拾 余命宣告
翌朝。朝一番で九鬼係長に母の件を相談するつもりで出勤をしました。しかし、こんな時に限って係長は会社を休んだのです。支店長に「体調が優れないので病院へ行く」と連絡があったらしい。
翌日。今日こそは係長に相談出来ると出勤しましたが、またお休み。この日は会社に連絡すらなかった。いわゆる無断欠勤。心配です。いったい何があったのでしょう。そして困ったことです。今の支店に転勤してからというもの、僕は他の社員とは会話らしい会話をほとんどしていません。係長以外に母の件を相談出来る人がいないのです。
母の死から、三日目の朝を迎えました。目覚ましが鳴り、ベッドから起き――「おはよう」――空中を微動だにせず漂う母の死体に挨拶をします。家族が首を吊って死んでいるのを発見した場合、差し当たって何をどうするべきなのか、ちょっとマジでよく分からないので、とりあえず死体はそのままにしてあります。
発見当時、たまらない悪臭を放っていた母の糞尿はすっかり乾燥し、排泄物特有の臭いは随分収まったように感じます。その代わり、二日目から強烈な死臭が室内にはびこり、体のどこから流れ出ているのか不明なのですが、母の体液がボタボタと止めどなく滴り落ちて床を汚すのです。雑巾で拭いても拭いてもきりがない。これでは埒が明かないので、物置で見つけた大型の金タライで受けることにしました。
コン、カン、トン、母の体液が滴り落ちると、金タライが軽やかな金属音を奏でます。仮面に不織布マスクをしたかつて母だった物体。発見当時はその恐怖に気が触れる寸前でしたが、三日もすると、コン、カン、トン、この金属音ですら、これはこれで風情のあるものだと思えてくるから不思議です。あるいは僕は気が触れてしまったのでしょうか。
九鬼係長は本日も会社に出勤していませんでした。今日も母の件を相談できなかった。今日も一人ぼっちで仕事をしなくてはならない。係長の閉じたノートパソコンを見詰め、深い溜息をつき、途方に暮れます。
充電中の社用携帯電話を端子から抜き取る。おや、メールが届いている。わ、係長からだ。僕は、この会社に就職するまで携帯電話を持ったことがなく、メールの操作などはチンプンカンプンなのですが、あれこれといじくり回していたら、ラッキー、メールを開くことが出来ました。
『○○病院に来い。私はそこで入院をしている。本日退院の予定だ。メールを確認次第、大至急こちらへ向かい、私の主治医を訪ねろ』
なあんだ、係長は入院をしていたのか。さてと、上司が来いと言うのだから部下として行かねばなるまい。僕は、タクシーを飛ばし、住宅街から離れた丘の上に建つ巨大な病院に着きました。
総合受付で係長の病室を尋ねると――「新型コロナウイルスの感染予防対策として、患者との不要不急の面会は原則禁止です」――と告げられます。
「いや、あのね、帰れと言うなら帰りますけどね、恐らくとても重大な要件で呼ばれている気がするので、念の為主治医に確認をして頂けませんか」
――と受付の女性に詰め寄ると、しばらく待たされましたが、主治医に確認が取れたようで、係長のいる病棟を案内されました。
病棟の窓口で再度要件を伝えると、係長の病室ではなく、窓口の隣にある小部屋に案内されました。一見して診察室ではない。ドクターや看護師たちの休憩所でもない。小さな事務机にパソコンが一台置かれ、部屋の中央には会議机とパイプ椅子が数脚無造作に置かれている。その一脚に腰を掛け、室内をきょろきょろしていると、奥の扉から係長の主治医が現れました。
主治医は椅子に座るなり、手にしたボールペンをカチャカチャ鳴らし、せわしそうに話しました。主治医の言ったことを要約すると――患者に検査の結果を告知しようとしたのだが、本人が頑なにそれを拒否する。では近い身内のどなたかを呼んで下さいと頼んだが「私に身内などいない」の一点張りで話にならない。ところが昨晩突然「親しい知人なら呼べる。明日の朝ここへ来た者に私の病状を告げて欲しい」とおっしゃった。そして今朝、あなたがここへやって来た。――とのこと。
それでは、単刀直入に言います、と主治医は更に続けました。
「九鬼さんは大腸癌。段階はステージ4。末期です。発見が遅かった。完治することはない。余命は長く持って一年」
医者の冷たい言葉が、文字通り単刀となって真正面から僕の胸に刺さります。激しい血流音が鼓膜の内側に木霊している。その後も主治医が話を続けていますが、血流音がやかましく、内容が途切れ途切れにしか耳に入ってきません。
いやいや、冗談だろう。ふざけている。馬鹿げている。混乱する意識の中、係長と出会った日にコンビニのトイレで見た彼女の血便を思い出しました。最近事あるごとに、体調が優れない、と漏らしていたことを思い出しました。
――九鬼さんは、本日ひとまず退院――ちょうど今退院の手続き――九鬼さんの残された人生――悔い――辛い立場――あなたから――医者として――――望み――
時々指の上でボールペンを器用にクルリと回転させたりしながら、主治医は早口で僕に告げるべきことを告げると、軽く一礼してそそくさと退席しました。