第十八話 オールド・アルムの騒動 -2-
「中々格好よかったじゃないか」
クーパーがトーヤの肩に手を置き、見直したぜ、と続ける。
「少しやりすぎたかもしれない。リズには言わないでくれよ」
興奮が冷めてみれば、いつも通りの柔和な彼だった。とはいえあの場面で普段と同じだったら、それはそれで怖いのだが。
ハキムが通りに目をやると、気を失ったパペルが倒れたままだ。多分、死んではいないだろう。
しかし血気盛んで粗暴な探索者が多いニュー・アルムならともかく、ここは旧来の住民が多いオールド・アルム。死人は出ていないものの、これほど大規模な喧嘩は珍しいのだろう。徐々に人が集まり、騒がしくなってきた。
「とりあえず、兵隊が来る前に帰ろうぜ。学院がなりふり構わないってのは分かったし」
ハキムはそう提案した。野次馬たちの、恐怖と好奇の入り混じった視線も少々心地が悪い。三人はなるべく人目を引かないよう、街道を引き返してニュー・アルムへと戻ることにした。
◇
〝不徳〟のセヴルス、〝強欲〟のパペルが手酷くやられたという噂は、事件の翌日にはもう、木馬亭のあたりまで流れてきていた。今のところ、誰がやったかまでは特定されていないようだが、あまり派手に動いて目立ちたくない。そう考えたハキムは、トーヤとともにしばらく大人しくすることにした。
それから二日。ハキムとトーヤは武器の手入れをしたり、宿の裏で身体を鍛えたり、クーパーの仲間と慣れないカードをしてカネを巻き上げられたりしながら、比較的穏当な時間を過ごした。
その間、リズはほとんど姿を現さなかった。部屋の気配を察するところによると、彼女は室内を歩き回ったり、神経質な声で独り言を呟いていたり、相当精神をすり減らしながら翻訳作業をしているようだった。
ハキムとトーヤは何回か食事を持って部屋を訪れたが、前に持ってきた水や食事がそのまま、ということもあった。
そして彼女が期限として設定した三日目の昼。ハキムが部屋の前を通りがかったとき、室内がやけに静かなことに気がついた。
「リズ、いるか。入るぞ」
ノックをするも返事はない。無理が祟って突然死でもしてはいないかと心配になったハキムは、恐る恐る室内を覗いた。
部屋の床には散らばった大量の羊皮紙。それに半ば埋もれるようにして、リズがうつぶせに倒れていた。ただし背中はわずかに上下しており、寝ているだけだということが分かる。おそらく、不眠不休で作業をしている途中に、肉体の限界が来たのだろう。
ハキムは部屋に入り、びっしりと書き込みのある羊皮紙を足で除けながらリズに近づいた。部屋にはインクのにおいが濃く漂っている。
「おい、寝るならベッドで寝ろ。おい」
リズを揺さぶると、彼女はひゅっと息を吸って覚醒し、身を起こした。ハキムに向けた顔には、ひどい疲労と不眠の色がある。しかしその灰色の瞳だけは異様にギラギラしていて、一種不気味な迫力を感じさせた。頬には床の木目がくっきりと赤い跡になっている。
「大丈夫かよ」
「……どれくらい寝てた?」
リズは乱れた髪をかき上げる。
「知らねえよ。とにかくひどい顔だぞ」
ハキムの言葉を聞いているのかいないのか、リズは散乱した羊皮紙をかき集め、彼女にしか分からない順番でまとめ始めた。
「で、読めたのか?」
「まあ、大体ね。次寝たらいつ起きるか分からないから、ざっくり話しておく」
「待て、待て。トーヤを呼んでくる」
ハキムはリズを壁にもたれさせて、宿の裏手で刀を振っていたトーヤを呼びに行った。三人で部屋に集まる。
「全部訳すと膨大だから、大事そうなとこだけ話すね」
そう言うと、リズは羊皮紙上の翻訳文を指でなぞりながら、抑揚のない声でそれを読み上げ始めた。
〈生まれたばかりであったオヴェリウスは親を知らず、何一つ持たぬまま、イニトの川岸に流れ着いた〉
〈その境遇を憐れんだ女神によって、彼は野犬や毒蛇から守られ、のちに英雄となるべき運命の種を授かった〉
〈女神は去り、オヴェリウスは彼を見つけた羊飼いの夫婦に育てられた〉
「英雄がどこかから流れ着いた、捨てられた、動物に育てられた、って話はよくあるよね。僕の故郷にも似たものがある」
