四 鉄仮面
次亜塩素酸スプレーを噴霧しドアノブを拭く掃除のおばちゃん。「30分に1回窓を開けて換気厳守」と書かれた張り紙。「おはようございます。本日○○さんと○○君、それから○○主任はテレワークにつきリモートでの参加です」と朝礼を進行する支店長。その横でうつむき手汗を握りしめる僕。
何はともあれ、もう嘘はやめよう。嘘は罪。四十七歳独身、女性経験無し、大学を卒業してから二十五年間引きこもり、無能で偏屈な潔癖症。それが僕だ。それ以上でも以下でもない。取り繕うな。見栄を張るな。仕方がないだろう、これが現在進行形の、等身大の自分なのだ。
「穴田晴夫です。よろしくお願いします」
転勤先の支店の朝礼時に、数十名の社員の前で挨拶をしつつ、僕は胸の内で繰り返し同じ自分を戒めました。
「今日からしばらく彼女に付いて行動してもらうから」支店長に紹介され、本社を去る際に名前だけは聞き及んでいた次の上司が僕の目の前に現れます。
「初めまして。営業課営業係長の、九鬼です」
間違いない。この女。紛うことなき今朝の割り込み女。けっ。初めましてだあ? どの口が言いやがる。
「では、さっそく外回りに行くから、私に付いて来て」
そう言うと、九鬼係長は、重そうなバックを抱え、高いヒールの靴をカツカツ鳴らしてオフィスを出て行ってしまった。年齢は三十五歳ぐらいかな。黒髪を後ろで束ねてお団子にした髪型。スタイルは超抜群。ファッションショーに出てくる外国のスーパーモデルみたい。
「ふふふ。鉄仮面の部下とはお可哀そう」荷物をまとめ、慌てて係長を追う僕に周囲の社員が声を掛けてきます。「お気の毒様」「ご愁傷様」どういうこと? すんげ~同情されているのだけれど。
「今朝はどうも」
社員用駐車場に停めてある社名入りの軽自動車に乗り込もうとする係長に、そう鎌をかけてみます。
「どういたしまして」
やはり覚えていやがった。てか、順番を譲ったのは僕だぞ。会話があべこべだぞ。
僕が助手席に座ると、係長がエンジンを掛ける。こうして、僕の転勤初日の業務が始まりました。公道をしばらく走り、信号機が赤に変わると、係長が社用車をゆっくりと停止させます。何の気なしに係長をチラ見すると、不織布マスクの上から鼻の頭をしきりにコリコリとかいている。それからも信号待ちの度に、七分袖のブラウスの袖ボタンを外して左肘をボリボリとかいたり、右耳のピアスをプニプニと触ったり、とにかく落ち着きがない。
「ねえ、内閣総理大臣マスクさん。行きがけに、他の社員に私のことで何か言われた?」
「……いいえ、特に何も」
「鉄仮面とか何とか言われなかった?」
「……」
「図星ね。内閣総理大臣マスクさん、私の質問には正直に答えなさい。私、隠し事は、するのもされるのも大嫌いよ」
生理的に最も受け付けないグイグイくる系。
「申し訳ありません」
「内閣総理大臣マスクさん、本当に申し訳ないと思っている?」
「て言うか、その内閣総理大臣マスクさんと呼ぶのをやめていただけませんか。僕には、穴田と言うれっきとした名前があります」
「では、あなた。あなたに問う。あなたは先程、私に対して申し訳がない、つまり弁解の余地がない程の、どんな失敗をしたの?」
「え?」
「他の社員に私の悪口を聞かされ、それを私に告げ口するのをためらった、ただそれだけじゃないの?」
「はい、その通りです」
「それは、あなたにとって謝罪に値することなの?」
「いいえ、別に、そんなことは……」
「では、何故謝罪をしたの?」
「……」
「あなたは、私に嘘の謝罪をしたの?」
おいおい、さっきから何だよ、この女。
「重ねて申し訳ありません」
「あなた、本当に申し訳ないと思っている?」
「はい」
「では、あなた。あなたに問う。あなたは先程、私に対して申し訳がない、つまり弁解の余地がない程の――」
「もう勘弁して下さい」
マジで鬱陶しい。顔面グーで殴りたい。
「この支店の社員たちは、私のことを無表情な女、鉄仮面、そう陰で笑っているの。あなたには、私の顔が鉄仮面に見える?」
「分かりません」
「……」
「だってマスクをしているではないですか。どうぞその不織布マスクを外して素顔を見せて下さい。そうしたら正直に感想を述べます」
「嫌よ。あなたが感染者ではないという保証はどこにもない」
「おっしゃる通り。大変失礼しました」
ハッキリと断られると、俄然九鬼係長の素顔に興味が湧くのだからおかしなものです。マスクの向こう側は、整っているのだろうか、不細工なのだろうか。
「コロナ以前、私は、無感情、鉄仮面などと、散々陰口を叩かれてきました。それがこのコロナ禍ではどう? 人々はマスクという仮面を装着して生活するようになり、豊かな感情表現が出来なくなった。人類皆ポーカーフェイス。どいつもこいつも鉄仮面。ふん、ざまあない」
商談中の工事会社に到着しました。来客者用駐車場に車をバックで駐車すると九鬼係長は――「さあ、行くわよ。見ていなさい、今日こそ契約してやるわ」――と息巻き、運転席のドアを勢いよく閉め、瞬く間に建物の自動扉の向こうに消えて行きます。待って。ちょっと待って。まったく忙しい人だ。