03
ローズが目を覚ました時は、すでに日曜日の朝の典礼が始まっていた。
彼女は顔をしかめ、それでも一応、サイドボードにおいていた懐中時計でも時間を確認したあと、身を起こす。枕元に転がるぬいぐるみも起こしてきちんと座らせると、ローズは大きく伸びをした。
窓辺を飾る鉢植えのハーブに腰かけていた小さな精霊が、ふわりと飛び立ち、目覚めたばかりのローズの頬に挨拶のキスをする。ローズはぞんざいに指先で小さな友人を押しやり、サイドボードに置いていた眼鏡をかけた。
どうやら昨夜の夜更かしのせいで、寝過ごしてしまったらしい。
枕元には読み差しの本が重ねてある。寝物語にと本を開いた迄はよかったのだが、うっかり夢中になって読み進めてしまったのだ。慌てて眠りについた時はすでに明け方に近かった。正直、昼前に起きることができたことを褒めてほしい気分だ。
しかしながら、「そもそも安息日にミサをする方が間違っている」と、教会の体制をなじっても、寝坊してしまったことには変わりない。もともと普段からそこまで敬虔な生活を送っているわけではなく、ローズは軽く伸びをするとあっさりと朝の典礼に出席することを諦めた。
大聖堂から聞こえる聖歌に耳を澄ませながらも向うのは温室だ。
入学した当初は廃墟同然だった温室を、ローズが見つけてからは、彼女が何かと手をかけ、今では立派なバラ園として一年を通して常に何らかのバラが咲き誇るまでになった。
途中倉庫に寄って、コークスが入った籠を手押し車に乗せ、温室の扉に手をかけたところで、動きを止める。
ローズは、細い指先で眼鏡を下げた。しかし、何も変わらない。ガラス越しでは、彼らの姿は認識できないのだ。しかし、ガラス戸の向こうには人影が見えた。どうやら温室に先客が来ているらしい。
ローズは僅かに眉根を寄せる。この学園は田舎にあるせいもあり、無駄に広大な敷地を有している。その中でも、更に僻地に造られた温室の周りには、大聖堂の建立により任を奪われた小さな教会だけで重要な建物はなにもない。
そのせいか、温室に訪れるのはローズと、そのローズを探しに来る友人のリリアーヌや、ローズの年下の従妹であるマーガレットくらいだ。
しかし、基本的にリリアーヌは土曜の夜から麓の街に遊びにでているし、ローズと異なり、敬虔なマーガレットは滅多なことでは典礼をサボるような真似はしない。
なによりも、温室の中にいる人物は彼女らよりも随分と小柄のようだ。おそらく、マーガレットと同じく中等部の生徒なのだろう。
訝しげに思いながら、ローズはガラスの扉を引いた。
先ほどまでは見えていなかった、精霊たちが、ローズへと纏わりついてくる。おしゃべりな彼らは、気に入りの人間にちょっかいを出すことが大好きなのだ。ローズは小さな友人を軽くあしらい、眼鏡をあげようとして、見慣れない蝶を認めた。
キアゲハよりも一回り小さいものの、黄白色と黒の縦じま模様の翅、後翅の外側には青と橙の斑紋が並ぶ、絢爛な蝶だ。風に舞う花びらのように、漂うその先を見やれば、バラの花に顔を寄せる少女。
高くなりつつあるものの、まだ透明な朝の光を浴びる黒く長い髪は絹糸のようにつややかな光沢を放っている。見慣れぬ蝶は、ひらひらと彼女の髪にたどり着くと、その細い足を彼女の髪へ絡めて、その翅を休めた。
咲き誇るバラの香りが鼻先を擽る。ローズが支えていた扉から手を離せば、きぃっと蝶番の金属がすれる音が静かな温室に響く。バラに顔を寄せていた人物は、びくり、と弾かれたように振り向いた。
神秘的な印象を与える ―――― おそらく、生きた人間だ。
ローズは下げていた眼鏡を、その細い指先で押し上げた。ガラス越しの世界は、些細な不可思議を遮断する。
無粋なガラス板は、おしゃべりな花の精霊たちも、見知らぬ少女の髪を彩る蝶も、その姿を覆い隠した。
しかし、見慣れぬ少女は、ガラス越しの世界でさえも、鮮やかなコントラストをローズの網膜へと焼き付けた。ログウッドで染めたシルクのような黒髪、滑らかな肌は良く練られたバター色。一見、人形かと見紛う華奢な骨格は、東洋人特有のものなのだろうか。
そして、何よりもぶつかる視線の先には、神秘的な黒い瞳。まるで濡れた黒曜石のように、硬質な黒。全てを射抜くような鋭いきらめき。しかし、彼女が気の強そうな眼差しを覗かせたのは一瞬のことで、すぐにその稚けない顔に柔和な笑みを浮かべて見せた。
硬質な瞳の輝きは、まるで夏夜の海のようにとろりと融ける。おろした前髪のせいだろうか、先ほどの眼光は幻想だったかのように、彼女の瞳孔と同化するほど暗い虹彩に光は入らず、その表情を曖昧にした。
「すみません、バラの香りがしたものですから、つい立ち入ってしまいました」
少女はわずかに眉根を寄せ、本当に申し訳なさそうな表情を造る。想像よりも落ち着いてはいるが、甘く掠れた声に、ローズは我に返った。
「いえ、かまわないわ」
人のよい笑みを口の端に浮かべながらも、ローズは目の前の人物を素早く眺めた。白い襟が清潔な濃紺のワンピースに黒いブーツ。この学園の制服ではなく、上質ではあるようだが、何の特徴もない服装だ。
小さな鼻と、アーモンドアイ、そして少し厚めの唇。マーガレットよりも幼い顔立ちは、東洋人として割り引いて考えてみても十代半ばに届くかどうか。高等部に在籍する自分はおろか、中等部の従妹よりも更に年下のように思える。
