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第二十八話 黄金の天象儀 -3-

 レザリアの宮殿最上部。皇帝の秘密が鎮座する広間に、ハキムたちはゆっくりと足を踏み入れた。


 そこは直径にして百歩程度もある半球状の空間だった。壁は夜の闇を再現するかのように、すべてが黒く塗られている。


 部屋の内部は、五感では捉えきれない何かで満ちていた。異様な濃度で場に存在するのは、土でも、水でも、風でも、火でもない。おそらくは魔術師だけが目にし、操ることのできる、無色透明のエーテル。


 扉を閉めれば、鐘の残響も、アンデッドの気配も遮断される。この場所では空気の揺らぎさえ失われて、一切が静寂のうちにあるようだった。ハキムたちが持つランタンのほかに設置された照明はなく、外を飛び回るエーテル光もこの中には入ってこない。


 その代わりに光を投げかけるのは、星空だった。完全な闇夜の中でのみ見られるような無数の星々が、ハキムたちの頭上にあった。それらは冷たく煌き、ときに明滅しながら、かすかに空間を照らしている。


 無論、これは本物の夜空ではあり得ない。偽りの星空の下、半球の中心に、内側からの光で浮かび上がる完全な球体が鎮座している。


 ハキムたちはそれに歩み寄る。球体は一抱えほどもある黄金でできていた。表面には無数の微細な穴が穿たれていて、そこから漏れた光が、人造の天球を創り上げていたのだ。


 その光のもとは、薪や油による炎ではなかった。エーテル灯とも微妙に違うようだ。もっと純度の高い、星の層を越えた先にある、真理に満ちた世界からもたらされたような、そういう印象を与える光だった。


 これが黄金の天象儀。今現在レザリアを取り巻いている事象の中心。球体の表面には微細なプラズマが走り、安易な接触を拒んでいるようにも見える。


 ハキムはそれを前にして、言葉を発することができなかった。リズもトーヤも同様であるらしい。三人が無言のまま佇んでいると、つい先ほど通ってきた扉のあたりで、濃い闇が渦巻き、人の形にこごった気配がした。


『ようこそ深淵へ。レザリアの黄金を求める者よ。探索者たちよ』


 振り返れば、純白のローブを纏い、漆黒の玉座に身を置くヘザーの姿があった。夜を模した空間の中で彼女の全貌は判然としなかったが、ただその瞳だけは月光と同じ色輝き、ハキムたちを見据えていた。


『我は汝らの来訪を言祝ことほぐ。我の意思を知り、挑む者は数おれど、ここまで到達したのは汝らのみ』


 真理に触れた者だけが纏いうる尊厳を持って、〝彼〟は言った。


『ああ、悠久の試みよ。千年の待望よ。レザリアは今目覚めようとしている』


「オヴェリウス、その姿は」


 リズが玉座を見据えながら言葉を発する。


『これか』


 オヴェリウスはまるで新しくしつらえた服を見るようなしぐさをして、言った。


『我が遠い末裔よな。女の身体に慣れるには、まだしばらくの時間がかかろうが』


「ヘザーが? そんな」


『この女だけではない。我は魔術の祖であり、汝らはすべてその系譜に連なる者』


 オヴェリウスが指しているのは魔術師たちのことだろう。となれば魔術の才能を持つ人間は全て、オヴェリウスの子孫ということか。それが何百人、何千人存在しているのかは知らないが、千年前から撒かれた種だとしたら、どれだけ多くても不思議ではない。


 つまり、リズの出身であり、リズを追う結社であり、アルテナムの存在を秘匿する集団は、その全員が、実はオヴェリウスの血族だったということになる。


 彼らはその事実を知っているのだろうか? しかし、今は両者の関係性にゆっくりと思いを馳せている場合ではない。


「亡霊め」


 オヴェリウスはゆっくりとハキムを見た。


『かつてはそうだった。しかし我は肉体を得た。遠からず再び世界を統べるだろう。兵を挙げ、アルテナムを創るまで六年。領土を整え、レザリアを造るまでさらに十九年。今度は五年でそれを成す』


