その言葉を、言えなくて
空を見上げると、雪がしんしんと降りしきる。
地面には真っ白な絨毯。そこら中のものが白い笠を被り、アイシングクッキーを思い浮かべてしまった。
滅多に訪れる事の無い規模の寒波に大人たちは文句を言うけれど、俺のテンションは上がりきっていた。
学校から帰って、下校路に足跡を刻んでいく。
ふわふわの雪が圧縮される、ギュッとした音が堪らなかった。
家に帰っても、考えるのは雪の事ばかり。
明日には解けて無くなっているかもしれない。
そう思うと居ても立っても居られなくて、気付いた時には自転車で飛び出していた。
真っ直ぐ引かれた線。グネグネと曲がる線。前輪と後輪を交差させて描いた×印。
自転車で描いていく轍は、俺の心を揺さぶった。
縄張りを主張するかのように、公園の中に円を描いていく。
今日一日。いや、雪が解けて境界線が消えるまでは俺のものだ。
秘密基地とは違う、隠す必要はない。ここが俺の国なんだ。
国に自分の存在を刻み込もうと、仰向けに倒れ込む。
起き上がった時に、大の字になった人型を見るのが楽しみだ。
「楽しそうだね」
そんな俺の領土に、侵入者が現れた。
ふわりとした、柔らかそうな髪をマフラーにくるんでいる。女の子だった。
トナカイのように鼻を真っ赤にした少女の手には、リボンで包まれた箱があった。
突如現れた招かれざる客の言い分はこうだった。
ずっと好きだった男の子がいて、バレンタインデーである今日、勇気を出して告白しようとしたらしい。
そのために一生懸命、チョコも作った。可愛く見えるようにラッピングも頑張った。
でも、渡せなかった。
男の子には、既に彼女が居たらしい。幸せそうな二人を見て、自分が割って入る事が出来ないと思ったらしい。
宙ぶらりんとなったチョコを持って歩いていると、雪ではしゃぐ俺を見つけたというらしい。
あまりにも楽しそうで、その元気を分けて欲しいという事で俺の領土へ侵入を試みたとの事だ。
はっきり言うと、俺はよく判らなかった。
女の子は中学一年生らしい。俺より三歳も年上だ。
何なら告白のくだりより、中学生って自分でチョコ作れるんだと尊敬していた。
小学生でも作る子がいると知ったのは、数年後の事だった。
「そうなんだ。ねえちゃん、かわいいのにね」
振り返ると、この時の俺は何気なしにその言葉を言っていたと思う。
ただ、可愛いのに告白も出来なかったのはもったいないな。ぐらいのニュアンスで言った気がする。
「そ、そうかな。キミ、子供のくせにませてるね」
ませているかどうかは判らない。
でも、彼女は気を良くしたようで箱のリボンを解き始めた。
「これ、もうあげる人いなくなっちゃったから。一緒に食べない?」
「ほんと? やった!」
初めて会ったのに、お菓子をくれるなんていい人だ。
非常に単純な思考で俺は真っ黒なチョコをつかみ、口へと運んだ。
初めて食べた手作りチョコは、物凄く苦かった。
「にがっ!」
「好きな子が、よくコーヒー飲んでたから。苦い方がいいのかなって」
そう言って、彼女もチョコをひとつ口へ運んだ。
「……これは苦いね」
失敗したかのように舌をペロっと出して、彼女ははにかんだ。
溶けたチョコの黒が、うっすらと舌に残っていた。
「俺はもっと甘い方がいいかなあ」
「そうだね、やっぱりチョコは甘い方がいいよね」
そう言いながらも俺達は、雪の降りしきる公園で苦いチョコを二人で食べていた。
……*
翌年。
俺は小学五年生。彼女は中学二年生。
「今年もチョコ、食べる?」
どうやらまた告白できなかったらしい。雪の降らないベンチで、俺達はチョコを食べた。
今年のチョコは甘くなっている。どうやら、新しい恋を見つけているようだった。
