最果ての緋花
イルノグゼネカは創造主の名であり、この惑星でもあった。
伊月は地球から転移してここにやってきた。
俺のいた世界…地球。
いや…
伊月は頭の中の考えを否定するように、首を横に振る。
地球が『世界』という発想は魔王との決戦がそうさせているのであろう。一人の人にとっての世界とはもっと小さいものなんだ。
俺のいた世界は…ガッコー、家、ゲーム。それだけ。
今いる世界はというと…
———イルノグゼネカ———
青い閃光が走り、漆黒の魔王城が崩壊する。
人、エルフ、獣など様々な生命体の存亡をかけた戦いはクライマックスを迎えていた。
大迫力のシーンを伊月は無音で目の当たりにしている。
伊月はこの光景を最も遠い距離から眺めていた。
大聖堂の塔の天辺にある巨大で大きな鐘の下に伊月は立っていた。
魔王城は伊月のいる大聖堂に対して惑星の真裏に位置している。
伊月は対魔王最終兵器である。
最終兵器の存在を魔王に悟られぬよう、最大限の距離を保つ必要があったのだ。
イルグノゼネカの恩恵を余すことなく享受している伊月は計り知れない法力を駆使し、空間を捻じ曲げ、ひとつの装置を作り出した。
その見えない装置を法力学者達は「神の目」と呼んでいた。
魔法により空間の密度を圧縮形成し、目に見えぬ超大型レンズを幾重にも伊月の前方に連ねている。
そのレンズから魔王城10km手前までの、光の速度でもコンマ1秒かかるであろう途方もない距離に、亜空間のチューブを引いた。そのチューブ内では重力場を極端なものとし光をも直進せず惑星の球面を沿うように弧を描く。
これで異常な距離と水平線問題を解決し、魔王を垣間見ることができる。
魔王討伐作戦は要するに暗殺だ。
伊月はスナイパーとなるのである。
この作戦が伊月の『世界』のスケールを惑星規模にまで拡大させる要因であった。
世界は計り知れないほど大きな球体なのである。
それは概念としてはもちろん分かっていた。
しかし、それまではしみじみとそれを感じるまでには至らなかった。
伊月の偉業は誰にもなし得ないものであった。
チートにはチートで挑む。
この言葉が頭をよぎった。
伊月はこの作戦を考案した時、アイラスにそう言って見せた。
アイラスは伊月がこの世界に転移して間もなく出会った仲間。
当初、盗賊だったアイラスは、5年の歳月を経て勇者の看板を背負い込む存在となっていた。
しかし、その姿は勇者の肩書きには相応しくないほどの可憐なものであった。
アイラスの剣舞は年を経て鋭く美しくなり、伊月を含めた大勢を魅了し、数々の討伐実績を残した。
アイラスは今、魔王城で盛大に青い閃光をぶっ放している。
魔王に伊月の法力を貫かせるべく、隙を作るためにである。
魔王はこの世界を滅ぼす存在であった。
世界という概念は個々の認識に差がある。
魔王が滅ぼそうとしている世界とはイルノグゼネカのことである。
イルノグゼネカは魔王を創造してはいない。
イルノグゼネカと魔王は互いの存在に対し、根源的拒絶感を抱いているのであろうか。このことに関しては実に抽象的であり人々の想像でしかないのだが、これが確執の本質部分であろう。
崩壊した城から盛大にあがる塵の煙を一掃するように、青い衝撃波が三度広がる。
見えた!
伊月は目を見張る。
あれが魔王…
すぐにわかった。
漆黒の鎧に杖とも槍とも思えるような歪な棒を両手で操る様は優雅であり、ラスボスに相応しい様相であった。
対峙するアイラスは純白の髪をなびかせ目にも止まらぬ速さで魔王の隙に潜り込み剣を振るう。
アイラスとの比較からすると魔王の背丈は4メートル。
アイラスの剣がヒットすると同時に漆黒の鎧から火花が散る。
火花…?
伊月は目を細め観察する。
宙を舞う火花は消滅せず、大きく膨らみ炎の色をした歪な球体となっていた。
アイラスの顔ほどの大きさの球体が二人の戦いの場に連なる。
伊月はレンズの調整をし、宙に浮いた一つの球体を拡大する。
薔薇?
炎の色を成した球体は蕾であった。
それは宙に浮いているわけではなかった。
茎が繋がっており、鋭い棘も見て取れた。
蕾は目に見える早さで開きはじめ開花した。
戦いの場は薔薇で埋め尽くされ始めている。
魔王の動きに合わせ、鎧の隙間から伸びている茎で繋がった薔薇が大きく揺らめく。
魔王城のあった空間が赤く染る。
伊月は震えていた。
魔王…薔薇…意味がわからない。
薔薇は可憐でアイラスに似合うものである。しかし、その出どころは漆黒の魔王である。不気味さと違和感の入り混じった巨大な蕾が次々とひらいてゆく。
アイリスが心配であった。
俺はもとよりなぜアイリスが世界の平穏を取り戻すべく危険に身を投じなければならないのだ。アイリスは強い。しかし、女の子なんだ。世界を担うには重すぎる。
伊月は無意識に両手の指を互いに絡ませて、祈りの形をとっていることに気付いた。
青い稲妻が薔薇のドームに落ち、それと同時にドームの内部から密集した薔薇の合間を抜け青い閃光が漏れる。
赤が内に秘めた青に押し出され膨張してゆく。
大きな赤とも橙ともつかぬ巨大な花びらが宙を舞う。
舞い踊る花びらのベールが四方に広がり薄まると、視界が開け純白の女神と漆黒の魔王の姿が垣間見えた。
魔王は幾重にも連なる蔓に持ち上げられ宙を舞い、アイラスは空間を漂うその太い蔓を足掛かりに、森の獣のような俊敏さで魔王に詰め寄る。
アイラスは剣を大振りすると同時に片手を挙げる。
伊月はそれを合図と判断して、手で目の前の空に印をしるす。
アイラスの剣はその動線に沿った形の青い真空刃となって魔王の顔面へ向かう。
伊月の印は魔王の方向に面を向けた魔法陣となり分裂増殖してゆく。
魔王の顔面の装甲が砕け飛び散る。
牙が見え、緋が走ったような眼光が見えた。
伊月は眼前の魔法陣に法力を圧縮する。
魔王の首がこちらを向く。
まさか…
気付かれた?
