表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/59

エピソード:在りし日の主従

まだ出会ったばかりのトーマとヴァイオレットの、トーマ目線の小咄です。





「……僕の誕生日?」


聞き返すと、七歳になったばかりのヴァイオレットは「そう!」と明るい顔で頷いた。





「どうしてそんなもの……」

「管理局に提出する書類に生年月日が必要なんですって。ジョセフに今書いてもらってるの」


ヴァイオレットの髪をとかしながら戸惑う僕に、本を読んでいた彼女はあっけらかんと言う。

ジョセフが誰だかわからず首をかしげると、ヴァイオレットは「うちにいるお爺ちゃんの執事よ」と教えてくれた。


管理局というのは、もちろん<亜人管理局>のことだ。

先日、色々あってヴァイオレットに拾われた身の僕だけれど、今のままではまだ形式的に元の所有者からヴァイオレットに身柄を譲られたに過ぎず、ちゃんとクインズヴェリ家の管理下にあるとするためには、“持ち主”が変わったことを示す書類をそれぞれの地域の管理局に送らなければならないらしい。


僕の誕生日は一応育ての親である爺さんに拾われた日ということになっていたから、その日付を伝えると、ヴァイオレットは「お祝いするのが楽しみね」と随分気が早いことを言った。


「書類関係の手続きは面倒だけど、将来的なことを考えたら、どうせなら身分証明書にクインズヴェリ家の名前があった方がいいわ。何かと優遇してもらえるだろうから」

「……将来のこと?」

「そう。此処を出ていく時が来ても、貴方が望むなら証明書にクインズヴェリの名前は残しておけるから」


此処を出ていく、と言われてギョッとした。

まだこの屋敷に迎え入れられて数日しか経っていないのに、もう出ていく時の話をされるなんて。


今はソフィアについて仕事を覚えることに必死だけれど、僕はもう既に粗相をしでかしたのだろうか。知らぬ間にヴァイオレットの気に障るようなことをしてしまっていたか。

決してそれだけが目当てでついてきたわけではなかったけれど、泣きながら僕の衣食住を保証する、と言ってくれたあの言葉は嘘ではなかったように思うのに。


鏡越しに僕の顔色が悪くなったのを見て、ヴァイオレットはパチパチと瞬きした。

やがて僕が何に当惑しているのかを覚ったのか、ハッ!となって読んでいた本を閉じ、あわあわと僕の方に向き直る。艶やかな髪がするすると僕の手を抜けていった。


「違うのよ、貴方を追い出すって話じゃなくて、将来的な話!」

「将来的に追い出されるの……?」

「いやいや、そうじゃなくって、貴方がそうしたいならってことよ!」


……ひとまず、僕を励まそうとするヴァイオレットには、僕をここから追い出す気はないらしい。


それを知って、内心でほっと胸を撫で下ろすけれど、ヴァイオレットの言っていることの意味はあまりピンと来なかった。

貴族家の使用人として雇われたものは、解雇でもされない限りは定年まで使用人を勤めるのが常だ。それは人間も半獣人も変わらない。それなのに、何故そんな話が出てくるのだろう。


「だって、大人になった貴方がまだうちで使用人をしたいかはわからないじゃない?」


僕が再びブラシで髪をとかし始めると、ヴァイオレットは椅子の後ろ足でバランスを取って、ぐっと後ろに体重をかけ、仰ぎ見るように僕のことを見上げる。

とても女の子らしい見た目をした子なのに、ヴァイオレットの仕草は、時折貴族の令嬢とは思えないほど奔放だった。そもそも出会いが大男の脛に蹴りを入れる場面だったので、今更と言えば今更なのだけれど。


「……大人になった僕?」

「そーよ、ソフィアなんかは自分から家政婦学校に行ったらしいけど、トーマは別に人間の貴族の家で使用人がやりたいってわけじゃないでしょ?」


そう言われても、僕にはよくわからない。

産まれてからずっと、ただ、これをやれと言われたことをやってきただけで、それに不満を覚えたこともない。

今はただヴァイオレットの側にいたいから、こうして使用人としての仕事を一つ一つ覚えているだけだ。


「色々あるわよ、亜人街で商売したりとか……今はまだ学も蓄えもないから厳しいだろうけど、うちに居れば成人までにちょっとした貯金くらいは出来るだろうし。うちにある本は自由に読んで構わないし、お休みの時に興味がある分野の本でも読んでみたら?」

「…………本?」


本、というのは、もちろんヴァイオレットがしょっちゅう読んでいる情報の詰まった紙の束であるということくらいは知っているけれど、生まれてこのかた手に取ったことはない。

僕に備わった知識と言えば二十までの数の数え方と盗み食いの誤魔化し方くらいのもので、今まではそんなもの手に取る暇も余裕もなかった。もちろん字だってろくに読めない。


ちら、と鏡越しにヴァイオレットの顔色を窺う。

字が読めないことを恥ずかしく思ったことなんてこれまでなかったけれど、ヴァイオレットは本が好きだから、僕が字も読めないなんて知ったら、蔑みこそせずとも、酷く驚くんじゃないだろうかと思った。けれどここで適当に返事をして、後になってバレてしまうのもキツい気がする。


