壱 運命の人
『むかしむかし、あるところに、たいそう嘘つきな男がおりました』
「長らくご愛顧を頂きましたが、新型コロナウイルスによる経営不振の為、閉店致します」昭和レトロな喫茶店の扉に張られたビラの震えるマジックインキ文字。道端でウレタンマスクを一箱一万円で販売する中国人。社会的距離2メートルを確保して集団登校する小学生。感染拡大防止に伴う時差出勤の影響で閑散としたオフィス街。その一角にある無名の個人コンビニに脂汗を垂らして駆け込む僕。
トイレの個室の前で並んで順番を待つということが、とても苦手です。公園・病院・コンビニ等のトイレの個室に先に利用者が入っている場合、僕はくるりとUターンしてその場を去ります。さっさと諦めて、他のひと気のないトイレを探すのです。
だって個室の前に並んで待つということは、いずれ個室から出て来るどこかの誰かとすれ違わねばならず、個室に入ればそいつの残り香を嗅がねばならず、便座に座ればお尻にそいつの温もりを感じねばならず、つい先程まで脂汗をかいて気張っていたそいつの残像がチラつく空間で用を足す羽目になるのだから。うわあああ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。想像するだけで気分が悪くなる。
だから僕は外出中に便意を催すと、いつも前のめりになり、清潔で使用後十五分以上は経っていて便座がヒンヤリしている、そんなトイレを求めて周囲を徘徊します。あるいは時間を惜しまず一度自宅に戻り、使い慣れたトイレで用を済ませてから再度外出をするのです。
でも悲しいかな、そんな僕にも絶対不可避な便意は無慈悲に襲い掛かります。今朝もそうでした。新しい支店に配属された初日という緊張からか、重々しくそびえ立つ支店の前に立った途端、昨晩食べたニンニクラーメンが肛門へと急降下をしたので、慌てて場末の個人コンビニに飛び込み、使用中の個室の前に並んだのです。
洗浄音と共に個室から出て来たのはグレーのウレタンマスクをした肉体労働者。すると、入れ替わりで僕が個室に入ろうとした時、背後から白い不織布マスクをした女性が、強引に僕の前に割り込んでくるではないですか。
「すみません。私、今にも漏れそうです」
その女性は、恥ずかし気もなく自らの生理的欲求を宣言しました。あらかじめお伝えしておきます。この女性こそが僕の運命の人であり、この瞬間が僕たちのファーストコンタクトでした。
「え、いや、でも、あの、その」
頭皮からしたたり落ちた一筋の油汗が、僕が装着している内閣総理大臣から貰った布マスクに、いったん弾かれ、やがて吸い込まれて行きます。
「いわば緊急事態宣言です。ごめんあそばせ」
そう言うや否や、その女性は――いや、その女は――速やかに扉を閉め、中からカギをかけてしまいました。マジっすか。予期せぬ出来事に軽いパニックに陥ります。しかし混乱しながらも、レディーたるもの見ず知らずの中年オヤジに自分の排泄音を聞かれるのは嫌であろう気を利かせ、いったん手洗い器や使用禁止のハンドドライヤーのあるスペースから脱出します。
ななな、何だちゅーの、あの女。て言うか、コンビニのトイレとはいえ今時男女兼用トイレって有りかよ。とは言え、こうなってしまった以上大人しく順番を待つより他は無し。僕は込み上げる便意と怒りを必死で抑え、成人雑誌が置いてあるラックの前で女が出てくるのを待ちました。
一分経過。二分経過。
不規則に襲う激しい陣痛。
三分経過。
いやいやいや、長くないっすか? 次の人が待っているのだからさ、そこはやっぱり空気を読んでさ、三割残しで出てくるってのが人情じゃないっすか。
五分経過。
あの~、もう限界なんですけど~。
八分経過。
てめーの家かバカヤロー。
十分経過。
表札掲げとけコンチクショ―。
これはいかん。いかんですよ。いくらなんでも長すぎる。さすがに何かがおかしい。絶対に何かが間違っている。オマイガッ。もうダメ。成人雑誌の前でしゃがみ込み、いよいよ諦めと言う名のコサックダンスを舞おうと決意した時、用を済ませた割り込み女が平然と個室から出てきました。
解放しかけた肛門をギュギュっと締め、乱暴に女を払い除けて個室に入りました。すると、ななな何ということでしょう。洋風大便器の大陸棚に、先程の割り込み女の便がこびりついているではありませんか。しかもよく見るとほんのり赤い。あら、嫌だ、血便? これって、次の人が見たら絶対に僕の仕業だと思うよね? まったくもう。勘弁してくれ。こちとら今にも漏れそうなのに。まったくもう。
割り込み女の痕跡を消すため、立ち小便スタイルで的を定め、便を尿で高圧洗浄してみる。よっしゃー。着々と便が溶けて行く。しかし悲しいかな完全に溶けきる前に水源が枯渇してしまう。備え付けの便所ブラシや洗浄ガンがあればよいのだが。残念。何もない。致し方ない。残りはトイレットペーパーで拭き取ろう。ジーザス。何なの状況。泣きっ面ですわ。
店外へ出ると、先程の割り込み女が、こちらの苦境など素知らぬ顔で、スマホでのべつ話している。
「支店長。○○社との案件、今日には契約に持ち込めそうです。難攻しましたが、前向きに頑張った甲斐がありました」
女よ。仕事に前向きなのは良いことであるが、トイレで用を足した時ぐらい後ろを振り返ってみても損はないと思うぞ。背中に向かい心中でそう吐き捨てます。会話を終えた女がスマホを切る。切った途端にすぐに着信音が鳴る。ふん。忙しい女だ。
「はい、氷川物産の九鬼です」
ひ、氷川物産の九鬼。女の口から出た社名と名前を聞いて仰天しました。その女性は、2020年6月1日、本日より配属された支店で、僕の上司になると聞いていた人物だったのです。