第十七話 オールド・アルムの騒動 -1-
強力な魔術を操るヘザーや、得体の知れない不定形であるルトゥムとの戦闘をくぐり抜け、ハキムたちは命からがら地上に帰還した。高く上った太陽の光に照らされながら、這いずるようにして木馬亭へと戻る。
そのまま崩れ落ちたい気持ちを我慢して、川べりで身体を洗い、泥や埃や血を落とし、汚れた傷をしっかりと手当しておく。やることをやったのち、ハキムは大きなため息とともに部屋のベッドへ倒れ込んだ。
ようやく人間らしい休息が取れる。ハキムが眠りに落ちようとしたとき、部屋の扉が叩かれた。
「ねえ、相談があるんだけど」
リズだった。濡れた髪のまま戸口に立つ彼女は、その手にアルテナムの年代記を持っていた。
「これを翻訳する時間が欲しいの。三日だけちょうだい」
古代の図書館で、朽ちることなく残っていた羊皮紙の資料。リズはそれを読み解くつもりなのだ。
探索が滞るのは本来ならばあまり好ましいことではないが、全員が受けた傷は、まだ二、三日は熱を持つだろう。今回の探索でまとまった収入も得られるので、少し長めの休暇を挟んでも問題はない。
それに、真実の探究はリズが本来持つ目的でもあるのだ。あまりないがしろにするわけにもいかない。ハキムは彼女の要望を受け入れることにした。
旧市街の商業地区で得た古代の金貨は、ヘザーから逃走する際半分ほどこぼしてしまった。それでも、最終的には二十二枚が手元に残っていた。それから黄金のキューブが一つ。今の相場に照らし合わせれば、金貨四十枚分に相当する。
とりあえず三日の猶予が与えられたリズは、少しの休息も惜しいようで、どこからか大量の羊皮紙を買い込み、すぐに年代記の古代語を翻訳する作業に取りかかった。
ハキムとトーヤも探索でそれなりの傷を負っていたので、三日間を丸々休息に充ててもよかったのだが、さすがに寝たきりでいるほどの重傷ではない。そこで二人して、心配の種である事柄について、少し対策を練っておくことにした。
部屋のベッドに横たわり、リラックスした姿勢で話し合う。
「学院については、ある程度動向を調べておこうか」
「探索を邪魔されると面倒だしな。ヘザーには正直もう会いたくないが」
ハキムは考える。アルムに乗り込んできているのは、〝無傷〟のヘザーだけだろうか。それほど大勢で来ているとは思えないが、たった一人ということもないだろう。そのあたりの無法者を雇って、手先にしていることも考えられた。それも含めて、警戒しておくに越したことはない。
とりあえず明日からは少々脚を使って、情報を集めようということになった。
◇
そして帰還から一夜を明かした午前中。ハキムとトーヤはこの日、アルムに滞在している学院の勢力を、簡単にでも把握しておくつもりだった。
まずは聞き込みから始めるのがいいだろう。ハキムとトーヤが一階の酒場に降りると、同じく休暇中らしい探索者たちが、カードゲームに興じているところだった。
その中にはクーパーもいたが、ちょうど大敗したところらしく、大仰な仕草でカードを空中に放り投げてから、輪を外れてこちらに向かってくる。
「よう。昨日は傷だらけだったが、元気そうだな」
「案外何とかなった。今日はちょっと聞きたいことがあるんだ。顔、貸してもらえないか」
「別に構わん。ここではしにくい話か?」
「いや、こもりっきりも身体に悪いからな」
ハキムは適当にぶらつきながら話をしよう、と提案した。クーパーにも特に異存はないようだったので、三人はニュー・アルムの木馬亭を出発し、街道を歩いてオールド・アルムまで足を伸ばすことにした。
街道は東の山々から流れてくる川に沿うような形で、ニュー・アルムからオールド・アルムまでを東西に貫いている。街道と言っても、もともとは小さな港町の道であるから、それほど広くも立派でもない。
石畳があるのはオールド・アルムのごく中心部に限られるし、その質においてもレザリアには遠く及ばなかった。
しかし現在のアルムは、町の規模に見合わない人口を抱えている。かつて素朴だった街道は、狭いながらも多くの人々が行き交う、騒がしい通りとなっていた。
