狂気の山脈
「こんな緑の盆地があったとは……」
アルチュールが、いや、ゴーシェも驚きを隠せなかった。
『生命なきものの王の国』を出、数日も行けばあの砂漠化した街ではなく、こんな緑の大地が広がっていようとは夢にも思わなかったのであった。
そして雪を頂く山々からは雪解け水の迸りが、清澄に岩を割り流れ出ているのであった。
「少し、寒いのね……」
オルランダの言うとおりでここは海抜の高さから寒冷な気候のようであった。
常緑の木々には何かの実が生っているが、口にしていい物か判断はつきかねた。
全くノーマルの栗鼠がちょこちょこと叢を行き来している。あい
「私の常識からしたら」
アルチュールは少し狼狽していたかも知れなかった。
「この環境の方が異常なものに映るのだ……」
「オレが昔読んだ本の中ではこの環境が自然の状態に近いらしいがな、ともかくここを探索してみないことには何もわからねえよ」
「そうだな……」
未だにアルチュールは震えていた。
一行は盆地を半日歩いてみたが広大でまだ山脈の裾野にすら行き着かなかった。
ダオレが全くノーマルの兎を捕まえてきたので一行は沢の水とその兎を食すこととなった。
「野生の兎は良く加熱しろよ? オレは野兎病で死にたくない」
そうゴーシェは言い放った。
既に常緑樹も疎らで低い草地となった地面に一行は宿を求めた。
充分な毛布などは持っていない、故に夜露に塗れる寒さには堪えるものがあった。
オルランダは尚更である。
「さっむ……」
着ているのはあの貴族の子弟風の男装のみである。
意外にもそこに手尾を差し伸べたのはアルチュールであった。
「寒いか、オルランダ?」
不意に優しい声を掛けられてオルランダはどぎまぎした。
「は、はい……」
するとアルチュールはトレードマークとも云える、青いマントを脱いで彼女に渡した。
「これで夜露をしのぐ足しになれば良いのだが……、今私がしてやれることはこれくらいだ、すまぬ」
「いえ、ありがとうございますアルチュールさま、充分暖かいです、感謝しております」
「そうか、それでも寒かったらそこのゴーシェが温めてくれよう」
「えっ!?」
果たして振り返るとそこには、二人を嫌そうに見つめるゴーシェの姿があった。
「………………」
「何かあったんです?」
「何でもねえよ、ダオレ」
既に夜半を迎え、セシルは熟睡していたしオルランダも床に就くところであった。
「……アルチュール、ゴーシェ、起きてますか?」
「何か、なにか居るな」
ゴーシェは耳を欹てる。
アルチュールはゆっくりと身を起こすといつでもマサクルを抜ける体勢になった。
それの呼気だけが夜に響いた。
抜くか?
ゴーシェはギリギリの判断をするが……
「待ってください!」
ダオレが叫んだ。
三人が一斉に振り返るとそこには珍奇なモノが立っていた。
身の丈は大人の男ほどもある、裸で胴体に顔が付いておりそれも単眼である。大きな口、肩もないのに直接胴から生えた貧相な腕、一本しか脚は無くそれに巨大な足が生えていた。
「なんだこいつは!?」
一番驚いたのはアルチュールであった。
「オレはこういった生き物を、ボージェスの庵にあった本で見たことがある。確か見たこともない程遠くの大陸に居るとされた夷狄……」
ゴーシェは冷静に言った。
「異民族なんですか?」
「恐らくそうだ」
ダオレの問いにゴーシェは答えた。
だがアルチュールはマサクルの柄でこの夷狄を突いた。
するとこの人間らしき生き物は不快な声を上げて、一目散に森の方へと逃げて行った。
「何をするんだアルチュール!」
「化け物を撃退したまでだ」
アルチュールは安心しきって周囲を見回した。
「あいつは俺の知る限り無害だぞ」
ゴーシェは呆れ果ててアルチュールを見た。
「ボクもあれは無害な生き物だと思います、どうしてアルチュールは畏れていたんですか?」
「あれは悍ましい!!」
アルチュールは珍しく叫んだ。
「まるで人間が野生動物になったようではないか! その様のことがあり得るのか!」
「ないとは言い切れない」
「そら恐ろしい話だ」
アルチュールの青い眸が細められた。
「アルチュール、見かけに騙されてませんか?」
「完全に騙されてんな」
「……仕方ないだろう、私の常識の埒外にあるのだ、信じられるか」
「だから、あの国に長くいると腐った常識を刷り込まれちまって、普通に物事が見られなくなっちまうんだよ」
「………………」
それを聞いてアルチュールは黙りこくってしまった。
「ゴーシェまた、あの夷狄が現れるでしょうか?」
「恐らくな、あいつ一匹とは考えづらい」
ぱちぱちと焚火の火が爆ぜた。
アルチュールは背を向けて寝たふりをしてしまっている。
――何かがおかしい、その疑念がゴーシェの中でどんどん膨らんでいった。




