六 虚言癖
支店に戻ると、係長は机にめり込むような姿勢で材料の発注の業務を始めます。僕は係長の横の机で特に指示されることもないし別段やることもないので、左腕の蚊に血を吸われて腫れたところを右の親指の爪で細かくみじん切りにしたり、ホッチキスの反対側の爪状の金具でツンツンつついたりして時間を潰しています。
定時を過ぎると、社員たちが続々とタイムカードを押して退勤して行きます。しかし係長と僕は帰りません。何故なら係長は仕事が残っているから。そして僕は係長から「帰れ」の指示が出ないからです。
十九時を過ぎた頃、支店長室で残業をしていた支店長が帰って行きました。こうしてオフィスには僕と係長の二人きり。ふと壁を見ると、そこには各社員の毎月の営業成績がA2サイズの用紙で大々的に掲げられている。その表によれば、一昨年の十月以降係長はずっと成績トップ。すげえ。表の真上にある壁掛け時計が二十時を回ったのを見計らい、僕は恐る恐る係長に話し掛けます。
「がんばりますね。いつもこんなに残業されるのですか」
「あら、いたの?」
「……そのような粗略な扱いをするのであれば、今後は自分の判断で勝手に帰りますがよろしいですか」
「自分の判断で勝手に帰ってよろしいですことよ、僕ちゃん」
両手で机をバンと叩いて立ち上がり、これ見よがしにタイムカードを押しました。
「あ、そうそう、あなた、ちょっと待って」
プリンターから立て続けに印刷されるプレゼンシートを部数ごとに仕分けしつつ、おもむろに係長が僕を呼び留めます。
「せっかくですから、これから私が、私たちが良好な人間関係を構築するために聞いておいて損はないことをいくつか質問します」
お家に帰りたい。心の底から。猛烈に。
「え~っと、先ず、あなたは何歳ですか?」
「昭和四十九年生まれ。四十七歳」
「あら、私の母と同い年ね」
「お母様とタメっすか……。失礼ですが、係長はお幾つですか?」
「二十七」
ににに、二十七歳。思ったより若い。もっと年いってるかと思った。容姿が整い過ぎると老けて見えるのかな。てか、この女。二十も年下の分際で、五十路に差し掛かろうとする大人をバカにしやがってコケにしやがってウジ虫扱いしやがって。おっと、そんなことよりこのパターン。ヤバいよ絶対このパターン。きっと来る来る、あの質問。
「結婚は?」
ほら来た。落ち着け。落ち着いて正直に答えよう。ドクシンデス。声帯を機械的に震わせ、その六文字を発すれば終わる。現代において独身は何も恥ずかしいことではない。もう嘘はやめよう。嘘は罪。嘘は罪。罪と罰。
「僕、バツイチなのです」
……おま、正気か。
「十年前に離婚しました。離婚の原因は元妻の浮気です。元妻のことを思い出すと辛くなります。これ以上は話したくありません」
今ならまだやり直せる。嘘どえ~す。花の独身四十七歳どえ~す。なんつって自虐ネタにして笑い飛ばせ。
「ふ~ん、それからはずっとお一人様?」
「さすがに僕も男ですからね。付き合っている彼女ぐらいはいますけどね。結婚はどうかな。もうこりごりかな」
ああ、嘘の上塗り。やめろ。やめろってば。何とかして話の流れを変えねば。そうだ、係長に質問返しをしてやろう。
「ちなみに、ご結婚は?」
「二回。今は一人」
「へ? ば、ば、バツニってこと?」
「バツニです」
「どんな顔をしてよいやら。マスクをしていてよかった」
「でも私、寂しくなんかないわよ。結婚を前提に交際をしている男がいないだけで、セックスフレンドは大勢いるから」
「せせせ、セックスフレンド」
「私、セックス依存症なの」
「ももも、もう結構です。話についていけません」
ブラインドの隙間から見える曇天の夜空に、満月がおぼろげに輝いていました。
家に帰ると、二十二時を過ぎていました。まったく働き方改革も何もあったものではありません。怒涛のような転勤初日でした。
深い溜息をつき、玄関の上がり框に座り込んで革靴を脱ぐ。
上部斜め四十五度方向から強い気配。
見上げる。
壁に掛けてある白い仮面が僕を見下ろしている。
