08
ローズは手持ちの中で比較的動きやすい服装に身を包み、坂上の小さな教会に向かう。
見上げた空には、天空を埋め尽くすように肥大した月。満月だ。
いつもならば星を数えることができるほど見晴らしの良い丘なのだが、今晩は圧倒的な月の光に、あえかな星の光は呑み込まれている。
眼鏡をずらしてみれば、そこここで、ふくよかな月の光を浴びて踊る精霊や妖精たち。満月の夜の彼らは、いつも以上に賑やかだ。
はしゃぐ彼らが宴に誘ってくるのを、ローズは丁重に辞退した。
教会前のオークの木の下には人影が一つ。
ローズはそれを認めて、目を細めた。
絶妙にサイズが合わないシャツと、ブレイシーズで釣った濃紺のハーフパンツ。すこし大きめの海老茶色のカーディガンを羽織っている。凹凸の乏しい華奢な体躯に、あえかな月光も弾く艶のある黒髪をまとめていることもあり、まるで東洋の少年のようだ。
否、伏せた睫毛せいか光が入らない、闇夜よりも昏い瞳と、淡く発光するような金を溶かしこんだ肌。それはまるで、少年というよりも、人ではない何か ―――― 夜に棲む神秘的な魔物の顔貌だ。
「ローズさん」
モモはローズの姿を認めると、ぱっと表情を明るくした。
ミサをサボった二人が立てた計画ともいえない手筈は、至極単純で夜にまぎれてソファを持ち出すという身も蓋もないものである。
「今夜は満月ですけど、月が欠けるのを待った方がよいのでは?」と、案外乗り気なモモの提案に、ローズは悪い笑みを浮かべて答えた。
「教会は人を狂わせると言って満月を嫌うから、むしろ今夜がうってつけ」
「狂わせる……?」
「人じゃなくても、いえ、人じゃないものこそ月に昂っているのにね」
「そうですね、月の満ち欠けは海さえ動かすのだから、人や人ではないものに影響がないわけありません」
意味深な笑みを浮かべるローズに、モモは小さく顎を引いた。
本意はわからないがモモの同意に、二人はさっそく、今晩忍び込むことにしたのだった。
***
二人は神父の居室だった部屋の窓の外へと回りこむ。
「だめだ、閉められている」
午前中、開けておいたはずの窓の鍵はきちんと施錠されていた。見回りの際に閉じられてしまったのだろう。勤勉な神父の仕事に、悔しそうに顔を顰めて見せるローズが共犯者を振り返ればそこにいたはずの姿がない。
ローズが辺りを見回せば、モモは居室に繋がる勝手口の前でしゃがみこんでいた。
「モモ?」
「これならいけるかもしれません」
「どういうこと、」
モモはローズの言葉に返事することなく、ただ淡い笑みを浮かべてみせた。しかし、いつもと違い、月明かりが織りなすコントラストと相まって、夜行性の獣が持つ獰猛さを感じさせる。
柔和な態度は変わらないはずなのに、思わず息をのんだローズをよそに、モモは髪からヘアピンを抜くと、鍵穴に差し込む。数回上下させ、一旦、ヘアピンを引き抜くと、少し歪め、再び鍵穴へと差し込んだ。
かちゃ
予想外に軽い音をたてて鍵が開いた。驚いたように目を見開くローズに、モモはきゅっと厚い唇の両端を引いて見せた。彼女にしては珍しい、誇らしげな笑み。
「こういうの、私の方が得意みたいですね」
モモの言葉に、ローズは面食らう。
「案外悪い子なんだ?」
ローズの感嘆にモモが応えた表情は、それこそ悪戯が成功した子供が浮かべる類いのものだった。
***
ソファを運び出した二人は、月夜の小道を辿る。
夜も更けていたが、満月の光は草花の繊細な形の陰まで描き出すほど明るい。すべての色味を吹き飛ばすような強い明暗に、目がくらんでしまいそうだ。
軽量化された作りとはいえ、それなりの重さがあるソファを少女の細腕で運ぶのは大変だ。
ちょうど温室のガラス壁による月明かりの反射光と、教会の尖塔のシルエットの中ほどまで来たあたりで、ローズはモモに声をかけた。
