1組目
「と、富江……」
「あなた……」
部屋に入った弘は絶望した。
なぜなら、部屋の中にいたのが、自身の妻だったからだ。
妻である富江もまた、まさか自分の夫が部屋に入ってくるとは思っていなかったのだろう、驚愕の表情を浮かべている。
「なんで、お前が……!?」
「それはこっちのセリフよ! ああ、どうして、どうしてなの……」
富江は涙をこらえることができなかった。
感動ゆえではない。
不条理な偶然への、絶望ゆえに。
いや、それが偶然であるかどうかも定かではない。
もしかすると運営側による意図的なものなのかもしれない。
冷静に考えて、日本人口1.2億人から二人を無作為に抽出したとして、その二人が夫婦である確率なんて零に等しいようなものだ。
ありえるはずもない。
今風に言うのなら微レ存というやつか。
この部屋で相対するのはきっと、名前も顔も知らない赤の他人なのだろうと。
弘も富江も、当たり前のように、そう思っていた。
だが実際、今同じ部屋にいるのは、長年連れ添ってきた愛を誓った相手である。
……意図的だとすれば趣味が悪すぎる、偶然だとすれば天を呪ってやりたい。
弘は茫然自失に立っていたが、いつまでもそうしていられるわけでは無い。
審査員に促されて、弘は内心の動揺も落ち着かぬままに富江の対面のパイプ椅子に座る。
仮面を付けた審査員が、くぐもった声で喋り始める。
「お二方、揃いましたね。では既にご存知かと思いますが、改めてルール説明を行います。これからお二方にはじゃんけんをしていただきます。出せる手はグー、チョキ、パーの3つのみ。グーはチョキに勝ち、パーはチョキに負け、チョキはグーには勝てません。あいこの場合はやり直し、最終的には必ず勝敗を決めていただきます。勝敗は審査員が記録し、またじゃんけんが勝負の体を成していないと判断した場合は記録を中断する場合があります。勝敗を決める前の話し合いはご自由にどうぞ」
言いたいだけ言うと、黒い仮面を付けた審査員は黙り込んでしまった。
室内に、沈黙が落ちる。
ひしひしとひたすらに辛い沈黙だった。
富江の喉の奥から時折うめき声のような小さな音が鳴る。
彼女の頬はとっくに涙で濡れて、せっかくの化粧も崩れてしまっている。
泣いていて口も聞けないらしい富江と対照的に、弘はまた違った意味で物静かだった。
冷静という訳では無い。
衝撃で言葉を失う、が一番近い形容かもしれないが、衝撃以外にも、怒りやら、恐怖やら、または諦めとか失望とか、そういうのがいっぺんに押し寄せて何を言えば良いのかも分からなくなってしまった。
弘の頭の中は、混沌とした感情の渦に振り回されて、きっと今の弘は馬鹿みたいな表情をしているのだろうな、なんて、不自然に冷静な部分が余計なことを考える。
「……」
思えば長い夫婦生活だった。
今、弘は49歳、富江は5つ下だから44のはずだ。
出会ったのは今から30年近くも前の東京都。
スタートアップ企業の新入社員としてこれからの期待に胸を膨らませて働いていた弘と、取引先のOLだった富江は、最初、ただの仕事の相手としてやり取りしていた。
弘の勤めていた会社は発足したばかりの中小企業で、従業員も社長含めて15人もいなかったし、稼げる金額だって平均よりは低かったと思う。
でも当時は、年収だとかステータスがどうとかよりも、ただ会社が少しずつ大きくなっていくのを見るのが楽しみで、やりがいが感じられたから、そのために粉骨砕身して会社のために働いた。
やっすい残業代だって気にせずに毎日のように会社に残って仕事を進めて、時には上司とぶつかりあって、契約内容を巡って殴り合いの喧嘩にまでなったこともある。
飲みの席で社員仲間と語らった夢のような構想を企画書に書き起こして、それが実現できる日を楽しみにデスクの奥にしまい込んだりだとか、そんなこともした。
若かったんだと思う。
自分に秘められた可能性を信じて、ひたすらに突き進んだ。
若さが通用する二十代を、ひたすらにその会社で費やした。
