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拾弐 自己言及のパラドックス

挿絵(By みてみん)


 哲学や論理学の分野に「自己言及のパラドックス」という現象があります。


 その例として、最も有名なものが「私は嘘つき」という言葉です。この発言は大いに矛盾しています。「私は嘘つき」という発言が本当ならば、この発言も嘘なのです。「私は嘘つき」は嘘。つまり私は「正直者」。しかし、正直者の私が「私は嘘つき」だと発言しているわけですから、つまり「私は嘘つき」。だかしかし、その嘘つきの私が「私は嘘つき」と発言しているのであるから、やはり私は「正直者」。でもだがしかし……。


 穴田晴夫は嘘つきです。今日まで数えきれない程の嘘をついてきました。たくさんの嘘をつき過ぎて、どこからどこまでが嘘で、どこからどこまでが本当なのか、その境界がよく分からなくなってしまい、もはや取り返しのつかない状況です。


 でも最近は、嘘をついて何が悪いのだ、と開き直ることもしばしば。上手く言えませんが、嘘で固めた人生だから、僕の嘘はすべて本当なのだ。もうそれでいいじゃないか。時折そんな風に考えたりもするのです。


 知られたくない、出来ることなら無かった事にしたい、そんな自分の暗い過去を、あえて馬鹿正直に世間に晒し、一緒にヘラヘラ自嘲する。そんな生き方の何が楽しいのでしょう。惨めで、救いようのない、目を背けたくなる現実を、やけっぱちになって直視する。そんな人生の何が素晴らしいのでしょう。正体を隠して何が悪い。苦しみを誤魔化して何が悪い。自分ではない何者かを演じて何が悪い。


 四十七歳にして社会に出てよく分かりました。どいつもこいつも嘘つきじゃないか。お世辞。建前。媚び。へつらい。同調圧力。配慮。交渉。秘密。常識。僕の嘘など、所詮は小学生レベルです。世間の皆様の足元にも及びません。世間の皆様は実に巧妙に嘘をつくのです。この世界は嘘で溢れ返っています。この世界は嘘なしでは成立しません。だからきっと、僕たちが絶対についてはならない嘘は「人は正直で在るべきだ」という嘘です。言うに事欠いて、とても罪な嘘だと思うのです。


「僕とセックスして下さい」


 僕は九鬼係長にそう言いました。でもこれは僕の本当の気持ちではないのです。あんな高飛車な女と誰が性行為などしたいものですか。しかし、僕は嘘つきだから、本当は九鬼係長と性行為がしたいのです。それが僕の本当の気持ちなのです。しかし、僕は嘘つきだから、本当の本当は、あの女との性行為などこれっぽっちも望んではいないのです。しかし、僕は嘘つきだから、本当の本当の本当は……。ああ、もういったい何が本当の自分の気持ちなのか分からなくなってしまった。ひょっとしたら、係長が言ったように、そもそも僕には覆い隠すべき自分なんて存在しないのかもしれません。


 取り留めのない思考が、何の変哲もない風景と一緒に、タクシーの車窓を流れては消えて行きます。十五分も走ると高速インターチェンジ付近のラブホテル街に到着しました。


 九鬼係長は、そのうちの比較的新しくて綺麗な建物の前でタクシーを止め、いかにも慣れた感じで無人のロビーで入室の手続きを終えると、「さあ、行くわよ」とまるで自分に言い聞かせるかのように僕に言い、上がり専用の狭いエレベーターに乗り込みました。


 こうして僕と係長は、男女が主に性行為を目的に使用する施設の一室に突撃したのです。

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