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季節はずれの転入生が来ると、ローズが耳にしたのは、夜が長くなってきた秋のことだった。夜の冷え込みにバラがやられてはいけないと、温室の管理をしていた時に、学園の噂に敏いリリアーヌが話を持ってきたのだ。
「……珍しい」
思わず、温室の温度を上げるための機械に水を補充する手を止めてローズは呟く。
水瓶を地面に置いた仕草でずれた眼鏡の枠の外で、バラの精霊と視線が合う。“それ”のウィンクに、ローズは微笑みを返し、ずれた眼鏡を押し上げながらリリアーヌへと振り返った。
二人が在籍するのは中央ヨーロッパの片田舎にある神学校に併設された女子教育機関である。神学校自体は、過去に卒業生から法王を排出したこともある由緒があり、格式も高いものの、一般にはそう有名な学校ではない。
敬虔なキリスト教徒の、更に一部の信者達にとってはある種の聖地のような扱いを受けてはいる学校ではあるが、産業革命を経て資本主義が台頭してきた近代において、聖書の持つ意味が少しずつ変容するに従い、この学校が教育指針もまた時代と共に変貌してきている。
つまり、”ピンの頭の上で何人の天使が踊れるか”と言う命題を真剣に議論するようなあからさまに宗教色を前面に押し出すことはなくなり、神学、宗教学以外にも、新しい学問である科学を取り入れるなどカリキュラムに手を加え、時代に添うような学術機関も備えてきた。
その一環として、女子教育機関が設立されたのは、5年前である。そして、ローズとリリアーヌは、記念すべき第1期生だ。
一方で、中世時代から根底として変わらないものもある。
この学校では前時代までは敬虔な聖職者を、そして、今は、一般生徒はごく普通の学生として、その他に、秘密裏にではあるが一部の選ばれた生徒を、世に蔓延る魔を祓うエクソシストとして育成することを目的として運営されているのである。
ひっそりと息づいてきた”神に祝福されなかった者達”は、電気が発明され、夜の闇が世界の片隅に押しやられようとも、いや、むしろ、棲む世界を奪われることを怯えるように、近年活動が活発化してきている。
年々、バチカンが認定する悪魔による被害は増加傾向にあるのだ。
自然が解体され系統づけられていく近代において、幻想にかすんでいた中世時代よりも、不可思議な事件が増え続けるのは、情報収集の手段の発達のためか、それとも呪われし者達の最後のあがきなのか。
不可思議な事例が増えるに伴い、抱える案件も飽和し、慢性的にエクソシスト不足であるバチカンは各国から能力のあるものをスカウトし、この学園でエクソシストとして教育している。
リリアーヌはその一員であり、ローズも便宜上、同等の扱いを受けていた。
そして、時季はずれの転校生はそのスカウト生であるという可能性が高い。
それ故に、ローズの「スカウト生?」という問いかけは当然のものだ。しかし、ローズ曰くの品のない生態と裏腹に、リリアーヌは優雅な仕草で椅子に座ると、軽く頭を振って否定する。
「いえ、編入試験を受けたらしいから、違うでしょうね」
「それは …… 物好きな」
そう名高くない割に学力が高いこの学校において、編入試験は”落とすこと”を目的に作られているとしか思えない難易度の高さである。
大体、この学校の編入試験に受かるのならば、パリやベルリンといった大都市にある有名な学園にも簡単に編入できるはずだ。知名度で言えば圧倒的に不利なこの学園に、聖職者でもなければ、そこまでして編入するメリットは正直見つからない。
訝しげにローズが呟けば、リリアーヌは口の端に笑みを浮かべて更に情報を提供してくる。
「東洋人だって。ロシア語しゃべれるらしいからロシア系モンゴロイドなのかも。ラテン語は苦手だけど、編入試験での科学は満点だったって噂」
「ふうん、優秀」
思わず感嘆すれば、リリアーヌは耳にしたばかりの噂話を口にする。
「見た目も華奢で東洋人だからか、だいぶ幼く見えたけど、私たちと同じ学年に編入するらしいわ」
