第39話 番犬の悩み
「双方よく戦った!」
剣を取り、スヴェンの手を引いて石畳のステージを滑り降りると、マティルダ先生に脱臼するかと思うくらいの力で肩を叩かれた。いっっっった。ヤンキーの肩パンなんて目じゃない威力だったわよされたことないけど。
「ヴァイオレット」
蒼白な顔をしたトーマが慌てて私の側に寄り添う。
「マグナスはさすが、十五とはとても思えぬ魔法の強さだ!火の精霊の加護を受けるがゆえだろう。クインズヴェリも頭を使ってよく立ち回った!加護を受けた魔法とは違ったようだが、クインズヴェリ家の者なら当然氷魔法の教育は受けていような。手加減のつもりだったか?」
暗に、闇の魔法を使わなかったのは手を抜いたのか、と聞かれていることがわかって、私はふるふると首を横に振る。当たり前だが、マティルダ先生も私の噂はちゃんと知っているのだ。
「私が本来得意とする魔法は……今回はいろいろ条件的に、彼には使えませんでした。手を抜いたわけではありません。課題が見つかったので、マグナス卿には感謝していますわ」
周囲の恐れ半分、好奇心半分の視線が突き刺さる。
この中には禁忌とされる闇の魔法がどんなものか、見てみたかった連中もいるに違いない。こむら返りの呪いなんか使わなくてよかった。“何のエフェクトもなく人体に影響を与えられる魔法”。それを他人の目の前で軽率に使ってしまっては、この学園におけるあらゆる怪我や病気が私と結びつけられるようになる危険だってある。もし一度でも誰かを傷つけることに使ったら──
(……面倒クサ)
魔力の使いすぎだろうか、何だか頭がくらくらした。
人前で失神なんてみっともないことしてたまるかと思って足を踏ん張るけど、それももう限界に近い。このところマンドラゴラの煮汁も飲んでなかったから。ふらりと身体がかしぐ前に、トーマが肩を支えてくれる。
「ヴァイオレット」
「……ごめん、トーマ」
ぼんやりと見上げながらトーマに対して謝罪の言葉を口にする。心配そうな顔をさせてしまったのが何だか申し訳なかった。スヴェンのほうはピンピンしてるのに情けない。
こんな情けない姿を衆目にさらそうとは、なんて今さら貴族令嬢みたいなことを考えてると、不意に、霞んだ視界に白い制服の背中が、私と生徒たちの間を阻むよう立ちふさがったのが見える。首の辺りで緩く結ばれた金の髪。──アーサー。
「それでは皆さん、デモンストレーションは終了です。ペアを作ってそれぞれ訓練を始めましょう」
なんて、ニッコリ輝く笑顔が目に浮かぶような明るい口振りで言って、集まっていた生徒たちを手際よくバラけさせていく。気が遠くなって、立てなくなった私を生徒たちが見ることがないように。
庇ってもらったのだ、ということがわかっても、目蓋の重さに逆らえない。こちらを振り返ったアーサーにちゃんとお礼を言う前に、私は、トーマに寄りかかるようにして意識を失った。
▽▽▽
「いけない、気絶しちゃった?」
慌てて駆け寄ってきたアーサーが問いかけた。
僕の手の中でぐったりと動かなくなったヴァイオレット。抱きかかえた彼女に一見怪我はないようだけれど、どこかぶつけていないとも限らないし、何より、綺麗な紫色の髪から僅かに焦げたようなにおいがする。従者である僕のいない間に。
「おいどうしたんだそいつ、さっきまで……」
ヴァイオレットを覗きこもうとしてきた赤髪の輩を睨みつける。この火猿が。
「近寄るな」
喉から低い唸り声が出た。
別に、彼が故意にヴァイオレットを傷つけたわけじゃないことくらい理解してる。双方合意の上での試合だったことも。それはそれとして主人を傷つけるものは本能的にいけすかない。嫌いなのでヴァイオレットに近づかないでほしい。噛みつきたくなってしまう。けど、それはヴァイオレットに迷惑がかかるから。尻尾を低く揺らしながら、警戒心剥き出しで睨みつける獣人の視線に気圧されたのか、スヴェン・マグナスはすごすごと引き下がった。「何だよ……」とか小さな声で言いながら。
「大丈夫?」
ヴァイオレットを案じるアーサーの問いかけに軽く頷く。