「……僕は字が読めないから」


意を決してそう呟くと、ヴァイオレットは「あら」と何でもないことのように呟いて、驚くでも、ばつが悪そうにするでもなく言った。


「じゃあ練習しましょう、文字も書けるようになった方がいいけど、まず読むところからね。私が小さい頃読んでた絵本があるからそれを使うといいわ」

「え、う、うん……」


朗らかに笑いかけられ、思わず頷いてしまう。

驚くどころか、哀れみさえされなかったことには少し驚いた。貴族には家庭教師がつくし、下町の子供だって、教会に通って字の読み書きや簡単な計算や魔法の練習をするのが普通だ。

だからヴァイオレットの世界には、今までそんな、僕のような子供はきっといなかっただろうに。


「……驚かないの?」


僕が本当に何も、何一つ持っていないことに。

思わず訊ねると、ヴァイオレットは「何が?」とまた本を開いてページを捲りながら訊ね返した。


「僕がその、……字を読めない、こと」


少し言い淀みながら、呟く。

改めて言葉にすると、やっぱり持っている人に自分が持たざる者だと白状するのは、惨めなことであるような気がした。

ヴァイオレットはまた、椅子の背もたれに首を預け、仰ぎ見るように僕を見る。滅多にない(あかつき)の色ような、吸い込まれるような赤紫の瞳で。


「出来て当たり前のことなんてこの世に一つもないわ」


優しく慰めるわけでもなく、微笑むわけでもなく。

それがさも当然の考え方であるという風に彼女は言う。まだ七歳の、小さな女の子の口から出るには、いやに確信めいた言葉だった。


「でも、出来ることが増えるのは良いことよ!最初は大変だろうけど、読み方は私が教えてあげる」

「……ヴァ、ヴァイオレットが?僕に教えてくれるの?」

「勿論よ、私が提案してるんだもの」


ヴァイオレットはあっけらかんと言うけれど、貴族家の令嬢が使用人に、それも孤児なんて出自の者に文字の読み書きを教えるなんて聞いたことがない。


さっきも少し触れたけれど、そういうことは教会のボランティアで行われるべきであって、ヴァイオレットのような貴族家の令嬢がするべきじゃない。

ヴァイオレットはこの国でも有数の公爵貴族家の子女だとソフィアから聞かされていたから、尚更だった。ソフィアに怒られるんじゃ、と僕がモゴモゴ言うのも、ヴァイオレットは「私がいいって言ってるんだからいいのよ」と気にも留めない。


「本に書いてあることがこの世の全てじゃないけれど──知識が増えれば選択肢が増えるから、読み書きだけは頑張りましょう。いつか貴方が、うちで働くよりやりたいことが出来たら、私も応援するからね」


そう言って笑うばかりだ。


……何だろう。

少女の台詞は、僕にとても良くしてくれているのに、どうしてかひどく薄情にも聞こえる。


ヴァイオレットは不思議な女の子だ。

淡々としているのに愛情深くて、理性的なのに衝動的で、掴み所がない。年相応に愛らしく振る舞っているかと思えば、年上の女性のような表情をする時もある。

闇の魔力を持ち、母親が出産後すぐに死んでしまったという生まれから、屋敷の召し使い達に敬遠されているという話はソフィアからこっそりと聞かされていたけれど、もしかしたら、彼女のそういう不思議な部分が、臆病な人達をなおのこと遠ざけているのかもしれなかった。

彼女の価値観は独特で、その良し悪しはともかく、あまり“普通”ではないと感じるから。



僕はただ、自分を守ってくれたヴァイオレットを守りたいと思ったから、こうして彼女の側にいる。自分で言うのも何だけれど、それは野良犬が初めて優しくしてくれた人に懐いて、深い愛情を持つのとも似ていた。

けれどヴァイオレットの言う“知識”を手に入れたら、いつか僕も、彼女の側を離れようと思う時が来るのだろうか。


ヴァイオレットの言う“選択肢”が増えるということが、僕にとってどういうことなのか今はまだわからない。

けれど、教養のある人間になって、それでも側にいたいと願えば、ヴァイオレットはそれを拒否したりはしない気がする。彼女を守りたいと思った気持ちは、嘘でも何でもないのだから。


「……うん」


僕が頷くと、ヴァイオレットは嬉しそうに、にっこり目を細めて笑った。



僕が読み書きを勉強することで、どうしてヴァイオレットがそんなに嬉しそうにするのかわからなかったけれど、“彼女の笑顔がもっと見たい”というのは果たして、勉強を頑張る動機としては、不純だったのかどうか。


主人が喜ぶ顔を見たいと思ってしまうのはどうしようもないのだ、冗談じゃなく、僕は半分イヌ科なので。


字の綺麗さは上から


アーサー(流麗かつ飾り文字のセンスがある)

アルキバ(達筆)

ソフィア(女性らしい文字)

トーマ(綺麗ではないが丁寧)

ヴァイオレット(メモった物が他人には解読不能。後で見返すと自分でも読めない時がある)

テオドラ(書けない)


のイメージ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