参 社会人デビュー
中国の武漢という街で未知なるウイルスが発見され、人を死に至らしめる恐ろしい感染症が街中に拡大しているというニュースがこの国に流れる少し前のこと、僕の父はこの世を去りました。死因は急性肺炎。あっけない最期でした。
最近になって知ったのですが、あの頃にはもう、新型コロナウイルスが何らかのルートで国内に持ち込まれていて、既に水面下で感染が拡大していたのではないかという説があるようです。それが本当であれば、僕の父は新型コロナウイルスに感染して死亡した可能性があります。症状が、新型コロナウイルスのそれと酷似する点が多くありましたし。まあ、今となっては確かめようのないことなのですが。
父は、その死の間際に最期の力を振り絞って、病床から僕の就職先を探しました。そして、自分の生涯で思いつく限りの人脈とコネを使い、四十七歳を間近にして一度も社会に出て働いたことのない息子を雇い入れてくれる企業を見つけたのです。
僕は、氷川物産という企業に就職することになりました。父のかつての部下の、その友人が取締役の一人とのことで、形だけの面接をした日に、その場で仮採用の通達がありました。来春に退職予定の社員との入れ替わりとの条件付きではありましたが、我ながら、清々しいほどのコネ入社です。
氷川物産は、住宅設備機器や管工機材などの卸売を行う会社。メーカーと工事業者との間に立ち、商品と情報をスムーズに往来させるのが主な仕事。地域のお客様に密着した営業活動を行い、多種多様な仕入れ先メーカーからお客様が求める商品の情報を迅速に提案し、その商品を受注し、配達、納品までを行います。
昨年の年明けと共に新型コロナウイルスは本格的にこの国に上陸し、梅の花が咲き乱れる頃には、都市部を中心に感染の拡大が始まり、マスクやトイレットペーパーの買い占め騒動が勃発しました。それでもまだこの頃は、マスクの効果は限定的だとか、コロナはただの風邪、暖かくなればインフルエンザのように自然消滅する、などといった専門家の意見もあり、街中でマスクを着用する人としない人の割合は、おおよそ半々だったように記憶しています。
三月に入り、政府が全国の小中高校などに対して休校を要請し、企業はいよいよテレワーク導入の検討を始め、メディアからステイホームという聞き慣れない言葉が垂れ流され始めたこの時期に、僕は愛知県名古屋市にある氷川物産の本社にて、見事に社会復帰を果たしたのでした。いや、これまで一度も就職したことが無いわけですから、社会復帰ではなく、社会人デビューという言葉が適当ですね。四十七歳の遅すぎた社会人デビューです。
二十五年間、時間の止まった世界の住人でしたので、会社での僕は「なにが分からないのか分からない」という状態が続きました。それに加えて四月に入ると全国で緊急事態宣言が発令され、氷川物産も、時短営業、時差出勤、在宅勤務などが速やかに導入されました。前例のないワークスタイルに、会社全体が慌ただしく対応に追われる状況でした。とてもじゃないけど中途採用の新入社員の育成など出来る暇はありません。故に営業職として入社しているにもかかわらず、僕が入社してからの三か月間に遂行した業務といえば、渡された資料をコピーすること、あとはその資料をホッチキスで綴じることぐらいでした。
結局、僕は本社に居られなくなりました。でも、原因は僕が無能だからではありません。原因は僕の嘘。嘘をつくという癖は、二十五年という時を経ても変わることはありませんでした。
ある日のこと、緊急事態宣言中の閑散としたオフィスで、暇を持て余した女性社員たちがペットの話題で盛り上がっていました。すると――「ねえ、穴田さんは何かペットとか飼ってる?」――そのうちのピンクのウレタンマスクの社員が僕に話を振ってきた。「まあ、猫とか、飼ってます」嘘っす。飼ってねえっす。生まれてこのかたペットなど飼ったことがありません。自分よ。どうして張らなくてもよい見栄を張る。「どんな猫?」「黒猫」「雑種ね」「だたの雑種ではない。うちの子は、右目と左目の色が違う」嘘をつき、その嘘の辻褄合わせに、また別の嘘をつく。嘘をつき通す為に、先ずは自分がその嘘に騙される。
やがて本社の社員たちは、オフィスや廊下で、近くに僕がいることなどお構いなしで僕の噂話をするようになりました。「穴田さんの言うことは支離滅裂」「まさか、自分の嘘がばれていないと思っているのかしら」「いったいあの新人のオッサンは何者なのですか」「何故あんな気持ちの悪い中年が採用されたのでしょうか」「あいつが話し出すと何だかどっと疲れる」「悪寒がする」
それからひと月もすると微塵の遠慮もなく僕に向かって暴言を吐くようになりました。「君の発言は周囲をヒヤッとさせる何かがあるね」「テメエはもうしゃべるな」「お願いです、私に近づかないでください」「キショい」「臭い」「存在自体が痛々しい」「で、いつ退職するの?」
そんな社内の雰囲気をいよいよ問題視した上層部が、僕に名古屋市近郊の支店への転勤を命じました。こうして僕は本日新しい支店に配属されて来たのです。