そんなはずはと思いたいが、燃える瞳は伊月を捉えているような気がしてならない。
そんなことはどうでもいい!
伊月に…いや、世界に悠長なことを考える暇は与えられていなかった。
伊月は法力を解放した。
轟音と共に景色が揺れ透明なチューブの輪郭をあらわにする。
伊月の放った法力は火、水、風、土のどれでもなく、もっと根源的なものであった。色もないその波動をぎゅと束ね、細く強靭なレーザーに仕上げる。
光と同じ速度と思われるその波動が魔王の顔面を直撃するまでの刹那が伊月にとっては長いものに感じた。実際、魔王の破壊された装甲はゆっくりと宙を舞っている。
集中の極限を迎えた伊月はゾーンに突入していた。
レンズを膨らまし、ズームアップされた魔王の顔は表情さえ見て取れるようであった。
いや…
その表情からは何も見抜けなかった。
その目は確かに伊月を捉えている。
しかし、伊月の存在に驚いてもいない。
焦りも感じない。
ただ伊月を確認しただけであった。
たとえ射抜かれ、滅するとしてもただ消えるだけである。
そこには、恐怖も怒りも存在しない。
滅するとはそういうことであり、それが決まった時点で回避するに努める必要性は皆無である…
伊月は目を瞬く。
伊月の思考はいつの間にか聞いたこともない魔王の声を設定し、実際に相手が言葉を綴ったかのように語りかけてきた。
頭の中を走る身勝手な妄想を追いやる。
思考を今見えている現実に同期する。
魔王の首から上が消えていた。
そして、魔王の全身が膨張している。
鎧の隙間から薔薇が強引に咲き乱れる。
首からは何かがものすごい勢いで放出されている。
茎だ!
茎は枝分かれし、薔薇を咲かせる。
伊月のレンズ越しの景色全体が真っ赤になる。
「アイラス!」
伊月が叫ぶ。
大聖堂が大きく揺れる。
地震…
頭上の鐘が響く。
伊月は耐えきれず耳を押さえると、「神の目」は解除された。
鐘の音に混じり、今まで聞いたこともないような低音でなめらな音楽とも叫びとも感じる音が、耳だけでなく身体を伝え感じる。
空が暗くなる。
見上げると逆光で黒に見える赤い薔薇が落下してくる月のように視界を占領してくる。あまりにも巨大である。
周りのレンガ作りの建物が吹っ飛んでいる。
幾多のレンガが伊月に飛んでくるが手を伸ばして届く位置で弾け飛ぶ。伊月は透明な球体に覆われ護られていた。
イルノグゼネカの加護か。
伊月が事態を飲み込んでいる矢先に、自分の立っている塔が傾いた。塔は大地に倒れずにそのまま宙を舞い、砕けてゆく。
伊月は球体ごと衝撃波に飲まれ吹き飛びながら、巨大な花畑に飲み込まれつつある塔の残骸を見つめていた。
景色が小さくなるのを呆然と眺める…
島ほどもある薔薇に覆われた弧を描く水平線。
水平線の弧の曲がりはだんだんと強くなり、やがて円になった。
惑星イルノグゼネカであった。
伊月はイルノグゼネカから急激に遠退いているものの、惑星は火花を放ちながら赤く膨張する故に、視界を占める割合はさほど変わらないでいた。その惑星の衛星達が飲み込まれる様で、自分がだんだんと遠退いていることがわかるくらいだ。
薔薇は茎を伸ばし四方八方に広がってゆく。やがて恒星を飲み込み始める。
恒星の熱で焼ける茎は、眩いばかりの火花を放ち、その自らを焼き消すであろう高熱を逆に自らのエネルギーとし、一瞬にして恒星を花で覆い尽くした。
そこら中で火花が散り、花びらが舞う。その舞台は宇宙空間であった。
ありえない光景…
そもそもの実力の差を見せつけられた。
この巨大なバラ園は伊月には到達できないほどの思想の深さを現実化したものであった。
伊月は驚愕も絶望も通り越して、穏やかな境地に達していた。
魔王にとっての世界…
俺の世界…
俺はアイラスが愛しかった。
世界を平和にしアイラスと共に人生を歩みたかった。
俺の人生にはアイラスが不可欠であった…
アイラスに触れたい。
透き通るような肌。
純白の輝く髪。
その髪は光に照らされると、自らが発光しているのではないかと思うような煌めきを見せた。
煌めき…
闇の中で、白く輝く点の集合体が赤く染まってゆくさまを伊月は傍観していた。
輝きは無数の恒星であった。
過去に映像で見たことがある白い円盤。
——— 銀河系 ———
アイラスが赤く染る。
イルノグゼネカが赤く染る。
地球が、ガッコーが、家、ゲームが赤く染る———