03
二人の身体を拘束した蔦は、ローズがとん、と街道に足をつければ、するすると森へと溶け込むように戻っていく。
一方、モモはその足が地面に着いた瞬間、崩れ落ちた。ローズは半ばモモを支えながら、その場に両手をつき蹲るモモの傍らに膝をつく。
暮れなずむ夕日の下よく見れば、モモはひどい有様である。
フリルが付いた白いブラウスに上質な濃紺のジャケットとスカート。随分と崩れてしまっているが結った髪に挿した髪飾りといい、清楚な装いではあるが、街に行くためにおめかしをしていたのだろう。
しかし、枝にでも引掛けたのか、引き裂かれているのはスカートだけでない。
リボンタイが解け、はだけた襟元からはわずかに浮き出る小さな鎖骨。骨自体が細いのか鎖骨自体の存在感はさほどないが、黄金を溶かしこんだような柔肌の内側から光が漏れ出るような輝き。薄い胸のわずかなふくらみは、未分化に近い体躯が、かろうじて少年ではなく少女であることを主張している。
しかし、何よりローズの目を惹いたのは、その鎖骨と胸の間の生々しい肉の赤。
「モモ、怪我!?」
ローズが声をあげれば、モモは慌ててはだけた胸元をかき寄せた。
「違います!」
穏やかな物言いを常とするモモにしては大きな声。いつもはわずかしか開かない控えめな口元が大きく開き、赤い咥内が覗く。
そこに見えたものに、知っていたにもかかわらず驚いて、ローズは伸ばそうとした手を止めた。
膠着したようにモモの口腔から目を逸らせない ―――― 逸らせないでいた。
モモはローズの手を避けるように僅かに身を引く。
「古傷です …… 大丈夫です。今、付いた傷ではありません」
いつもの落ち着いた声音。モモの声にローズは我に返ったように、自身の手を引いた。
そうは言っても先ほど見た肉の色は癒えたものではなかった。しかし、流れ出る血はなく、モモの顔も痛みに歪んではいない。
「…… モモ、痛む傷はないのね?」
「はい」
確かにローズが見ても、モモの呼吸は乱れてもいない。モモがはっきりとした仕草と言葉で首肯したことを確認し、ローズは自身の外套を脱いだ。
外套の下に身に着けているのは、白を基調とした悪魔祓いの制服だ。なにより、肩から下げたガンホルダーに収められた小銃と聖別された弾丸。
ローズは脱いだ外套をモモの肩にかけた。モモはことさら胸元を気にするように、自身の体にローズの外套を巻き付ける。
「ありがとうございます。…… その、」
「ローズ! …… モモ?」
「リリアーヌさん!?」
モモが何かを言いかけた時、ローズと同様の外套に身を包んだリリアーヌが森の中から飛び出してきた。リリアーヌはローズの姿を認め、次いで蹲るモモを見ると手にしていたレイピアを腰に収めた。捲られた外套の下にローズと同様の制服が覗く。
「リリアーヌさんまで、どうして?」
ローズとリリアーヌを交互に見やるモモが浮かべるのは、明らかな困惑だ。普段はあまり表情を崩さないモモにしては珍しい。ローズは諦めたように嘆息した。
「モモ、説明は後。 …… リリアーヌ、モモが乗っていた辻馬車が崖下に。悪魔憑きは馬車に縛り付けてある。そっちは?」
「治癒したから大丈夫」
ローズの言葉に軽く返答すると、リリアーヌはモモへ振り返った。
「モモ、馬車は他に誰か乗っていた?」
「いえ、…… あ、御者の方が」
リリアーヌの問いに素直に答えようとしたモモは、はっとしたように口を噤む。
わずかに眉を顰めたリリアーヌがローズへ視線を投げれば、ローズは顔を横に振った。
「後続隊が来るまでこうしていても仕方がない。引き上げてもらおう」
ローズの言葉に、リリアーヌはちらりとモモを一瞥する。
「いいの?」
「もう見られている」
ローズの返答にリリアーヌは嘆息すると、軽く肩を竦めて見せた。
「馬車ごと彼をここに。お願い」
誰に宛てるわけでもないローズの呟きに応えるように、辺りの木々が一斉にざわついた。ついで、ぎし、と馬車の材木がきしむ音。
