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第一話 針井私設刑事事務所

渋谷の街は今日も賑わっていた。


 信号が青になると、数え切れないほどたくさんの人たちが交差点ですれ違う。

 ある者は楽しそうに、ある者は忙しそうに、それぞれの人生を歩んでいく。


 鉄矢はスマホでグーグルマップを確認した。

 あれが109ということは、左の道が道玄坂か。


 ドン。


 肩に誰かがぶつかったので、鉄矢は反射的に頭を下げる。

 「す、すみません!」

 ぶつかったのはOLだった。

 彼女は見逃してしまいそうなほど小さな仕草で頭を下げ、そのまま歩き去ってしまった。


「……ふう」

 鉄矢はほっと胸をなでおろした。

 地元の田舎町では他人と肩がぶつかることなんてない。

 因縁をつけられるシーンを漫画やドラマでたくさん見ていたせいか、ぶつかった瞬間の鉄矢の心臓はバクバクだった。

 しかしOLはあっさりと人ごみに消えてしまったし、周囲の人々も誰一人鉄矢を気にしている様子はない。


 自分は田舎者なんだな。

 鉄矢は苦笑しながら道玄坂を上りはじめた。



 十五分ほど歩くとようやく道玄坂上交番前に到着した。

 地図ではすぐ近くに見えたが、人が多く時間がかかってしまった。


 交番前の狭い路地に入ると、ようやく人通りが減ってきた。

 スマホを開いて確認する。

 目的地の渋谷区円山町17-7はすぐそこだった。


 緊張のせいか喉がかわいてきた。辺りを見回すとすぐに自販機が二台並んでいるのが見つかった。

 小銭を投入し商品を選んでいると、どこからか怒鳴り声が聞こえてきた。

 反射的にスマホを見ると、九時半頃だった。

 鉄矢の胸の中に野次馬的な好奇心が膨らんできた。


 出社時間まで余裕はあるし、ちょっとくらいいいよな。

 買ったばかりの緑茶を一口喉に流し込んでから声のするほうに歩いていく。


 先客らしき野次馬たちが立っていたおかげで現場はすぐにわかった。

 坂の途中の細い路地裏で中年の男女が言い争っている。


「頼むから入院しておくれよ。困っとるんだよ」


 ジャイアンのお母さんに似た体格の良いおばさんが言うと、コートを羽織った中年男がこう返す。


「馬鹿野郎! 俺はどこも悪くねー! 大きなお世話だこのスットコドッコイが!」

「どこも悪くないんだったらとっとと家賃を払っとくれ」


 大家と不良住人の喧嘩だろうか。鉄矢は思った。


「アイタタタ……は、腹が……」

「またそれかい? 腹痛でも何でもいいから入院しとくれ」


 あきれた顔でため息をつくおばさん。

 コートの男は顔を真っ赤にして叫ぶ。


「うるせー! 俺には入院なんて必要ねー!」


 さすがに近所迷惑だと思ったのか、おばさんは野次馬たちに向かって軽く頭を下げた。

 そして、あきらめたように「なるべく早く払ってね」とつぶやくと、近くのマンホールの中に降りていってしまった。


 何が起きてるんだろう。これが現代日本の出来事なのか。

 鉄矢は思った。


 コートの中年は、野次馬に気がつくと「見世物じゃねーぞ」と叫び、両手を振り回して走ってきた。


 やばい。目がイってる。完全に基地外だ。

 鉄矢は野次馬たちに紛れて逃げ出した。


 道玄坂に戻ってきた鉄矢は時間を確認した。

 九時四十五分。


 出社時刻の十時まであとわずかだ。

 職場の住所を見て肩を落とし深いため息をついた。

 間違いなくあの路地だ。

 さっきの基地外がまだうろうろしているかもしれない。

 家賃の話をしていたということは、彼もご近所さんに違いない。

 最初はまともに見えたおばさんも、マンホールに入っていったところから察するに基地外の一種と考えて間違いないだろう。


 夢を叶えるために東京に出てきたのに、僕に務まるのだろうか。自信を失いそうになってしまった。


 そうこうしているうちに九時五十分を過ぎてしまったので、鉄矢は歩き出した。


 さっきの道は静まり返っていた。

 よかった、あいつらはいない。そう思いながらスマホを確認する。

 円山町17-7……ここか。


 鉄矢は建物を見上げた。ここの203号室か。


 木造二階建てのアパートは、確実に築半世紀は経っているように思えた。

 ひょっとすると戦前の建物なのかもしれない、そんなことを考えながら階段に足をかけた。

 手すりも踏板も錆だらけで虫食いみたいに穴が空いている。

 踏み抜かないよう注意しながら二階へ進んだ。

 屋外だというのにカビの匂いがする。

 トタン屋根に空いた穴からぽたぽたと水滴が滴り落ち、通路に置かれたバケツに貯まっていく。

 ぼろぼろの洗濯機には「水を大切に」と書かれた紙が黄ばんだセロテープで四隅を貼られていた。

 地元でもなかなかない、本格的なおんぼろアパートだ。


 203号室の前に立つ。

 『針井はりい私設刑事事務所』の看板が取り付けられている。

 かまぼこの板を彫ったのだろう、小さな看板は染みだらけで年季が入っていた。


