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私たちは頽廃している  作者: StellA
Dr.ヘルシングによる吸血行動を伴う悪魔に関するレポート
7/28

07


 ローズは壁画のモチーフなどを説明しながら、袖回廊から続く倉庫となった集会室へとモモを連れ込んだ。教会としての役割は大聖堂に引き継いでいるため、以前は集会室として使用されていた部屋には、普段は使用しない儀式に使用される聖杯や燭台、または時折、差し替えられる宗教絵画が並べられている。


「素敵ですね、」

「たまにローマから送られてくるらしいわ。女性教育にも力を入れているというアピールだそう」


 芸術品に目がないモモの珍しくはしゃいだ声。信仰ゆえに惜しみない財力が注がれた贅沢な品々を眺めていたモモは、ふと、壁の半分を占める地図の前で足を止めた。

 少し日に焼けて色あせたそれは、世界地図だ。

 ローズはモモの隣に並ぶと、地図を見上げた。


「モモの国はどこかしら?」


 ヨーロッパ半島を中心に、南半球にはアフリカ大陸、大西洋を挟んだ新大陸(アメリカ大陸)、そして東に広がるユーラシア大陸。2畳ほどの大きな地図は、それでも大きな世界をずいぶん縮小したものだ。


「ええと、」


 ラテン語で書かれた地名に困惑しているのだろうか。モモの視線が羊皮紙の上を漂う。濃いまつげに縁取られたまなざしは煙るようで、少女をより神秘的に見せた。

 ふっとモモが踵を返す。シルクロードを辿るように、ゆっくりと東欧、近東、中東、インドを過ぎ、さらに、地図の一番端で足を止めた。丸い爪に縁取られた指先がすぃっと地図の上を指さす。


「ここです」


 ローズがモモの横へ並び見上げてみれば、中国大陸の沖に竜を象った島国が描かれている。Asia Orientaliとだけ記載された領域で、国名は書かれていない。


「日本、だったわよね?」

「ええ、そうです」


 モモの声に甘さが滲む。故郷を思い出しているのだろうか。彼女の眼差しは柔らかく、夢見るようにますます煙る。


「西洋の方には区別が難しいと思いますが、大陸とは言葉も違えば、文化も結構違うんですよ」

「大陸って、中国のこと?」

 モモの単語の選択に、ローズが問えば、彼女は口元を押さえた。

「すみません、ここも大陸でしたね。私の国では大陸は中国をさしますから、つい」

「いや、気持ちはわかる。私も島国育ちだから。私からすれば大陸はヨーロッパだけど」


 ローズの言葉に、モモは顔を上げた。あまり人と視線を合わせたがらない彼女が、まっすぐローズの瞳をのぞき込んでくる。


「島国と言うことはもしかして、ローズさん、大英帝国がご出身なのですか?」


 モモの問いにローズは再び地図に視線を投げた。そして、迷いなく歩き、「そう、ここ」と、ヨーロッパを抜けたところで地図上の島を指し示した。

「遠いのね」

 モモを振り返ってみれば、真ん中には世界で一番大きな大陸が横たわり、二人の間を隔てている。


「…… こんな距離をわたってきたんだ」

 感嘆と同時に、先ほど彼女が故郷を呼んだあまやかな声音を思い出す。

「その …… 寂しくはない?」

 モモは一旦、自分の国を見上げ、そして、ふっと目を細めた。

「…… そう、でもありません」

 そういって、軽やかな足取りで、ローズの元へと近づく。一歩、二歩、そして。


「たったの三歩です」


 モモはそう言って、きゅっと口元を持ち上げる笑みでローズを見上げてきた。しかし、それは確かに笑顔であるはずなのに、寂しくないはずはないのだ、と確信を抱かせるには十分で、ローズは目の前の小さな体を抱きしめたいような衝動に駆られた。


 同じ年であるはずなのに、その幼い外見からかもしれない。東洋人特有の華奢な体躯からかもしれない。その、何処か憂いている(アルカイック)ようにも見える微笑み(スマイル)のせいかもしれない。おそらくそのどれもが、ローズの憐憫を引き起こした。


 たまらずその腕を上げようとした刹那、しかし、ふらりとモモは踵を返した。


「あの扉の奥は何ですか?」


 わざとらしい明るい声音は、照れ隠しだ。人の顔色に聡いモモは、ローズの感情の揺らぎを読み取ったかのように、そして、自身の郷愁をさらけ出したことを恥じるように話題を変えた。


 途端、ローズの衝動が霧散する。ローズは目が覚めたように、地図がかかる壁の先にある扉に視線を投げた。なぜだか酷く惜しいことをしたような気がするものの、それでもローズは、安堵からの息を吐いた。


