05
温室の温度を保つための蒸気機関の上にのせていたケトルからポットへとお湯を注ぐ音。途端、あたりに広がるベルガモットの香り。
ガーデンチェアに腰かけたリリアーヌの前のガーデンテーブルには、広げられたレポート用紙。リリアーヌは作成途中の報告書から顔をあげずに尋ねた。
「ローズ、他に言うことない?」
「何かおかしい?」
「もう直球で聞いちゃうけど、悪魔憑きを失神させたのは本当にアナタなの?」
「…… だから、聖水はかけておいた」
「アナタの信仰心じゃ聖水なんて気やすめじゃない」
「……」
黙り込むローズに、リリアーヌは言葉を重ねる。
「いっつも活きがいい状態で引き渡されるのに、今回は随分とぐったりしてるから、ついに引き金を引いたかと思ったんだけど …… 」
ちらり、とローズを眺めやるが、ローズはどこ吹く風でリリアーヌを振り返りもせず、慣れた手つきでお茶を淹れている。
「でも、悪魔憑きを失神させたと思われる一撃は銃痕ではなく打撃痕だったわ」
「…… 馬車にぶつかった衝撃で自爆したのかな?」
澄まして答えるローズに、リリアーヌは目を細めた。
「打撃痕はみぞおちに直径約5センチメートル …… ヤードじゃなきゃわからないなんて言わないわよね?」
リリアーヌの嫌味に、ローズは小さく息を吐く。
答える代わりに、ポットからカップへと紅茶を注ぐと、「どうぞ」とガーデンテーブルへと置いた。そして自分のカップを手に、テーブルを挟んで置かれた猫足の小さな二人掛けソファに身を委ねる。
「…… モモってミステリアスよね。妖精みたいに小さくてかわいいし、まるで人間じゃないみたい」
「…… 妖精見たことないくせに」
「あら、ローズはあるの?」
リリアーヌのとぼけた質問に、ローズは意味ありげな笑みを浮かべる。
「妖精じゃないとしたら悪魔かしら? 彼らはとても魅力的なのよ、人を惑わすためにね」
手にしていたペンをガーデンテーブルへと投げだし、リリアーヌはローズの様子をうかがう。嫌味を理解した上で、ローズは表情を崩さない。
「悪魔だったらなんで悪魔憑きに襲われるかな? 仲間だろう」
「あら、神は悪魔と対立するけれども、悪魔は神と自ら以外の悪魔と敵対するものよ」
少し下がった眼鏡を指先で押し上げるローズに、リリアーヌは小さく肩を竦めて見せた。
「…… 日曜のミサに一緒に出席したけど、モモにラテン語での歌い方を教えて欲しいと言われた」
「二人してサボってたって、マーガレットがぼやいてたけど?」
「教会にはいたんだ」
しれっと答えるローズに、リリアーヌは、何してたんだか、と吐き捨てる。
「でも …… ふうん、聖歌を楽しむ悪魔、」
通常、悪魔は教会歌を厭う。神を讃え、人類を祝福する歌自体が祈りだからだ。
言外にリリアーヌの推測を否定するローズを、リリアーヌは追求するつもりはない。
リリアーヌ自身も最初こそ警戒していたが、同級生としてのモモは、少々流されやすいところはあるものの、基本的には柔和でつつましい、何なら模範的なカトリック教徒のような少女だと認識している。
したがって、リリアーヌは育ちの良い異国の娘が遊学しているのだろうと結論付けていたのだが。
今回の一件で見方が変わったのは事実だ。
港町での吸血鬼騒動に、今回の悪魔憑き。その二つの事件には、珍しい東洋人が関わっている。
なにより、今回の件において、リリアーヌは、すました表情で茶をすすっているローズが悪魔憑きを仕留めたのではない、と確信している。
そもそも、この魔女はエクソシストではないどころか、カトリック教徒ですらないのだ。
学園の制服に身を包んでこそいるが、ローズは学園の母体であるカトリックはおろか、彼女の両親が回心している聖公会においても洗礼を受けていない。
なぜなら、彼女は洗礼を受ける前に、妖精に攫われたのだ。
彼女の母親は、湖水地方にある別荘でローズを産み落とした。
ローズが精霊たちの祝福を受けたのは、生まれて1週間もたたない頃だ。
乳母が目を離した隙に木の欠片と取り換えられたのだという。乳母の娘がベッドに寝ているのが取り替え子であることに気が付いたことで、ローズは戻ってきたが、その時すでに彼女の瞼には妖精の軟膏が塗られた後だった。
ロンドンに戻った後、特にローズが言葉を覚え始めてからは、修羅場だったと言っていいだろう。精霊が見えるローズの言動と行動は、屋敷の者たちに薄気味悪いと恐れられ、彼女は再び湖水地方の別荘へと送り返された。
しかし、彼女が10歳を迎える前に、彼女の世話をしていた乳母と、ローズが姉のように慕っていた乳母の娘が、不幸な事故で命を落とした。妖精憑きの娘を持て余していたロンドンの両親は、伝手をたどり、入学が許される年齢に達するや否や、寄宿舎を有するこの学校へと、娘を送り込んだのだった。
神の加護がないものは、神と相対する悪魔を祓うことができない。だから、悪魔が出没するエリアに、ローズがお出かけするときは、ヴァチカンから正式に認定されたエクソシストであるリリアーヌが護衛として行動を共にすることになる。
