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ニコラスによる教練は一風変わっていて、私たちはひたすら走らされた。
当時はまだ体育技術が発達しておらず、体操や筋力トレーニングの類が確立されていなかった。
そんな当時の状況からすると、とりあえず基礎体力をつけるという方針は進歩的だったと言えるかもしれない。
教練中、私たちは雨水や川の水を革袋に入れて携帯することを許されたが、水を飲めるのはニコラスから許可が下りたときだけだった。
丘の周りをぐるぐると走る日もあれば、同じ山を登っては降りることを繰り返す日もあった。
日差しが照りつけようが雨が降ろうが、足場がぬかるんでいようが小石だらけだろうが、朝の暗い時刻から夜が更けるまで走り続けた。
現代で言うランナーズハイもしょっちゅうで、中には苦しくなってくるほど笑顔になる変態的な隊士もいた。
過酷だったが、文句を言う気にはなれなかった。
というのも、ニコラスが列の先頭から最後尾までを何往復もして無尽蔵の体力を見せつけているのに加えて、女であるメアリーが(滝のように汗を流しながらも)弱音を吐かずに走り続けていたからだ。
当時の私は短い距離で敵を追いかけたことはあっても、長い距離を走り続けた経験はなく、隊士らの見回りをするニコラスによく殴られた。
ニコラスは教練の初日には木剣を持参していたが、殴った拍子に或る隊士の肩を砕いてしまい、マイクロフトから「貴重な戦力に怪我をさせるな」という忠告が入ったので、それ以降は鞭を使うようになった。
教練の最中に倒れる者や血反吐を吐く者に対して、容赦なく鞭が振り下ろされた。
「てめえ、死にてぇのか」
と、ニコラスは誰かを殴るたびに吐き捨てた。
これが戦場なら殺されているぞという意味である。
「立て、××。お天道様はてめえなんぞ助けてくれねぇぞ」
ニコラスは普段から乱暴な言葉を漏らしていた
(あの強姦魔とは別の言葉だったが、この手記では伏せ字は等しく××と表記する)。
もしも奴の言葉を一言一句書き出したら、この手記は伏せ字でいっぱいになってしまうだろう。
ニコラスのひん曲がった口から「神」だの「誇り」だのいう神妙な言葉が発せられることがごくたまにあったが、いつもぎこちなく聞こえた。
私は密かに、ニコラスの出自は農民より低いのではないかと思っていたが、そんなことを言ってみても始まらない。
脱走しようとする者も何人かはいたが、教練の最中に逃げようとすればニコラスが飛んできた。
いざとなればニコラスは鞭を振るうだけでなく石を投げるのだが、これが嘘みたいに真っすぐ狙った所に飛んだ。
夜に脱走の計画を立てようとする者もいたが、疲れすぎて話の途中に寝てしまうという具合で、成功の気配はなかった。
夜は肺の痛みを感じる間もなく泥のように眠り、翌朝はきしむ体を持ち上げて身支度をした。
過度の疲労で寝違えることは日常茶飯事だった。
野営の訓練と称して屋外にテントを張って寝ることも多く、そんな夜はまるで流浪の民や遊牧民になった気分だった。
テントで寝る夜に雨が降ったときが大変で、一晩中雨漏りに悩まされ、起きて雨が止んでいたらテントを手早く解体して干さねばならなかった。
寝坊は6人の班ごとに連帯責任だったが、この走り込みの1ヶ月だけは比較的穏便で、6人が揃って寝坊しても鞭で殴られるだけで済んだ。
幸いにして私たちの班は寝坊するようなドジを踏まなかったので、私は同僚が無言のニコラスに殴られるのを専ら見ていた(奴は部下がどんな失態をしても怒鳴り散らすということをしなかった)。