小学六年生と中学三年生になっても、彼女は告白できなかったらしい。
推薦で高校合格を決めたからと、気合の入ったチョコを作っているのに勿体ない。
中学一年生と高校一年生になっても、やっぱりチョコを一緒に食べた。
毎年、料理の腕が上がっていると実感する。玉砕覚悟で渡せばいいのにとさえ思う。
中学二年生と高校二年生でも、俺達はチョコを一緒に食べた。
この時には、俺の背が彼女を追い越していた。上から見る彼女は新鮮で、可愛らしくて、どこか儚く見えた。
はにかみながら「私ってヘタレだよね」と言いながら、一緒に食べたチョコはやっぱり甘くておいしかった。
中学三年生になって、俺は高校の推薦入学を決めていた。
野球の強豪校で、東京にある。この街にいるのも、僅かな期間を残すのみだった。
今年のバレンタインデーは、四年ぶりの寒波があの時と同じ銀世界を生み出していた。
毎年、約束していた訳ではないが俺達は自然とあの公園で会っていた。
でも、今年で最後だ。
来年から、俺は東京にいる。もう、彼女には会えない。
だから今年のチョコは違う。よく味わって、それをずっと忘れてはなるものか。
小学生の時のように、食べさせてもらって文句を言うなんてもってのほかだ。
「今年は、自分の国を作らないの?」
公園に行くと、やはり彼女が居た。
「もうそんな子供でも無くなったからね」
高校三年生になった彼女は、あの時と同じようにやわらかそうな髪をマフラーにくるんでいる。
赤いマフラーと、紺色の制服が良く似合う。自分より大人びていて、でも可愛いという表現が似合うお姉さんになっていた。
でも、彼女はその手にチョコを持っていなかった。
まさか、告白をしたのだろうか。そう思うと、「おめでとう」より「寂しい」が先に来た。
「もしかしてずっと待ってた? 寒かったよね?」
俺は彼女に駆け寄る。初めて逢った時と同じように、彼女は鼻を赤くしていた。
彼女は小さく首を振り、消え入るようなか細い声で言った。
「ごめん。今年は、チョコ一緒に食べられない」
「いいよいいよ。告白できたって事だよね? 結果は?」
彼女は首を振った。
「告白は……まだ、出来てない」
「え?」
ああ、だとすれば今年はチョコを作らなかったのだろうか。
大学受験もあるし、大変なんだろう。
そう思いつつも、少しホッとした事に自分の器の小ささを感じてしまう。
「えと、それで……」
彼女は鞄をガサガサと漁り、小さな箱を取り出した。
リボンで包まれた、小さな箱だった。
「キミの事が……好き、です。
だから、その……。これはひとりで食べて欲しい……かな」
目を逸らしながら、耳まで真っ赤にして差し出された手。
その先には、小さな箱。
でも、俺も同じだった。
耳まで真っ赤に染めながら、俺はその箱を受け取った。
ベンチの上で、俺だけがチョコを食べる。
甘くて美味しい、俺の好きなチョコの味だった。
「その、私。春から東京に行くから。
それで、離れ離れになる前にどうしても告白しないといけないって思って……」
「え?」
「東京の大学へ行くことにしたの。
そうでもならないと、告白する勇気がないって本当にヘタレだよね」
はにかむ彼女に対して、俺はきょとんとしていた。
彼女が東京の大学に行く事ではない。
「俺も、春から東京。その、高校の推薦で」
「え?」
今度は彼女がきょとんとする。
無理もない。俺も進路なんて言った事はないし、彼女も言った事がない。
少しの沈黙の後、俺達は笑い合っていた。
お互いの頭が、肩が、膝が雪で白くなっている。だけど、寒いとは感じなかった。
「不思議だね。でも、嬉しいや」
安心をしたのか、彼女は慣れた手つきで俺のチョコに手を伸ばした。
雪化粧されたチョコが、彼女の舌を黒く染めていた。