街道から目線を外すと、三十歩ほどの幅がある川の両岸に、怪しげな商売人や浮浪者、下級娼婦のテントなどが見える。それらはアルムの景観と治安を著しく損ねており、探索者たちにさえ忌み嫌われているような連中のたまり場となっていた。
遺跡が発掘され、アルムは確かに豊かになったが、失われたものも多くありそうだ。旧来の住民にとって、レザリアの存在はどのように映っているだろうか。
「それで、なんの話だって?」
大きく伸びをしながら、クーパーは用件を尋ねた。
「実は僕らはあのあと、例の女魔術師と交戦したんだ。正直、かなり危なかった」
「へえ、女は見かけによらないもんだ。でもよく考えりゃあ、お前らんとこの嬢ちゃんも大概か」
「ヤツはやっぱりリズを追ってきたらしい。学院からの刺客だとか。クーパー。学院って知ってるか」
ハキムは尋ねた。クーパーは見たところ、こういった世間の情勢に詳しそうだ。学院の動向に関して、何か知っているかもしれない。
「ああ、話はよく聞く。俺も詳しくは知らないが、色んなところに根を張ってる連中だ」
「色んな?」
「ヤツらの拠点は北にあるだろ。あの辺は特に学院の影響力が強い。ここの領主にもくっついてる魔術師がいるぜ。キャンプに張られてる結界なんかは、どうやらそいつの仕事らしい」
「魔術師たちは信用されてるのかい?」
「まあ、そうだな。ヤツらは学者でもあるから、助言をありがたがる領主もいる。学院とのパイプ自体も魅力だ。実際、魔術師たちの権力は無視できないぜ。俺も仕事柄、そういうのに気を遣うんだ」
そしてクーパーはふと気づいたように、ハキムの顔を見た。
「まさか、学院に喧嘩を売るつもりなのか?」
「リズに危険が迫れば、そうするしかないね」
トーヤが決意を感じさせる声で言った。ハキムにはまだそこまでの覚悟がないので、曖昧な顔をして頷くだけにしておく。
ハキムたちは街道をしばらく行き、やがてオールド・アルムの市街に入った。遺跡から流れ込んだ黄金は、短期間のうちに旧来の町をも変えたらしい。首尾よく利益を得た者と、そうでない者。建物の様子で、明らかに両者の違いが分かった。
しかし財を成した者の中には、あぶく銭の使い方が分からない人間もいるようだ。軒先に妙な彫像があったり、甲冑が飾られていたりと、少々滑稽な光景も散見される。
しかし今のハキムには、それより気になるものがあった。
「やっぱり、さっきから尾けられてるな」
ハキムはオールド・アルムに入ったあたりから、盗賊特有の敏感さで二人の追跡者を察知していた。心当たりになるようなものは一つしかない。
「おいおい、知ってて俺を巻き込んだんじゃないだろうな。学院とコトを構えるのは御免だぜ」
クーパーが苦笑しながら言った。ハキムにそういうつもりはなかったが、まったく想定していなかった、と言うと嘘になるだろう。
「どうする? ハキム」
トーヤは腰に帯びた刀の位置を直した。
「逃げてもどうせまた狙われる。今のうちに一発殴っておこう」
「若いのは喧嘩っ早くて困る」
そう言いつつ、クーパーもおよび腰というわけではない。もともとは傭兵。なんだかんだで人間相手の戦いに飢えていたのかもしれない。
「あそこの角を曲がろう。二人はそのまま歩き続けてくれ」
ハキムは裏路地に繋がる曲がり角を指差した。トーヤとクーパーを先行させ、薄暗い横路に入る。大通りからの死角になったところで、ハキムは素早く亡霊の指輪を嵌めた。
姿を透明にしたあとは路地の入口に戻り、追跡者を待ち構える。こそこそと下手な忍び足で歩いてきたのは、見覚えがある二人の探索者だった。
〝不徳〟のセヴルス、〝強欲〟のパペル。彼ら二人は兄と弟で、その有能さよりも、振る舞いの粗暴さや悪辣さで名を馳せていた。ハキムが探索の仲間を探す際に、真っ先に候補から除外した人間である。
痩せぎすのセヴルスは曲刀を、巨漢のパペルは大きな戦槌を装備している。二人が路地に入ったので、ハキムはその背後からついていった。彼らの脇から路地の様子を窺う。
ちょうど、トーヤとクーパーが足止めを喰らっているところだった。一番奥には小剣や手斧で武装した無法者が三人。それに向かい合うクーパー。路地の入口に気配を感じて振り返ったトーヤ。セヴルスとパペル。そのすぐ背後にいるハキム。
「よう、下衆ども。なんの用だ?」