「ああ、神父の居室だった部屋……」


 神学校として使用されていたころは、住み込みの神父が常在していた。モモが尋ねる扉の先は、彼らが寝室として使用していた部屋のはずである。

 ローズは取手に手をかけると、ためらうことなく扉を開いた。

 軋む床の上には、踏みつぶされた絨毯が敷かれている。長い間、掃除もされていないのだろう、よどんだ空気が充満していた。


 ローズは足を踏み入れると、日に焼けて変色したカーテンをひくと、窓を開ける。

 途端、さわやかな風とともに、坂下の大聖堂からかすかに神を讃える歌声が滑り込んできた。


「あ、時間 ……」


 ローズが口を開いた瞬間、パイプオルガンが天上の音楽を奏で始めた。ついで響き渡る女生徒たちの歌声。


「こっちも始まっちゃいましたね」


 向かいましょうか、と促してくるモモをローズは制止した。


「ね、気分悪くない?」

「え? だ、大丈夫です、よ?」


   戸惑うモモを横目に、ローズはわざとらしく額に手を当てる。


「そう? でも私は少し悪いわ。…… さぼっちゃいましょうよ」

「…… まぁ、私はラテン語で歌えませんしね」


 一瞬、心配そうな表情を浮かべたモモは、告げられたローズの提案に破願する。モモの言葉を肯定と受け取り、ローズはモモを部屋に入るように促すと、扉を閉めた。


 扉一枚分、聖歌の歌声が遠くなる。


 ローズが、家具にかけられていた埃避けの布をはぎ取れば、猫足の二人掛けソファ(セティ)が姿を現す。少し小さめの作りは小部屋(サロン)での使用や余興のための移動を想定しているからだ。


「いい趣味している」

「かわいいですね」

「座り心地も悪くない。ほら、モモも」

「失礼します」


 ローズが隣の座面をトントンと叩けば、モモも素直に腰を下ろした。ローズがリラックスしたように座面に背を預けて見せれば、モモはソファのクッション性を確かめるように座面を押した。


「放置しておくにはもったいないですねぇ」

「そうね、温室に引き込む?」

「え?」

「温室にソファ(これ)があったら素敵だと思わない?」


 驚きに目を見開くモモに、ローズは、にっと口の端を引いてみせる。いたずらな妖精が浮かべる類いの笑みだ。さすがに咎められるか、と思いきや、モモは生真面目な表情で頷いた。


「素敵だと思います。それに、ソファも使って欲しいと思ってるんじゃないでしょうか」


 モモの言い回しに、ローズはふっと眼鏡をずらしてあたりを見回した。

 窓の外に見えるオークの木には精霊たちが集っているが、彼らは教会に決して入り込まない。そういう決まり事だからだ。

「ソファが?」


 まるでソファに意思があるかのようなモモの物言いに、ローズが揶揄するように問い返せば、モモは恥ずかしそうに俯いた。


「国では付喪神と言って、百年経ったものには魂が宿るとされているんです」

「付喪神? 精霊みたいなもの?」

「そうですね、万物には魂が宿っていると」


 モモの言葉にローズは納得したように頷いた。


「だからモモはお花たちにも話しかけるのね、」

「え?」

「水やりの時、“おいしいですか、たくさん飲んでくださいね、後で肥料をお持ちしますから、まぁ、きれいですね、素敵な色ですね、大きなあなた、こんなに立派な蕾をつけて、赤いあなたはなんていい香りなんでしょう”ってイタリア人顔負けの口説き文句」


 モモの口調を真似しながらローズが揶揄すれば、モモはぱっと顔を伏せた。両手で顔を覆い隠す。


「口説くだなんてそんな …… と言うか、見てらしたんですね」


 少し非難するようなモモ言い分に、ローズは含みのある笑みを浮かべたが、顔を伏せたままの彼女は気が付かない。


「でもは褒めると褒めた分だけきれいに咲くし、長持ちすると聞いたんです」

「…… 確かに彼ら(・・)も口説かれて悪い気はしないと言っていた」

「え?」


 言い訳めいたモモの言葉に、ローズは頷いて見せた。

 そのことに、モモが訝し気にローズを見やれば、ローズはただにっこりとほほ笑み返す。


「今は、このソファを持ち出す算段を立てましょうか?」

「黙って持ち出すのですか?」

「訊いてダメって言われた時どうするの? どうせ長い間放置されていたんだし、保管する場所が変わったところで誰も気にしないでしょう」


 それは普通に諦めるのでは、と言いたげなモモに、ローズはニコッと笑ってみせる。


「私、欲しいものは必ず手に入れるって決めているの」


 薄い唇の端を持ち上げる酷薄な笑み。リリアーヌならば溜息をついて見せる表情だ。

 しかし、モモは、ふふっと小さく噴き出した。印象的な黒い瞳が見えなくなるほど、目を撓ませる無邪気な笑み。意味のないいつもの笑みではなく、無垢な子供が浮かべる類いの。


「ローズさんって普段は素敵な淑女なのに、たまにすごく子供みたい」


 しかし、目を見開いて自分を見つめるローズに気が付くと、モモは、はっと口元を抑えた。


「あっ決して馬鹿にしたわけではなくて、その、可愛らしいなって」

「そう? ありがとう」


 言いつくろう少女にローズは少し意地悪そうに口の端を歪める。

 ローズが浮かべた笑みにも見える表情に、モモは安堵していいのかわからないまま、曖昧な笑みを浮かべた。しかし、いつもと違い、少しだけ口元が引きつっている。


「私もモモのこと可愛いと思っている」


 続けられたローズの言葉に、モモが安堵した瞬間。


「お花とお話しするところとか、ちいさくてローティーンに見えるところとか、」


 ローズの言葉に、モモは頬を膨らませる。

 先ほどは取り繕っていたが、やはりマーガレットの言葉を気にしていたのだろう。

 その幼い顔立ちをさらに幼く見せることに、ローズは今度こそ声をあげて笑った。

セティ:小部屋での使用や余興のための移動に備え、比較的小型・軽量に作られたソファ。

小さめなので女の子二人で並んで座っても互いの距離が近い。かわいい。

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