第八話 深淵からの呼び声 -1-
「ねえ、ハキム」
探索者クーパーの仲間を救出し、グランデとの死闘を切り抜けた日の晩。脇腹の痣に膏薬を塗り、夕食を食べ終えテントで寝転がるハキムに、同じく身を横たえているリズが声をかけてきた。トーヤは既に寝息を立てている。
「何だ?」
「あなたはなんでここに来たの」
いきなり妙なことを聞く。
「カネのために決まってるだろ」
「なんでお金が欲しいか聞いてるの」
改めて聞かれると、微妙に答えづらい質問だった。ハキムにはトーヤのように家を立て直したいとか、クーパーたちのようにいい暮らしをしたい、という気持ちはあまりない。
ただ暮らしをするだけなら、もっと小さい盗みを繰り返していればいい。危険の中に喜びを見出すということもないではないが、本質的な答えではない。
「カネは便利だ。持ち運びが楽だし、腐ったりしない。沢山あるから手に入れるのも簡単だ」
多分そうだ。価値がはっきりしているのもいい。金貨一枚はどこに行っても金貨一枚分の価値がある。
「世の中にある商品が愛とか友情とかで売り買いされたら、俺は三日で干上がるだろうな」
リズはあまり腑に落ちた様子ではない。他に何を答えたものか。
正直、身の上話はあまり好きでない。しかし修羅場を逃れた安堵からか、ハキムの口は少し緩んでいた。
「俺はここからずっと南の、砂漠があるあたりに生まれた。物心ついたときから親はいない。名前もなかった。十九って年齢も大体だ。俺は〝ガキ〟とか〝それ〟とか〝ゴミ〟とか呼ばれるような、スラムの子供だった」
「そういう人は、沢山いるの?」
「ほかの町では知らないが、そういうのはどこにでもいるだろ。まあ大体はすぐ〝いた〟になるんだけどな」
ハキムは冗談を言ったつもりだったが、リズは笑わなかった。
「ハキムって名前も、そこらで野垂れ死んだ爺さんのを貰ったんだ。生きるためには盗むよりほかに仕方がない。六歳のころには簡単な鍵を開けられるようになったよ。食うために必死だったのもあるが、多分才能にも恵まれたんだな」
人のいない家屋に忍び込んで食べ物を盗めれば、腐ったゴミを漁る必要もない。それに市場に並んでいるそれをかっぱらうより安全だ。もし捕まれば酷い目に遭うのは変わらないが。
「盗むことに慣れすぎると、コツコツ働いたり、自分で何かを作るなんて思いもよらなくなる。少なくとも俺にはできる自信がなかった。そうなると生きるために盗むというより、盗むことが生きることになってくる。価値あるものってのが色々なのは知ってる。でも盗めるのはやっぱりカネだ」
「やっぱり私には、ちょっと想像できない世界かも。軽蔑するとか、そういうのじゃないけど」
「いいんじゃねえの。理解とか同情とか共感が欲しいとは思わないし。ただ、きったねえスラムの子供を見つけても、踏んだり蹴ったりしないで欲しいんだよ。オッサンは割とどうでもいいけどな」
「……分かった」
ハキムはなんとなく気恥ずかしかったので、ずっとリズに背を向けていた。だから彼女がどんな顔で聞いているのかは分からなかった。
「俺が自分のことをこんなに喋るなんてあんまりないぜ。ラッキーだったな」
「ふーん」
せっかく話をしてやったのに、張り合いのないヤツだ。もっとも、こちらも感動を期待していたわけではないが。
大きくあくびをして寝がえりをうつ。リズはこちらに背を向けていた。ハキムは目を閉じ、明日の探索に思いを馳せながら眠りについた。
◇
翌日。探索を始めてから三日目の朝になった。トーヤの食事で目を覚ます。今日の探索場所は、あらかじめ決めてあった。
昨日、クーパーが報酬の上乗せ代わりにと教えてくれた、ほとんど未探索の場所。北のキャンプか半刻ほど南東に移動したところに、聖堂らしき建物があるという。その壁に刻まれていたシンボルを、クーパーは地面に描いて見せた。
それは四枚の花弁を持つ花のような形のシンボルだった。あるいは四つの弧が背中合わせになったような形だ。それは誰にも見覚えのないもので、リズがその意味するところについて考察したが、それらしい答えは出なかった。
ハキムたちはそのシンボルを頭に入れ、教会を探すつもりだった。食料を買い足し、キャンプを出る。
「その建物が聖堂だとして、何を信仰の対象としていたんだろう」
道中、トーヤが口に出した。
宗教の形は国によって異なる。北では〝アーク〟と呼ばれる複数の神々。東では偉大なる一柱の神。南では月と太陽の化身。アルムの近辺ではそれらが交じりあった緩やかな民間信仰、といった具合だ。
「どうかな。オヴェリウスの治めていた国が文化ごと滅んだのだとしたら、今に伝わっていない古い宗教かも」
「アンデッドにも魂はあるんだろうか?」
「どうかなあ。ハキムは神を信じる?」
