第二十七話 黄金の天象儀 -2-
宮殿の玄関を入った先は大きな広間だった。エーテル灯が備え付けられていないため周囲は暗いはずだが、今は無数に浮遊するエーテル光に照らされて、全体が見渡せるほどの明るさが確保されている。
空間の最奥には、うねるよう左右に広がる一対の階段があり、正面の壁には例のシンボルが象られたステンドグラスがあった。
そしてその下に、先ほどからハキムたちを導く人型がいる。
広間を横切り、奥へと進む。人型はこちらを向き、悠然とハキムたち様子を眺めている。おぼろだった輪郭は徐々に明瞭さを増し、目鼻立ちが分かるまでその存在が確かになりつつあった。
「ヘザーか?」
ハキムは問いかける。人型はやはり、オールド・アルムで倒したはずの女魔術師と同じ姿をしていた。
『ヘザー』
人型が初めて声を発した。それは以前聞いたヘザーの声に似ていたが、同時に深淵から響いてくるような、虚ろさと暗さを伴ったものだった。
『それはもはや旧い名だ』
一言ごとに、周囲のエーテル光がざわめく。まるで何かの帰還を喜ぶように。
『我はかつてこの地を治めた者。千年振りの賓客よ。汝らの来訪を歓迎しよう』
ハキムは直観した。レザリアの主。アルテナムの皇帝。無数のアンデッドを統べる不死の魔術師。その人型は間違いなくオヴェリウスだった。理由は分からないがヘザーの姿を借り、エーテル光を纏って語りかけてきているのだ。
『レザリアの黄金を求める者よ。試練と恐怖を越え、我が内なる深淵に至るがいい』
「あなたは――――」
リズが何かを言おうとしたが、その声が届く前に、人型は無数の小さな光球に分解され、宮殿の上層へと昇って行ってしまった。
「――――オヴェリウス?」
リズの声は広間に吸い込まれた。
「ヘザーはあのとき倒したはずじゃ?」
トーヤが半ば茫然としたように呟く。
「死体を再利用したのかもしれないし、精神を乗っ取ったのかもしれない。ちゃんと首を落としとくべきだったな」
ハキムは天井を見上げた。
「天象儀は宮殿の天辺か」
そう言ってから、ハキムは自分の言葉に疑問を抱いた。天象儀が据えられた部屋までの道筋を、扉一枚隔てた場所を、ありありと脳裏に思い浮かべることができたからだ。
「俺はここに来たことがある気がするな」
リズとトーヤが怪訝な顔でハキムを見る。
「もしかすると俺はオヴェリウスの遠い子孫で、ここを訪れる運命だったのかも……」
「そういう冗談、今はいいから」
いくら考えても理由は分かるまい。とにかく先へと進むことにした。
しかしハキムたちが階段を上ろうとしたとき、背後で大きく、重く、柔らかい何かが床に落ちる音がした。
嫌な予感が首筋をちりちりとつつく。ハキムが振り返ると、そこには不気味に蠢く黒い軟泥がエーテル光に照らされ、ぬるついたその姿を露わにしていた。
ルトゥムだ。しかも以前に見た個体より二回りは大きい。
「まいったな」
トーヤが二、三歩後ずさりながら言った。声に反応してルトゥムが動き、その身体を引きずって近づいてくる。
リズが階段の上からプラズマ塊を放つ。ルトゥムの一部が沸騰し、異臭を漂わせるが、全体の動きを止めることはできない。
「上層に逃げるぞ」
ハキムは螺旋状に一回転した階段を駆け上がり、宮殿の二階へと向かう。ルトゥムはその姿からは思いもよらない速度で、ハキムたちを追ってきていた。
階段を上り切ったハキムは、正面に扉を見つけた。確かこの先には鐘楼があったはずだ。
「リズ、トーヤ、中に入れ!」