まるで見てきたかのような言い方に、ローズが思わず「会ったのか?」と聞き返せば、リリアーヌはあっさりと頷いてみせた。
「ええ、昨日学園を見に来てたから、今週末に寮に入って、来週頭から登校でしょうね。先生に案内されている時にすれ違ったの。シルクのような黒髪と、黒曜石の瞳、バター色の肌。香り立つようなオリエンタリズム! 華奢な体つきは、まるで声変り前の少年のようだったわ」
リリアーヌが軽く手を振りながら説明すれば、ローズは呆れたようにリリアーヌを見やった。
「少年って …… 無節操だな、」
「やーねぇ、そんなんじゃないわよ。お人形みたいで …… まるで人間じゃないみたいだった」
ローズの軽い非難をリリアーヌは慣れたものであっさりと受け流した。
「そういえば、リリアーヌ、この間の件は結局どうなった?」
ふと思い出したようなローズの問いに、リリアーヌは軽く肩をすくめてみせる。
先日フランスの小さな港町に”悪魔がでた”との報告が、リリアーヌにはその調査及び悪魔の存在が確認でき次第、その悪魔の駆除という命令が下されていたのだ。しかし、思ったよりも早く帰還してきた彼女の報告は、思わしくないものだったらしい。
「跡形しかなかったわ」
「?」
軽く告げられた一言に、意味がわからず視線だけで問い返せば、リリアーヌはまるで天使のように緩く波打つキャラメル色の髪に、己の指を潜り込ませ天を仰いだ。
まるで天にまします彼女らの父に、救いを求めるように。
「ご本人はすでに立ち去った後。残されたのは美女の首筋に二つの牙の痕」
リリアーヌの長い指が彼女の白い首を指し示す。深い溜息と共に吐き出されたその言葉に、ローズは整った顔を歪める。
「……ヴァンパイア」
「おそらくね。彼女は吸血鬼化してなかったから、飲む量と下僕化を制御できる”吸血行動を伴う理性的な悪魔”の旅先の食事だろうってことで落ち着いたわ」
軽い調子で応えるリリアーヌにローズは僅かに苛立ちを募らせる。理性的な悪魔って何、と言う言葉が喉元までこみ上げるが、どうにかそれを呑み込んだ。
「恰好は?」
「背後から襲われて覚えていないそう。ただ、ラテン系の少年と東洋人の子供の恰好をした仲間がいるみたい。関係は不明だけど」
「…… ラティーノはともかく東洋人の子供? 変わった組み合わせだな」
少しだけ考え込みながらの単純なローズの疑問に、リリアーヌは皮肉げに肩をすくめて見せた。
「確かに目立つ組み合わせみたいよ。おかげで情報収集はすぐに終わったから。まぁ、彼らもわかってるみたいでその辺は巧妙だった。結局、港町を出てパリを過ぎたあたりで見失ったわ」
「バチカンは?」
「追って調査する、だって」
リリアーヌのどこか投げやりな態度に、ローズは「そう」と短く頷いたまま黙り込み、手にしていた水の入ったタンクを床においた。
ぼんやりとその視線を膨らみ始めたバラの蕾に向ける。
彼女自身の手で品種改良が行われたモダンローズが咲き誇る温室の中では珍しいオールドローズだ。野生種に近く、強い芳香とは裏腹の一重の花びらからなる素朴な造形。なによりも、野性的なまでに鮮血よりも鮮やかな緋色は彼女のお気に入りだ。
そして、その深い甘露の赤は吸血鬼がもっとも好む色でもある。
リリアーヌは黙り込んだローズの視線を追う。髪と同じ濃い蜂蜜色の睫に縁取られた、普段は深い森の奥にある湖を思わせる瞳は今、エメラルドを思わせるほどの硬質さで遠くを見るように眇められている。
リリアーヌとローズは同日に入学した腐れ縁だ。だからこそ、リリアーヌは数いる悪魔の中でローズが特に吸血鬼を嫌っていることを知っている。その理由も。
バラの先に何を見つめているのか知らないが、この仕事はローズに押しつけることができるかも、と思いながらも、押しつけきれずに自身が巻き込まれることをは想像に難くない。
リリアーヌもまた物憂げに目を伏せる。無意識のうちに左手薬指に光る銀の指輪に触れ、小さく息を吐いた。
2021/03/14 大幅に修正