なぜか、悪魔や人に関わらず、ローズに害をなそうとするモノは、蔓草で巻き上げられたり、突如沈下した地盤にはまったりすることで、彼女は幸運にも災いを逃れる。
そして、偶然にも身動きが取れなくなった彼らを救済するのが、教会に帰属するリリアーヌの役目だった。
つまり、ローズ自身は護身用に持ち歩いている銀の銃弾で彼らを打ち抜いたことは、今まで一度もないのだ。
事実、今まで、魔女に害をなそうとしたモノたちは、擦過傷などはあれど、明確に何かの攻撃を受けたと思われるような痕はなかった。
では、誰が悪魔憑きを昏倒させたのか。
あの場にいたのは、馬車に下敷きになり死亡した御者と、打撃痕を持つ悪魔憑き、そして無傷の東洋の少女。
あまりにも不自然で、疑うなと言う方に無理がある。
リリアーヌは品の良い仕草でカップを扱うローズを見やる。
妖精が好む蜂蜜色の髪とミルク色の肌。魔を宿すという緑の瞳。伸びた背筋と所作の上品さは彼女の育ちの良さを偲ばせる。
第一発見者は、親友であるローズ。
ローズのことを誰よりもよく知るからこそ、リリアーヌはローズを信用しない。
彼女は結局どこまでいっても魔女なのだ。
だから、ローズが口にした推測は意外なものだった。
「モモは敬虔な教徒かもしれない」
「ミサをサボるのに?」
「信仰は心だって」
「人は心に行動が伴うものよ。でも、どうしてそう思うの?」
「…… 胸に傷が」
「傷? なんでその時言ってくれなかったの?」
「モモが古傷だと言い張ったんだ。だけど、あれはまるでついたばかりのような ……」
いつもは必要以上に言葉が過ぎるローズにしては歯切れが悪い。リリアーヌは眉を寄せて、しかし、思い当たったようにローズへと向き直った。
「…… イエスの焼き印?」
「わからない。私は聖痕を見たことないし」
ちらり、と視線を投げてくるローズに、リリアーヌは自身の下腹部に左手を当て、淫猥に笑う。まるで誘うようにゆっくりと撫でてみせるその左手の薬指には、銀の指輪が光っている。
「見たい?」
「君のは別に」
意味深に問いかけるが、ローズの答えはそっけないものだ。
リリアーヌは左手の薬指に填めた指輪に音をたてて口づける。
「まぁ、愛の証はそうひけらかすものじゃないもの」
「愛ゆえに傷つけるなんて、とんだDV野郎だな」
ローズが煽ればリリアーヌは眉を跳ね上げる。
二人はしばしにらみ合ったが、先に気がそがれたのはリリアーヌだ。基本的に彼女の怒りは長続きしない。
「じゃあ、やっぱりモモが学園に来た理由って、スカウトだったってこと?」
「それなら君に知らされない理由がわからない」
「あら、私が知ってるのに黙っているとでも?」
スカウト生ならばクラブ活動に所属するべきだし、ローズやリリアーヌと協力しながら任務を受けることになる。したがって、二人に説明がない時点で、スカウト生ではないはずなのだ。
「…… ローズはモモが吸血鬼だったらどうするの?」
「そうだな、ヴァンパイアを仕留めるには、サロメのように断頭するんだったか、それとも、杭で地面に縫い付けるんだったか?」
平然と物騒なことを口にするローズに、リリアーヌはきゅっと透き通ったキャラメル色の目を細めてみせる。
「ヴァンパイアなら頭を切り落とした瞬間に灰になって、サロメのように口づけなんてできないわよ?」
そこで、ちらり、とローズを横目で見やる。
「それとも地面に押し倒して、彼女の細い身体を太くて大きい杭で打ち付ける?」
「…… ふ」
リリアーヌの言い回しに、何かを含むようにローズが口の端を歪める。
「何その表情、やーらし」
「君の言い方が悪い、」
リリアーヌの問いに、ローズは小さく首をかしげる。さらりと妖精が好む蜂蜜色の髪が揺れた。
「まぁ、でも …… あんまりひどいこと、させないで欲しいかな?」
ローズの主張に、リリアーヌは頬を引きつらせる。
「…… そういうとこ、ほんと魔女よね」
「どういうとこ?」
呆れたリリアーヌの嘆息に、しかし、ローズは不思議そうに問い返す。
「自分の欲に忠実で、それを満たすためなら手段を選ばないところ。悔い改めた方がいいわ」
「そんなつもりないけど」
歯に衣を着せぬリリアーヌの物言いに、しかし、ローズはやはり理解できないというように、小さく首を傾げて見せた。
「モモにはできるだけ優しくしたいと思っている」
「…… だからそういうとこよ」
いっそ無垢な表情のローズに、リリアーヌはぞっとしたように少し体を引いた。
気を取り直そうと、冷めたティーカップを持ち上げようとして、温室のガラス戸の向こうに人影を見つける。
揺れる黒髪、華奢な体躯の東洋の少女。モモだ。
サロメ:ヘロディアの娘。イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネの首を求めた人物。
19世紀後半から20世紀初頭のいわゆる「世紀末芸術」のモチーフとして好まれました。
リリアーヌが指しているのは、オスカー・ワイルドによる戯曲『サロメ』です。
1896年にパリで初演。