富江は、そんな弘に恋をしたのだという。
告白は富江からだった。
以前から何度か取引のあった大企業の、その受付嬢から連絡があったときには何か重大なミスをしてしまったんじゃないかと心臓が早鐘のように鳴ったもんだが、メールの内容を見てみればまた別の意味で心臓が高鳴った。
メールでのやり取りを何度も続けて、取引のためにその企業を尋ねると、受付のところに文通相手がいて、そっと誰にも気付かれぬように手を振ってくれた。
弘はもう嬉しくて嬉しくてその日のプレゼンで取引先のお偉方に喋りすぎてしまい、別口の契約さえもぎ取ってこれた。
弘が勤めていたのは小さな会社だから、そんな弘の変化が気付かれないわけもなく、すぐに弘が富江とやり取りしていることが知れ渡った。
別に無理に隠そうとしていた訳では無いが、おちゃめな社長に茶化されると、『やめてくださいよー』などと言いつつも上がった口角はなかなか下がらなかった。
幾度かの逢瀬の末、弘は富江に交際を申し込んだ。
「待たせてごめん。どうか、僕と付き合ってください」
「……もう、本当に遅いんだから」
ほのかに赤面する富江の笑顔は、他の誰よりも魅力的だった。
「…………」
トントン拍子に話は進み、同棲から1年半ほどで籍を入れた。
ローンを組んで、郊外の一軒家に家を立てた。
その頃には弘が勤める会社もそれなりに大きくなっており、設立当初からいるメンバーの一人である弘は社内で部下に指示を出す地位を得ていた。
幸い弘は当時の世間からしてもだいぶ家庭的な男だったと自負しているので、家庭内の不和というのは少なかったと思う。
富江は専業主婦になって毎日弘に弁当を作り、落ち着かないからと暇があればパートのシフトを入れた。
幸せな結婚生活だった。
それからもう、30年。
年号も変わり、自宅の周りには住宅がたけのこのように立ち始め、平均気温は2℃程上昇した。
フサフサだった弘の頭に向かってデコという不毛地帯が広くなり、富江の顔にもシワが目立っている。
一人息子は大手企業から内定をもらい、来年4月から東京のオフィスでスーツを着こなすのだと、この間嬉しそうに電話をしてくれた。
スタートアップだった企業は今や従業員400人を超え、順調に成長を続けている。
年を取った弘の仕事は減り、弘のお得意先との顔合わせや契約更新くらいで、後はもう数年後に差し迫った定年を待つだけだった。
それを見越した仕事の引き継ぎも進めている。
充足した日々だった。
これ以上にないくらい、理想的で良い、楽しい人生だった。
「……勝敗を決めるまで部屋の出入りはできませんが、時間制限はありません。心ゆくまでお話ください」
餓死するまでには決めろということか。
審査員の言葉をひねくれて受け取って、弘は思い出の世界から帰ってきた。
最近太くなってきた左腕のロレックスを見る。
入室から十分程度しか経っていない。
餓死するまで、まだ時間はある。
「……富江」
「……な、何。グスッ」
涙ぐむ富江に、声が震えないように気をつけながら、告げる。
「俺はグーを出す。分かるな? お前はパーを出せ」
「そ、そ、そんな、こと、できないわっ……! だって、だって……!」
「いい。こうなった以上、死ぬ覚悟はできている。その場に居合わせるのが、富江か、それ以外かってだけだ」
「でも、あなた、まだ孫の顔さえ見てないじゃない、早すぎるわ……!」
「……それはお前も同じだろ」
富江の言葉に、少し笑ってしまう。
つられて、富江も泣きながら引きつった笑いを漏らす。
精神状態も少し持ち直したらしい。
ハンカチで目元を乱暴に拭うと、ようやく彼女は顔を上げた。
「あなた。弘さん。私だって、今日という日を、この場を、きちんと受け入れているわ。死に装束だって着てきたし、厚化粧もバッチリよ。閻魔様に恥ずかしいところは見せられないから」
「やめろ、縁起の悪い。それに化粧は相当落ちてるぞ」
「あら、ほんと。後でお直ししなくちゃ」
それくらいの時間はあるわよね?
