9-19
「そ、そんな、ジャコブ!」
ローラがすっかり動揺しながら言った。
「夜に寝室に忍び込んで、そのまま、お、思いを遂げるなんて、そんなの、売春婦のやることよ!」
私はハリントンで、接客中の状態でない売春婦たちと酒を酌み交わした経験があり、彼女たちは別に淫乱な訳ではなく生活に困っているだけだし、生活の困窮にしても彼女たち自身の責任ではないということを知っていた。
だから、彼女たちに代わって「売春婦の何がそんなに悪いんだ」と言ってやっても良かったのだが、話がこじれそうなのでやめておいた。
「ジャコブって、意外と女心が分かってなかったのね」
アリスが私に追い打ちをかけた。
「さっきからローラが言ってるでしょう、ハーディングさんのことをもっと知りたいって。ローラの愛はプラトニックなのよ。そういう関係になるにしても、その前に踏むべき段取りがあるの」
「……プ、プラトニック?」
「知らない? プラトンよ、プラトン。古代の哲学者」
そう言われても、私には何のことか分からなかった。
後に知ったが、プラトニック・ラブとは、簡単に言えば「性欲に基づかない純粋に精神的な愛」のことで、清らかなものという肯定的ニュアンスを含む言葉だった。
何にしても、協力者候補の私に対しては夜這いまがいのことをしておきながら、ニコラス本人に対してそれができないというのは、私には奇妙な話に思えた。
「ていうか、そもそもニコラスはリジーのことが好きなんじゃないでしょうか」
私は決定的なことを言ったつもりだったが、アリスばかりでなくローラも動じなかった。
「それはないと思うわ」
「……なんでそこまで確信を持てるんですか?」
「ハーディングさんのような人が、好きな女性を前にしていつまでもウジウジしているとは考えにくいからよ。彼がリジーを好いているならすぐに思いを伝えるはずよ。それに、わたしたちが初めてハーディングさんを見たとき、彼は真っ先にカストバーグ子爵に駆け寄って抱擁を交わしていたわ。その後もリジーには指一本触れなかった。ハーディングさんとリジーが恋仲でないことは明らかよ」
「でも――」
「もちろん、ハーディングさんがリジーに思いを打ち明けて振られた可能性もある。でも、それならリジーがハーディングさんについて話すときに、そういう距離感が感じられるはずよ。わたしが話を聞いたとき、リジーはいつも通りの彼女だったわ」
「仮に2人の関係がそうだったとしても、ローラにとって大きな問題ではないのよ」
アリスがローラの言葉を継いで言った。
「ハーディングさんは遅かれ早かれフォスターさんのことを吹っ切るはずだから。もし吹っ切れないようなら――」
そのとき、ノックの音がした。
話に熱中していたらしく、ローラは雷に打たれたように飛び上がった。
アリスがすかさず駆け寄って、扉を薄く開け、ノックの主に用件を尋ねた。
男の声で「お食事をお持ちしました。ガレット様の具合はいかがですか?」と聞こえた。
その間、ローラは澄まし顔で、私に向かって聖書の一節を暗唱してみせた。
アリスが体よくノックの主を追い払って扉を閉めると、ローラは恋する乙女に戻って胸をなでおろした。
「今日はもう時間がないわ。
ジャコブ、厚かましいお願いだけど、ハーディングさんにわたしのことをどう思うか、さりげなく訊いておいてちょうだい。
訊きづらければ、好きな女性のタイプでもいいわ。
そして、3日後の午後7時に、またこの部屋に来てちょうだい」
好きな女性のタイプなんか訊いて、ニコラスがローラと真逆の人物像を挙げた場合はどうするつもりだろう。まさかそんな女になるつもりじゃあるまいな、と私は思ったが、少し怖い気がしたのでそこはツッコまないことにした。
時間がない状況でもあったので、私はとりあえずローラの言いつけを承諾しておいた。
だが、それは単に、身分の点でも、犯した罪の点でも、私に彼女の頼みを断る権利などないからだった。
退出する私のためにアリスが部屋の扉を開けようとしたとき、ローラは改まって私をじっと見つめてから言った。
「くれぐれも、ちゃんと来てね。3日後の午後7時よ」
部屋を出るとき、少し心配そうなローラを尻目に、アリスが微笑みながらちょこんとウィンクするのが見えた。