現実に捨てられたり川岸に流れ着いたりした人間は、そのまま狼に喰われるか、スラムで貧困をかこつかというのが大体のパターンだ。だからこの手の話はあまり信用できない。もっとも、百万人に一人ぐらいは、貧困や屈辱を権力への欲求に変え、実際に英雄となるのかもしれないが。
〈オヴェリウスは齢三つで剣を取り、六つで森に迷う狼を屠った〉
〈齢八つで妖精と遊び、遍く流れるエーテルを視ることができた〉
〈オヴェリウスが十四のとき、その姿は秀麗にして強健であり、智慧において彼に敵う者はいなかった〉
「このあたりは史実かどうか分からない。ただ、オヴェリウスが極めて優れた知性の持ち主であったのは間違いないでしょうね。人を惹きつけるカリスマもあったんだと思う。彼はそのうち地域の支配者に反抗して、最初の領地を手に入れた」
そしてリズは続きを読み上げる。
〈兵を起こしたオヴェリウスは、枯野を走る火であった。彼が齢二十に至るころ、従う騎馬は一万、兵は十万を数えた〉
〈オヴェリウスは二つの国を滅ぼし、八つの城を奪い、版図を広げて新しい国を創った。彼はその国が永遠に続くよう、〝アルテナム〟と名付けた〉
〈オヴェリウスはこの年をアルテナム歴の始まりとし、以降皇帝を名乗った。齢二十四であった〉
そこまで進むと、リズは眠気を払うように、目を強く閉じたり開いたりした。
「あ、やっぱり限界かも」
それでも翻訳文の先を続けようとしたリズだったが、ついに右手でこめかみを押さえ、うなだれてしまった。
「無理しない方がいいよ。話はあとでも大丈夫」
「しょうがねえ。今日は寝て、明日もゆっくり休め。探索は明後日からにしよう。レザリアでうとうとされたら、俺らまで危ないからな」
リズは力なく頷き、ベッドに這い上がる。
「お気遣いありがとう……」
彼女はそのままうつ伏せに倒れ、すぐに寝息を立て始める。ハキムとトーヤは顔を見合わせて、互いに肩をすくめた。当分は起こさない方がよさそうだ。
明日には軽く買い出しをして、明後日からの探索に備えることにしよう。午後は適当に暇を潰し、ハキムは日暮れ過ぎ、早めの眠りについた。
◇
その夜、ハキムは夢を見た。
まず目の前にあったのは、茫洋とした乳白色の霧。真下に目を向けても、自分の爪先さえ見ることができないほどの濃さだった。ハキムはどうすることもできず、しばらくそのまま立ち尽くす。
少しすると、霧は徐々に晴れていった。遠くから喧騒が聞こえてくる。気づけばハキムは暖かい陽光が降り注ぐ、豪壮な都市の大通りにいた。
足元にある石畳は滑らかで広く、路の左右には大きな店が並んで、商売人たちが威勢のいい呼び込みをかけていた。石造りの建物はどれも淡く上品な色で塗られていて、屋根が割れていたり、壁が剥げていたりするものは一つもなかった。
店や屋台に並ぶのは色とりどりの果実、穀物、肉、ワインや薬、陶器や服などの日用品だ。中には温かい食事や酒を出す店もある。都市の豊かさをそのまま表す様々な商品の列は、大通りの遥か先まで続いていた。
霞むほど遠くに見える都市の中心部には、聖堂や時計塔など、高層の公共施設らしいものがある。しかし一際目を引くのが、大通りの果てにある宮殿だった。
いくつもの尖塔を持つそれは、屋根から窓枠に至るまで全てが白く、青空を背景に、まるで地面から離れて浮かんでいるようにも見えた。特にその最上部は、極めて優美な円蓋になっている。
近くに目を戻すと、通りを行き交い、店の商品を物色する多くの人が見える。視界に入るだけでも数百、数千という群衆だ。都市全体では、一体何十万の住民がいるのか見当もつかない。
彼らはハキムの知らない民族であるように見えた。髪は金と茶の中間ぐらいで、リズのような北方の人間ほど明るくない。総じて彫りの深い顔立ちは、どことなく気品を感じさせた。
服は一枚の長い布を、ゆったりと服のように巻いている。布の色は様々だが、一様に美しい光沢があり、上質な品であることが分かった。
都市の住民にしてみれば、ハキムが持つ褐色の肌と黒髪は明らかに異邦人のそれである。しかし人々はハキムのことなど気にかけず、それどころかまるで存在しないかのように振る舞っていた。老人、子供、若い女性。誰もが気兼ねすることなく、安心しきった様子で通りを闊歩していた。