そう審査員に尋ねると、「お望みならば、三十分くらいは」と帰ってきた。
案外時間にはルーズらしい。
「でも、もうちょっとお話しましょ。結果をどうするにせよ……もう、ちょっとだけ」
彼女の声はもう震えていない。
弘を見る目に涙はあれど、同時に強い意志の光が宿っている。
弘はまだ、呆然とした感じが抜けていないというのに。
強いひとだ。
弘は、そんなところに惚れたのだ。
「……出会ったときのこと、覚えてるか」
「勿論よ。大雪の日だったわよね。弘さんの髪の毛に白い雪がいっぱいくっついてたわ」
「今は白髪で白いがね……いや、そっちじゃないな。初めて会ったのは秋口だよ。緊張しすぎて、富江の前でファイルをバラバラにこぼしてな」
「ああ、思い出したわ……あの頃は可愛い好青年だったのにねぇ。今は一人称も『俺』になっちゃったし」
「中年でも青年でも俺は俺さ。富江はなかなか変わらないな。一人称も『私』のままだ」
「ふふ、まあ若作りは怠っていないもの。おしゃれだって、最近のトレンドを意識してるわ」
「白よりは緑とかのほうが似合ってると思うがね。生命の緑だ。新緑の緑」
「冗談も上手になって……いえ、それは昔から変わらないわね」
「変わったものもある。特に頭皮は変化が著しいと自分でも思うよ。使っているシャンプーは同じのはずなんだがなぁ」サスサス
「馬油ね。あれはあなたの社長さんからおすすめされて買ったのよ」
「社長が?」
「ええ。覚えてないかしら?」
他愛のない話をする。
こんなに話したのはいつぶりだろうか。
最近はそうでもないが、いそがしかった頃は夕食は二人の時間が合わないことも多く、同じ食卓を囲むことは少なかった。
歳を取るにつれて家の中で感情表現の言葉を交わすこともそうそうなくなっていく。
口にしないだけで互いに愛情はあったし、感じ取っていたとはおもう。
でも、こうして妻と喋るということが、どんなに楽しいことか、長らく忘れていたのも事実だ。
「あの子が十歳のときだったかしらねぇ、近所の子と大喧嘩して泣きながら帰ってきたのは」
「ああ、あったな。佐藤さんのお宅の子だったかな?」
「そうそう。優しい子だから、泣かせてくるし本人も泣いてるしで、まさかそんなこと、ってビックリしたわ」
「喧嘩できるほど、ってやつだろう。今はたしか、〇〇大学に通ってるとか言ったか」
「あら、結構いいトコね」
「そうだな。まあ△△大学ほどじゃ無いが」
「あなた……相変わらず親バカなんだから。ウチのコが優秀なのは事実ですけどね」
「お前も大概親ばかじゃないか」
新婚のように喋った。
昔を振り返っては語らい合った。
一つ一つ記憶の欠片を掘り起こし、共有して笑いあった。
この後の勝負のことなんか忘れて、ただ、久しぶりの夫婦団らんに興じた。
もう、陰鬱な雰囲気は消えていた。
一時の雑談を楽しんだ。
……こんなことなら、もっと普段から話していれば良かった。
もっとたくさんのことを伝えたかった。
足りない。
いまから餓死するまでの、数時間、数十時間、数日だけじゃ、何も。
何も、全ては伝えられない。
弘が富江をどんなに愛しているか、どんなに感謝しているか、どんなに想っているか。
言葉にしようとすればきっと、要点をまとめるのに優に数日はかかるだろう。
そして話すのは一瞬だ。
三十年は、数字だけ見れば長いようで、振り返ってみれば驚くほど短い。
どんなに語り尽くしても尽きないように思えて、しかし、思い浸るには欠けていることが沢山ある。
「……俺は、良い夫だったか?」
どうしても気になって、富江に尋ねてみる。
先程まで魚介類の値上がりについて議論を交わしていたため、急な会話の変化に富江は目を丸くした。
「最近はよく言うだろ、モラハラとか、DVとか、なんだかんだと。俺達が指輪をはめたのもかれこれ三十年前だ。当時の価値観が今では悪しきものと思われてたりもする。俺に、ずっと言えなかった不満があったりするんじゃないか? 俺の気に食わないところとか、あるんじゃないか?」
富江は少しの間キョトンとした顔を見せた後、笑い出した。
「ふ、ふふ、あなた、変なことを聞くのね。そんなもの、あるに決まってるでしょ」
「そうか……え、あるに決まってるのか?」
「そりゃそうよ。逆に聞くけど、あなたは無かったの? 三十年よ。こんなに長い間一緒に暮らしてきて、私にイラッと来たことは一度や二度じゃ無いでしょ」
「ううむ……」
確かに、ちょっとしたことで衝突したり、意見が食い違ったりといった記憶はいくつもある。
ゴミ袋交換とゴミ出しは弘の仕事だが、燃えるゴミ袋にプラスチック片が混ざっていることなどよくあることだ。