「そんなことをしても、また山の下に埋められるだけだぞ」


 ハキムは相手を煽ったつもりだったが、オヴェリウスは愉快そうに笑った。


『確かに、〝アーク〟、いわゆる神の抵抗には遭った。旱魃かんばついなご、疫病が民を苦しめた。しかし国を弱らせ、滅ぼすことはできても、我を殺すことは叶わなかった』


「なら――――」

『レザリアを埋めたのは我よ。民を動く死者にしたのは我よ』


 広大な帝国を治め、魔術を究め、不死に至った支配者。次に目指すのは神に等しい存在。一度目の試みは成功しなかったが、彼は完全な敗北を喫する前に地下へと撤退し、忘れ去られるのを待ちながら、二度目の準備を整えていたのだ。


「信じられない。何十万の住民がいたのに」


 トーヤが首を振る。


『六十一万と五千。その三割までは我が兵となり、新たなアルテナムの礎となるだろう。……そんな顔をするな。我はなにも、人類を廃滅しようとしているわけではない』


 オヴェリウスは闇の玉座から悠然と立ち上がり、ハキムたちに二歩、三歩と歩み寄った。


『世界の主は神でなく、人だ。我が帝国もまた再び、人の喜びと愛で満たさねばならぬ』


 ハキムは威圧され、一歩後退する。天象儀でプラズマが弾け、ハキムの背中に小さな痛みが走った。


『すべての絶望を否定した先にこそ道がある。しかしその道連れには、自らの頭で考える、聡明で勇敢な臣下が必要となる』


 オヴェリウスはゆっくりとトーヤを指差した。


『汝は軍を統率せよ』


 オヴェリウスはリズを指差した。


『汝は我の傍で補佐をせよ』


 オヴェリウスはハキムを指差した。


『汝は敵城に忍び込み、我が目と耳の役をせよ。……我に従うならば、汝らが望むものすべてを約束しよう』


 オヴェリウスは自らの提案がハキムたちに染み込む時間を置き、瞑目したまま回答を待った。自らの呼吸と心音が聞こえるほど静かな室内で、ただ人造の星空だけが冷たく煌いている。


 不死の支配者に下り、その手先となるか。勧誘を蹴り、自由と危険に身をゆだねるか。


 トーヤが望むならば、オヴェリウスは彼の妹を蘇らせることもできるだろう。


 リズが望むならば、彼女はアルテナムの真実と、魔術の深奥を知るだろう。


 自分が望むならば、これまでに得たことのない、そして失う恐れもない価値あるものを手に入れるだろう。何も持たずに生まれてきた自分が。スラムを這いつくばって育ち、蔑まれながら生きてきた自分が。


 満ちるエーテルで張り詰めた空気の中、長い沈黙が辺りを支配する。


 初めに答えたのはトーヤだった。


「お前は無実の市民を殺した。僕の仲間を傷つけた。いくら愛や道徳を語っても、それは全部、薄汚い不実だ。僕はお前に従わない」


 オヴェリウスは目を細める。その表情からは感情が読み取れない。


「私が求める真実は、もっと美しいもの。ことわりを曲げた先にある、歪なものじゃない。魔術師が、私があなたの末裔だとしても、私があなた従う義務はない」


 十歩の距離まで近づいたオヴェリウスが、ゆっくりとその両手をかざした。不可視の力場が渦巻いて純白のローブを揺らし、リズとトーヤの身体に巻き付いた


『愚かで、しかし麗しい。汝らの言葉は、我に人間への希望を取り戻させてくれる』


 その声は穏やかだが、力の行使には容赦がない。リズが苦しげな声で呻く。


「ハキム……!」


『汝はどう答える』


 月光色の瞳がハキムを見据えた。いつかどこかで見た色だ。ハキムは大きく冷気を吸い、吐いた。


「俺は正直、愛にも真実にもそこまで興味はない。けどな、もっと基本的なところで、お前は間違ってる」


 後戻りはできない。


「俺と仕事をしたいなら、こんな傲慢な勧誘をすべきじゃない。お互いに身の上を語って、肩を並べて戦って、泥と血にまみれて這いずり回ったヤツらとなら、一緒に仕事をする価値はある。だが一番高いところでふんぞり返って、誰かを試すようなヤツに、俺は絶対に従わない」


 ハキムの答えを予測していたのかいないのか、オヴェリウスは薄笑いを浮かべた。


「いいか。俺はお前を信頼しない。俺は自分が信じられないものに、身体も魂も、銅貨の一枚だって預けない」


 ハキムは腰から不壊の短剣を抜いた。鈍く、錆びついてはいるが、決して曲がることのない武器を構えた。


「リズとトーヤを放せ。クソ野郎」


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