五 マスクは外さない?
「一般的な公共工事が、新年度の四月早々始まるなんてことは通常無い。大概五月から六月頃に落札業者が決定する。実働はもっぱら準備期間を経た七月からよ。うちの会社のような機器や管工機材などの卸問屋は、大きな公共工事を落札した業者が分かると、この準備期間を狙って落札業者に一斉に営業をかけ、機器や管材を卸す契約を勝ち取る争奪戦を繰り広げるの」
係長の説明を聞きながら会議室に入室する。観葉植物の傍らに手指消毒用のアルコール置かれている。係長と僕は順番にアルコールを両手に噴霧し着席をする。アルコールのボトルには、マジックペンで『量に限りがあります。大切に使用して下さい。無断で持ち出さないで下さい』と書かれています。市場では、マスクと同じくアルコール消毒液の生産も追い付かず、入手が極めて困難になっているのです。
先方の工事部長と該当現場を取り仕切る監理技術者が僕たちの前に現れました。不織布マスクが計三人。僕だけ内閣総理大臣から貰った布マスク。僕たちは立ち上がり、先ず係長が二人に深々と挨拶をします。
「本日は新人を同席させていただきます」
「新人の穴田と申します。よろしくお願い致します」
僕は本社で教えられた通り、お客様に失礼のないようにマスクを外して挨拶をしました。
「マスクは外さない」
係長が厳しい口調で僕を注意します。あれ、おかしいな、本社では、取引先のお客様の前では失礼だから必ずマスクは外せと教えられたのだけれど。お互いに声が聞き取りにくいから外せ。お互いに表情が読みにくいから外せ。花粉症だろうがインフルだろうがコロナだろうが、お客様にそれを気遣わせては商談のマイナスにしかならない、だから外せ。感染予防目的での着用なんてもっての他だ。この業界は顔と顔で繋がっているのだ。コロナが何だ。コロナなんてただの風邪だ。我々営業マンは世間の風説に惑わされず、これまで通り社会人としての常識を優先するべきだ。とか何とか散々言われたのだけれど。
いつ常識が変わったのかな。てか、つい最近社会人デビューした自分にはよく分からないけど、常識ってこんな数か月でコロコロ変わるものなのかね。
係長と先方二人は、大量の資料と図面を凝視しながら、JIS規格だの、あいくる材だの、BL認定品だの、訳の分からない用語を飛び交わせ、詳細な打ち合わせを続けます。そして、いよいよ係長が本題へと話しを押し進めます。
係長の商談は驚くべきものでした。先ず先方に、弊社がメーカーから定価の何パーセントで商品を仕入れているのかを正直に公開してしまうのです。更には弊社がその仕入値に何パーセントの利益を乗せて販売したいのかも正直に伝えます。目の前で絶句する二人に、さらに係長が畳かけます。
「恐らく他の問屋も大方似たような仕入値に似たような利益を乗せていることでしょう。仕入れ先のメーカーが、特定の問屋にだけ法外な安価で販売をすれば、他の卸問屋が怒ってそのメーカーを取り扱ってくれなくなる訳ですから、各卸問屋への販売価格に雲泥の差はない筈です。
弊社は、着地点が見え見えの出来レースを御社と長々とするつもりはありません。それよりも無駄を省くことで得られた時間で、御社の該当工事に係るより良い資料を作成する等のお手伝いを速やかにさせて頂きたいのです。正直に申します。今ここに提示させていただいた金額が御社の懐に飛び込んだネット価格です。どうぞ、ご検討下さい」
それでも先方の工事部長は駄目押しの値引きを要望してきました。それに対して係長は、他の小規模工事三物件の材料を弊社で納入させて頂くことを条件に若干の値引きに応じました。こうして係長は大手給排水設備会社との大規模公共工事の契約に成功したのです。
「いやあ、圧巻でした。仰天の交渉術。僕はぶったまげました」
駐車場へと戻り、車に乗かける係長に、満面の笑みでそう言いました。すると係長がじっと僕を見詰めています。じっと見詰められるものですから、こちらも係長をじっと見詰め返しています。
「……何か文句ある?」
「文句?」
「言いたいことがあるならさっさと言って。私忙しいの」
「僕は係長の功績を称えているつもりなのですが……」
「ああ。なるほど。あなた、いま笑顔なのね。あらあら、自分がマスクをしていること忘れては駄目よ。あなたの作り笑い、目が全然笑っていませんから。このコロナ禍では口元のスマイルに何の効力も無いわ。笑うなら目で笑いなさい、目で。これからは相手の表情から気持ちを読み取って次の一手を打つなんてことは出来ないし、もの言わずとも喜怒哀楽の表情のみで相手にこちらの心情を察してもらうなんてことも出来ません。みーんなマスクをしていますから。あしからず」
ムカつく言い方っ。そんなぶっきらぼうな指導しか出来んのかね君は。鬱憤晴らしに、マスクの裏でべ~っと舌を出してやる。なるほど、マスクの内側は他人には分からない。痛感。