「少し、休憩しない?」
「そうですね」
ローズがソファの片足を地面に置けば、モモもまたソファの足を地面に着けた。
ソファに腰かけたローズが、視線だけで隣の座面を見やれば、意外と疲れた様子を見せないモモもまたソファに腰を下ろした。
「モモって意外な特技があるんだね」
「意外でしたか?」
「とても」
いつもは大人びた表情の友人が浮かべた不遜な笑みは、その幼い顔立ちに相応しく思える。その可愛らしい笑みをじっと見やれば、モモは困ったように月を見上げるふりをして、ローズの視線から逃れた。
「そういえばマーガレットさんはローズさんと同郷なのですか?」
「いや、マーガレットは新大陸生まれだから」
「新大陸」
せっかく二人で秘密を作っている最中なのに、生意気な従妹の名前が出たことに、なぜかローズは少しだけ面白くない気持ちになった。しかし、モモが驚いたように復唱したので、ローズは補足する。
「叔父が ―――― マーガレットの父親が船を持っているんだ。昔はブリテン島とヨーロッパの間で貿易を営んでいたけど、アメリカで会社を興して、今はアメリカとヨーロッパを行き来しているらしい。マーガレットが生まれたのは叔父がアメリカに移り住んだ後」
「ブリテン島もアメリカも行ったことないです。どんなところなんでしょうか?」
無邪気なモモの言葉に、ローズも月を見上げた。
「私もアメリカには十歳の時に一度だけ、マーガレットもブリテン島にはあまり来ることなかったから、実はマーガレットと交流をもてたのは彼女がここに入学してから」
「そうなんですか、でもとても仲良しですね」
「まぁ、生意気だけどかわいいところもあ …… あったか …… な?」
意外そうに目を丸くするモモに、少し優しい気持ちでマーガレットを思い出したと思ったが、それに勝って思いだされるマーガレットの傍若無人さにローズは眉根を寄せた。
首をかしげて、どうにかマーガレットの可愛らしさを探そうとするローズに、モモはくすくすと笑いながら問いかける。
「ローズさんの故郷は?」
モモの優しい声音に、ローズは湖面に映る大きな月を思い出す。深い、深い森の奥の大きな湖に映る満月。妖精と精霊のダンスと女王の優しい声。
ちらり、と空を見上げたままのモモの横顔を盗み見る。額にかかる重たい前髪と、丸みを残した頬の輪郭、ツンと上を向いた小さな鼻と厚い唇。
月明かりに照らされたまるで妖精のように可愛らしい横顔。彼らの仲間だと言われても信じてしまいそうだ。
「ロンドンに居たこともあるけど、ここに入学するまでは湖水地方で育ったんだ。森と湖がきれいなところ。いつか君を連れて行きたいな」
「い、行きたいです!」
思ったよりも勢いのある返事に、ローズは体ごとモモへと向き直った。サロン用の小さなソファに座る二人の距離は近い。ソファの背もたれに左手を預け、その上に頬を乗せる。見つめてくる緑の瞳に、モモは少し怯んだように自身の肩を引いた。
「あの、ローズさんこそ、寂しくはないのですか?」
遠慮がちな問いかけ。朝にローズがモモへと投げたものと同じ質問に、ローズは小さく首をかしげて見せた。
「…… 懐かしいし帰りたいとも思うこともあるけど、寂しいとは少し違うかも」
「それ、は」
「ねえ、モモ。月に何が見える?」
口を開きかけたモモの言葉を遮るように、ローズが尋ねてきた。
しかし、尋ねるローズは月など見ていない。モモは頬に当たる視線が気になったが、かえって顔を向けることができずに、月を見上げたまま「えっと、」と言葉を濁した。
「私の国では男の人が見えるって言うけど」
「ああ、私の国ではウサギが見えると言いますね」
「ウサギ?」
「はい、ウサギがお餅を搗いているって」
