拾四 進化の渦の真ん中
「――おっも~い。ちょと、マジで重いんですけど」
目が覚めると視界いっぱいに純白のシーツ。ベッドシーツの洗剤の匂い。頬に人肌の温もり。痛い。誰かに背中をバシバシ叩かれている。この意識がどうやら自分のものである気がしてくる。
「気が付いた? 私たち二人揃ってパニックになり、しばらく気を失っていたみたいよ。ほらほら近い。さっさと離れて。ソーシャルディスタンス、ソーシャルディスタンス」
係長の体に回していた腕を解き、全裸のままフラフラとベッドから下りると、床にドスンと胡坐をかき、大きく深呼吸をしました。脳内にかかったミルクのような霞がだんだんと晴れて行く。記憶が蘇るのと並行して恨めしさが増して行く。な~にが二人揃ってパニックになり気を失ってしまっただ。僕を絞殺しかけたくせに。まったくどの口が言うかね。
九鬼係長はすっかり落ち着きを取り戻していました。ゆっくりと上半身を起こすと、乳房を放り出したまま、陰部も露わのまま、ずれた不織布マスクのポジションのみを直しました。眉間のしわが跡形もなく消えている。
「ねえ、あなた」
「はい」
「私の話を聞いてくれる?」
「恐らくそれはつらい話ですね」
「そう、とてもつらい話」
「お断りします。つらい話は苦手です」
「命令です。聞きなさい。私は話したい。あなたになら全てを話せる。実は私――」
天井スピーカーから大音量の静寂が流れる中、係長がぽつりぽつりと語りはじめました。
――睨んだ通り、係長は嘘つきでした。バツニは嘘。大勢のセックスフレンドも嘘。セックス依存症も嘘。そもそも係長は、未婚どころか二十七歳にしてまだ異性と交際をしたことがないそうです。理由は重度の男性恐怖症だから。男性が近づくだけで体がかゆくなり、長時間密接していると、ストレスで皮膚に発疹が出る。体のあちこちが真っ赤にただれ、かゆくて夜も眠れないとのこと。
「でも不思議ね。あなたは出逢った時からほんの少しかゆいだけなの。かゆくないわけではないのだけれど、少しだけ、ほんの少しだけかゆみを覚える程度なの。うん。いい感じ。あなたは何だかいい感じ」
「要するに僕は異性として見られていないということですね」
「あなたにホテルに誘われた時、私、あなたに抱かれることで男性恐怖症を克服できるのではないかと思ったの。さかりのついた座敷犬とじゃれ合っていたらうっかり性行為しちゃったみたいな感じで克服出来たら超ラッキー。そう思ったのよ」
「異性どころか人間扱いされていませんね」
「でも駄目ね。ぎりぎりのところで、父の顔が浮かんでしまった」
係長の男性に対する恐怖心は、父親に植え付けられたトラウマが原因でした。係長の両親は、係長が幼い頃に離婚していて、係長は父親に育てられたそうです。中学二年生の夏休みに父親から性的虐待を受け、以降父親から頻繁に性行為を強制され、応じないと殴る蹴るなどの暴行を受けたそうです。中学を卒業してすぐに実家を飛び出し、通信制の高校と大学を自分で働いたお金で卒業し、その後氷川物産に就職したとのこと。
「ちなみに、お父様が踏み切りで電車に撥ねられて死んだというのは」
「嘘よ。実の娘を犯したあの鬼畜は、今も実家でのうのうと生きている」
「なんでまたそんな不必要な嘘を」
「何故かしら。昔から不幸自慢をされると反射的にそれを上回る不幸自慢をしてやりたくなるの」
「じゃあ、宙人にマイクロチップを埋め込まれたというのは」
「嘘に決まってんじゃん。嘘のついでにああやって時々あなたが私に触れても体がかゆくならないか試していたのよ」
自己防衛の為に虚言を吐いていたら常習化してしまい、やがて制御不能になってしまったのだ。分かる。僕もそうだから。
「係長、僕もお話しなければならないことが沢山あるのです」
今こそ正直に話そう。九鬼係長になら正直に話せる。係長ならきっと分かってくれる。襟を正すように内閣総理大臣から貰った布マスクを正し「実は僕――」と話しかけます。ところが係長はおもむろに右の手の平を大きく開いてこちらに向け、ストップの身振りでそれを制したのです。
「悪いけど、私、あなたの素顔に興味は無いの。あなたはこれからもずっと正体を隠して生きなさい。大丈夫。あなたには私がいる。私が騙されてあげる」
ななな、何それ。自分だけカミングアウトして。自分だけスッキリサッパリしておいて。でもそんな気持ちとは裏腹に鼻っ柱がつーん。両膝を爪が喰い込むほど鷲掴みにして嗚咽。溢れる涙が布マスクの繊維に吸収されて行く。
でもやはり自分だけ禊を終えて清められた感じを醸し出している係長がどうにもこうにも許せない。マスク内で垂れた鼻水をすすり上げる。困らせたい。少し意地悪をして困らせてあげたい。
