたのです。まったく僕の虚言など、係長の体験の足元にも及びません。
「そういえば、あなたの家、この辺りじゃなかった?」
「そうです」
「会社に戻ったら、タイムカードは私が押しておいてあげる。せっかくだから、ここから歩いて家に帰りなさい」
慎重に路肩に車を停止させると、係長はそう言って僕に下車を促します。
「いや、でも、支店にある自転車が、明日の通勤手段が」
聞こえているのか、いないのか、係長は。うなじのマイクロチップをコリコリとかくと、無言でサイドブレーキを下げました。あの女、マジで置き去りにしやがった。走り去る社用車を見送り、車道に散らばった大量の銀杏の落ち葉を踏みしめ、僕はトボトボと歩き出すのでした。