拾壱 ただのおとぎ話
一階正面出入り口前で係長が退院するのを待つ。熱くもなく寒くもない心地よい秋風がロータリーを旋回し僕を撫でます。
何の因果か、つい先程僕は、九鬼係長の主治医から、彼女の癌宣告を代理で受けた。何だか知らないけど、訳が分からないけど、頭がおかしくなりそうだけど、でも、こうなった以上は正直に告げよう。あれこれ考えるな。僕は医者から情報を一旦預かったに過ぎない。それを包み隠さず本人に伝えればよいのだ。あなたは末期の癌です。ただそう機械的に伝えればよい。彼女の命に係ることだ。余計な気遣いは無用。それが誠意というものだ。人の道というものだ。
自動ドアの向こうから、午前の病院の風景にひと際目立つ係長が、いつも通りの白い不織布マスクを装着し、いつも通りのモデル歩きでこちらに向かって歩いて来ます。
「――んで、ドクター、何て?」
入り口前で立ち尽くす僕の眼前に仁王立ちをし、眉間にしわを寄せ、検査の結果を問うてきます。もう一度おのれに告ぐ。あれこれ考えるな。僕は医者から情報を一旦預かったに過ぎない。それを包み隠さず本人に伝えればよいのだ。あなたは末期の癌です。ただそう機械的に伝えればよい。彼女の命に係ることだ。余計な気遣いは無用。それが誠意というものだ。人の道というものだ。
「イボ痔だそうです」
おーーーい。
「手の施しようのないイボ痔だと、主治医は頭を抱えておられました」
嘘つき。そう、僕は嘘つき。そのうえクズ。ついでにカス。腐った童貞。いっそ僕が係長の代わりに死んでしまえばよいのだ。運命よ、なぜ係長なのだ。ここに生きる価値なき最新型の失敗作が存在するではないか。
「あそう」
係長は僕の嘘に、驚かず、喜ばず、安堵もせず、いつものように鉄仮面のごとき無表情を決め込み、白い不織布マスクの奥から、ただ小さくそう返事をしました。それから僕から目を転じ、病院を行き交う人々を無言で眺めます。世界は新型コロナウイルス禍。感染拡大防止の為に、往来する誰もが漏れなくマスクを装着しています。やがておもむろに係長が口を開きました。
「ねえ、あなた。あなたは、新型コロナウイルスは終息すると思う? 以前のような、外出制限もない、ソーシャルディスタンスもない、そしてこんな息苦しいマスクを日常的に装着しなくてよい毎日が、また戻ってくると思う?」
「それは難しいでしょうね。僕は、新型コロナウイスは、我々人類が更なる進化をする過程で不可避なパンデミックであると考えます。太古の昔、素っ裸で生活していた原始人が寒さや怪我から身を守る為に日常的に服を着るという進化を遂げたように、我々も感染力の強い病原から身を守る為に日常的にマスクをつけるという進化を迫られているのではないかと」
「現代人を原始人と一緒にしないでよ」
「数千年先の未来人から見れば、クロマニヨン人も我々も同じ原始人です。数万年先の未来人から見れば、現代人の苦難など『むかしむかし』から始まるただのおとぎ話です。――まあ、仮に万にひとつの確率でコロナが終息したとしても、我々の生活に何かしらの形でマスクの文化は根付くのではないかなあ。てか、僕としてはマスクをすることはそんなに嫌いではない。いや、正直結構好きかも。たかがマスクされどマスク。このしょぼくれた顔にひとたびマスクを装着すれば、本来の自分ではない別の自分が誕生する、不思議とそんな気がするのです。僕は係長とは違い、社会生活の中で素の自分を出せない気の小さな人間ですから」
「素の自分? 私にそんなものはない」
「は?」
「あなたにも、素顔なんて存在しない」
「どういうことですか?」
「上司の仮面、部下の仮面、男の仮面、女の仮面、正義の仮面、弱者の仮面、恫喝の仮面、慈悲の仮面、私たちはたくさんの仮面を付け替えながら日々生活をしている。自宅で一人になり全ての仮面を剥いだつもりでも、それはプライベートという仮面を装着したに過ぎない。私たちに覆い隠すべき自分なんて存在しないのよ」
「う~む、なるほど、斬新なお考えですね」
ちょ、何言ってるかよく分からない。
「あの、係長、退院早々何ですか、折り入ってお願いしたいことがありまして」
重大なことをすっかり忘れていた。チャンスは今しかない。気を取り直し、僕は、母の件を相談することに頭を切り替えました。
「お願い? なに?」
「え~と、ですね、実は~、ですね……」
言い出しにくい。でも頑張れ。自宅で母が首を吊って死んでいます。亡き骸を三日間放置しています。僕はどうすればよいのでしょうか。僕は警察に捕まってしまうのでしょうか。知恵を貸して下さい。力を貸して下さい。そう頭を下げるのだ。
「……あの~、ですね……」
「なに? 早く言って」
「……その~、ですね……」
「何なのさっきから、マジで気持ち悪い」
係長のこの悪態をきっかけに僕の中の何かが弾け、咄嗟に思わぬ言葉が飛び出しました。
「僕とセックスして下さい」
「は?」
やはり僕は気が触れてしまったのだな。自宅で母が首を吊って死んでいるのだ。そりゃあ気も動転しますよ。頭もおかしくなりますよ。
「これから一緒にホテルに行き、僕とセックスしてください」
腕を組み、首を傾げる係長。
「どうか僕を係長の数あるセックスフレンドの一員に加えてください」
大馬鹿者。いま辞書で大馬鹿者と調べたら、穴太晴夫と書いてあるに違いない。自分へ落胆の溜息が唾液で湿った布マスクを生ぬるく温めます。
「あなた、マスクから鼻が出ているわ」
気まずい空気を打ち破るように、係長は僕が布マスクを正しく装着していないことを軽やかに注意しました。僕の布マスクを指先で摘み、それを両耳に引っ掛けたゴムがめいっぱい伸びるまで引っ張ると――
「近頃は『マスク警察』と称する正しくマスクを着用しない人に対し攻撃的な注意をする連中が出回っているらしいから、うかつにマスクから鼻なんか出していると袋叩きにされちゃうわよ」
――と言ってパッと手を放しました。勢い良く縮む布マスクが僕の両目にぶち当たります。慌ててマスクをずらすと、係長は、僕に背を向け、タクシー乗り場に向かい歩き始めていました。
終わった。今度という今度はマジでジ・エンド。明日、辞表を提出しよう。もう係長の顔を正視出来ない。もうこの会社にはいられない。
その時でした――
「ほらー、何をボサっと突っ立てるいのよ」
十メートルほど先で立ち止まり振り返った係長が、僕においでおいでと手招きをしているではありませんか。丘の上に建つ総合病院の正面入口一帯に、係長の大声が反響します。
「タクシー取られちゃうじゃない。急いで。私と行くのでしょう、ホテル」
「ふえ?」
「早くいらっしゃい。私とセックスするのでしょう」