「かしこまりました。では係長、さっそくですが僕がこれから三つの嘘をつきます。どれもこれもとんでもない大嘘です。騙されてくれますか?」
「ええ、もちろんよ。聞かせて」
すっかり憑き物が落ちた係長が、茶目っ気たっぷりに聞き耳を立てる仕草をしました。
「では第一の嘘。九鬼係長は大腸癌です」
白い不織布マスクから覗く美肌がすーっと青ざめる。
「主治医に告げられました。ステージ4。余命は長く持って一年」
右の眉毛がぴくぴく動く。
「でも係長は死にません。僕が死なせません。共に闘病をして必ず癌を克服します」
「いいわ。騙されてあげる」
「次に第二の嘘。自宅で母が首を吊って死んでいます」
後頭部をポリポリとかき、痛々しく平常を装う。
「発見したものの処置に窮してしまい、母の死体をかれこれ三日も放置しています。係長、お願いです、これから僕と一緒に警察に出頭して下さい」
「了解。騙されてあげる」
「そして、これが最後の嘘」
「何でも言って。もうちょっとやそっとじゃ驚かないから」
「僕は九鬼係長のことが好きです」
後方へのけ反る。
「大好き。みたいです。どうやら。困ったことに」
静かに後ずさりする。
「コンビニのトイレで、君の血便を僕の小便で洗い流したあの日から」
頭上に『ごっくん』と擬音が見えるかのように、漫画みたいに唾をのみ込む。
「この気持ちは決してよこしまなものではなく、極めてプラトニックなものでありまして」
すると、こわばっていた肩がぷるぷると震え出しました。泣いている。違う。笑っている。マスクで判別しにくいが、どうやら笑っているみたい。
「この大嘘つき」
係長はそう叫ぶと、反応しっぱなしの僕の下半身を指差しました。
ヤバい。よこしまな気持ちがばればれ。係長は全裸のまま勢いよくベッドから起き上がり、同じく全裸で胡坐をかく僕の前に正座をしました。きっと平手打ちをされる。首をすくめ、目を閉じる。瞼の向こうに急接近の気配。マスク越しに温もり。柔らかな唇の感触。ほんの一瞬係長の不織布マスクが僕の布マスクが触れたような。
「さあ、先ずは除菌。それから二人で警察に行きます」
つむじの辺りに響く声。恐る恐る瞼を開くと目前に美しい陰部。見上げると、いつもの愛しの鉄仮面が僕を見下ろしていました。
――浴室から係長がシャワーを浴びる水音が聞こえます。僕たちは順番に体を洗った後、警察に出頭するのです。それから僕は母の葬儀を済ませて。それから九鬼係長は癌の闘病を始めて。それから二人は不要不急の外出を避けながら恋愛をして。それから二人は密を避けながら結婚をして。それから二人はマスクの上からなんかじゃない本当のキスをして。それから……。
終息の兆し無き新型コロナウイルス。増大する感染者。ひっ迫する医療機関。ちらつく陰惨な未来。どうしようもない終着点。それでも僕たちは前へ進もう。いかに過酷な環境にあろうとも、かつて海を捨て、しっぽを捨て、服をまとい、炎を操り、進化と共に苦難を乗り越えてきた先人たちのように、惜しみなく進化を続けよう。変わりたい。変わり続ける者でありたい。その気持ちだけはいつまでも変わらずに持ち続けよう。背骨がきしむ。尾てい骨がうずく。いま僕たちは進化の渦の真ん中にいる。
ヘニャリと潰れた鞄から嘘ノートを取り出し、ついさっき係長についた三つの嘘を忘れないうちに書き留めます。真っ昼間からラブホテルの一室で、四十七歳独身、女性経験無し、大学を卒業してから二十五年間引きこもり、無能で偏屈な潔癖症が、大学ノートに自分の嘘をせっせと書き留めている。リアル。これが僕の嘘みたいなリアル。
生きている。世界が死の病に脅かされしこの時代に、かろうじて僕は生き延びている。それどころか、大好きな人と、同じ空間で同じ時間を過ごしたりなんかしちゃっている。信じられない。嘘みたい。まったく嘘みたいなリアル。
『こうして嘘つき男は愛する妻といつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし』嘘ノートの背表紙の裏にそう記し、膝を抱えて思案します。さあて、あとはここまでの白紙のページをどう埋めるかだ。
「あなたー。私出たよー。シャワー浴びていいわよー」
おっと、バスルームから未来の妻が呼んでいる。
ヨッコラショと立ち上がり、不意によろめき、うずくまり、もう一度立ち上がろうとした刹那、僕はしなやかに決意する。
こうなったらいっそ真実になるまでつき通してやる。僕たちのこれからに種明かしなんてない。あろう筈ないのだから。
閉ざされた小窓のステンドグラスを通して、向こう側の現実が、こちら側の空間に、幻想的な光と影を放っている。気が付けば、僕の体が、僕に無断で祈りを捧げています。都市近郊のインターチェンジ近くのラブホテルの一室で、ひれ伏して、床にひたいを擦り付け、握った手と手を天にかかげて。
(完)