しかし、初等部から高等部(付属の大学もあるのだが、大学以上の研究機関はローマにある)まで備えているものの、一学年一クラスで編成されているため、生徒数のそう多くない(更に言えば東洋人など殆どいない)この女子教育機関の中で彼女に見覚えはなかった。第一、ここの生徒ならば、今頃、典礼に出席しているはずだ。
しかし、ローズが疑問をぶつけるよりも早く、少女が口を開いた。独特の訛りがあるフランス語。
「ここのバラはあなたが?」
おそらくローズが手にした液体肥料を見ての言葉だろう。いくつなのかわからないが妙に大人びた口調と、少し控えめな態度は好ましい。年の割には落ち着きがなく騒がしい従妹を思い出しながら、ローズは頷いた。
「ええ、気に入った?」
手にした液体肥料を地面に置く。少女は両手を背の後ろで組み、先ほどの蝶のようにふらふらと体を揺らし、くるりと温室を見渡す。
「はい。とても素晴らしいです。こんなに素敵な温室は見たことありません」
賞賛の言葉とともに、綻び始めたバラに鼻を寄せる姿は相応に無邪気だ。まるで子供のように、にこにこと笑っている。
「ありがとう。……お気に召したのなら、好きな時に来るといいわ」
相手があまりにも無邪気なせいか、普段は口にしない素直な言葉が口をついた。それに答える少女の笑顔はやはり無邪気だ。
ぱっとあからさまに嬉しそうな少女に、ローズもまたつられるように破顔する。
「よろしいのですか?」
「もちろん」
ローズはテーブルの上に置いていた花鋏を手にすると、少女が鼻を寄せていた緋色の花を咲かせるオールドローズへと歩み寄る。そして、ちょうど綻び始めたバラの蕾を、ぱちん、と切り取った。
驚きに目を見開く少女に、慣れた手つきで棘を落とし、そのままそのバラを差し出す。その洗練された仕草は少しの不自然さもなく、少女は思わずといったように、血よりも赤い緋色のバラを受け取った。
少女は、いつのまにやら手の中に収まったバラをびっくりしたように見つめ、そして二、三度瞬きをすると顔を上げる。
「今日の記念に」
その驚きに見開かれたままの黒い眼差しを見返しながら、さらりと告げると、少女はバラの芳香に酔ったように、「ありがとうございます」とうっとりと笑った。
その笑みに、ローズは理由もなく気恥ずかしくなりながら、少女の名前と所属を確認する言葉を口にしようとした瞬間、
「ローズ!どうせここにいるんでしょ、ミサをさぼっちゃダメじゃない!」
と、妙に明るい声と共に、ばん、と勢いよくガラス戸が開いた。
その聞き覚えのありすぎる声に、ローズは思いきり不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。
「……マーガレット。扉の扱いは静かに。それから温室の温度が変わるから、開けたらすぐに閉めなさい」
しかし、少し幼く、そばかすが浮いた金髪の少女、マーガレットは意に介した様子もなく、大仰な仕草で肩をすくめて見せた。
「君、毎回同じことを言ってるような気がするんだけど、よく飽きないね」
「マーガレットが同じことを繰り返すからでしょう、少しは学習しなさい」
扉を開け放したままずかずかと入ってくるマーガレットを叱れば、くす、と笑う声が聞こえてきた。振り返ると、黒髪の少女が緋色のバラを口元に寄せ、くすくすと笑っている。少女はローズの視線に気がつくと、その目をきゅっとたわませてみせた。
「私は失礼させて頂きますね。それでは」
少女は軽やかな足取りで、ローズとマーガレットの横をすり抜ける。マーガレットが開け放していたガラス戸を静かに閉めて、彼女は姿を消した。
「今のは誰?」
「さあ? …… 名前を聞こうとしたら君が来たんだ」
少し非難がましくぼやき、ローズはマーガレットに向き直る。
「中等部の娘じゃないの?」
「ううん? 私は見たことない」
マーガレットは明るい空色の瞳を伏せ、少しだけ考えるそぶりを見せたあと、軽い仕草で頭を振った。
「そう」
…… 見かけよりはずっと大人びていたけれど、まさか初等部とか? などと思わず考え込む。
ローズはふっとその眼差しを強くする。
初等部でもおかしくはない、丸みの少ない稚けない体躯、なにより、彼女は東洋人だ。
が、そこまで考えてかぶりを振った。
「どうしたのさ、」
何か気になることでもあるのか、とマーガレットの言葉に、ふと眼鏡をずらすと辺りを見回した。
彼女について出て行ったのか、絢爛な蝶の姿はない。
ローズの行動を訝しげに眺めてくるマーガレットを見て、ローズは眉を寄せた。
「ちょっと、そのブーツだとここは立ち入り禁止だと、」
咎める声に、マーガレットは自慢のウェスタンブーツの尖った爪先で地面を、トン、と鳴らした。かすかに混じった金属が触れる音は、踵に装着した拍車のものだ。
「蔓バラが傷ついたらどうするの、」
「カウガールはそんなへましないさ!」
自信満々のマーガレットだが、その根拠がないことをローズは知っている。
言っても無駄なことも。
だから、ローズは気を取り直すと花鋏をテーブルに置いた。
結局名前すら聞けなかったが、まぁ、少女はこの温室を気に入ったようだったし、そのうち会うだろう、とローズは一人ごちると、液体肥料のタンクに手をかけた。
2021/03/14 大幅に修正
2021/01/11 デイジーからマーガレットに名前を変更しました。