10-6
正直、護衛の騎士がついてくる可能性を私は失念していた。
さて、どうしようかな、と私は思ったが、人混みに声が届かないところに来てから間髪入れずに、アリスが、
「ハーディングさん、ハーベイさん、火急のお話とのことですが、長くなりそうですか?」
と訊いてくれた。
アリスの機転に、私は感謝した。
「ええ。適当な場所を見つけて、そこでお話ししましょう」
と私が言うと、アリスが、
「でしたら、わたくしどもの部屋までお越しください。美味しい紅茶をご用意いたします」
と言ってくれた。
あの部屋は建前上はプライベートな空間という位置づけだから、護衛の騎士たちを排除することができる。
案の定、東棟3階の例の部屋に着くと、アリスと私が何も言わない内に、騎士たちは部屋を出ていってくれた。
道中、ローラはずっと俯いていた。
それは部屋に着いて、騎士たちが扉を閉めた後も変わらなかった。
ローラは私たちに背中を向けて、頑なに俯いていた。
アリスはアヒル口で紅茶を淹れ始めた。
でこっぱちが窓から差し込む日光を反射してピカピカしていた。
ニコラスはずっとつまらなそうな顔だった。
本題に入る前に、私はニコラスに尋ねた。
「これから内密の話があるんだが、外の連中に聞かれてないよな?」
「さっき遠ざかる足音がした。聞き耳を立てる気はなさそうだ」
「なら良い」
ニコラスがローラを一瞥してぼそりと言った。
「俺はこいつに話なんかねぇぞ」
ローラが意を決したようにこちらを振り向いて、ニコラスを見た。
いつの間にか、顔が真っ赤になっていた。
「あ、あの、ハーディングさん、わたし……、あ、あなたのこと、ご尊名でお呼びしても構わないかしら?」
「はぁ?」
ニコラスが威嚇するように聞き返した。
ローラがたじろいだ。
私としてもローラの繊細な心情を汲むつもりはない。
何と言っても、私はローラに恋を諦めさせるべき立場にいるのだ。
私はニコラスに顔を向けて言った。
「ローラはお前を好きになったんだ」
私の言葉に、ローラはこの世の終わりのような顔をした。
アリスは何食わぬ顔でテーブルに紅茶を並べながら、独り言のように言った。
「あら、ジャコブ、今日はぐいぐい行くわね」
「ああ。もう時間がないからな」
ニコラスは自分が置かれた状況をよく呑み込めていないようで、乏しい表情のまま私たちを見ていた。
「ニコラス、お前はローラを愛してるか?」
「いや、別に」
ニコラスが至極あっさりと答えた。
何が意外という訳でもあるまいに、ローラが引きつった音を出した。
私は畳みかけた。
「これから愛することになると思うか?」
「あああぁぁぁ! ダメ! ハーディングさん! ダメです!」
「まあまあ、3人とも」
アリスがゆったりした口調で割って入った。
「立ち話もなんですから、お掛けになってはいかがですか?」
私たち4人はひとつのテーブルを囲んで腰を下ろした。
ニコラスは紅茶を見つめて、匂いを嗅いだ後、一気に飲み干した。
ローラはニコラスの様子を、固唾を飲んで見守っていた。
「お口に合いましたか、ハーディング卿?」
そう尋ねながら、アリスがニコラスのカップに2杯目を注いだ。
「ああ、旨い」
ニコラスはアリスに感謝を示す素振りも見せずに、注がれたばかりの2杯目を飲んだ。
これも一気飲みだった。
卿と呼ばれたことには気付いてもいない様子だった。
「紅茶を召し上がるのは初めてですか?」
アリスが3杯目を注いだ。
「いや」
「あら? もう飲まれたことがおありで」
「ああ」
「どちらでお飲みになったんですか?」
「ジョンと会ってすぐの頃だ」
「ジョン……、ああ! カストバーグ子爵のことですね。……良かったら、ジャムと一緒にご賞味くださいね」
アリスはそう言って、ニコラスのソーサーにラズベリーのジャムを取り分けた。
当時はまだ砂糖が高級品だったので、ジャムもまた高級品であり、王侯や一部の聖職者の楽しみだった。
マイクロフトと親しいニコラスはもしかするとこれ以前にもジャムを食べたことがあったかもしれないが、少なくとも私は、ジャムという食べ物を見るのは初めてだった。
「ごめんなさいね、ハーディング卿」
アリスが軽い調子でニコラスに言った。
「ご訪問があらかじめ分かっていればパンケーキか何かご用意したんですけど、何しろ突然だったもので、今はこんなものくらいしかありませんの」
ニコラスは手元に置かれていたスプーンには目もくれず、ソーサーを持ち上げ、直接口をつけてジャムを舐めとった。
当時の私は食事のマナーに疎く、ニコラスの振る舞いを何とも思わなかったが、アリスの微笑みが強張るのを見て、どうやら聖職者たちのマナーには反しているらしいな、と思った。一方、ローラは取り憑かれたようにニコラスを見つめていた。
「俺は気に入った」
ジャムを食べ終えたニコラスはそう言って、またもや紅茶を一気飲みした。