モモが月の海の形を指さしながら説明すれば、ローズは体をモモに向けたまま、視線だけでモモの指先を追う。
「かわいいな」
「まぁ、子供のための物語ですから」
モモは言いながら、ふと思いついたようにローズに向き直った。
何か振り切ったのか、先ほどの照れを感じさせず、真っすぐに視線を向けてくる。いつもは前髪にさえぎられ光を反射することのない黒い瞳は、今、横から差し込む月明かりを反射していた。
「ローズさんには何が見えるのですか?」
「私?」
「はい、言い伝えとか関係なく」
真摯とも思えるモモの眼差しに茶化すことは憚られ、小さい頃から思っていたことを素直に告げる。
「…… 実は私、月はブルーチーズでできていると思っている」
「え?」
予想外の言葉だったのか、モモは瞬きを一つ。ローズはやはり体はモモに向けたまま、顔だけ月を見上げて言葉を繋げる。
「暗いところはアオカビ。今日は少し白く見えるから、蜂蜜をかける前」
「ふ、ふふ、ローズさんの方がずっと可愛らしいですよ!」
噴き出したモモにローズはバツが悪そうに唇を尖らせたが、気を取り直したようにモモに尋ねる。
「モモは子供っぽい私のこと、かわいいと思うんだっけ?」
「! は、はい!」
ローズの問いかけに、モモは背筋を伸ばして頷く。
恥じらうモモを横目に、ローズは右手を口元に当てると少し考えるそぶりを見せた。
モモが黙り込んだローズを訝し気に見やれば、ローズもちらり、とモモに視線を投げた。
「モモ。実は私、眠るときに、ぬいぐるみを抱いているんだ」
「!?」
思惑通り、モモはその厚い瞼をめいっぱい見開いた。黒目がちな瞳が月明かりを反射して、目の中に星が宿ったかのようだ。
ローズはごく真面目な表情で告白する。
「私が生まれた時の叔父からの贈り物で、ドイツ生まれの象さん」
「え、XXっ!」
おそらく母国語だろう言葉で、モモが何かしら口走る。ローズは口元に当てた手を、モモと自分の間について、体重を乗せた。くっと、まだ細い少女の腕が撓む。
さらに近づいたローズの身体に、モモは反射的に身を引いた。
「さすがに子供っぽすぎるかな?」
不安そうな表情を浮かべて尋ねてみれば、モモは焦ったように口を開いた。
「い、いえ、そんなことないです! 意外性は魅力ですしXXXXでXXXXX」
「あはっ」
理解できない彼女の母国語交じりのモモの必死のフォローに、ローズは耐え切れず噴き出した。こみ上げる笑いをかみ殺すために、俯いて肩を震わせれば、モモは、はっとしたように目を見開いた。
「あ、さては冗談、嘘ですねっ!」
「嘘じゃない、」
モモの抗議に、ローズは噛み殺しきれない笑みで頬をひくつかせたまま顔を上げる。
「嘘です! 騙されません!」
珍しく声を荒げて憤慨の意を示すモモは見たことない。ローズは弁明しようと口を開きかけ、しかし、視界に入ってきたそれに言葉を飲み込んでしまった。
「からかうなんてローズさんも人が悪い……」
温和な彼女にしては珍しくローズを詰っていたモモは、黙り込んだローズに気を削がれたのか、一度口を噤む。
閉じられた口元を見つめるローズに、モモは居心地悪そうに、それでも疑わし気に確認してきた。
「…… それでは、象さんのお名前は?」
詰問する口調ではあるが、いつもの落ち着いた声音。
ローズはとぼけるように告げた。
「…… 秘密」
「やっぱり嘘ですね」
ぷく、と膨れて見せるモモに、ローズは薄く笑う。
「嘘じゃないのに」
「……」
頬を膨らませたまま無言の抗議を続けるモモの頬に、ローズは人差し指を当てる。
柔らかな感触に手の甲で撫でたくなる衝動を抑え、ローズはそのまま指を押し付けてモモの膨らませた頬をつぶした。
間の抜けた音がモモの口元から抜ける。
二人は視線を合わせると、今度は同時に噴き出した。