クーパーは背に負った槍を構えて言う。トーヤも既に刀を抜いていた。警戒する二人に対し、痩せぎすのセヴルスが歩み出る。
「お前に用はないんだよ、〝短小〟野郎。俺たちがお話ししたいのは〝狂人〟の方さ。あのチビはどうした? 逃げたのか?」
お前らのすぐ後ろにいるぞ。ハキムはゆっくりと短剣を抜いた。
「君たちは、あのヘザーっていう女性の手先だろう」
トーヤが刀をセヴルスに向けた。切っ先にはいささかのブレもない。その迫力のせいか、図星を突かれたからか、セヴルスとパペルの背が剣呑な雰囲気を纏う。その場にいる全員が武器を構えた。
「だったらどうだって言うんだ、え?」
パペルがセヴルスの後ろから、しゃがれた大声で言う。
「ハンマーで頭蓋骨叩き割られたくなかったら、大人しく捕まるんだな」
「その勇気があるならやってみろ。ぜい肉を斬り落としてやる」
トーヤも案外勇ましい。ハキムは彼への評価をほんの少し改めた。
奥の無法者たちも、兄弟も、トーヤたちが一筋縄ではいかない相手であることを理解したようだ。事態は一触即発。誰かが少しで動けば、戦闘が始まる。
クーパーの得物は短いながらも槍。トーヤは長刀。路地は両手を広げた程度の幅しかなく、彼らの大ぶりな武器はいささか不利だ。襲撃する方のそれは比較的小型で、狭所において有利。しかし勝負が武器と地の利だけで決まることはない。さて、技量の差はどれほどのものか。
路地の奥で焦れた無法者が動いた。一気に場の空気が過熱し、複数の怒号が響く。
頭数に恃んだ相手の威勢は中々だったが、それは長く続かなかった。
クーパーはさすがに長く生き残ってきた傭兵だけあって、技量は明らかに熟練の域だった。まったく敵を寄せ付けず、一呼吸ごとに穂先で相手の耳を斬り落とし、柄で肩を折り、石突で鼻を砕いた。またたく間に三人の無法者たちは、悲鳴を上げて逃げ去った。
有象無象の雑魚よりやや上手であるセヴルスも、トーヤの相手にはならなかった。膂力と速さ、技量のすべてで、トーヤは敵を圧倒した。
曲刀の連撃は最低限の動きで捌かれ、巻き上げるようにして武器を飛ばされる。それがトーヤとクーパーの間へと落ちる前に、セヴルスの首筋には冷たい刃先が突きつけられていた。
パペルが兄を援護するため、右腕に持った戦槌を振り上げた。その機を逃さず、ハキムも背後から容赦なく奇襲した。鎖骨の上あたりに短剣を突き指し、刃をねじる。
驚きと苦痛の叫びを上げたパペルは弾けたように振り返るが、そこにハキムの姿はない。空中には錆びた指輪が浮かんでいるものの、この巨漢はそれを見つけるような冷静さと観察力を持っていなかった。
突進を予測したハキムが素早く退避すると、パペルは武器を持ち換えて路地から飛び出し、必死の形相であたりを見回した。
ハキムは悠然と、足元にあった拳大の石を拾い上げた。大きく振りかぶり、背を向けているパペルの後頭部に投げつける。
石と頭蓋骨がぶつかる固い音がした。脳に強い衝撃を受けた巨漢はあっけなく昏倒し、膝から前のめりに崩れ落ちる。
ハキムゆっくりと指輪を外し、ポケットにしまった。それからセヴルスに歩み寄り、その背に意地悪く短剣を這わせる。ビクリと震えた彼に、トーヤが刀を突きつけたまま、無機質な表情で宣告した。
「街中だから殺しはやらない。けど次に妙な真似をしたら、手足を斬り落として遺跡に埋める」
石畳で相手の顔を削るのは、妹を侮辱されたときだけらしい。もっともそれは噂なので、トーヤの言動が矛盾しているとは限らないが。
セヴルスは首をねじり、ハキムの方を見ようとした。その顔は屈辱と憎しみでひどく歪んでいる。トーヤが首筋に刃を沿わせると、そのままの姿勢で固まった。
「君たちのボスに伝えろ。またリズや僕らを狙うようなら、今度は泥まみれじゃ済まない、と」
顔を戻したセヴルスに対し、トーヤは切っ先を軽く振って退去を促した。
「行け」
有無を言わせない冷徹な声色だった。セヴルスは一度だけ、トーヤの背後に落ちたままの曲刀を、名残惜しそうに見つめた。先程殺そうとしていた相手に、返してくださいと言えるはずもない。
彼は苦々しい表情でハキムの横をすり抜け、足早に去っていった。人々の視線を集めつつある、倒れた弟を置き去りにして。
路地の奥でその様子を見ていたクーパーが、楽しげに口笛を吹いた。




