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第二話 クリスチーネ郷田

 気を抜くと倒れてしまいそうだった。

 サスペンション機能を放棄した膝がカクカクと小刻みに揺れる。


「け、警察……」


 指が震えてスマホがうまく操作できない。

「あっ」汗で滑ってスマホが手から落ちる。そのまま床に落ちてバウンドし、男の頭にぶつかった。

 男の頭蓋骨は脳が空っぽなのか、コーーンといい音が響いた。


 血だまりに落ちなくてよかった。

 膝が曲がらないので、上半身をかがめてスマホを拾い上げる。


 ええと、119じゃなくて110……あれ、119もかけたほうがいいんだろうか。

 指は動くようになったが、今度は手汗で画面が操作できない。


 落ち着け。

 刑事になったらこんな現場だってたくさん見るんだ。

 逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。


 服の裾で手汗を拭った。

 心を鎮めようとするとかえって焦りは増大する。

 再び震えはじめた指をいさめて110をコールした。


『はい、110番です。事件ですか、事故ですか?』


 外界とつながったことで心が緩んだ。

 これで僕は一人じゃない。


「あ、あのですね。事件か事故かよくわからないんですけど」

『落ち着いてください。何があったんですか?』

「人が倒れてるんです」

『わかりました。あなたがいるのはどこですか?』

「ええと、渋谷区円山まるやま町17-7の……」


『……』通話相手は黙ってしまった。電波が悪いのだろうか。


「あの、聞こえてますでしょうか。円山町17-7のですね、203号室です」

『……』

「もしもし? 渋谷区円山町の……」

『……あなた、インデカの関係者?』


 インデカ?


「インデカとは何でしょうか? ここは『針井私設刑事事務所』で、僕は新人です」

『……』電話の向こうでため息をつくのがわかった。『インディーズ刑事デカでインデカ。あなたのところ、探偵業の届出もしてないでしょう? 困るんですよ』

 困る? どういうことだろう。

「……」鉄矢が言葉に詰まっていると、通話相手はそのまま続けた。

『あなたはまだ若いでしょう。ダーティ針井なんかと関わらないで真っ当な仕事を見つけたほうがいいですよ。では』


 電話はそこで切れてしまった。

 鉄矢は電話を耳に当てたまま固まっていた。

 呆然と立ち尽くしたまま脳だけが機械的に情報を整理していた。


 インディーズ刑事。

 ダーティ針井。

 無届。

 真っ当な仕事。


 僕のやろうとしていることが、真っ当じゃない――?