長男の出産直後は特に、富江も弘も育児疲れのストレスから文句を言ったりケチを付けたり、理不尽なことで起こったり、そしてそれに反発して罵り合ったりと散々だった。
だがそれも、三十年という長い年月の一幕だ。
不満と言うには古い思い出だし、些細なことだ。
「あのね。人間、家族といえど他人を完全に思いやれるほど完璧じゃないのよ。でもその中で歩み寄って、分かり合おうとするその姿勢こそが、いい夫婦の条件ってやつじゃないのかしら」
「……いつもハーブ系のアルマオイルを炊いてくれてたのは、その歩み寄りってやつか? 俺がハーブ好きだから?」
「それはゴキブリ対策よ」
「それはゴキブリ対策か」
「……私の所見だと、あなたは良い夫だしいい父親だったと思うわ。食べ始める前におかずをつまみ食いするのは勘弁してほしかったし、何度言っても便器の蓋は開けっ放しだったけど」
「それは……すまん」
「だけど、そんなもんよ。むしろ違う人間が一緒に暮らして、その程度しか不満が無いのよ。私たち、かなり相性いいと思うわよ」
「……そうか」
弘は深く息を吐いた。
安堵とも言えない、疲れでもない、そんな感情を吐き出した。
「……ねえ、あなた。やっぱり勝ちは受け取れないわ」
「……俺一人じゃ、生きていける気がしない。お前は一人でも生活できるだろう」
「あなただって、結婚前は一人暮らししていたでしょう」
「あの家は、一人で暮らすには広すぎる」
「それは私も同じよ。あなたがいない生活なんて、考えられないわ。あなたがいなくなったら、私は誰のごはんを作ればいいのよ」
「誰かしら再婚相手を見つけてくれ。老後の資金も貯めてある。通帳は、分かってると思うが、寝室の窓の近くの棚の一番上の段だ」
「ねえ」
富江は語気を強めて言った。
「……私だって、あなたには死んでほしくないのよ。何年一緒に暮らしたと思ってるの」
「30年には届かないくらいか」
「そうよ。だから、そうなのよ。分かるでしょ。私だってあなたのことを愛してるのよ」
押し問答の気配を感じて、弘はまた、ため息を付いた。
弘はもう、十分生きた。
人生百年時代とはよく言うが、百年も五十年もそう変わりはしない。
やりたいことは精一杯、あの会社でやりきった。
人間としての役目は果たせただろう。
凡庸に生きてきた学生時代も。
猪突猛進だった新社会人の時も。
老いを感じた三十代も。
家が軋むようになってきた最近も。
後悔しないように生きてきた。
だから、十分だ。
ここで生き残ってしまうのは、弘の心が許さない。
富江を見殺しにのうのうと生きていくことなんて、できるはずがない。
……未練が無いと言えば嘘になる。
弘だって死への恐怖はあるし、孫の顔を見れていない。
息子の安否だって確認できていない。
死にたくないと思うのは生物として当然の感情だ。
死を目前にすれば震えてしまう自信がある。
だから。
富江には、そんな思いをさせたくない。
彼女を死地に向かわせるわけにはいかない。
弘の死が富江を傷つけることになったとしても、それでも、生きていて欲しい。
人生百年。
後五十年も残っているのだ。
富江が今死ぬには、早すぎる。
「じゃんけんしましょう。普通に、八百長はなしで。どっちが勝っても後悔はするでしょうけど、それでも、見殺しにしたり、されたりするよりはマシよ」
「……しかし、」
「あなたがどうしてもグーを出したいのなら、私はチョキを出すわ」
「……最後の亭主関白も、聞いてくれないのか」
「似合わないわよ、そんなもの」
富江はまた、少し笑った。
涙はとっくに乾いていた。
「お二方。六時です」
仮面の審査員が言う。
早くしろということか。
時計を見れば確かに18時。
入室してから、一時間も経っていた。
「富江。俺は適当な手を出す。お前も、適当にしろ」
「分かったわ」
ずっと組んでいた両腕を解いて、拳を前に突き出す。
富江も同じように、細い腕を前に出した。
じゃんけんの音頭は弘がとった。
「最初はグー、じゃんけん、ぽん」
あいこにはならなかった。
一手で決まった。
富江が出したのはパー。
弘が出したのは、グーだった。
「お疲れ様です。勝者は中田富江様。敗者は中田弘様となりました。では富江様はご退室ください」
富江は、目を伏せて、パイプ椅子から立ち上がった。
弘は机の上の一点を見つめて、富江の顔は見なかった。
「富江」
弘は、扉を空けかけた富江に声をかけた。
その声は、少し震えていたかもしれない。
「リップを貸してくれ。閻魔様に会うのに、俺は化粧の一つもしてないんだ」