拾参 許して下さい
ラブホテルの一室といえば、昭和のエロ雑誌やバラエティー番組などの情報から、照明はピンク一色、天井からはミラーボールが垂れ下がり、壁一面鏡張りで、部屋の中央では丸いベッドがぐるぐる回転し、その傍らに、三角木馬、鞭、ロウソク、猿ぐつわ、等のアイテムが無造作に散らばっている。と勝手に思い込んでいました。実際は随分落ち着いた雰囲気の内装なのだな。わ、カラオケがある、テレビゲームもある、アダルトビデオも見放題、え、マジ、料理も食べられるの、うおお、ジャグジー風呂。
いつまでも落ち着かず、部屋中をうろうろと物色する僕とは対照的に、係長はベッドに腰を掛け、ただスカートの上から自分の太ももをかいていました。
「あの~、そろそろ開幕ということで、準備はよろしいでしょうか」
よし、いいぞ。今の一言は何だか僕がリードしているっぽかったぞ。がんばれ僕。がんばれ童貞。おっと、そうだ。くれぐれも自分が未経験者であるということを係長に悟られてはならない。洗練された男の色気に酔わせつつ。ごく自然に。慣れた感じで。いざ行かん、女体へ。いざさらば、童貞の日々。
「始める前に注意事項をお伝えします。避妊具は必ず装着して下さい」
目の前の大人の玩具系自動販売機を凝視しながら、係長が僕に言います。避妊具という言葉で今後の展開に現実味が増し、やにわに背徳感が僕を襲う。
お前は自分のしていることが分かっているのか。病院から退院したばかりの会社の上司を、あろうことか勤務中にホテルに誘い出し、平日の朝から性行為をしようとしているのだぞ。不要不急の外出を控えるべき、三密を避けるべき、この新型コロナウイルス感染拡大の渦中に、三密どころか、濃厚接触どころか、女体に性器を挿入しようとしているのだぞ。――て言うか、逆にそれが何か問題でも? 恋愛ってあらゆる場面において重要緊急なものじゃない? そうでしょう? 違うの?
どうにでもなれ。脱衣場の扉の前で考えあぐねいていましたが、結局は刹那的衝動に駆られ、その場で服を脱ぎ捨て素っ裸になると、九鬼係長をベッドに押し倒し、着ている服を脱がせて行きました。係長は僕に身を任せています。
困難を来すのではなかろうか、ブラジャーのホック外しなどに散々手古摺り、自分が初体験であることを見破られるのではないか、そんな不安はどこへやら、僕は衣類をテキパキと脱がせることが出来ました。脱がせた衣類は傍らに丁寧にたたみます。脱がせてはたたむ。脱がせてはたたむ。シャツ、スカート、下着、すべてを剥ぎ取ると、ベッドには全裸になった係長が横たわっています。美しい。なんと美しいのだろう。まるで西洋の彫刻品のようだ。思わず時を忘れて呆けたように見惚れてしまいます。
ハッと我に返り、僕はこの状況下における二つの重大な事柄に気が付きました。第一の重大な事柄とは、僕の下半身にまるで反応が無いということです。おかしいな。気持ちは最高潮に達しているのに、下半身は緊張しているのかな。そして第二の重大な事柄とは、僕も係長も、すっかり全裸でありながら、互いに口元にはマスクを装着したままだということです。
「大変失礼しました」
マスクのみ残して全裸にする。女性にとってこれはある種の辱しめなのではないかと判断して非礼を詫び、目を閉じたまま身じろぎしない係長の不織布マスクに手をかけました。
あら、びっくり。途端に下半身に反応有り。なるほど、滑稽だがこれが僕のリビドー。二十五年に及ぶ引きこもり生活を経て、新型コロナウイルス禍に初めて社会に出た僕の性的興奮、それはブラジャーの向こう側ではなく、パンツの向こう側でもなく、マスクの向こう側だったのです。マスクに覆い隠された係長の口元を想像するだけで堪らなく欲情する。既に剥き出しの係長の性器なんかよりずっとそそられる。ああ、はやくこの人の素顔が見たい。今すぐこの邪魔な不織布マスクを乱暴に剥ぎ取ってしまいたい。
そう決意をした時、どこからともなく――
「……許して」
――か細い声。辺りをきょろきょろと見渡し、首を傾げ、耳を澄ませます。
「……許して下さい」
秋の夜の孤独な虫の音みたい。その鳴き声はマスクの向こう側から。小さな虫が懸命に羽を擦り合わせるように、確かに九鬼係長はそう鳴きました。
マスクを剥ぎかけた手を止め、急速に冷めた頭で考えます。ひょっとして。もしや。まさか。導き出される残酷な答えに背筋が凍り、僕は反射的にマスクから手を放しました。係長の心が、はち切れんばかりに水を張った風船のようにぷるぷると震えている。心の振動が空気を介してこちらに伝わってくる。では、試しにこの微弱に揺れるカタマリを一突きしたらどうなる。
「騙したな」
鋭利に尖った言葉で刺す。
「許して下さい。許して下さい。許して下さい」
けたたましい絶叫。果たして係長は炸裂しました。
「怒らないで下さい。じめないで下さい」
飛び散る内面。返り血。
「ごめんなさい。お願いですから。どうか許して下さい」
癇癪を起した子供のように手足をしきりにばたつかせている。いいや違う。これは痙攣を起こしているのだ。白目をむき、嘔吐するような声を上げ、呼吸も苦しそう。ややや、ヤバい。どどど、どうしよう。目の前で人が痙攣をおこしている場合、差し当たって何をどうするべきなのか、ちょっとマジでよく分かりません。んがしかし、流暢に戸惑っている場合でないのも確かです。僕は、係長に覆いかぶさり、感電をしているかのようにビクンビクンと足掻き回る体を羽交い絞めにし――
「落ち着いて。大丈夫。僕です。僕がいます。僕です。僕がいます」
――と我ながら意味を図りかねる言葉を連呼しました。
あ。何か変。何と言うか、今にも目玉が飛び出しそうな感覚と言うか。わ。錯乱した係長が僕の首に両手をかけている。苦しい。絞めないで。それ以上絞めたら僕。視界にちぢれた白髪のような線がニョロっと一本浮かび、遠のく。続けて、薄紫色の無数の輪が、オリンピックのマークのように重なり合って浮かんでは、遠のく。遠のく――
この物語は次回で完結します。