 軽いめまいを感じてよろけた瞬間、何かに足をとられて転んでしまった。


「いてっ」


 部屋の中は散らかっていたから、転んでしまうことは不思議ではなかった。

 しかし自分の足首をつかんでいるのが死体の手首だったと気づいた途端、血の気が引いていくのがわかった。


「ぎゃあっ!!」


 鉄矢は完全に腰を抜かして尻餅をつく。

 コートの男はぬらっと立ち上がって、こう言った。


「……おまえは、誰だ?」


    ◆   ◆   ◆


「はっははは。新人くんが来ることをすっかり忘れてたよ」


 男は濡れタオルで頭についた血を拭いながら笑った。

 針井私設刑事事務所所長、針井堀太はりいぽった。それが男の名と肩書きだった。


「は、はあ……」


 鉄矢は台所の丸椅子に座らされ、伏し目がちに返事した。

 この人は多分やばい人だ。機嫌を損ねないように適当に話をあわせて、早く山梨に帰りたい。


 『刑事』の二文字に興奮して応募してしまったが、よくよく考えてみると私設刑事なんて聞いたことがない。

 インディーズの刑事なんて、要は頭のおかしい一般人じゃないか。

 そんな当たり前のことにどうして三ヶ月も気づかなかったんだ。

 恥ずかしくて自分を絞め殺したかった。


 鉄矢が倒れていた理由もどうしようもなかった。

 滞納していたネットが復活したので久々にエロサイトを巡回していたら興奮しすぎて鼻血を噴いて倒れていたのだ。


 死んでいるのは素人目にも明らかと思ったが、素人である自分に人の生死などわかるはずはない。

 むしろ素人だからこそ死んでいると思っただけで、実際は貧血になっていただけだった。

 つくづく自分の観察眼のなさ、冷静さの欠如に嫌気がさした。

 やはり僕が刑事なんてやれるはずがなかった。


 帰りたい。帰って実家の農家を継いで静かに余生を過ごしたい。

 しかし針井は鉄矢のことを気に入ったようだった。


「おめーはなかなか見所がある。普通だったらつけっぱなしのエロサイトに釘付けになるはずなのに、おめえは違い、冷静に警察に電話を入れた。さすが俺の見込んだ男だ」


 彼の言う『普通』とは、鉄矢が知っている『普通』よりずいぶんと低いレベルに位置しているらしい。

 一分一秒でもこんな場所にいたくない。

 言わなくちゃ……採用を辞退させてくださいって。


「あの……」鉄矢は思い切って口を開いた。

「なんだ」


 針井は射抜くような視線を鉄矢に向けた。

 年齢は四十台半ば。外国人のように整った顔立ちは黙っていたらハリウッドスターのようだ。

 しかし春にしては暑いこの日に、まして室内でコートを着ているという奇抜さが彼の渋さを台無しにしていた。

 何より全身から『変態』としか思えない不思議なオーラを漂わせていた。

 その圧倒的なオーラを払いのけて鉄矢は言った。


「今日付けで退職させてください。今までお世話になりました」

 そのまま返事も待たずに立ち上がり、深く頭を下げた。


 個人情報を送ってしまっている以上、このような変態に敵意を持たれるのは得策ではない。

 そしてこういう変態に限って粘着質で執念深いと相場は決まっている。

 なるべく穏便に済ませなくてはならない。


 失礼にならないよう、そして逃げるように思われないよう、堂々とした振る舞いで立ち去ろうとした。

 針井の前を通り過ぎる時は、いきなり殴られても対処できるよう全神経を彼に向けた。

 内心ドキドキだったが幸いにも殴られることはなく、玄関までたどり着いた。


 心の中でガッツポーズを決めて、ドアノブに手をかけたその時、

「待てい!」と針井の声が鉄矢の背中に浴びせられた。


 飛び出しそうな心臓を押さえつけ、何事もなかったかのように振舞う。

「なんでしょうか?」鉄矢はキメ顔を作って振り返った。


「おめーの考えてることを当ててやるよ」

「え?」

「『きたねえアパート』『昼間っからエロサイトに興じているカス』『警察からもマークされてる』『人間のゴミ』……そう思っただろ?」


 心臓をわしづかみにされたようだった。「どうしてそれを……?」

「ヘッ。顔を見ればわかるさ。こっちゃ何年刑事をやってると思ってんだ」

「う……」

 なんでもないような顔をしながらも、鉄矢は動揺を隠せなかった。


 まるで心が丸裸にされているようだ。これが……これがインディーズ刑事デカの実力だというのか。

 灰皿から拾ったシケモクに火をつけて、針井は続ける。


「本気で刑事デカになりたかったんじゃねーのかよ。おめーはよ」

「っ!!」

「ちょっと社会の最底辺をちら見しただけで、びびっちまうのか。そんなもんか、おめーの夢は」

「う……」

「うわついた気持ちなら刑事デカになりてえなんて吹くんじゃねえよ!」


 言い返せなかった。

 あれだけの長文メールでやる気をアピールしたのに、たったこれだけのことで刑事の夢を諦める自分が情けなかった。

 しかし、すぐに気持ちを切り替えた。

 別にこのおっさんと組んでやる必要はない。世の中には他にもインディーズ刑事がいるかもしれない。まともな人に雇ってもらえばいいだけだ。


 鉄矢はドアを開けて逃走経路を確保してから室内に向かって頭を下げた。


「本当にすみませんでした! 針井さんの言う通りです」

「ボスと呼べ」針井が口を挟む。

「は、ぼ……ボスの言う通りです! うわついた気持ちでした! 故郷くにに帰って実家の農家を継ぐことにします。ご指導ありがとうございましたっっ!」


 ――数秒間、頭を下げ続けた。

 これで許してもらえるはずだ。逃げよう。地元に戻ったら念のため住民票も移動したほうが良さそうだ。


「……後悔しねえんだな?」

「しません」

「神に誓えるか?」

「はい!」


 頭を下げたまま問答は続く。

 とにかくここは頭を下げ続けて解放されなければならない。


 とうとう針井は低いトーンでつぶやいた。

「――おめーは本物だと思ったんだけどな」

 ガッツポーズを決めそうになっていたが、心底申し訳なさそうな顔で「……すみません」と搾り出した。


 頭を上げ、帰ろうと外を向いた瞬間、誰かとぶつかった。


「きゃっ!?」


 キスしてしまいそうなほど近くに女性の顔があった。


「わわっ!?」慌てて顔を引くと後頭部をドアに打ち付けてしまった。

「いってえ……」頭をさすりながら改めて前を見ると、ぶつかった娘がとんでもなく美人であることに気がつく。


 切れ長の二重まぶた。筋の通った高い鼻。柔らかそうな唇。アッシュベージュの髪は肩にかかるくらいの長さだった。

 すらりと長い脚にフィットしたデニムに無地の白シャツというラフないでたちだったが、その素晴らしいスタイルのせいで外国人モデルのようにも思えた。

 それ以上に魅力的に思えたのが、太陽のように明るく見える彼女の表情だった。


 白い歯を見せて「針井さんのとこの新人さんですよね?」と笑った。

 娘は鉄矢より年下――大学生くらいに見えたが、そのまばゆさに鉄矢は思わず敬語で返してしまう。


「は、はいっ。その、竹田鉄矢です。て、鉄矢と呼んでください」声がうわずってしまったので、リテイクしたいと心の中で思った。

「私は201号室の郷田玖梨栖ごうだくりすです。ご挨拶に伺おうと思っていたんです。よろしくお願いしますね」


 そういってクリスは再び微笑む。

 その仕草のひとつひとつが真っ直ぐ見られないほどまぶしい。

 クリスさんか……。これが一目惚れというものなのかな。鉄矢は気が気ではなかった。


「クリスチーネ。残念だけどそいつは今日でやめるみてえだぞ」シケモクを噛みながら、吐き捨てるように針井が言う。

 さっきまではそのつもりだった。ドアを閉めたら塩をまいてから立ち去って、二度と渋谷には訪れないと決めていた。

 しかし、そんな気は竜巻に巻き上げられたようにどこかに飛んでいってしまった。


 鉄矢は背筋を伸ばして室内の針井に向き直る。

 そして「刑事は僕の夢です。僕はこの仕事に命をかけることを誓います。よろしくお願いします!」と宣言した。今度は言葉も噛まなかった。


「お? おお……よ、よろしくな」意外な言葉にさすがの針井も驚いたように見えた。

「鉄矢さん、これ食べてください」クリスは菓子折りを鉄矢に渡すと二つ隣の201号室に帰っていった。


 おっしゃああああ!

 やる気が出てきたでえ!!


 鉄矢の心は、シャドウボクシングでも始めたいくらいに燃え上がっていた。

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