ハキムが振り返ると、都市の外側には黒い防壁が見える。陽光と青空の下に在るそれは、閉塞や抑圧を感じさせるものではなく、むしろ堅牢なゆりかごのように安心をもたらすものだった。
ハキムはしばらく街並みを眺めていたが、やがて都市の中心部へ向かうことにした。大通りを進み、まっすぐと宮殿へ。もともと何をしにきたのかは思い出せないが、自分の求めるものがそこにあるような気がしたからだ。
ハキムは色彩豊かな大通りを北へ歩いていく。見知らぬ動物が象られた噴水のある広場を通り抜け、学者か魔術師らしき人間が出入りする立派な建物を横に見ながら、だんだんと大きく見えてくる宮殿へと向かう。
ハキムが路地を覗いてみても、そこに酔いつぶれた浮浪者や、汚れた裸足の子供や、立ったまま客を誘う痩せた娼婦は一人もいなかった。この都市はあまりに豊かで清潔だったので、ハキムはどこか居心地の悪い思いがした。
珍しい景色を見ながら歩いていると、ハキムはいつのまにか宮殿の前に立っていた。見た目に感じた距離よりも、ずっと近かったような気がする。
大きな門もすべて純白の石材で造られ、眩しいほどに陽光を反射していた。しかしアーチの上部にだけ、黄、水、緑、赤で鮮やかに彩られた、花弁に似た大きなシンボルがあった。門の奥で鐘が鳴り、驚いた鳥たちの飛び立つ音がした。
門は多くの兵が守っていたが、目の前にいるハキムには誰も視線を向けなかった。とさかのような形の見事な飾りがついた兜。磨き上げられた鋼の板金鎧。柄が朱に塗られた鋭い槍。
それらを備えた兵が敵にならないことを確認すると、ハキムは開いたままだった脇の通用門を通り、宮殿の中庭へと進入した。
柔らかい草を踏みながらさらに宮殿へと近づく。中庭は様々な地域の珍しい樹木や花、噴水や人工的な池、そしてそれらに放された鳥や魚で彩られていた。
それは注意深く計画的に作られた、小さな楽園のようにも思えた。樹木の合間から、庭を逍遥する魔術師らしき黒いローブの女性が見える。
「おや」
女性がこちらを見たので、ハキムはどきりとした。この都市では、今まで誰一人として自分を認識しなかったからだ。逃げようかどうか迷ったが、結局そのまま留まり、女性が近づいてくるのを待つことにした。
女性は樹木を回り込み、ハキムのところまで歩いてきた。どこか見覚えのある人物であるような気はしたが、詳しくは思い出せなかった。
「迷われましたか、旅の方」
女性はまだ若く、二十代の半ばを超えてはいないように見えた。それでも振る舞いには年齢以上の落ち着きがあり、目には聡明さと強い意思が宿っているように思えた。
「案内しましょう。こちらへどうぞ」
ローブの女性に導かれるまま、ハキムは中庭を通り抜け、宮殿の内部に足を踏み入れた。彼女は振り返ることなく、大きなステンドグラス越しの光が差し込む広間を抜け、繊細な彫刻が施された階段を上がり、美しいタイルの張られた廊下を進む。一体いくつの部屋があるのだろうか。
下層には武官や文官が控える部屋があり、上層には貴人を招く空間があった。多分、建物の奥には王族が住まう宮廷もあるのだろう。ちらりと見えた広いバルコニーからは、広大な都市の姿が一望できた。
やがてハキムと女性は鐘楼を上り、宮殿の最上部にある一室へと辿り着いた。扉の前で、女性が初めてハキムを振り返る。窓から差し込んだ陽光が彼女の美しい顔を照らした。
「この奥にあるのが陛下の秘密。レザリアの秘密。それは〝黄金の天象儀〟と呼ばれます」
天象儀という言葉には聞き覚えがなかった。ハキムが尋ねてみると、女性は丁寧に説明してくれた。それは内部からの光によって、ドーム状の天井に、星の姿を投影する装置であるらしい。
しかし話を聞いている途中で、急に窓の外が暗くなった。ハキムが振り返り、また向き直ると、女性の顔は痩せて乾き、死人のような形相に代わっていた。ハキムは驚き、後ずさる。見れば周囲の壁も床も天井も急速に褪せ、風化していく。
「アルテナムはもうすぐ滅びます。しかしまた復活し、やがて新しい形で再生するでしょう。陛下が生きている限り――――」
そしてあらゆる光が完全に途絶え、ハキムの視界は闇に包まれた。