 鉄矢は唾を飲み込んだ。

 幼い頃より刑事になる夢を抱いて一生懸命頑張ってきたが、その夢は諦めざるを得なかった。

 身内に犯罪者がいたせいだ。


 大学卒業を控えてもやりたい仕事が他に見つからない。田舎じゃ就職先もなかった。

 バイトしながら日々を浪費していた一月のある日、あのネット広告と出会った。


 『相棒募集! 針井私設刑事事務所』


 私設刑事なんて言葉を初めて目にした。

 しかし、応募資格の項目に『人間なら可。できれば言葉が喋れる人』と書かれていたのを見て心が躍った。


 刑事になる夢が叶えられるかもしれない。

 そう思うとマウスを握る手は止まらなかった。

 応募項目に次々と必要事項を入力していく。


 嘘にならない程度にピカピカに誇張した自分の経歴のほか、備考欄にはどうしても刑事になりたいという夢を熱く綴つづった。

 『送信』ボタンを押すと二分ほどで返信が返って来た。


 そこには『採用です。四月三日の月曜日午前十時に事務所まで来てください』と書かれていた。

 天にも上る気持ちとはこのことだと思った。


 はやる気持ちを抑えながらバイトに精を出し、上京資金を作り上げた。

 そしてあっという間に三ヶ月が経った。

 大学を卒業した鉄矢はとうとう夢にまで見た事務所までやってきたのだ。


 深く息を吸い、さっき直したネクタイを再び調整する。

 ネクタイOK。シャツOK。髪も……大丈夫だな。


 軽く咳払いをしてから、鉄矢はインターホンを押した。

 が、インターホンは鳴らなかった。断線しているのかもしれない。


 拳を丸めて手の甲でコンコンとドアを叩いた。


「……」


 反応はない。

 間もなく十時になろうとしていた。


 仕方ない。

 鉄矢はもう一度ノックしてからそっとドアを開いた。


 ドアの隙間からかび臭い空気が漏れでてくる。

 顔しかめて腕で口を押さえた。


 数秒待つと、瘴気がある程度出尽くしたのか空気が軽くなったように感じられたので意を決して鉄矢は室内に足を踏み入れる。


「ごめんください。本日から御社でお世話になります、武田鉄矢と申します」


 ……やはり返事はない。

 室内は薄暗かった。

 右手にある流し場の上の窓には木板が打ち付けられていて、線のように細い光が微かに入り込んでいるだけだ。

 床には半透明のゴミ袋が多数置かれていて足の踏み場もない。


 典型的ゴミ屋敷。マスクを持ってくればよかった。


 足元に積み重なったAmazonのダンボールの下に靴が見えたことから、かろうじてここが土足禁止であることが読み取れた。


「失礼します」


 鉄矢は靴を脱いで上がった。

 四畳半ほどのスペースの右手は流し場になっていて、真っ黒なコンロが悪臭を放っている。

 冷蔵庫の上に電子レンジが乗せられている。

 左手はユニットバスだ。

 こちらも浴槽と便器を間違えたんじゃないかと思うほどの悪臭を放っていた。


 外の表札が目立たないかまぼこの板で作られていたのも、部屋にウェザリングが施されているのも、私設刑事という職業柄目立たぬようひっそりと暮らす必要があるからなのかもしれない。


 部屋の奥はふすまが閉められている。


 ガタンッ!

 奥で重いものが倒れる音がした。

 家主はこの奥にいるに違いない。


「あの、竹田鉄矢です。失礼します」


 もう一度名乗ってからふすまを開ける。


「っっ!!?」



 そこには信じられない光景が広がっていた。

 六畳ほどのスペースの荒れようはさっきの部屋の比ではなかった。

 両側の壁には床から天井まで伸びた大きな本棚。中にはびっしりと書籍が詰まっている。

 それどころか高さ二メートル程度の本の塔が何十本も積み重ねられ、いくつかは崩れて床にぶちまけられていた。

 崩れた本の山だけでも身長に迫るほどの高さだ。

 いったい全部で何万冊あるのだろう。


 正面には雨戸の閉められた出窓。

 その手前のちゃぶ台にはノートPCが置かれ、ぼんやりと暗闇を照らしていた。


 最も信じられなかったのはPCの下に人が倒れていたことだ。

 さっきの音は彼が倒れた時に発せられたのかもしれない。


「あ、あのっ! 竹田鉄矢です。本日からお世話になります!」


「……」返事はなかった。

 よく見ると、倒れているのはさっき外で言い争っていたコートの男だ。

 オールバックで彫りの深い顔立ち。

 ハードボイルドという言葉が似合いそうな存在感のある渋さだ。


 しかし彼は眠っているのではなかった。

 口元から垂れた真っ赤な鮮血がくすんだ畳に血だまりを作っていた。

 死んでいるのは素人目にも明らかだった。


「な、な……!?」


 自分の意志に反してがくがくと足が震えて動けない。腰が抜けそうだった。

 刑事になるためにここに来たのに、いきなり事件に遭遇するなんて……。


 鉄矢は知らなかった。

 苦難の日々がこれからの彼を待ち受けていることを――。

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