増女と呼ばれる能楽の面。増阿弥という田楽法師が創出したのがその名の由来らしい。死んだ父の唯一の趣味が能楽を鑑賞することでした。僕も、子供の頃時々能楽堂に連れて行かれ、父のうんちくを聞きながら能楽を鑑賞したものでした。白い顔、細い目、起伏のない顔立ち、そして氷のように冷たい表情、死んだ父曰く、あれは深く世を憂いているが故に醸し出される表情であるとのこと。
「そっくり」
僕は、思わずそう呟きました。
リビングの電気をつけると、足の踏み場もないほど床にゴミが散乱しています。洗わずに放置された食器や腐った食材がひしめきあう食卓には、今晩の僕の食事が所せましと並べてあります。冷や飯。海苔の佃煮。食パン。ポテトチップス。マヨネーズ。そして、椅子にはそれらを準備した母。
僕の母が、室内でも不織布マスクをし、更にその上から透明のフェイスシールドを装着し、海苔の佃煮の食品表示を定まらぬ視線で凝視している。今日も今日とて闇の中でずっとこうして僕の帰りを待っていたのです。
母は、父が死んでからというもの、明らかに様子がおかしくなりました。追い打ちをかけるように新型コロナウイルスの感染拡大による自粛生活が容赦なく襲い、現在母は重度のコロナ鬱に陥っています。
僕が不在の時間に最低限の家事や生理的欲求などを行う為、かろうじて行動している痕跡はありますが、夜はペットショップのイグアナのように同じ場所から動きません。話かけても返事は無いし、時々「あうあう」と虚空に向かって何か呻いていますが、声が小さく何を言っているのかさっぱり聞き取れません。
せっかく息子が頑張って働き始めたというのに、自分だけ呑気に鬱になんかなりやがって。あ~もう腹立たしくて仕方がない。頭上を数匹の蠅が旋回している。時々母のフェイスシールドに止まっては部屋中を飛び回っている。ここにいると自分が排泄物にでもなったかのようで胸糞が悪くなる。冷や飯に水道水を掛け、それに海苔の佃煮を溶かし、それを浴びるようにカッカッカと食道に流し込むと、自室に逃げ込みます。
この二十五年間、僕が「シェルター」と名付け、親の立ち入りすら禁じ、外界からこの身を守ってきた自室は、ごみ屋敷と化した他の部屋と違い、普段から床に髪の毛一本落ちていないほど清潔です。本棚には、漫画の単行本、成人雑誌、ゲームソフトなどが規則正しく陳列されています。
何の気無しに粘着カーペットクリーナーでコロコロしてから座椅子に座わり、何の気無しにウエットティッシュで座卓を拭きます。それからふと思い立ち、傍らの引き出しから、学生時代にまとめ買いしていた未使用の大学ノートを取り出すと、はじめのページに本日の仕事の留意点をシャープペンシルで書き留めました。
これは仕事ノート。今の職場が自分に適しているのか否か、なにぶん初めての就職なので、他と比べようがありません。それでも父が命懸けで僕に与えてくれたチャンスです。二十五年間一度も社会に出ることなく引きこもりを続けてきた中年男にとっては、奇跡と言っても過言ではない職場なのです。出来ることなら継続して働きたい。出来ることならもう転勤はしたくない。ならば出来る限りの努力はしようではないか。今日からはこのノートに日々の仕事の留意点を記録するのだ。
そしてまたふと思い立ち、未使用の大学ノートをもう一冊取り出すと、僕は、はじめのページにこう書き留めました。
6月1日(月) 今日の嘘。
・十年前に離婚をしている。原因は元妻の浮気。
・現在、付き合っている彼女がいる。
こっちは嘘ノート。僕という人間は、またどうしようもない嘘をついてしまった。でもついてしまったものは仕方がない。ならば、明日からは肌身離さずこのノートを持ち歩き、ついた嘘は全てこのノートに記録しよう。こまめに過去の嘘を確認し、新しい嘘との矛盾を早期に修正することで、噓がばれるのを未然に防ぐのだ。
知らず知らずのうちに嘘がばれ、人間関係をこじらせ、職場に居られなくなるなんて事態はもう二度とあってはならない。ここを辞めても、再び自力で就職活動をする気力も、その器量も、残された時間も、僕には無いのだから。