第35話 妖精言語なるもの
「いやはや、本当にお恥ずかしい……」
紙の束から救出したあと、ソーン先生はそう言って頭をかきながら私とトーマを紙の資料だの謎のいろんなものが山積みになったテーブルに案内して席を用意してくれた。
レジュメは結局見つからなかったらしく、「まぁでも全て頭に入っていますから」とご機嫌で講義を始めようとする。とりあえずちょっと待ってほしい。
「先生、妖精言語はとても面白そうなんだけど、今日ここに来たのは別件なの」
私はニッコリ微笑んで首をかしげる。
先生の上がりきったテンションを下げるに当たって効果てきめんの一言だった。ソーン先生は、ピタリと動きを止めて、瞬きしたあと──しゅん……と一気に小さくなりながら椅子に座った。何故だろう、芋虫のようでどことなくかわいい。ちょっと申し訳ないけど話が進まないから。
「がっかりさせてごめんなさい」
「いえ……それで、別件とは?」
「その前にまず確認したいのですけれど、先生は私についてのこの学校での噂はご存じ?」
私の闇の魔力について。
アルキバの紹介でそれはないと思うけど、もしソーン先生もそういう、闇の魔力を持った人間と同席することに抵抗を持つような人だったら、最初に話しておいたほうが時間を無駄にしなくて済む。トーマが案じるようなまなざしで私を見るけど、あくまでこれは効率の話であって、別に卑屈になってるわけじゃない。
「噂?何ですか?」
「そういえばここ数日埋まってたんですっけね」
キョトンとした顔で首をかしげるソーン先生。
そりゃ飲まず食わずで三日間埋まってたら噂話も届かないか……と思っていたら、「もう数年研究室から出ていないし人と会話していないので、外がどうなっているのかさっぱりなんですよ」と更にとんでもないことを言われた。かなりハイレベルな引きこもりなの?人生楽しそうだから別にいいと思うけど。
「噂とは何か面白いお話ですか?」
「面白いかどうかはわからないけれど……今、私の持つ闇の魔力について、あることないこと広まっているの」
「──闇の魔力……?」
ニコッと微笑んだまま打ち明けると、パチパチと、先生がモスグリーンの瞳を瞬かせる。
──さ、どういう反応でくるだろうか、この人は。今までの経験から言って流石に少し警戒しないでもなかったけれど、何を言われても余裕を持てるよう、鉄壁の笑みを崩さない私に対して、ソーン先生は少し目を見張って──
「それは……人間には珍しい魔力をお持ちですね!」
そして、パァァッと瞳を輝かせた。
「いやはや私のゴッドマザーはわけあって闇の魔力……というより闇の魔法を使う者をあまり好かないのですが、私はそもそも闇の魔法というのは人間が扱うそれよりも、原始たる妖精、古の彼らの魔法にとても近いものがあるのではないかと常日頃から考えていたんですよ!何故なら火や水や風などと違って闇というのはより抽象的な概念であり、そもそも使えるエネルギーの総量からして格段に違うため魔法としてのこの世界に及ぼす影響力が実に強力であると言わざるを得ず──」
「先生、そのくらいで」
「すみません」
何が琴線に触れたのかわからないけど、話が長いわ。
しかし思わぬ好印象だ。とりあえずこれで門前払いされる心配がないということはわかった。
そしてこのソーン先生、話は長いけど、生徒である私が一言「長い」と言っただけでピタリと止まってくれる辺りだいぶ人がいい。何となく「黙れ」と人に言われなれている印象を受けて、何とも言えない気持ちになった。でも黙って。トーマは相変わらず珍妙な虫か何かを見る目で先生を見ている。
「えぇと、ここに来たのは……知人から、闇魔法の訓練のことで、貴方に力になってもらえるかもしれないと教わったからなの」
「僕がですか?」
「貴方は知識の豊富な方だと言っていたわ」
そう言うと、ソーン先生は、うーん、と言いたげに腕を組む。
「僕は見てのとおり頭でっかちな言語学者ですよ。“リターンド”であることを買われてマギカメイアにいさせてもらってますが、大した魔法は使えません。この学園で魔導師と名乗ることは烏滸がましいくらいなので、我ながら、魔法の実践的な指導が出来るとは思えませんねぇ」
「そうなの?」
「下界にてんとう虫っているでしょ?負けますよ、僕」
「そんなに誇らしげに言うことかしら……」
てんとう虫に負ける成人男性とは。
「……でもそれじゃあ、何故この魔法学園で妖精の言語の授業があるの?何か魔法に関係しているからじゃなくて?」
闇魔法とは関係なく、これは単純な疑問だった。
妖精言語とは一体何の役に立つのだろう。魔導師が学ぶ意味のないことを、わざわざマギカメイアで教える必要があるとは思えないけれど。
尋ねると、私が彼の専門分野に関する疑問を持ったのが嬉しかったのか、ソーン先生は“よくぞ聞いてくれた”と言わんばかりに、身を乗り出す勢いで目を輝かせた。何かと動きの激しい人である。狩猟本能が刺激されるのか、僅かに唸るトーマを宥めながら続きを促すと、ソーン先生はニコニコと楽しそうに語りだした。
「魔法というのはね、そもそも“言語”なんですよ」
「……言語?」
──魔法とは。
それを定義する言葉は世に数多くあれど、言語である、というのは初めて聞いた。
アルキバは確か、魔法は想像力だって言ってたっけ。あとよく言われるのは、精霊が起こす奇跡であるとか、そういうの。それは違うのかと尋ねたら、ソーン先生は「それらが間違いというわけではありません」と言って首を振った。
「魔法は確かに精霊が起こすものですし、魔法を扱うために想像力は欠かせません」