ふっと空気に血の香が混じると、崖下から蔓草が絡んだ馬車と馬車に繋がれた男が姿を現した。大仰な音をたてて、道路に転がされる馬車に、繋がれた男は小さくうめき声をあげた。
リリアーヌはいまだ蹲るモモの傍によると、「大丈夫?」と声をかけた。
モモは相変わらず曖昧な表情で小さく頷いて見せたが、血の香を厭うようにローズの外套に顔をうずめた。黒い瞳を厚い瞼の奥に仕舞いこみ、両手でローズの外套の襟元を引き上げ、自らの鼻先を覆う。
さらには、すぅっと深く息を吸いこむモモから、リリアーヌは気まずく視線を逸らした。
反らした視線の先にはローズがおり、目が合った。
「リリアーヌ、彼の処置を。聖水は一応かけてみたけど、私では祓えていないと思う」
促されて、リリアーヌはローズのもと、馬車に繋がれた男へと走り寄る。
外套の下から銀鎖を取り出すリリアーヌに、ローズが話しかける。
「…… 崖下に御者の遺体があるけど」
ローズは自身の外套に身を包むモモを見やった後、崖下へと視線を投げた。リリアーヌは一瞬だけ思案したが、嘆息とともに言葉を吐き出した。
「…… 可哀そうだから引き上げて欲しい。ただ、モモの目は塞いであげていた方がいいと思うわ …… 彼女が普通の女の子ならね」
「そうだな、彼女に君の奇蹟を見せる必要もないだろうし。…… そういうことで、お願い」
最後の一言は、明らかにリリアーヌに向けたものではない。
リリアーヌはリリアーヌで、てきぱきと鎖で男の手足を馬車に固定している。
自身の言葉に応じるように、蔓草がうごめきだすのを横目に、ローズはモモのもとへ戻ると膝をつく。気配を感じたのか、うっすらと目を開けようとするモモの顔を覗き込んだ。
「ローズさん、」
「そのままでいい」
ローズは小さな子を安心させるように囁いて、モモを外界から遮断するように、その小さな頭に、外套に付属しているフードを被せた。モモの髪飾りにとどまっていた蝶が厭うように逃げる。ローズは蝶が逃げる先を視線で追いながら呟いた。
「…… きれいな蝶だ」
「え?」
驚いたようにモモが目を見開く。ローズは彼女の瞳を覗き込むように、顔を近づけた。間近に迫った湖水の瞳に、モモは反射的に身を引こうとする。しかし、ローズの細く長い指が両頬にかかるフードの両端を握っていて、それを許さなかった。
それでも、モモは恥ずかしいのか、ローズの視線から逃れるように俯いた。
ローズは薄い唇の端を持ち上げる。笑みにも見えるが、それはどこか諦観が滲んだものだ。
「“あれ”はモモのことがとても好きなんだな」
「あの、」
戸惑うモモから、ローズは目をそらさずに告げる。しかし、その光が入らない深淵の瞳は、密度の高い睫毛の陰になり臨めない。
「モモに“あれ”がどう視えているのか知らないけど、私には蝶に視える」
「…… ?」
「精霊が視えるんだ」
ローズの告白にモモは、思わず顔を上げた。さらりと前髪が割れて、伏せがちな目は見開かれている。ローズはモモの視線が向けられたことに少しだけ気をよくして、歌うように告げた。
「小さい頃、両目に妖精の軟膏を塗られたから」
「妖精の軟膏?」
聞きなれない単語をモモが問い返せば、ローズは小さな子供が些細な秘密を教えるように囁く。
「妖精が持つ薬。それを瞼に塗ると不可思議が視えるようになる」
「! …… だからそんなきれいな瞳なんですか?」
モモが思わず口にした疑問に、ローズはいったん目を見開き、そして噴き出すとともに破顔した。
「いや、この瞳の色なら父親譲りだ。 …… ありがとう」
「そ、そうなのですか ……」
居たたまれないというように顔を伏せるモモをみて、笑いをかみ殺すローズの肩を叩いたのは、外套を脱いだリリアーヌだ。
ローズが顔をあげれば、リリアーヌは胡乱な表情で顎をしゃくった。
その先には、銀鎖で馬車に固定された男と、その脇にはリリアーヌの外套が被せられた、おそらく御者の遺体。
何より一仕事終えた精霊たちがローズへと纏わりついてきた。
蜂蜜色の髪にぶら下がり、髪の束を食んで見せる。ローズは丁重に、しかし半ば強引に彼らを引きはがした。