「信心はまったくないが、パンをくれる聖職者は好きだったぜ。私腹を肥やしてる聖職者も、今は別の理由で好きだ」
価値観の相違だ、とでも言いたげにリズはため息をついた。
入り組んだ街路は、気を抜くと方向を誤りやすい。細い路地にはエーテル灯も少なく、陰からの不意打ちに注意しなければならない。ハキムたちは会話を交わしつつも、油断なく周囲に目を配りながら進む。
クーパーから教えられたのはごく大雑把な聖堂の場所だったが、ハキムたちはそれほど時間をかけずにそれを見つけることができた。
聖堂は四つの尖塔を備えた高い建物で、青白い光の中、ぼんやりとその姿を晒している。さらに近づくと、建物の正面は小さな広場があった。大きな扉の上には、例のシンボルが確認できる。
「立派な建物だね」
トーヤが聖堂を眺め、感心したように呟いた。確かに扉だけでも、小さな城門ほどの大きさである。ハキムたちは広場を横切って短い階段を上り、建物の前に立った。分厚く重そうな扉だが、それだけでなく閂が下りているようだ。
「開けられる?」
ハキムはランタンで、板と板の隙間を照らした。普通ならば突破は難しいが、長年誰も手入れをしていない扉と閂。木材は乾いて縮み、黴と腐敗で弱くなっている。隙間に短剣を差し入れ、柄を掌で何度も叩くと、めりめりと音がして閂が破断した。
しかしハキムが扉に手を掛けると、背後から不穏な気配が漂ってきた。
「ハキム。また大勢来た」
トーヤが警告する。振り向くと七、八体のアンデッドが正面の広場に集まってきている。
「面倒だ。このまま入っちまおう」
アンデッドたちは無視することに決め、全員できしむ扉を開く。敵が追い付いてくる前に中へと滑り込み、ハキムたちは再び扉を閉める。破損した閂の代わりには、投げナイフを挟んでおいた。普通のアンデッドなら、これで防ぐことができるだろう。
最低限の安全を確保したハキムたちは聖堂内部に向き直り、探索を始めることにした。聖堂の中に明かりはなく、濃い闇が辺りを満たしている。
どこからか、しゃらん、という音が聞こえた。
すると、いくつかある大きなステンドグラスの窓を通して、柔らかな陽光が差し込んできた。闇が払われ、聖堂の内部が露わになる。
縦横五十歩ほどの広い空間は、ほとんど何もない。壁も床も白い石で造られた、がらんとした場所だった。中央には一段下がった円形の床がある。そこには非常に大きな例のシンボルが、浮彫細工のように描かれていた。四つの花弁にあたる部分は、それぞれ黄、青、赤、緑に彩色されている。
「なんだ……?」
ここは厚い地盤で蓋がされた地底であり、明かりといえばぼんやりと青白いエーテル灯だけだ。陽光など届くはずもない。ハキムは何かがおかしいと感じたが、その違和感は細かい砂か水のように頭からこぼれ、具体的な形を成さない。
シンボルの中央には、黒いローブを纏い、フードを被った聖職者らしき人物が立っていた。男か女かも判然としない聖職者は、身の丈ほどもある金属の錫杖を持っている。錫杖の頭部には、細い黄金の輪が取りつけられていた。
聖職者が錫杖を掲げてから床を突くと、黄金の輪がしゃらん、と音を立てた。
すると、どこからか円形の縁に腰かける多くの人々が出現した。まるで最初からそこにいて、ハキムがそれに気づかなかっただけだったかのように。
人々は一様に、淡く染められた長い布を、服のようにして纏っていた。顔貌はこのあたりにいるどの民族との違っているように思えた。ハキムが身じろぎすると、人々は一斉にこちらを見た。老若男女、誰もが厳粛な面持ちでいる。信徒であるようだ。
聖職者がハキムを指差す。信徒のうち二人が立ち上がり、無表情のまま歩み寄ってくる。ハキムは気圧されて二、三歩うしろに下がるが、分厚い扉に阻まれて逃げられない。
そして信徒たちはハキムを捕まえた。身体がうまく動かず、抵抗できない。そのまま無理やり、シンボルの中央に引き立てられる。
「やめろ」
ハキムは抗議するが、喉が狭窄したようになって、うまく声が出なかった。リズとトーヤが助けてくれないかと期待したが、姿さえ見えない。群衆の中にただ一人、こちらを心配そうに見る長い黒髪の少女がいる。しかし彼女も人々に阻まれ、遠巻きにしているだけだ。
ハキムは床に転がされ、仰向けに押さえつけられた。聖職者がフードを取る。リズだった。
「リズ、何してる。やめろ」
抗議は届かない。彼女の美しい、灰色の瞳は虚ろな光を湛えている。リズは錫杖を床に置き、ローブの中から儀式用の短剣を取り出した。ハキムの胸に狙いをつけ、それをゆっくりと振りかぶる。
身体が動かない。ハキムは死を覚悟して目を閉じた。しかし少し待っても短剣は振り下ろされない。薄目を開けると、リズの首がその胴体から落ちるところだった。