「じゃあ、言語っていうのは」
「私たちにとっての魔法とは──魔力によってこの世に現れる事象のことを指し、そして同時に、“自分が起こしたい”と思った事象を精霊に伝えるスキルのことを指すのです」
そう言って、ソーン先生が手のひらから小さな緑色の光を出して、テーブルの上の鉢植えの中で枯れかけていた、小さな植物を撫でるように動かす。淡い光に照らされた植物は、みるみる内に元気を取り戻していった。
「例えばね、今私は、“この植物の回復”をイメージして、自分の魔力を練り上げることで、それを土の精霊に伝えました。魔法は私たちが創っているわけではなく、実際のところ、私たちのお願いを聞いた精霊たちが行使してくれているのです」
「……精霊たち」
トーマが小さな声で呟く。
私はいつか、アーサーが風の精霊に囲まれているところを見たことを思い出した。精霊に愛されるものの魔法は強くなる。それは確かによく聞く話だけれど。
「火の魔力の加護を持つものたちは、火の精霊に通じる言語しか持ち合わせていないのと同じです。また、ある程度のレベルまでは加護のない魔法でも扱えるようになるのは、ほら、私たちが言葉として使っている言語の場合も、ネイティブでなくとも、挨拶くらいは簡単に覚えられるでしょう?」
「あぁ……なるほど……?」
つまり──私にも簡単なものなら氷の魔法が使えるのは、日本人でも、ハローとかボンジュールくらいならすぐ言えるのとおんなじってことか。
もっと流暢に、例えば英語で講義をやろうと思ったら、そのレベルに達するまでかなりの時間と努力を必要とするだろう。ネイティブの人間とはそもそも土俵が違う。
「魔法の場合、言葉としての言語と違うのは、どれだけ努力したところで精霊の愛が得られない以上、ノンネイティブはネイティブと同程度にはなれないというところなんですよ。完全に生得的なものであって、後天的な素養ではないんですね。つまり火の加護がないものが火の魔法を使ったところで、その伸び代はたかが知れているわけです」
「あらまぁ、絶望的なお話ありがとう」
「気に障りました?」
「いいえ、諦めがついて助かるわ」
ろくな氷魔法が使えないのはわかってたけど、こうすっぱり言われるともう授業をとる気もあんまり起きない。
私がため息をつくと、ソーン先生は「飴食べますか?」と焦ったようにガラス玉のようなそれが入った瓶を差し出してきた。自分は食べられないのに何故用意があるのだろう。あと一体いつから此処にあるものなのかが怖いから遠慮しておきます。
「そう、じゃあ、その精霊たちに“お願い”を伝えるための言葉にあたる部分が、私たちの鍛えるべき魔法とか……魔力とか呼ばれるスキルってことね?」
「そうです素晴らしい!その通り!」
飴の瓶を抱きかかえたソーン先生が、子供のような笑顔で拍手してくれる。
「妖精言語を学ぶことは、貴方により抽象的で高度な……魔法を生み出すイメージを浮かべる手助けをしてくれます。彼らの言葉は、人間のそれほど、この世の全てを枠に押し込めようとするものではないですから」
「ふぅん……」
「物事を具体的に表すこともこの世界を知る一つの手段ですが、それは支配したがるもののやり方です。抽象的なイメージのほうがむしろ、精霊には伝わりやすかったりするんですよ」
「なる……ほど……?」
何だか難しい話だ。
横で聞いてるトーマはついてこれなかったらしく、すっかり頭に疑問符を浮かべている。半獣人の彼はそもそも“魔法を使う”という感覚を知らないから、今みたいな話は尚のことちんぷんかんぷんだろう。
私はというと──何となく、数年前、アルキバに言われた言葉を思い出していた。
(──魔法は、今ある魔法が全てではない。それらは本来、流動的で、絶えず姿を変える、目に見えないエネルギーのようなものだ。……お前達人間は、何かと言うと、この世の事象を決まった枠に押し込めたがる妙な癖がある…………エルフや妖精の魔法は、もっと自由で柔軟だろう……)
妖精の魔法は、彼らが私たちとは異なる言語を持つがゆえに、人間のそれよりもっと自由で、縛りがないのだろうか。
サリュミエルの使ったような不思議な魔法も──エルフたちは人間と異なる価値観で物事を見ているから、人の運命を見るなんて、そんなことが可能なのだろうか?
それならば。
「何だか面白そうだわ。闇の魔法とか関係なく、貴方の授業が受けてみたくなっちゃった」
笑って言うと、ソーン先生がポカンとして、隣に座っていたトーマがぎょっとした顔で私を見る。
ソーン先生が固まっている内に、トーマがテーブルの下、見えないところで私の手に触れた。
「ヴァイオレット、本当に……」
「面白そうじゃなかった?」
「僕にはよくわからないけれど、でも……」
心配そうなトーマの喉から出かかっている言葉は聞かずともわかる。
この男、本当に大丈夫だろうか?という至極当然の疑問だ。それはまぁ、動かなくなっちゃった先生を見てても、“変な人だなぁ”という気持ちはないとは言えないけどね。
(でもねぇ……)
のんびり見守っていると──
やがて、我に返ったソーン先生の喜びは、無事に爆発した。
「ありがとう……ありがとう……!何十年ぶりかもわからないけど、レジュメを作ります……!貴方の闇の魔法の訓練についても、出来る限り協力しましょう!僕に出来ることなら!」
「助かりますわ」
「……プロフェッサー、ヴァイオレットに必要以上に触らないでください」
「あぁこれは失礼!飴食べますか?」
「結構です」
大丈夫よたぶん。
どう見たって悪い人には見えないもの。