ルトゥムに追いつかれる前に二人を扉の向こうに退避させ、ハキム自身も中へと入る。丈夫そうな扉を閉め、内側から錠を降ろす。濡れた衝突音が何度かしたが、すぐ静かになった。
ため息をついて振り返ると、短い廊下の先に、広い吹き抜けの空間があった。ここにもエーテル光が飛び回っており、辺りをぼんやりと照らしている。
ハキムが円筒状の吹き抜けまで歩いて行くと、目の前には一本の綱が垂れ下がっていた。綱の先を見上げれば、遥か高い場所で巨大な鐘に繋がっている。これは残念ながら黄金ではないようだ。
ハキムが鐘を眺めていると、背後から、みしみしと不吉な音がした。
ルトゥムは去っていない。その扉に巨大な力を加え、破壊しようとしている。
「ハキム。ルトゥムが入ってきそう」
リズが悲鳴に近い声を上げる。二人が吹き抜けまで後退すると、偽足が扉を貫通し、それを端緒として扉が破壊され、みるみる木端になっていく。やがて本体が鐘楼に侵入し、またハキムたちを捉えようと迫ってくる。
リズがプラズマ塊を放つ。高温がその異形を焦がすが、熱量に比べて相手の体積が大きく、また損傷した一部はすぐに切り離されてしまう。
やがて魔術を使いすぎたのか、リズが頭を押さえて膝をついた。ハキムが助け起こすも、顔の血色が悪い。
吹き抜けには螺旋階段がある。まだ追い詰められたわけではないが、それも時間の問題だった。ハキムたちが後ずさると、その音を追ってルトゥムが動く。
「ハキム。音だ。音を追ってきてる」
トーヤが囁いた。わずかな声にも反応し、うねるルトゥム。しかしその身体は度重なるリズの炎によってやや小さくなり、弱点である複数の人骨を晒し始めていた。
「なるほどな。リズ、よく頑張った。少し休んでろ」
ハキムは綱に手をかけ、それを思い切り引く。綱はなんらかの機構に結び付けられ、鐘の巨大さに比べて、鳴らすのに必要な力は意外なほど小さかった。
宮殿に、死者の都に、地下空間全体に鐘の音が響く。鐘楼の壁には工夫が凝らされているらしく、音を巨大な生物の吠え声のように増幅させた。
辺りに満ちた大きな響きと振動で、無数のエーテル光が震える。ルトゥムは感覚を狂わされたらしく、動きを止めた。トーヤが長刀を構え、一気に間合いを詰める。
敵の弱点を刺突し、振り下ろし、斬り上げる。どうやら複数の人骨が融合していたらしく、トーヤは足を取られながらも、それらすべてを粉々に砕いた。
やがてルトゥムは力を失い、ただの黒っぽい泥となった。
「これがオヴェリウスの言う、〝試練と恐怖〟だとしたら、ずいぶん底意地の悪い人間だ」
トーヤは刀についたルトゥムの残骸を拭いながら言った。
「もう人間じゃないだろ。まあ人間だったころも、大層性格の悪いヤツだったんだろうが」
鐘の残響を聞きながら、ハキムたちは鐘楼のさらに上を見据えた。
「リズ、行けるか?」
「うん。少しふらついただけ。もう大丈夫」
図書館からここまでは短時間ながら、もう二度も危うい目に遭っている。先はそう長くないだろうが、最後まで体力と気力がもつだろうか。不安はあるが、それでも行くしかない。
ハキムたちは吹き抜けの内壁にへばりつくようにして伸びる螺旋階段を上る。眼窩に見える無数のエーテル光は、渦を巻くように踊っていた。
鐘楼を通り過ぎ、さらに二階分。ついにハキムたちは、宮殿の最上部に辿り着いた。目前には、微細な彫刻が施された漆黒の扉。この先に、黄金の天象儀があるのだ。
扉に鍵はかかっていない。ハキムは大きく一度深呼吸をしてから、慎重に扉を開けた。