氷魔法の使いすぎで魔力が枯渇状態になっただけだ。マンドラゴラで誤魔化してはいたけれど、アルタベリーの屋敷にいた頃も無理した時はよくひっくり返っていた。少し眠れば回復すると思う。身体が暖まるよう、温かいカフェオレを淹れてあげたい。ヴァイオレットは紅茶よりそっちのほうが好きだから。
「……先生、授業の途中ですが、主人は体調不良です。中途退席させていただいてもいいですか」
「うん?あぁ、寝ていては見るものも見られんからな。まぁいいだろ」
「ありがとうございます」
僕は特に気にならないけれど、ヴァイオレットが起きていたら何かしら突っ込んだであろう適当さだ。
お礼を言い、部屋に戻ってヴァイオレットを寝かせようとする僕を、不意に先生が呼び止める。
「毎年、授業の初めに生徒を二人選んで闘わせるんだ」
「……? はい」
「魔法を使った試合だの、戦闘の訓練を経験したことがある貴族の子どもはごく一部だ。貴族のボンボン共の中には膝を擦りむいたことすらないってのも多い」
「……はい」
「無理やり危険に放り込むことで慣れさせる、私はそういう主義なんだ」
「ライオンみてーな女だな、あんた……」
スヴェンが呆れたようにマティルダ先生を見る。
ライオンでも何でもいいが、それが何だと言うのだろう。早くヴァイオレットをベッドに寝かせたいのに。
「クインズヴェリを指名する気はなかった。ズル賢い王子殿に目立たせるなと頼まれていたからな」
「レディ、それは言わない約束ですよ」
「おまえの気遣いが的を外したところを初めて見たぞ」
くっくっ、と長身の女性が微笑みを崩さないアーサーを見ながら笑う。僕は驚かなかった。アーサーならさもあらん、周囲から忌避の視線を受けることになったヴァイオレットのために、そのくらいの気遣い、根回しはしてくれる人だ。だからこそ僕も、彼がヴァイオレットの婚約者であることに不満はない。
「僕の婚約者は予測不能なんです」
「そのようだ。おい、番犬」
マティルダ先生が僕を見る。鋭い赤い瞳が、僕の腕の中のヴァイオレットを見下ろす。
「危険に飛び込む主人の握る手綱は、おまえが引いてやれ」
僕の首輪に繋がるリードはヴァイオレットが握っている。
それはもうずっと昔、ソフィアが店の店主から受け取った首輪をヴァイオレットが必要ないと断った時から、ずっとそうだ。彼女のスカートを握りしめながら歩いた馬車までの道のりを、僕はまだ昨日のことのように思い出せる。
僕を明るいところへ導いてくれるのは、いつもヴァイオレットだった。
──ヴァ、ヴァイオレット!?どうして…
──トーマ、お願いがあるの。
あの廊下で、モニカ・ベネットという名前の少女を突然魔法で眠らせたヴァイオレットは、僕に眠る彼女を医務室まで連れていくよう命令した。
従者としてヴァイオレットのそばを離れることを躊躇った僕を、宥めすかすようにして言うことを聞かせたのだ。彼女は僕にとってもいずれ大切な存在になるかもしれない、とか何とか、よくわからない予言のようなことを言って。ヴァイオレットはたまに確信を持った口振りで、僕にはよくわからないことを言う。
オレンジ髪の少女は確かに可愛らしく、ヴァイオレットに眠りの魔法をかけられる直前の話を聞いていても、優しい気性の子であることはわかった。けれど、それだけだ。
医務室の先生に少女を預け、急いで向かった先のグラウンドであのマグナスの次男坊に斬りかかられている彼女を見たとき、どんなに血が騒いだことか!アーサーが引き留めてくれていなかったら『転身』して試合に飛び込みかねなかった。
(危険に飛び込む主人の手綱は……)
ヴァイオレットを横抱きにし、マギカメイアの広い廊下を歩きながら、マティルダ先生の言葉を思い出す。
ヴァイオレットの行く先をコントロールすることは、僕には出来ない。予期せぬタイミングで、唐突に危険に飛び込む選択をする彼女にかつて救われた身であるからこそ、彼女が飛び込んでいくのを咎めることは、僕には出来ない。だってあの廊下で一人震えていた少女は、かつて暴力に怯えていた僕なのだ。
「ヴァイオレット……」
それでもどうか、これだけはわかってほしいと思う。
たとえヴァイオレットが、僕のたった一人の主人が、僕の知らない、定められた何かを知っていたとしても。
いつか大切になるかもしれない誰かより、僕はずっと、今の貴方が大切なのに。




